それは1999年5月28日の早朝であった。 警視庁通信指令センターでは110番通報のベルが鳴り響いた。 神田川を見おろす路線バスの運転手からの通報によれば、お茶の水 橋の欄干から神田川の水面すれすれに全裸の変死体が吊るされていた ということであった。 警視庁捜査一課は、ただちに捜査官を現場に出動させた。 春山捜査一課長が現場に駆けつけたときには、すでに千代田警察署 によって交通止めがなされたお茶の水橋のうえでは、ブルーのシートの うえに変死体は収容され仰向けにされていた。 春山捜査一課長がみおろした遺体は全裸のうえ両眼を抉り取られ、 両耳を切断されており、人間としての個性を喪失し無残な姿だった。 「これはまた酷い ! 砂山警部。これは松瀬事件とまったくおなじ ではないか」 春山捜査一課長は、変死体のうえに屈みこんだ。 「はい。課長。その手口は松瀬事件そっくりですな」 「鑑識さん。カメラ ! 」 春山捜査一課長の怒号に反応してカメラ係は変死体の全容にピント をあわせ、がちゃりとシャッターをきった。 「ほとけの髪の毛がきれいに剃りおとされ、頭が丸坊主にされてる のも松瀬教授のときと符号していますね。課長」 砂山警部は白い手套を嵌めた人指し指で変死体の頭を指した。 「そうだね。なんでまた丸坊主にしなくちゃならないのか。犯人の 気がしれない。怨恨かね。警部」 「おそらく犯行の動機は怨恨でしょう。課長、被害者の下腹部を みてください。男の勲章がなくなっています。陰茎も睾丸も切断され、 陰毛もきれいに剃りおとされています」 「この点も松瀬事件とまったくおなじだね。警部」 「はい、課長。そのうえ両方の手首をロープで緊縛し、橋の欄干から 神田川の水面すれすれに吊るすという手口も松瀬事件の模倣犯と しか考えられない」 「これも非常脱出用のロープとみられるが、そのロープに名札はつい ていないかね。警部、たしかめてみてくれ」 「はい、課長。ただいま」 砂山警部は橋の欄干に沿って投げだされていたロープを白い手套 を嵌めた両手で手繰り寄せた。 「あっ、名札がついてます」 「どこのものかね」 「ええと。これも桜門大学お茶の水病院の名義になってます」 「すると被害者を吊るしたロープまで松瀬事件と完全に一致している ことになる」 「そうすると、このヤマは松瀬教授を殺害した犯人と同一犯人の犯行 でしょうな。課長」 「この犯行の手口を手掛かりにするかぎり、同一犯人の犯行とみる しかあるまい」 「はい、課長。それに被害者の首に残された傷痕ですが」 「この首の傷痕は締め付けられたときにできたものでしょうが。犯人 はどこか別の場所で被害者を絞殺してからお茶の水橋まで屍体を はこんできて、橋の欄干から神田川の水面すれすれに吊るしたも のでしょう」 「おそらく課長のお見立てどおりで、犯人は別の場所で被害者を殺害し てから、この橋まで屍体を運搬し、この欄干から吊るしたものでしょう」 「そうすると、屍体を人目に晒す目的で吊るしたものとすれば、松瀬 事件のときとおなじく見せしめのためでしょうか」 「多分、課長のいわれるとおりでしょう。両耳を切断され、両眼も 抉り取られているし、頭も丸坊主だから、被害者の顔からは男女の 性の区別もできないが。胸の乳房からみて被害者は女性ではなく、 男性とみられる」 「鑑識さん。そのロープの桜門大学お茶の水病院という名札の部分を アップにしてくれないか」 春山捜査一課長の指揮にしたがって、カメラ担当の捜査官はロープ のネームプレートにピントをあわせ、がちゃりとシャッターをきった。 「ほとけの手首から緊縛されたロープをはずし、屍体をワゴン車に はこんでくれないか」 砂山警部に命令されて、ふたりの捜査官は遺体を担架に載せワゴン 車にはこびこんだ。 「被害者の殺害現場がここでないとすれば、凶器の発見は困難かも しれないが。とにかく凶器の発見に全力投球してくれないか。あとの 指揮は警部にまかせる」 「はい、課長。あとはおまかせください」 春山捜査一課長は黒塗りの公用車に乗り込んだ。 サイレンを鳴らしながらワゴン車ははしりだした。 春山課長の車もワゴン車のあとを追った。 砂山警部の指揮にもとづき、鑑識班によりお茶の水橋の欄干から 指紋が採取される。 神田川にはボートを浮かべ、長い竿により川底の探索がつづけら れてゆく。 潜水服で身をかためた係官が水中に潜り込み証拠物件としての 凶器の発見に集中作業をつづけてゆく。 凶器発見の探索は難航する。
警視庁捜査一課では、壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が19 99年5月31日月曜日になっている。 黒い縁取りをした円い壁時計の長針がぴくりとうごき午前10時に なった。 桜門大学お茶の水病院医事課長の落合賢次がはいってくる。 「呼び出しを受けました桜門大学お茶の水病院の落合ですが」 「どうぞ。こちらへ」 係官に案内されて落合は窓側のソファーに身を鎮めた。 若い係官は課長デスクに向かい書類を点検していた春山課長に 耳打ちした。 まもなく春山課長がソファーに寄ってきた。 「お待たせしました。きょうは」 春山課長は落合のまえに名刺をさしだした。 「お忙しいところ、お呼びたてしまして」 春山課長はソファーに身を鎮めた。 「桜門大学お茶の水病院医事課長の落合ともうします」 小太りで中年の落合は起ちあがって名刺をさしだした。 「ええと。そのぉ」 春山課長は怪訝な表情になった。 「こちらとしては、竹山茂太郎事務長さんにご出頭をおねがいして いたはずですが」 「はい。承知いたしております。実は」 ソファーに腰をおろした落合課長は前屈みになって揉み手をした。 「竹山茂太郎事務長が先週の木曜日から消息不明になりまして」 「消息不明ですって ! 」 「ええ。事務長が消息不明で連絡がとれないものですから、とりあ えず事務長の代行として医事課長のわたしが出頭させていただき ました。もうしわけありません」 「あ、そうででしたか。それはまた、どうなさったんでしょうな。それで 事務長の捜索願はだされましたか」 「いいえ。もうすこしようすをみようということで、まだ捜索願はだして いません。これは竹山事務長の奥さんの意思を尊重してのことです が。そいうことでして。はい」 「なるほど。そうでしたか」 春山課長はシガレットケースの蓋を開けた。 「いかがですか」 と、落合課長にタバコを勧めた。 「ちょうだいします」 落合は春山課長がさしだしたケースからタバコをひきぬいた。 「ところで、落合さんは」 春山課長はソファーに凭れライターでタバコをつけた。 「お宅の病院から程近いお茶の水橋の欄干から吊るされた変死体 のことをご存知ですか」 「ええ。それは」 落合は自分のライターでタバコをつける。 「松瀬病院長のこともありましたし、二度目の事件もマスコミで派手 に報道されましたから」 「実はですね。二度目の事件の犯行の手口が、松瀬病院長殺しと 完全に一致してるんですよ」 「ほう。そうなんですか」 「しかも被害者の両方の手首を緊縛して、お茶の水橋の欄干から 神田川の水面すれすれに吊るした非常脱出用のロープは、前回と おなじくお宅の病院の名札がついていたんですがね」 「まさか。そんなあ ! またですか」 その瞬間、さっと落合課長の顔色が変わった。 「そのまさかなんですよ。はっきりと」 春山課長はタバコのすいさしを灰皿の縁に載せた。 「桜門大学お茶の水病院の備品としての名札がついていたんです」 「そうでしたか。おどろきました」 「大学病院で非常脱出用ロープが紛失した形跡はありませんか」 「さあ。調べてみないと、なんともいえませんが。取り急ぎ調べて みることにします」 「早急に調べてみてください」 「わかりました。判明しだいご報告いたします」 「実は、こちらに収容されている変死体は」 春山課長は灰皿からタバコを摘みあげた。 「松瀬教授のときとおなじく、両眼を抉り取られ、両耳を切断され ているし、髪の毛もきれいに剃られて丸坊主にされています。です から身元の確認にも困りはてております。はたして失踪中の竹山 事務長かどうかご確認ねがいますか」 「はい。もちろん」 落合課長は背広の内ポケットから携帯電話をとりだした。 「身元の確認はしますが。そのまえに竹山事務長のお宅に連絡さ せていただきます」 「どうぞ」 「ちょっと失礼させていただきます」 落合は起ちあがり壁に寄り添って携帯電話のボタンを押した。 電話をおえた落合はソファーにもどった。 「失礼しました。ただいま」 落合課長は携帯電話を背広の内ポケットにしまいこんだ。 「竹山夫人と連絡がとれましたので、いまから竹山家に直行しまし て夫人を連れてまいります」 落合課長はソファーのうえで腰を浮かせた。 「それでは、本庁の車を差し向けますので、落合さんにも同乗を おねがいします」 「わかりました。事務長のお宅は小金井になっておりますので」 「そうですか。それでは正門でお待ちください」 「よろしくおねがいします」 落合課長は廊下へ消えてゆく。
警視庁捜査一課の壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が黒く太い 文字で1999年5月31日月曜日になっている。 黒い縁取りの円い壁時計の長針がぴくりとうごき午後2時になった。
警視庁地階の霊安室では白い布で覆われた遺体が安置されている。 ひんやりとした霊安室のドアが開いた。係官に案内されて落合課長 と竹山夫人がはいって来る。 「遺体の損傷が酷くて、ちょっと」 係官が遺体に近づき覆われた白い布を取り払うと、浴衣を着せられ、 血の気を失って蒼ざめた顔が浮かびあがる。 「判別しにくいとはおもいますが。遺体のご確認をねがいます」 ハンカチをくちにあてがった竹山夫人は動悸をおさえながら遺体に 接近してゆき、両耳と両眼が欠如した顔をじいっと凝視する。 「どうでしょう。このほとけは」 若い係官は竹山夫人に視線を浴びせた。 「ご主人の竹山茂太郎さんでしょうか」 「よくわかりません。いえ」 くちにハンカチをあてたまま竹山夫人は遺体が横たわる堅いベッド からそっとはなれた。 「うちの主人かどうか、まったく判別できません」 「ご主人には、なにかこう」 係官は遺体をみなおした。 「身体的な特徴のようなものはありませんでしたか」 「はい。主人は歯の治療をしてますけど」 「歯の治療ですか。ええと」 係官はポケットから薄手のゴム手套をとりだし両手に嵌めた。 「治療なさったのは、どの部分でしょうか」 「はい。主人が治療したのは」 竹山夫人は込みあげてきて落合課長の胸に顔を埋めた。 「左上の5番と6番に金冠でクラウンの処置をしているはずです」 「左上ですか。ええと」 係官はすでに死後硬直がすすんだ遺体のくちをこじ開け、その 口腔をていねいに点検する。 「あ、左上の5番と6番は、2本の歯の付け根のところを金属で 繋いでありますが」 「そうなんです。それはたしか」 竹山夫人は落合課長の胸のなかで泣き崩れた。 「ドクターの工夫で2本の歯の付け根を繋ぎ安定させたものです」 泣きじゃくりながらこたえた夫人の返辞は聞きとりにくかった。 「なんですか」 「はい。2本の歯を安定させるためドクターが工夫して歯の付け根 のところを繋ぎあわせたんだそうです」 自分の胸に夫人を抱えた落合課長が竹山夫人を代弁した。 「そうですか。歯の治療はこの部分だけですか」 遺体の口腔を覗き込んだまま係官は念を押した。 「それにもう一箇所」 竹山夫人は涙の溢れた顔を係官のほうに向けた。 「右下の5番にも金冠のクラウンの処置をしています」 「右下ですか。ええと」 係官はあらためて遺体の口腔に指をつっこんだ。 「あ、やはりありました。たしかに右下の5番も金のクラウンになって おりますね」 ふたたび竹山夫人は落合課長の胸にしがみついて泣き崩れた。 係官は竹山夫人の嗚咽が鎮まるのを待った。
やがて竹山夫人は落合課長の胸を離れハンカチを顔にあてた。 「それでは奥さまに」 係官は遠慮がちに竹山夫人に近づいた。 「ご遺体の確認をおねがいします。このほとけは、ご主人の竹山茂太郎 さんにまちがいありませんか」 「はい。うちの人にまちがいありません」 係官に背中を向けたまま竹山夫人は落合課長の胸のなかで号泣した。 係官は竹山夫人の嗚咽が鎮まるのを待った。 「それでは、身元を」 係官は遺体に白い布を被せた。 「ご確認いただきましたので、司法解剖にまわさせていただきますが。 解剖がおわりましたらおしらせしますので、あらためてご遺体のお引取り をおねがいすることになります」 係官は手套をはずし遺体のまえで合掌した。 落合医事課長も遺体に手をあわせた。 竹山夫人の肩に手をかけ、落合課長は霊安室から消えてゆく。
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