桜門大学法学部の正門から杉山検察事務官が大学のキャンパスに はいっていった。 杉山検察事務官は事務棟にすすみ、教務課の窓口に起った。 「東京地検の杉山ですが。教務課長さんにお取次ぎねがいます」 「はい。わかりました。どうぞこちらへ」 若い女子職員は杉山を事務室内のソファーに案内した。 杉山検察事務官はソファーに身を鎮め、ぐるりと周囲をみまわした。 事務室内は大学というイメージではなく、会社のオフィスのような明るい ムードに包まれていた。 女子職員がはこんでくれた氷をおとした麦茶を杉山がすすりかけたとき、 小太りで円筒形脱毛症の男がソファーに寄ってきた。 「課長の藤山です。検察庁の方だそうですが」 藤山はテーブルのうえに名刺をさしだしソファーにかけた。 「きょうはどんなご用件でしょうか」 「はい。東京地検の杉山ともうします」 杉山検察事務官は起ちあがり身分証明書を提示し、ぺこりとして課長の 名刺を摘みソファーに身を鎮めた。 「実はそのぉ。ある事件とのかかわりで、最近、講義が休講になった 日時を確認したいんですが。よろしくおねがいします」 「はい。わかりました。調べれば判明することですから」 「まず5月12日水曜日なんですが。夜の講義で2時間めの刑法総論 の講義が休講だったかどうかを確認したいんですが」 「関係資料を調べてみないと確答はできませんが」 「もうひとつ5月27日木曜日なんですが。おなじく2時間めの 債権総論の講義が休講だったかどうかを確認したいんです。よろしく お調べねがいます」 「ちょっとお待ちください。いま調べてみかすから」 藤山教務課長は、蟹股の足取りで自分のデスクにもどり、パソコンの キーをたたき、すぐソファーに引き返してきた。 「お待たせしました。ご質問の2回の講義は、いずれも講師の海外出張 などで休講になっていました」 「そうでしたか。課長さんの証言は録音させていただきました。ご多用の ところ貴重な証言をいただき、ありがとうございました」 杉山検察事務官は礼を述べて教務課をあとにした。
JR中央線水道橋駅のフラットホームで杉山検察事務官は多数の 乗降客に混じって電車を待っていた。 やがてオレンジ色をした10輛連結の東京ゆき電車が滑り込んできた。 プラットホームの乗客を吸い込んだ電車は滑り出し、鉄路を軋らせ ながらカーブして、まもなく御茶ノ水駅にさしかかった。 神田川を眼下にみおろしながらはしる電車の窓からは、その左手に 殺人事件の現場お茶の水橋につづいて聖橋が見えてきた。 おおきな弧を描えた眼鏡橋の構造をした聖橋が印象的だった。 忌まわしいふたつの殺人事件が発生した事件現場に接し、杉山は ふうっと深い溜め息を吐いた。 電車からプラットオームに降りたった杉山検察事務官はふたつの 事件現場をその目で確認することにした。 真正面には神田川越しに東京医科歯科大学の高層ビルがそそりたつ。 視線を右に転ずればメガネ構造の聖橋が神田川を跨いでいる。 その視線を左側に移動すれば、お茶の水橋が神田川を跨いでいる。 『わずか200メートルあまりの距離を隔てた橋のうえで、ふたつの事件は 起きた。これらふたつの事件は、犯行の手口が共通してるだけでなく、 至近の距離で発生した。その犯人は同一人かもしれない。おそらく』 杉山は胸のうちで呟(つぶや)いた。 杉山検察事務官は一瞬、その橋の欄干から神田川の水面すれすれに 吊るされた全裸の変死体を瞼(まぶた)の裏に浮かべた。 『聖橋事件の場合、橋のうえは交通止めになっていたらしい。聖橋から 本郷寄り一帯では下水道管の取替え工事のため交通規制がなされて いたという。その現場の状況を識った犯人は悠々と橋の欄干から神田川 の水面すれすれに全裸の被害者を吊るしたにちがいない』 そんな想いをしながら杉山検察事務官は御茶ノ水駅西口の改札口で 自動改札機に切符を放り込んだ。 駅前通のスクランブル交差点を渡り、道路ひとつ隔てた明治大学の 高層ビルをみあげながら歩道をすすんでゆく。 緩やかな下り坂を小川町方向にあるいていた杉山検察事務官は、 ぱたりと起ちどまった。 かなり広い歩道の左側のわずかな空き地には、ピンクの躑躅(ツツジ)の 植え込みに囲まれた小目石の石碑に大久保彦左衛門屋敷跡という文字 が横に刻み込まれていた。 『神田にでるときには、いつもこの道をあるいていたはずだが。これまで、 この遺跡には気づいていなかった』 胸のうちで呟(つぶや)き、時代劇に登場する大久保彦左衛門の面影を 偲(しの)びながら杉山はあるきだした。 すると数メートル先には白い生地に紺色の文字で染めこまれた『菊水』の 暖簾が夏風に揺れていた。 杉山検察事務官は『菊水』の暖簾を潜った。 一階席の奥の壁時計の長針がぴくりとうごき午後1時になった。 生蕎麦専門の一階席は、ランチタイムのせいか客で満席になっている。 杉山検察事務官は、赤い絨毯を敷き詰めた中央の階段をゆっくり二階席 へあがっていった。 和食の専門席になっている二階の客席もほぼ満席であった。 『この状態では仲居の勝江さんからの事情聴取は無理だ。一段落するまで 待つしかない。それまでにオレも腹拵(こしら)えをしよう』 そう決め込んだ杉山検察事務官は大広間をぐるりとみまわした。すると、 石川流太郎が食事の予約をしたと供述している、いちばん奥の予約席が 空いていた。 杉山検察事務官はあがり框(かまち)で靴を脱いだ。込み合う客の間を 縫うようにして奥へすすんだ。その席に予約済みの標示板はなかった。 杉山は予約席に座りタバコをつけた。 「いらっしゃいませ」 よく太った中年の仲居が杉山のテーブルにお絞りをさしだした。 「なんになさいますか」 仲居はテーブルの中央にたててあった木目もようで茶色い表紙の メニューを杉山のまえに引き寄せた。 「ええと。カツ丼をひとつ」 「かしこまりました。どうぞ、ごゆっくり」 仲居はお盆を胸にあてがい予約席をはなれていった。 まもなく瓜実顔をした別の若い仲居がお茶をはこんできた。 「こちらに勝江さんという方いらっしゃいますか」 杉山検察事務官は瓜実顔を覗(のぞ)きこんだ。 「はい。おりますけど」 瓜実顔の仲居はお盆を胸にあて膝をたてた。 「なにかご用でしょうか」 「ええ。ちょっと、おうかがいしたいことがありまして。お店が立て 込んでいますんで、ランチタイムがすぎて一段落してからで結構です から勝江さんを呼んでいただけますか」 「わかりました。勝ちゃん、いえ勝江さんにそうつたえておきます」 和服を着込み白い足袋を履いた瓜実顔の仲居は空いたお盆を小脇に かかえ起ちあがった。
和食の専門席になっている『菊水』の二階席では黒い縁取りの円い 壁時計の長針がぴくりとうごき午後1時50分になった。 杉山検察事務官がカツ丼を食べおわり、タバコをふかしているところへ 和服姿で白足袋の仲居がお茶をはあこんできた。 「お待たせしました。お茶をどうぞ」 高名な女優によく似ている、チャーミングな身のこなしをした女は茶托を テーブルに載せ、杉山とさし向かいに座った。 「仲居の勝江ともうします。お客さんはなんのご用件でしょうか」 「ランチタイムでお疲れのところどうも。ちょっと教えていただきたい ことがありまして」 「はい。わかりました。一本ちょうだいしていいですか」 魅力的(みりょくてき)な腰の線をながし膝を横にくずした女は、 愛狂しいまなざしで杉山に甘えた。 「どうぞ、どうぞ」 杉山はシガレットケースの蓋を開け女のまえにさしだした。 『この仲居はホステスくずれの愛嬌と身のこなしが板についてる。 どこかの歓楽街からながれてきた女にちがいない』 杉山は胸のうちで呟(つぶや)いた。 「それにしても、お宅どちらさんですか」 ホステスくずれの愛嬌を振り撒きながら女はしなやかな白い手で 杉山のライターを受け一服ふかすと杉山にながし目をおくった。 「あまりの美しさに蕩(みと)れていてごめんなさい。東京地検の杉山 ともうします。よろしく」 杉山は背広の内ポケットからとりだした身分証明書を提示した。 「まあ怖い。警察よりもずうっと偉いあの検察庁の先生でしたか」 勝江は吸いかけたタバコを右の指に挟んだまま左手を顎(あご)の したにあてがい、仲居らしくもない無造作な格好で男好きのする澄んだ 目で杉山をみつめた。 「実はその」 杉山はタバコの吸いさしを灰皿にすりつぶした。 「ひとつ教えていただきたいことがありまして。勝江さんと親しく していらっしゃるお客さんのことなんですがね」 「どなたのことでしょうか」 「実は多摩美枝子さんのことなんですが」 「ああ。美枝ちゃんね。瓜実顔の美人でチャーミングな秘書さん」 「その美人でチャーミングな多摩美枝子さんと許婚(いいなずけ)の 石川流太郎さんとが、5月27日木曜日の夜、この予約席をリザーブ してお食事をなさったそうですが。これはたしかでしょうか」 「ええ。たしかもなんもありませんわ。その夜は、あたしがこの テーブルに料理をはこびましたから。よく覚えてます」 「そうでしたか。それでそのおふたりが、この席を起ってお帰りに なられたのは何時ごろでしたか」 「ええと。あれはたしか」 勝江はタバコを右指で摘んだまま、ちらっと壁時計をみた。 「夜の9時ごろでしたかな。あっ、そうだ。あの夜、近くに小火(ぼや)が あって消防車がサイレンを鳴らしながら店のまえの道路をはしって いったんだ。それでみんなが道路側の窓から外を覗(のぞ)いたんですよ。 そのあとで、ふと、あの壁時計をみたら、9時5分まえでした。そのまま オアイソをすませて美枝ちゃんが帰っていったんですから9時ごろと いうことになります」 「そうでしたか。貴重な証言ありがとうございました」 杉山検察事務官はテーブルに両手をついてあたまをさげた。
和食の店『菊水』の店先でタクシーをひろった杉山検察事務官は そのまま千代田消防署に直行した。 杉山検察事務官は消防署の受付のカウンターに顔をだした。 「東京地検の杉山ですが。5月27日の夜、近くに小火があって 消防車が出動したかどうかの確認をとりたいんですが」 「ちよっとお待ちください。いま調べてみますから」 若い消防官は署内電話をいれた。 「お待たせしました。たしかにその夜、8時40分ごろ神保町の裏通り の蕎麦屋で火災が発生したとの通報があり、ただちに消防車が出動して おります」 「どうもありがとうございました」 杉山検察事務官は千代田消防署のまえでタクシーをひろった。 そのタクシーで御茶ノ水駅にでた。 そのまま地下道に降り、地下鉄に乗り込み、霞ヶ関に直行した。 杉山検察事務官は地下道からマロニエの並木道にあがった。 マロニエの並木道をあるき、杉山検察事務官は検察庁の正門から 高層ビルの庁舎にすすんでいった。
五十嵐検事室では、黒い縁取りの円い壁時計の長針がぴくりと うごき午後4時になった。 あたふたと杉山検察事務官がはいってくる。 「どうも遅くなりました。すみません」 「ごくろうさま」 五十嵐検事は起訴状の原案を作成しているところだった。 「それで結果はどうでしたか」 「はい。いまから証言を再現します」 杉山検察事務官は検事デスクの片隅にテープレコーダーを載せ 再現のボタンをおした。 巷(ちまた)の騒音をシャットアウトした閑静な検事室に気風(きっぷ)の いい『菊水』の仲居、勝江の証言がながされた。 「なるほど。石川君のアリバイはたしからしね」 五十嵐検事は回転椅子をぐるりとまわし、シガレットケースから タバコを引き抜きながらソファーへ向かった。
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