警視庁の東側の並木道では朝からの小雨でマロニエの緑葉が しっとりと白露に濡れていた。 検察庁という太い文字が横に刻み込まれた検察庁の正門の背後に 白っぽい庁舎の高層ビルが浮かびあがる。 五十嵐検事室の壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が黒く太い 文字で1999年6月4日になっている。 黒い縁取りの円い壁時計の長針がぴくりとうごき午前10時になった。 水色のスーツに鰐皮のハンドバッグを提げた多摩美枝子が検事室 にはいってきた。 「なんのご用件でしょうか」 デスクに向かっていた杉山検察事務官は起ちあがった。 「お呼び出しをいただきました多摩美枝子ともうします」 「どうも失礼しました。どうぞこちしらで」 杉山検察事務官は多摩美枝子をソファーに案内した。 「ちょっとお待ちください」 杉山検察事務官は多摩美枝子の出頭を検事に報告する。 検事デスクに向かって書類を点検していた五十嵐検事がソファー に寄ってきた。 「お待たせしました。わたしは」 五十嵐検事は名刺をさしだしソファーに凭れる。 「検事の五十嵐です。きょうはお忙しいところをどうも」 「多摩美枝子ともうします」 起ちあがった瓜実顔はにこりと微笑みかける。 「どうぞ、おかけください。さっそくですが」 五十嵐検事は美貌で瓜実顔の女に憑(つ)かれた。 「桜門大学お茶の水病院事務長の竹山茂太郎さんのことについて、 おうかがいさせていただきます」 「わかりました。あのぉ」 多摩美枝子は瓜実顔に愛狂しい笑窪(えくぼ)をうかべた。 「あたしの識っているかぎり、ありのままをもうしあげます」 「あなたが勤務されている桜門大学お茶の水病院事務長の竹山茂太郎 さんが殺害されたことはご存じですか」 「はい。存じております。松瀬教授にあんなことがあってから間もない 事件でしたから酷いショックをうけました」 「失礼ですが。竹山事務長が殺害されたと推定される5月27日 の夜、あなたは何時ごろマンションにお帰りになられましたか」 「ええと。あの夜は」 瓜実顔の多摩美枝子は膝に目をおとした。 「友人と和食の店『菊水』で食事をしてから帰宅しましたので、たしか 9時30分ごろだったとおもいます」 「あなたが帰宅なさったとき、そのぉ」 五十嵐『ここで多摩美枝子の表情の揺らぎをみおとしてはならない』 検事は胸のうちで自分にいいきかせ、瓜実顔を凝視する。 「マンションのなかに、なにかこう変化は感じられませんでしたか」 「はい。別にこれといった変化は感じられませんでしたが」 美枝子の瓜実顔に表情の変化はみられず淡々としている。 「松瀬病院長事件における春山捜査一課長の事情聴取によれば、 あなたのマンションの鍵はドアの脇においてある南天の鉢の後ろ側 の牛乳ビンのなかに保管しているそうですが。なぜそんなところに、 大切な鍵を隠すようにして保管しておくのですか。自分の部屋の鍵 というものは外出時には自分のバッグのなかにいれておくのが社会 通念ですが。なぜその社会通念に反するような保管方法をおとりに なられるのですか」 「はい。それは」 多摩美枝子の瓜実顔に戸惑いの色がはしった。 「どうしてですか。多摩さん」 五十嵐検事はここぞとばかり鋭く突っ込んでゆく。 「それはですね。マンションの賃貸借契約条項として、鍵は1個しか 交付しないこと、合鍵を造ってはならないことが特約されていました。 それで親しい友人が、あたしの留守中に訪ねてきたとき、部屋の なかにはいりやすくするためでした」 多摩美枝子は膝のうえに目をおとしたままだった。 「ほう。親しい友人にね。そのぉ」 五十嵐検事は美貌の女を見つめなおした。 「親しい友人というのはどなたのことですか。さしつかえなかったら 教えてください」 「はい。それは」 多摩美枝子は愛狂しいまなざしで検事と視線をあわせる。 「親しい友人というのは、石川流太郎ともうします」 「その石川流太郎さんは、単なる友人でしょうか」 「いえ。長い間の交友関係がつづいたあと、いまでは婚約者に なりました」 「婚約者ですか。その経緯(いきさつ)を具体的に教えててください」 「はい。ええと。流ちゃんとはそのぉ。石川流太郎のことをそう呼んで おります。石川の流ちゃんとは幼馴染でもあり、中学・高校時代の クラスメートでもありました」 「ほう。どちらの学校でしたか」 「はい。中学は市立の梅林第一中学でしたが、高校は桜門大学付属 第二高等学校です」 「なるほど。幼馴染で、桜大二高のクラスメートでしたか」 「ええ。流ちゃんとは婚約者だともうしあげましたが、もっと」 瓜実顔はいくらか頬をあからめ恥じらいの表情に変わった。 「ずうっと以前からの許婚でした。流ちゃんの父の石川流之介さんと、 あたしの父の多摩梅吉とが合意のうえで勝手に決めたことでなん ですが。高校一年のとき許婚だとしらされました」 「そうでしあたか。それで石川流太郎さんと多摩美枝子さんには、許婚 とされたことに異存はなったのですか」 「はい。双方の父がおなじ植木職人ということもあって、幼いころ から双方が家族同然のおつきあいをしていました。それに流ちゃん もあたしも一人っ子でまるで兄弟のように育てられましたから、親が 決めたことをそのまま素直に受け入れました。むずかしいことは、 よくわかりませんが。追認ということでしょうか」 美貌の瓜実顔はいくらかはにかんだ。 「そうですね。法律的には身分行為の追認にあたります。それで、 石川流太郎さんも植木職人ですか」 「いいえ。流ちゃんは植木職人ではありません」 「といいますと」 「はい。桜門大学法学部の事務職員なんです。高校を卒業して、 あたしは桜門大学お茶の水病院の医事課職員に採用されされました。 流ちゃんは法学部の事務職員に採用され、昼間は学生課の窓口で 執務し、夜は第二法学部つまり夜間部の学生という生活をつづけており ますが。司法試験を目指し、将来は弁護士を志望しています」 「なるほど。将来性のある有望な青年ですね。それで」 五十嵐検事はライターでタバコをつける。 「あなたは勤務先にほど近い千代田マンションにお住まいだそうで すが。石川流太郎さんはどちらにお住まいでしょうか」 「はい。流ちゃんは梅林市の自宅から足の速い通勤快速で水道橋駅 まで通勤しております。大学は千代田区神田の三崎町です」 「そうでしたか。それでときおり、あなたのマンションに石川流太郎 さんが、お見えになっていたわけですね」 「はい。週に1〜2度ほど顔をだしております」 「立ち入ったことをうかがいますが。石川流太郎さんが、あなたの マンションにお見えになったときには、お泊りになられるんですか」 「はい。そういうことは」 瓜実顔は膝のうえに目をおとした。 「あまり云いたくないんですけど。許婚でしたから、はい。検事さんの ご想像におまかせします」 「つまりベッドのなかでもおふたりは協力しあったということでしょうか」 「あらまあ。検事さんったら。ほんとにまあ」 美貌の瓜実顔は恥じらいの笑いに変わった。 「それは。許婚の流ちゃんとは・・・。はい、まあ」 「いつごろから肉体関係をおもちになられましたか。おさしつかえ なければお聞かせください。別になにかを勘ぐってるわけではあり ませんので誤解なさらぬように」 「はい。検事さんの前ですから」 多摩美枝子は両方の頬に笑窪(えくぼ)を浮かべ真正面から 検事に微笑んだ。 「なにもかも正直にもうしあげるしかありません。ええと。はじめて 抱擁しあったのは高校3年生の夏休みのときでした。流ちゃんの 父の石川流之介さんと、あたしの父の多摩梅吉が、業者仲間の 慰安旅行で留守になったんです。それで美枝子のことが心配だ からと、流ちゃんがあたしの家に泊り込んだ夜のことでした。許婚 なんだからいいだろう、と流ちゃんにせがまれて、ごく自然にスキン シップからはじまり、気がついてみたら、ゆきつくところまで。はい」 「なるほど。だんだんと、そのぉ」 検事はちびたタバコの吸いさしを灰皿に擦り潰し腕を組んだ。 「よりいっそう深く立ち入ったはなしになりますが。あなたは石川 流太郎さん以外の男性と性的交渉をもったことがありますか」 「とんでもない。そんなこと」 多摩美枝子は恥じらいのまなざしを検事に向けたが、すぐに 俯いてしまう。 「仮初めにもあるはずがありません。検事さんったら」 「しかし多摩美枝子さんは、男ならだれでも魅せられる美貌ですから、 これまでにいちどくらい、おありだったんじゃないですか。たとえば、 松瀬病院長にいい寄られたようなことはなかったですか」 「とんでもない。松瀬教授とあたしは、病院長とその秘書という、ただ それだけの職務上の関係があるのみです」 「はたして、ほんとうにそういうきれいな関係だけでしたか」 「いくら検事さんだからといって失礼じゃないですか。あたしが容疑 扱いされるいわれはありません。これ以上しつこく聴取するときには 菊野弁護士を呼ぶことになります」 「おお、これは手厳しい。失礼は承知のうえで、真実を探りだすため に、捜査官としての職務に忠実になっているだけです。失礼はお許し ください。ただこれは検事としての勘ぐりにすぎませんが。そういう ご経験をおもちのような気がしてならないのです」 「はい。検事さんはたしかに」 美枝子『ちょっとあたし、検事さんの作戦かもしれないクモの糸に絡ま せられて身動きできなくなっちゃうかもしれない。そんな気がしてなら ないわ。ここで犯人に仕立てあげられたんでは、たまったもんじゃない わ。ばかなことを云わないように、しっかりしなければならない』 「捜査の専門家でいらっしゃいます。ですからプロの捜査官のまえで 下手な演技のパフォーマンスを演ずることはナンセンスです。だから 下手な演技はしないで、ありのままをおこたえしております」 「そうですよ。パフォーマンスはよくありません。本官はパフォーマンス を見抜く抜群のちからをもちあわせておりますからな」 五十嵐検事は舌の根の乾かないうちに、おおげさにパフォーマンス を演じ苦笑する。 「そう仰る検事さんのまえですから、聞かれたことには、歯に絹を着せ ないで、そのまま真実をもうしあげております。実は病院長秘書に就任 して間もない、ある昼下がりのことでした。松瀬教授が院長室にはいって くると、コーヒーを炒れようとしていたあたしの背後から襲いかかりました。 あたしはそのまま絨毯のうえに押し倒され、スーツを剥ぎとられ、たちまち 松瀬の性欲発散の受け皿にされてしまいました」 「その場で松瀬を撥ね退け抵抗することはできませんでしたか」 「はい。松瀬はあのように」 美枝子はやや慄(ふる)え気味で膝のうえに目をおとしてしまう。 「体格のいい大男でしたから、あたしがたといどんなにもがえても どうにもなりません。それに大学の教授で病院長の松瀬と、しがない 秘書という身分のちがいもありました。そんなわけで松瀬のなすが ままに服従するしかなかったのです。ですからほとんど抵抗しない まま、松瀬が射精した精液の受け皿にされてしまいました」 「なんとも惨(むご)いはなしですな。まったく」 五十嵐検事は腕を組んだまま天井をみあげる。 「松瀬という男は、ドクターの風上にもおけない暴漢だったか」 「はい。検事さんの仰るとおりです。ただ、あたしは」 瓜実顔はちらっと検事バッチをみたがすぐに俯いた。 「すでに流ちゃんに、なんども愛されていましたから、処女が暴行 されたときとはちがっていたとおもいます。まだ性行為の経験がない 処女が処女膜を破られたというショックはありませんでした。強引に ただ、一方的に、松瀬のなすがままで、わずか数分のうちに暴漢の 行為はおわってしまいました。男の方ってむかむかしてきたときには 咄嗟(とっさ)に、ああいう行為にでたいという衝動に駆られてしまうの でしょうか。検事さんも男でいらっしゃいますよね」 瓜実顔は五十嵐検事の胸に煌めく検事バッチにじいっとみいった。 「まあね。個人差があるかどうか」 検事はソファーのうえで身を乗りだし薄ら笑いを浮かべた。 「わかりませんが。一般的にはそのぉ」 「はたして、どうなんでしょうか。検事さんも男でいらしゃいますよね。 だからやはりそういう衝動に駆り立てられることもおありですか」 「まあね。それは検事といえども男は男だからね。ここだけのはなし ですけれども、『男性性欲の特殊性』といいましてね。男の場合は、 精嚢に蓄えられた分泌物を射精したいという欲望に駆られて、むか むかしてくるとがあるんですよ」 「はああ。そうなんですか。その意味が」 瓜実顔は興味津々(しんしん)という表情に変わった。 「いまのあたしにはよくわかりません」 「つまりですね。精嚢は男子の膀胱の後壁に接着している一対の 紡錘形をした器官なんですが、睾丸で造られた精液などの分泌物 を一時的に蓄えておくための袋なんですよ」 「はああ。そうなんですか。そうすると」 多摩美枝子のまなざしは煌(きら)めいた。 「精嚢は精液の貯蔵庫というわけですか」 「ええ。まあね。その貯蔵庫に分泌物としての体液が鬱積(うっせき) してくると、それを放出したいという欲求がむらむらと湧いてくるので す。だからこの男性に特有の生理現象が強姦行為つまりレイプという 犯罪が発生するひとつの要因ともいえるのですな」 「そうすると松瀬の行為も検事さんが仰るように、その点が要因だった のかもしれません。近くに居る女性でありさすれば、あたしでなくても、 だれでもよかったのかもしれません。ああ嫌だあ。男ってほんとに」 「さあ。松瀬教授の場合はなんともいえませんな」 「はたしてそうでしょうか」 「さあ。それで松瀬教授は」 五十嵐検事は多摩美枝子の瓜実顔に蕩(みと)れた。 「院長室でセクシャルな美枝子さんをものにしたという、そのまたとない 味をおぼえて、あなたの性的魅力(みりょく)にとり憑かれ、その後も例の 千代田マンションに出入りするようになったんでしょうな」 美枝子『この検事のまえでは隠し立てはできない。すべてをはなすしか ない。そうすることにしよう』 多摩美枝子はふっきれた気持ちになった。 「はい。なにもかもそのまま真実をもうしあげます。松瀬は毎週、 木曜日と土曜日の夜に、あたしのマンションにやってくるように なりました。やってきたその日にすること、つまり行動のパターンは判で 押したようにきまっていました」 「その行動のパターンといいますと」 五十嵐検事は身を乗り出し興味津々(しんしん)という目つきになった。 「はい。松瀬は自分で」 美枝子は瓜実顔の愛狂しいまなざしを検事に浴びせた。 「あたしよりも先に南天の鉢の陰からキーをとりだしてマンションに はいり、シャワーを浴びるのでした。ときには自分で風呂の準備を して入浴もしていました。体格のいい大男のくせに、細かいことに 気づく人でした。それであたしは買い物をしてから、松瀬とは30分 ほどの時差をつけて帰宅するようにしていました。ふたりで揃って マンションにはいることは避けていました」 「つまり人目を憚(はばか)ってのことですか」 「はい。そうするようにと松瀬に命じられていました。あたしは例の 院長室でのあのことがあってからは、弱い立場にありましたから、 松瀬に服従するしかなかったのです」 「ご事情はよくわかります。それで」 五十嵐検事は、しつこく詮索するまなざしになった。 「はい。あたしもシャワーを浴びると、すぐベッドのなかの仕草に うつるのでした」 「ほう。ベッドの中の仕草ね。松瀬教授の場合は、石川流太郎さん のときとは、なにかこうちがっていましたか」 「あら。検事さんったら、いやらしい。そんなことまであたしのくちで 喋(しゃべ)る必要があるんですか」 「ええ。性的に結合した者同士の人間関係とりわけその内心の心理 状態を具体的に識る必要は、犯罪の動機を捜(さ)ぐる手掛かりに なりますし、和姦か強姦かを判断するときの基準にもなりますから」 「そうですか。恥ずかしいけど。はなさなくてはいけませんか」 「できるだけ具体的にお聞かせください」 五十嵐『ここは多摩美枝子の心理状態を曳(ひ)きだすために、いくらか 間をもたせ、気分を転換させたほうが賢明だ』 五十嵐検事は胸算用をした。 検事は胸のなかでの胸算用を呟きながらライターでタバコをつける。 「はい。松瀬はベッドにはいると、まずあたしの髪の毛をやさしく ていねいに愛撫します」 「ほう。まず髪の毛にやさしくね」 「それもおおきな両手で、あたしの髪の毛を時間をかけて弄(もてあそ)ぶ のです。あたしは、じっと目を閉じています。するとあたしの瞼のうえから 長い舌でやさしく刺激します。キスをしたり、嘗(な)めまわしたりというふう な愛撫のテクニックなんです。左の瞼にやさしくすると、そのつぎは右の 瞼にもおなじようなテクニックで愛撫してゆきます」 「なるほど。まるでポルノ映画のシーンのようですが。松瀬教授は かなりセックスのテクニシャンらしですな」 「まあ、そうかもしれません。瞼のつぎは左の耳たぶになります。 長い舌で耳たぶを弄ぶのです。ときには耳穴のなかまで松瀬のベロが 届くこともありますが。こうして左の耳の愛撫がおわると、こんどは右の 耳にもおなじようなパターンで愛撫がつづきます」 「なるほど。まるでポルノ映画をみてる感覚になってしまう」 「男のテクニックによる愛撫がそこませすすみますと、女も自然と燃え 盛ってきます。はい。こんなことまでもうしあげてよいものかどうか、よく わかりませんけど、あたしは松瀬との逢瀬(おうせ)で、この肌で実体験 をいたしました。はい」 「それはたしかに」 五十嵐検事はソファーのうえに身を乗りだした。 「そうでしょうな。それで、そのあとはどうなるんですか」 検事は事情聴取のルールを逸脱してしまい、興味津々(しんしん)と いう表情に変わった。 「そのあと松瀬は、あたしの左脇腹をやさしく撫でまわします。左の 脇腹がおわると、こんどは右の脇腹をソフトに擦るのだした」 「なるほど。まことに肌理濃(きめこま)やかな愛のテクニックですが。 そのあとはどうなるのですか」 五十嵐検事はますます興味本位のまなざしになった。 「そのあとですか。松瀬は、あたしの内股をやさしく撫で擦ります。 松瀬の長い腕の手のひらは、あたしの左足の先にまでとどきます。 5本の足指のあいだの柔らかい箇所も指で愛撫してゆくのです。 そして右の内股から足の先まで、おなじパターンの愛撫がつづく のでした。ここまで愛撫がすすむと、それはもう、ことばではいいよう のない恍惚(こうこつ)の世界に溶け込んでゆくのでした。そうなると、 あたしは身悶(みもだ)えするばかりでした」 「そろそろ、ポルノ映画もクライマックスのシーンになりますかな」 腕を組んだ五十嵐検事はせせら笑いを浮かべた。 「いえ。そのあともなお、前戯(ぜんぎ)はつづくのです。恥ずかしい んですけれども、すべてをおはなしいたします。松瀬の長い舌は、 あたしのあそこにまで尺取虫のように這いずります」 「ああ。もう結構です。そこから先まで供述させたならば、あとで、 菊野弁護士から職権濫用だと非難されかねませんから」 五十嵐『ここはひとつ、その先の肝心要の部分をはぐらかしておい て、巧みな誘導訊問により、多摩美枝子のハートのなかに隠されて いる真実を捜(さぐ)リだすことにしよう』 五十嵐検事はソファーに背筋を擦りつけていた上半身を乗りだした。 「いまのおはなしのように、おふたりが密接に絡み合った状況のもとで は、あなたのおなかのうえに馬乗りになった松瀬教授の首を両手で 締め付けるチャンスも、十分にあったんじゃないですか。松瀬が欲望 の満足に溺れている最中ならば、そのチャンスも考えられます」 五十嵐検事は被疑者を陥(お)とすときの表情になった。 「なんですって ! 検事さん。それはないでしょう。それは酷すぎます。 滅多に他人には話せない秘めごとを、巧みな誘導ですべてはなさせて おいて、突然あたしを容疑者扱いするなんて酷い。これはまるでその、 取り調べではありませんか。検事さん。あたしを松瀬殺しの犯人に 仕たてあげるおつもりですか。まさかそんなあ。酷いはなしだ。あまり にも酷すぎる。鬼検事 !! 」 美貌を誇る美枝子の瓜実顔は醜く強張(こわば)り引きつった。 「いや。あなたを松瀬殺しの犯人に仕立てあげるつもりはありません。 ただ、美枝子さんのお話の信憑性をたしかまるために、演出した即興 にすぎません。ひょっとしたら男女間の愛の行動を生々しく語ること によって、捜査官の観察力を殺(そ)ぎ取り、殺人という歴史的に実在し た真の行為をカモフラージュしているかどうかをたしかめようとしただけ で、ほかの意図はなにもありません」 五十嵐検事はふたたび背筋をソファーに擦りつけた。 「それにしても酷すぎますわ。もう、なにを聞かれても喋(しゃべ)りません から。ほんとに酷い検事さん。五十嵐検事さんって文字通りの鬼検事な んだわ。紛れもない鬼なんだわ」 美枝子は瓜実顔を紅潮させ威きりたった。 「いやどうも。これは失礼しました。美枝子さんからの事情聴取で いろいろと被害者松瀬教授の身辺の具体的事情が浮き彫りにされて きました。その具体的な事情からみて、聖橋事件は起こるべくして 起こった殺人事件といえるかもしれません。あなたのおがげで、暗礁 に乗りあげていた聖橋事件の捜査も一歩前進できそうです。ありがとう ございました。これから桜門大学お茶の水病院におもどりでしょうか。 そうでしたら本庁の車でお送りさせていただきます。きょうはほんとに ご苦労さまでした。それでは杉山君。美枝子さんを車で勤務先の病院まで お送りしてください」 自分のデスクで多摩美枝子の発言を録音しながらパソコンのキーを たたきつづけていた杉山検察事務官に検事は命じた。 「はい。わかりました。それでは」 杉山検察事務官は回転椅子のうえで腰を浮かせた。 「多摩美枝子さん。どうぞ」 鰐皮のハンドバッグを引き寄せ、起ちあがった美枝子は検事のまえ で頭をさげた。 多摩美枝子は杉山検察事務官に縋りつくようにして五十嵐検事室 から消えていった。
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