五十嵐検事室では壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が1999年6月14日 月曜日になっている。 黒い縁取りの円い壁時計の長針がぴくりとうごき午後4時になった。 検事デスクで起訴状の点検をしていた五十嵐検事は回転椅子をぐるりとまわし、 デスクを離れソファーに向かった。 ソファーに凭(もた)れた五十嵐検事はタバコをつけ天井に向かって紫の煙を 噴(ふ)きあげた。 杉山検察事務官は冷たい麦茶に氷をおとし五十嵐検事のまえにさしだした。 自分のデスクにもどった杉山は回転椅子をぐるりとまわし麦茶をすすった。 「どうもその」 五十嵐検事は麦茶のグラスに手をかけた。 「聖橋事件の先がみえてこないんだな」 「まったくですね。まずそのぉ」 杉山は椅子にかけたまま検事の背中に向かって相槌をうった。 「松瀬病院長殺害の聖橋事件、そして竹山茂太郎事務長殺害のお茶の水橋 第一事件、さらにこんどの落合賢次医事課長殺害のお茶の水橋第二事件と、 これら三つの事件は、仮に連続殺人事件だとしても、それが同一犯人による 単独犯なのか、それとも共犯者がいるのか。この点が問題になりますね」 「そうなんだ。そのお茶の水橋第一事件の正犯として起訴された白山咲一 がお茶の水橋第二事件の実行犯になることは考えられない」 「それは、さっきの取調べで白山被告人が強調したとおりですね」 「白山被告人が小菅に拘置されていることを考えると、現実としてはそのとお りなんだが。そうだとすれば、お茶の水橋第二事件の実行犯は塀の外の人間 ということになる。たとえば白山被告人に唆(そそのか)されて医事課長を殺害した 実行犯が存在するはずだが。その正犯者はいったいどこに潜(ひそ)んでるのか」 「なんだかボクの勘ぐりとしては、多摩美枝子さんにかぎりなく近い距離にいる 人物が実行犯のような気がしてならないんですが」 「多摩美枝子さんにかぎりなく近い距離にいる人物といえば、彼女の実父に あたる多摩梅吉、それに許婚の石川流太郎ということろか」 「はい。それらの者には」 杉山検察事務官は麦茶のグラスを握ったままソファーに移った。 「松瀬病院長と多摩美枝子との不倫関係を清算するため、松瀬教授を 殺害したいという動機は十分考えられます」 「まあね。ただそれが動機となるためには、その前提として多摩美枝子 と松瀬との不倫関係を識っていなければならないはずだ。だが、先日の 事情聴取では、すくなくとも石川流太郎は松瀬教授と多摩美枝子との 不倫関係には気づいていないようだった」 「そうすると、残るは多摩梅吉が娘の不倫関係に気づいていたかどうか になりますね」 「たしかに論理的にはそうなるが。多摩梅吉が娘と松瀬教授との関係を どの程度識っているかは、多摩梅吉から事情を聴取してみなければよく わからない」 「それにもうひとり浮かびあがってきますね」 「もうひとりというと」 「それは石川流太郎の実父石川流之介とみてます」 「そうだね。いわれてみれば、石川流之助も多摩美枝子を取り巻く重要 人物のひとりであることはたしかだ」 「おそらく、いまあげた人物のなかに真犯人が潜んでいるとみる べきでしょう」 「そうすると、つぎに」 五十嵐検事は腕を組んで宙をみつめた。 「お茶の水橋第一事件だが、竹山茂太郎事務長殺害の動機はなにか」 「はい。その動機として考えられるのは、松瀬教授が殺害された結果、 松瀬と多摩美枝子との愛人関係が崩壊(ほうかい)した。その隙(すき)を 狙(ねら)って、かねてから松瀬と多摩美枝子との不倫関係を熟知して いた竹山事務長が美枝子に性的交渉を迫ってきた。たまたま美枝子の マンションを訪ねた多摩梅吉がそれを発見し、娘をまもるために竹山 事務長を殺害したという推理がひとつ可能です」 「そうすると、おなじような発想からすれば、週にいちどは千代田マンション に宿泊してた石川流太郎が、たまたま竹山と鉢合わせになり、石川流太郎 がかっとなって事務長を殺害したという推理も考えられるね」 「はい。もうひとつ考えられるのは、竹山茂太郎が松瀬教授殺害の真相を 解明するためのカギを握ってると仮定した場合、その口封じのため聖橋 事件の真犯人が竹山事務長を消したという推理なんですが。さらに 勘ぐれば、松瀬殺しの真相を識った竹山茂太郎が真犯人に揺(ゆ)すり をかけ、多額の口止め料を要求してきたとして、その要求を排除する ため竹山茂太郎を殺害したというケースも考えられます」 「杉山君。なかなか冴(さ)えてるね。まるで売れっ子の推理作家のようだ。 たしかにそのことは関係者にとり十分動機となりうるな」 「そうすると真犯人は、石川流太郎、多摩梅吉、石川流之介あたりに 絞り込めますね。そのいずれにしても、多摩美枝子が共犯として かかわってくるような気がしてなりません」 「そうだね。もしそうだとすれば」 五十嵐検事はタバコをつけソファーに背筋を擦(す)りつけた。 「お茶の水橋第一事件における白山被告人の供述は虚偽の可能性が でてくるかもしれない。あのご老体は、聖橋事件のときとおなじように 検察を愚弄(ぐろう)してるのかな。いずれにしても、いま想定したそれぞれ のケースを前提として、関係者の事情聴取を肌理(きめ)細かに実行して ゆくしかないな」 「そのほうがみっつの事件解決の近道かもしれません」 「ところで司法解剖の結果をもういちど整理してみたい。わしが頭のなか で整理しながら項目別に質問のかたちをとるから、杉山君は項目ごとに こたえてくれないか。司法解剖の報告書はデスクの右端にありますから」 「はい。わかりました」 起ちあがった杉山検察事務官は検事デスクのうえから司法解剖報告書 を摘みあげソファーにもどってきた。 「それでは、まず被害者松瀬教授の死因はなんですか」 「はい。頚部圧迫による窒息死です。被害者を窒息死させたのち、その 手首をロープで緊縛(きんばく)し、全裸の被害者を聖橋の欄干から吊る したときにできたと推定される、からだにできた傷痕とは別に、その頚部 には革バンドもようのもので絞めつけられたものと推定される傷痕が残さ れているそうです。ですから絞殺の凶器は革バンドかもしれません」 「そうかもね。それで被害者竹山事務長の死因はなんですか」 「ええと。これもやはり頚部圧迫による窒息死ですね。この場合もロープ による痕跡とは別に、革もようのもので絞めつけられたとみられる傷痕が 残されていました。ですからこの場合の凶器も革バンドかもしれません」 「なるほどそうすると聖橋事件とお茶の水橋第一事件とで被害者の死因は いずれもおなじだと」 「そうです。凶器の共通性からみても同一犯人とみられます」 「そうかもね。それではお茶の水橋第二事件の被害者落合医事課長の 死因はどうなっていますか」 「はい。これも」 杉山検察事務官は司法解剖の報告書をたかめる。 「頚部圧迫による窒息死になってます。ただ体部に残されたほかの傷痕と は異なり、その頚部は傷の痕跡からみて,革のようなものではなく、もっと 柔らかな繊維質のやや太いもので絞めつけられた可能性がたかいとされて います。この点がまえのふたつの事件との相違点になっております」 「ほう。そうすると革バンドのようなものではなく、たとえばネクタイとか兵児帯 (へこおび)のようなものかもしれないね」 「ええ。ですからお茶の水橋第二事件の場合だけその凶器が異なることに なります。だから凶器を判断基準にすれば、この事件だけが、まえのふたつ の事件とは別の犯人ともみられます」 「そうみるのが自然でしょうな。それでは」 五十嵐検事はライターでタバコをつける。 「被害者の死亡推定時刻はどうなっていますか」 「はい。それがまたふしぎなんです」 「ふしぎと云いますと」 「はい。死亡推定時刻は、それぞれの事件の犯行当日と推定される日の 午後8時30分から9時30分とされ、いずれの事件についても被害者の 死亡推定時刻は一致してるんです」 「なるほど。死亡推定時刻という判断基準をたてれば、いずれも同一犯人 による犯行ともいえそうだが。なぜ犯行の時刻まで符合させなければなら ないのか。その点が解(げ)せない。もし犯人が意識的に犯行時刻を一致 させたものとすれば、同一犯人による連続殺人事件ということになる。 しかし、それが偶然の一致だとすれば、別の犯人ということも考えられる」 「たしかに検事の仰言(おっしゃ)るとおりの結果になりますね」 「さらに被害者の」 五十嵐検事はタバコの吸いさしを灰皿の縁に載せる。 「胃袋の内容物はどうなってますか」 「ええとですね。それが」 杉山検察事務官は解剖報告書をたしかめる。 「まず松瀬教授の胃袋からはなにも検出されませんでした。胃袋のなかは 空っぽで空腹のときに殺られたらしい。食欲よりも性欲の満足を先行させ ているところを狙われたという感じです」 「かもね。つぎに竹山事務長の場合はどうなってますかな」 「ええと。竹山事務長の胃袋からも、なんら検出されていません。つまり 胃袋は空っぽで空腹のところを殺られたわけです」 「最後に落合医事課長の場合はどうなっていますか」 「それがですね。ふしぎなことに医事課長の場合も胃袋は空っぽでした。 要するに被害者は3人とも空腹のところを殺られたらしく、胃の内容物は なにも検出されていません」 「なるほど。被害者はまだ夕食を食べていないところを殺られたというわけ になりますかな」 「多分、そうでしょう。それにしても夜の八時半以後に、どこかで被害者を 殺害してから、その屍体を聖橋やお茶の水橋くんだりまで運搬し、橋の欄干 から神田川の水面すれすれにまで吊るしたものとみられますが。なぜ神田川 なのか。なぜ被害者を丸裸にしたうえ、両眼を抉(えぐ)りとり、両耳を切断し、 陰茎や睾丸までもカットし、陰毛まで剃り落としたのか。この犯行のパターン は動機と密接に絡んできますね」 「そうなんだ。そのパターンからすれば、犯行の動機は共通しているように もみえる。おそらく性行動に絡む怨恨(えんこん)が動機でしょうな」 「もし、そうだとすれば、まさしく報復犯といえそうですね」 「おそらく瓜実顔の美人多摩美枝子を巡(めぐ)る性行動の縺(もつ)れから 派生した犯罪でしょう。多摩美枝子は松瀬にレイプされたとはいえ、その後 は当の本人も松瀬の求めを従容(しょうよう)し、事実上は松瀬の愛人として の生活をつづけてきたらしい。この不倫関係を取り巻き、なにかこう渦巻き のようなものが竜巻に発達し噴(ふ)きあがってしまった。そいうシチュエーション のなかで起こるべくして生起した犯罪でしょうな」 「検事に云われてみれば、そうとも考えられますね。だとすれば被害者を 殺害した現場は犯人の居宅かもしれません。犯人は自宅で被害者を殺害 してから屍体を橋まで運搬し、その橋の欄干から神田川の水面すれすれ にまで晒し首のように吊るし、衆人環視のなかで報復を企んだのではない でしょうか。まさに見せしめのために」 「その線が濃厚ですな。聖橋事件では白山が虚偽の自白をしたが、その 自白の内容は、杉山君の推理内容とほぼ一致している」 「ええと。その事件に関する」 杉山は興味本位のまなざしで五十嵐検事の顔を覗(のぞ)き込む。 「白山被疑者の自白の内容はどんなものだったでしょうか」 「それがね。白山咲一は千代田マンションの350号室で松瀬を殺害し、 その屍体を幸福市の自宅までワゴン車ではこび、自宅の風呂場で松瀬の 両眼を抉(えぐ)りとり、両耳を切断するなど死体損壊行為を実行したとされて いた。しかし白山の自供は事実無根のパフーマンスだった。なぜ白山は虚偽 のシナリオをでっちあげたのか。その理由はこうだった。検察を愚弄(ぐろう) するためだと」 「そんなあ。酷(ひど)いはなしですね。あのご老体がそんあことを企むとは、 検察官のひとりとして許せない」 「白山が検察を愚弄しようという欲求は、まだ彼のハートのなかに残存してる かもしれない。執行猶予中の身ながら、官憲に楯突(たてつ)こうという姿勢 を捨てきれない男だ。もし、こんかいも白山が検察を愚弄するつもりで、 いいかげんな供述をしてるとすれば、血痕が付着した出刃包丁それ自体も 犯罪に供した凶器といえるかが問いなおされる可能性も否定することがで きない。実をいうと竹山事務長殺害の現場を特定することは困難だった。 その現場を特定できる確たる証拠資料はでてこなかった。ただその殺害 現場は千代田マンションの350号室だと推定した。というのは、こんどこそ 白山が聖橋事件で供述した虚偽自白の内容をそのまま実現した疑いが 濃厚だったからだ。そこで類似の殺人の再発を阻止するため、やや早とちり の感はあったが公判期日までには真の自白をとりつけることを計算にいれ、 あえて起訴に踏みきったのだ」 「そうすると、いざ公判ともなれば、菊野弁護士が殺害現場の特定の曖昧性 とか、凶器としての出刃包丁の凶器性とかを争ってくる可能性が考えられま すね。もし仮にそうした菊野弁護士の主張が裁判所に採用されるならば、 公判検事はピンチに追い込まれ、被告人の無罪判決がくだされる以前に、 公訴の取り下げという事態も想定されるような気がしてなりません」 「まあね。もしそうなれば」 五十嵐検事はちびたタバコの吸いさしを灰皿にすりつぶし、宙をみつめ ふうっと溜め息を吐く。 「公判担当の山形検事の立場がなくなり、わしも部長からおめだまをくらう ことになりかねない」 コンビの検察官が、真犯人を搾りだすため重要な事件関係人をフェルター にかけて濾過しようとしているうちに、訴追の困難性についてアラが見えて きて、五十嵐検事室には、なんとなく不安な黒い霧が立ち込めはじめた。
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