東京地検の裏門から多摩美枝子を乗せた黒塗りの公用車がゆっくり と滑りだした。 「失礼ですが。あのぉ」 杉山検察事務官はハンドルを捌きながらさりげなくきりだした。 「多摩美枝子さんと桜門大学お茶の水病院医事課長の落合賢次さん とは、どんなご関係がおありでしょうか。おさしつかえありませんでしたら お聞かせください」 「ええ。あたしは病院長秘書に抜擢されるまでは、医事課職員でし たから、落合賢次さんは、医事課の課長として直接あたしを監督する 立場にありました。ですから上司と部下という関係でした」 黒塗りの公用車は蒼く淀んだ宮城のお堀端をはしりつづけた。 「そうでしたか。そこで」 杉山検察事務官は人耳を憚(はばか)るように小声になった。 「多摩さんのおはなしにありましたような松瀬病院長と美枝子さん とが特別の関係にあったことを落合課長はご存じでしたか」 「さあ。それは」 美枝子は杉山の後頭部の襟首に若白髪があるのに気づいた。 「多分、識られていないはずですが」 「こんなことをもうしあげるのは失礼かもしれませんが。松瀬病院長 殺害の実行犯は、元司法書士の白山咲一さんではなかったことが 判明しました。というのは菊野弁護士のアリバイ証明によって判明 したんですが。それで白山さんは釈放されました。そうすると病院長 殺しの実行犯は、多摩美枝子さんにかぎりなく近い関係にある男性 ではないかと自分は勘ぐっております」 「そうですか。果たしてそうなんでしょうか」 「これはあくまでも検察事務官としての勘ぐりにすぎませんが。わたし はそう確信しています。白山咲一さんは、聖橋事件では被疑者から 被告人にされ、公判にかけられましたが、菊野弁護士のアリバイ 証明が決め手となりました。検察側は恥の上塗りを避けるため菊野 弁護士の勧告を受け入れ、公訴をとりさげました」 「はい。その間の事情は、あたしも父から聞いております」 「そうでしたか。しかし白山さんは、竹山茂太郎事務長殺害の容疑 で、ふたたび逮捕されました。その捜査状況を外部に漏洩(ろうえい) することは許されませんから、ここだけのはなしにしていただきたいん ですが。五十嵐検事の厳しい取調べにもかかわらず、白山被疑者は 容易に自白しません。現に血痕が付着した出刃包丁が白山さんの 自宅のキッチンから発見され、その包丁からは白山さんの指紋も 検出されてるんですがね」 「まさか。そんなあ」 多摩美枝子は動揺してシートから身を乗りだした。 「杉山さん。それほんとですか。白山先生には、そんなことができる わけがありません。なにかのまちがいではないでしょうか」 「しかし白山さんは、沢井法夫検事殺害の実行犯として有罪判決を 受けて現に執行猶予中の身分でしょう。ですからなにかと嫌疑をかけ られやすい立場なんです」 「それはそうですけど。沢井法夫さんのときは、やむにやまれぬ特別 の事情があったといわれていますし、なによりもこんどこそ犯罪を 犯せば、執行猶予は取り消されると菊野弁護士も仰(おっしゃ)って いました。白山先生も長年の法律研究者のひとりですから、その辺 のことは十分にご承知のはずですが。だからもう二度と滅多なこと はなさらないと考えられます」 「たしかにそうなんですが。なにしろ血痕が付着してるだけでなく、 指紋まで残されている包丁がでてきたんではもはやどうにもなり ません。そんな状況なんですよ」 「そうすると、白山先生は」 美枝子の胸のなかには不安な黒雲がたちこめていった。 「もういちど公判にかけられることになるんでしょうか」 「ええ。まあ。すでにもう公訴を提起され、第1回の公判期日も 指定されていますが」
「そうでしたか。父にもしらせなくっちゃ」 杉山検察事務官がハンドルを握る黒塗りの公用車は鎌倉河岸 からお茶の水方向に向かってはしりつづける。 警視庁近くの桜田通りでは、ひっきりなしに車がながれつづける。 その並木道ではマロニエの緑葉が夏風に揺れていた。 地下鉄丸の内線霞ヶ関駅の地下道から石川流太郎がマロニエの 並木道にあがってきた。 太い文字で検察庁と刻み込まれた検察庁の正門から胸に黄金の 胸章といわれる弁護士バッジを佩用(はいよう)した数人の弁護士が その構内にはいってゆく。 そのあとにつづいて石川流太郎が正門の背後にそそり建つ庁舎 をみあげながらすすんでいった。
五十嵐検事室では壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が黒く太い 文字で1999年6月7日月曜日をしめしている。 黒く円い縁取りをした壁時計の長針がぴくりとうごき午前10時に なった。 五十嵐検事がデスクに向かって書類を点検しているところへ杉山 検察事務官が冷たい麦茶をはこんできた。 杉山検察事務官が自分のデスクに向かいかけたとき、石川流太郎 が検事室にあらわれた。 「呼び出しを受けました石川流太郎ですが」 緊張した表情の石川は検事室の入り口で直立不動の姿勢だった。 「はい。どうもごくろうさまです。どうぞ」 杉山検察事務官は起ちあがった。 「こちらでおまちください」 杉山検察事務官は石川をソファーに案内した。 石川がソファーに浅くかけていると、五十嵐検事が寄ってきた。 「お待たせしました。検事の五十嵐です」 五十嵐検事はテーブルのうえに名刺をさしだした。 「はじめまして。石川です」 起ちあがり自己紹介をした石川はソファーにかける。 「石川さんは、昼間は大学で事務職員として勤務しながら、夜は 法学部で受講されているそうですが。勤務と勉学とでは、それを 両立させる努力はたいへんですね」 「はい。わたしの父は、しがない植木職人ですので、親に負担を かけたくないとおもい、第二法学部を選択しました」 「なるほど。法学部に進学なさったということは、司法試験を目指し ていられるのでしょうか」 「はい。ことしで教養課程を終了して学部の3年生になりました。 そこではじめて司法試験の受験資格をえました。ことしの5月9日 の処女戦では『短答式試験』で敢えなく振り落とされました」 「だれでも最初はそんなもんですよ。わしも最初の受験では問題に ならない得点で振り落とされた経験があります。60問のうち30問 くらいしか採れなかったように記憶しております」 五十嵐検事は石川と視線をあわせ苦笑した。 「検事さんでさえもですか。厳しい試験なんですね」 「ことしはたしか。最低合格点が60問のうち41点と推定されて いますよね。この結果はかなり低い合格点といえましょう」 「はい。かなり意地悪な問題もあったということでした」 「そうなんですよ。試験委員もその年毎に、いくらか出題傾向を 捻り、なるべく多くの受験者を振り落とそうと企んでいるようです な。ですから司法試験の『短答式試験』は合格者を掬いあげる テストではなく、振り落とすためのh試験といわれてるんですよ」 「そうなんですか。振り落とすための試験ですか。そうすると逆説的 にいえば、振り落とされる者がいるからこそ、残った者が合格者に なるともいえそうですね」 石川流太郎は、ふうっと溜め息を吐いた。 「まあね。ところで先日、あなたの許婚といわれる多摩美枝子さん に事情を聴取しましたら、石川流太郎さんのお名前が浮かびあがり ました。それで聖橋とお茶の水橋で発覚したふたつの事件について かかわりのありそうな方から事情をうかがうことにしています。そこで 石川さんにもご協力をおねがいしたわけです」 「検事さん。聖橋事件についてボクを疑っているんですか」 石川は、いくらか反発の表情になった。 「いいえ。決して」 検事はソファーに背筋を擦りつけライターでタバコをつけた。 「そうではありません。ともかく現段階としては、被害者である松瀬 病院長と竹山茂太郎事務長を取り巻く人間関係を明らかにする ため、間接的な関係しかないとみられる方からも事情をうかがう ことにしています。石川さんについても同様で、決して疑いの目で みてるわけではありません」 「そんなら検事さんに聞かれたことは」 ほっとしたらしく石川の表情には安堵感がはしった。 「そのまま素直におこたえします。聞かれてまずいことは、これと いって別になにもありませんから」 「それでは、おうかがいしますが。例の」 五十嵐検事は灰皿の縁にタバコの吸いさしを載せた。 「聖橋事件があった5月13日の夜、石川さんはどちらにいらっしゃい ましたか」 「ボクのアリバイですか。やっぱり疑ってるじゃありませんか」 「いいえ。ただ事件当夜の事情をうかがっているだけですが」 「こたえなければ、なおさら疑われますから正直にこたえます。ええと、 5月13日の夜といえば、たしか木曜日でしたね」 石川は瞬(またた)きもしないでじいっと検事をみつめた。 「ええ、そうです。5月の第二木曜日になっていますが」 「だったらその夜は、大学における二時間目債権総論の講義が休講 になったので、いつもより早く水道橋駅で電車に乗り込み新宿駅で 特別快速電車に乗り換え、まっすぐ梅林市の自宅に帰りました」 「そうでしたか。その電車に乗っていたことを証明してくださる人は おりますか」 「それはちょっと無理です。ラッシュアワーの鮨詰め状態の電車です から多数の乗客はおりますが。周りの人はみんな素性のわからない 赤の他人ばかりですから。それがマンモス都市の生活というもんです」 「それもそうですな。それで」 五十嵐検事はちびたタバコの吸いさしを灰皿にすりつぶした。 「5月13日の夜。あなたが自宅にお帰りになられたのは何時ごろ でしたか。その帰宅時刻を証明してくださる人はおりますか」 「ええと。帰宅したのはたしか9時過ぎだったとおもいますが。父は 晩酌に酔いしれて、お茶の間で高鼾(いびき)をかいていました」 「ほかにご家族の方は」 「だれもおりません。ボクは一人っ子ですし、母は3年前に交通事故 で亡くなりました。それも美枝ちゃん、いや美枝子の母とおなじ車に 乗っていて、ふたりとも即死でした」 「そうでしたか。多摩美枝子さんも一人っ子だそうですが。ええと」 五十嵐検事は鋭い詮索のまなざしになった。 「はなしはかわりますが。石川さんはときおり千代田マンションの 多摩美枝子さんのところに宿泊なさるそうですが。あなたが宿泊な さる日は決まっていますか」 「はい。美枝ちゃんとの結婚は、ボクが司法試験に合格してからと いう約束でしたし、それはまだかなり先のことになります。そこで 週にいちどは、ふたりでゆっくりしようということで、日曜日の午後 に美枝ちゃんのマンションにゆき、その夜は宿泊しております」 「そうですか。それで5月27日木曜日の夜、石川さんはどちら にいらっしゃいましたか」 「はい。ええと。その日も」 石川は右の拳(こぶし)で額を軽くたたき、記憶を喚起しようとした。 「大学では二時間目の債権総論の講義が休講になりました。なんでも 講師の先生が外国に出張したらしく5週間ほど休講がつづいたんです。 それでその夜は美枝ちゃんと食事をすることになり、御茶ノ水駅から 徒歩で5分ほどの和食の店『菊水』の2階席で夕食をいっしょにとり ました。はい」 「ほう。そのあとでどうされましたか」 「そのあとは、ちょっと散歩してから、ボクは9時すぎに御茶ノ水駅 から高尾行き電車に乗り帰途につきました。美枝ちゃんとは御茶ノ 水駅で別れましたから、美枝ちゃんはそのあと、まっすぐ帰宅すれ ば9時半ごろにはマンションに着いたはすです」 「その『菊水』で食事をしたことを証明することはできますか」 「はい。二階席は大広間になっていまして。その奥の予約席をリザーブ していました。そのときの仲居さんは、勝江さんというなじみの顔見知り の方でした」 「なるほど。仲居の勝江さんですか。それでは」 五十嵐検事はソファーに背筋を擦りつけ腕を組んで宙をみあげた。 「松瀬病院長と多摩美枝子さんとのご関係についてうかがいます。 このおふたりは、病院長と秘書ということのほか、なにかこう特別の 深い関係がありませんでしたか」 「検事さんの仰(おっしゃ)ることの意味が」 石川流太郎は怪訝(けげん)なまなざしになった。 「よくわかりませんが。特別の関係と仰いますと」 「ええ、まあ。たとえば男と女の関係といったふうな」 検事は背筋を延ばしてデリケートに石川の反応を観察した。 「まさか。そんな関係などあるはずがございません。松瀬教授は 心臓外科の権威としてマスコミでもしられているドクターですし。 その権威が美枝ちゃんに手をつけるなど到底(とうてい)考えられ ません。もしかして美枝ちゃんを松瀬殺しの犯人だと疑っている のでしょうか」 「いえ。そうではありません。現段階としては、被害者の周辺の人間 関係を洗いだすことに集中しております。そこで被害者と直接または 間接的にかかわりのありそうな方すべてに事情を聴取している だけなんです。別に美枝子さんを犯人とみてるわけではありません」 「そうですか。それならいいんですけど」 「もういちどお訊ねしますが」 五十嵐検事は念を押す姿勢になった。 「松瀬教授と多摩美枝子さんとはどんなご関係でしたか」 「どんな関係って。それは松瀬教授が病院長に就任したとき、それ まで医事課職員として外来の受付事務を担当していた美枝ちゃんが その秘書に抜擢(ばってき)されたと聞いてます。つまり病院長とその 秘書という関係以外にはなにもありません」 五十嵐『ここでは、多摩美枝子と松瀬病院長との情事に関する石川 流太郎の認知の度合いをたしかめなければならない。それは先日の 多摩美枝子の供述内容の信憑性をたしかめるためにも欠かせない』 五十嵐検事は胸のうちで目論(もくろ)み、そのことを曳きだすための 訊問に集中する姿勢になった。 「果たして、ただそれだけの関係でしょうか。より深い関係にあった のではないでしょうか。たとえば男と女の関係というふうな」 「とんでもない。美枝ちゃんは」 石川『検事のこの訊問には、まったく頭にきた。けど、ここは冷静に 切り抜けなければならない』 石川は自分の胸のなかで呟(つぶや)いた。 「決してそんなことができる女ではありません。美枝ちゃんはボクの 許婚であります。ほかの男とできてるなんて考えられません。これは 検事さんの的外れの推量にすぎません。美枝ちゃんは、もともと 清廉潔白な女ですからボクを裏切るはずがありません。ボクは、 そう信じております。はい」 「そうですか。しかし実はですね」 五十嵐検事はソファーのうえで身を乗りだした。 「竹山茂太郎事務長殺害事件が起こったものと推定される5月27日 の夜、千代田マンションの350号室に桜門大学お茶の水病院の落合 医事課長がはいってゆくところを目撃した人がいるんですがね」 「なんですって ! そのぉ」 石川の白い頬(ほお)に衝撃がはしった。 「目撃者というのは、いったいだれですか」 「ええ。桜門大学お茶の水病院の患者さんで、落合賢次医事課長の 顔をよく識っている方なんですがね。この人は千代田マンション345 号室に居住されていまして、落合課長を目撃したと証言しました。 これは警視庁捜査一課の聞き込み捜査で判明したものです」 「そうでしたか。でも医事課長は美枝ちゃんが医事課職員だったころ の上司でしたし、なにか事務連絡のためだったかもしれません」 「しかし、石川さんと多摩美枝子さんとの供述によりますと、その5月 27日の夜は、おふたりとも和食の店『菊水』で食事をしたことになって います。したがって千代田マンションの350号室は留守になっていた はずなんですがね。留守のところへ落合課長がはいっていったという のはおかしいんじゃないですか」 「たしかに検事さんの仰(おっしゃ)るとおりです。少なくともその夜の9時 30分ころまでは留守だったとおもいます。御茶ノ水駅の改札口で別れて 美枝ちゃんがマンションに帰宅した時刻がそのころだと考えられます」 「そうすると目撃者の証言と多摩美枝子さんの供述とは符号しないこと になります。だから、そのどちらかの内容が虚偽だとみるしかありません」 「それは、たしかに論理的には」 石川は瞬(またた)きしながら検事の目をみつめた。 「そういう帰結になりますが。美枝ちゃんとボクが『菊水』で食事をしていた ことは誓って真実です。この事実は『菊水』の仲居の勝江さんに聞けば 明らかになるはずです」 「その『菊水』の所在地はどこになっていますか」 「はい。御茶ノ水駅の西口つまり聖橋ではなく、お茶の水橋の方の出口に なります。そこから明治大学通りをまっすぐすすむと左が大久保彦左衛門 屋敷跡になっております。そこから数メートルほどの左側が『菊水』に なっております。その1階は生蕎麦の専門席ですが、2階は和食の専門席 になっております」 「そうですか。医事課長の落合賢次さんが、果たして5月27日の夜、 千代田マンションを訪問したかどうかについては、後日、あらためて課長 さんから直接うかがうことにしましょう」 「医事課長の事情聴取はいつごろになりますか」 「どうしてまた、そんなことを気になさるんですか。なにかこうその期日が 特に重要になるわけでもおありですか」 五十嵐検事は石川の表情の変化をよみとろうとした。 「いえ。別に特別の理由はありませんが。例の5月27日当夜における ボクたちのアリバイが疑われているようですから、一日もはやくそれを すっきりさせたいとおもいまして。ただそれだけのことです」 「そうですね。いまのところ事件が立て込んでいますので、落合賢次 さんの事情聴取は、はやくても6月11日ごろになりましょう。それ以前 に、5月27日夜のアリバイについては、こちらでそのウラをとります。 その結果、石川さんのおはなしの信憑性が判断されましたら、 そちらにお知らせします。それで石川さんのお気持ちもさっぱりする でしょうから。きょうはお忙しいところ、ごくろうさまでした。きょうは、 これでお引取りいただいて結構です」 「なにもお役にたちませんで。それでは失礼させていただきます」 石川流太郎は起ちあがり軽く頭をさげ、検事室から消えてゆく。 「ええと。それでは」 五十嵐検事はタバコをつけ、天井に向け紫の煙を噴きあげた。 「さっそくだが。石川さんの供述のウラをとることにしましょう」 「わかりました。いまから」 杉山検察事務官は石川流太郎の事情聴取を録音していたテープ レコーダーをストップし、それをカバンにいれた。 「桜門大学法学部と和食の店『菊水』に出向き、石川さんの供述の ウラをたしかめてみます」 「桜門大学法学部は水道橋から1〜2分だし、和食の店『菊水』は 御茶ノ水駅から至近の距離だというから、車よりも電車のほうが いいかもしれないな」 五十嵐検事は独り言のように呟(つぶや)いた。 「そうですね。それでは地下鉄で東京駅にでて中央線にします」 杉山検察事務官は往路を決め、あたふたと検事室からでてゆく。
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