東京拘置所の正門脇で菊野弁護士が守衛室に顔をだした。 壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が黒く太い文字で1999年6月14日 月曜日になっている。 菊野弁護士が拘置所の構内にはいってゆく。 時計台では銀色の縁取りをした大時計が午前11時をまわっていた。 拘置所の構内をゆっくりすすみ、菊野弁護士は未決囚の拘禁棟に 向かってゆく。
菊野弁護士は未決囚の拘禁棟の受付窓口に顔をだした。 [未決囚の白山咲一に接見したいんですが」 「ちょっとお待ちください」 係官は受話器をとりあげ内線電話をいれた。 「お待たせしました。白山被告人は」 揉み上げが白くなりかけた係官はメガネ超しに菊野をみつめた。 「新たな事件に関与した疑いで再逮捕されまして。検察庁での取調べ のため、さきほど護送車で地検に向かいました」 「そうでしたか。どうもありがとう」 菊野弁護士は守衛室から離れた。 『それではやむをえない。すぐさま東京地検に直行しよう。白山君は またしても五十嵐検事に苛められているにちがいない』 胸のうちでそう呟(つぶや)きながら菊野弁護士は正門に向かった。
菊野文彦は拘置所の構内から正門を潜り抜け街頭にでた。 ながしてきたタクシーを拾い乗り込んだ。 「東京地検までおねがいします」 菊野文彦はシートに凭(もた)れた。 「あのぉ。霞ヶ関ですか」 運転手はちらっと振り向いた。 「ええ。霞ヶ関までおねがいします」 タクシーは車の流れのなかに吸い込まれていった。
五十嵐検事室では壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が黒く太い 文字で1999年6月14日になっている。 白い壁に掛けられた壁時計の長針がぴくりとうごき13時になった。 手錠をはずされた白山咲一被告人が検事デスクの真ん前に座ら せられ、五十嵐検事と対峙(たいじ)している。
五十嵐検事室に菊野弁護士がドアを押しのけてはいってくる。 菊野弁護士はドアを閉め、遠慮がちに起ちつくす。 杉山検察事務官がデスクの席に起ちあがり菊野に寄ってくる。 「菊野先生。さきほどはお電話いただきまして」 杉山検察事務官は愛想よく迎える。 「さきほどの電話で立会いのアポをとってますんで」 菊野弁護士は杉山に微笑(ほほえ)みかける。 「こちらへどうぞ」 杉山検察事務官は検事デスクの脇に折畳み式椅子をひろげた。 白山被告人は検事から目を離し、菊野弁護士に向かってぺこりと 頭をさけたが、すぐ五十嵐検事に視線を転じ、検事を睨(にら)みつける。 「それではいまから」 白山に厳しい眼差しを照射していた検事は、ちらっと菊野弁護士に 目線をながした。 「取調べにはいります。白山さん。あなたはお茶の水橋第一事件に ついて公訴を提起され、未決囚として拘禁されていますが。きょうは その事件とは別にお茶の水橋第二事件すなわち桜門大学お茶の水 病院の医事課長の落合賢次殺害について、共犯の嫌疑(けんぎ)が かかったので、再逮捕にもとづき新たな取調べをすることになりました。 おわかりですね。白山さん」 「はい。検事さんの説明そのものはわかります。しかし小菅の塀のなか に繋(つな)がれている未決囚が娑婆(しゃば)の事件に関与できるわけ がありません。再逮捕とはなんとばかばかしいはなしですか。被告人 いびりもいいかげんにしてください。検事さん。お茶の水橋第一事件の 公判を有利に展開させるために、公判検事とつるんで被告人を吊るし あげようとする検察側のスタンスは明白です。けど、そのような腰の据え方 はよくありませんな。そんなスタンスでは、そのうちギックリゴシになって 検察側は倒れこんでしまうことでしょう」 すでに60歳の坂を超し臈(ろう)たけた白山は毒舌のかぎりをつくした。 「あいかわらずこれは手厳しい。しかし白山さんは桜門大学お茶の水病院 の松瀬病院長および竹山茂太郎事務長に宛てた通告書とは別に、右の通告書と まったくおなじ内容の通告書を落合賢次医事課長にも突きつけていたことが 判明したんですよ。これがその通告書のコピーなんですがね」 五十嵐検事は右指で摘んだ通告書のコピーを白山の目の前に翳(かざ)した。 「そんなものは識りません。どうしてまた」 白山は検事が翳した文書に視線をそそいだ。 「そんな文書が検事さんの手元にあるんですか。どうせ、わしを罪に陥れる ためのでっちあげでしょうに」 白山は鋭い眼差しで検事を睨(にら)みつける。 「仮に検事さんの仰言(おっしゃ)るとおりならば」 白山被告人は厳しい表情で反撃の姿勢に転じた。 「落合課長殺害教唆の事実を証明できる証拠を提示してください」 「残念ながら、いまのところ教唆の事実を立証できる確たる証拠資料 は発見されていません。しかしこれからおいおいそうした証拠をかた めてゆくことになります。そのまえに行為者本人の自供がえられれば、 それにこしたことはないのですが」 「そうはいっても、殺ってもいないことを自供できるわけがないでしょう。 それをむりやり自白させようとする魂胆がみえみえです」 「いや。決して自白を強要するつもりはありません。ただ自白がえられ ないときは、直接証拠の発見に全力をそそぎ、たとえ直接証拠の発見が 困難でも、状況証拠の包囲網によって緊縛(きんばく)してゆきます」 「その間接的な状況証拠など、どこにもありゃしません」 「いや。念入りに探索すれば発見できます。白山さん。もし教唆とか 謀議の事実があるのでしたら、早く認めたほうがラクになります。あなたが この通告書でした請求を握りつぶしにされた腹いせに、落合医事長を 槍玉にあげようということになったんでしょう」 「とんでもない。ばかばかしくってはなしになりません。検事さんにいじこく 苛められるのはもうたくさんです」 「白山さん。真実をそのままお聞かせください」 「ちゃんと真実をそのまま述べているじゃないですか。それが疑わしいん ならば、さっさと証拠をかためて追起訴でもなんでもしたらいいでしょう」 五十嵐検事は黙り込んだ。
沈黙がつづいた。 『わしの無実は菊野弁護士が証明してくれるにちがいない。もうなにも 喋(しゃべ)るまい。黙秘権の行使でおしとおしてゆくことにしよう』 白山は目を瞑(つぶ)り、胸のなかで呟(つぶや)いた。
検事室には黒い霧がたちこめたまま時は刻まれていった。 『白山君を弁護するにしても、作戦的にみて、いまはなにも発言しない ほうが得策だろう』 菊野弁護士は胸のうちでそう決め込み成り行きにまかせることにした。 「それでは、きょうはこの辺でおひらきにしましょう」 痺(しび)れをきらした五十嵐検事は取り調べの棚上げを宣告した。 待機していた係官は、起ちあがった白山被告人にがちゃりと手錠を 嵌(は)めた。係官は仔羊を追う羊飼いのように捕縄(ほじょう)で繋(つな)がれた 白山を押して検事室から消えてゆく。
東京地方検察庁の裏門では、手錠を嵌められ、捕縄で数珠繋(じゅずつな)ぎ にされた白山ら9人の未決囚が係官に追われながらカーテンをおろした護送車 に送り込まれてゆく。 護送車はゆっくり滑りだし検察庁の構内から街路の車のながれに吸い込ま れていった。
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