菊野法律事務所の壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が1999年 5月25日をしめしている。 ブルーの波板もようの縁取りをした壁時計の長針がぴくりとうごき 午後6時になった。 アシスタントの足立淑子の姿はみられなかった。司法試験の予備 校で夜間の講座を受講するため彼女はすでに退勤していた。 菊野弁護士は衝立の奥の事務コーナーで、どっしりとしたデスクに 向かい書類の点検をしている。 机上で電話のベルが鳴り響いた。 菊野は受話器をとりあげた。 「弁護士の菊野ですが」 菊野は決ま文句で応答した。 「東京地検の五十嵐ですが」 聞き慣れた迫力のある美声がつたわってきた。 「あ、どうも。白山被告人のアリバイのウラはとれましたか」 菊野弁護士は検事を急き立てた。 「それがですね。石川流之介さんのアリバイ証言は信憑性のたかい ものであることが判明しました。例の『うな梅』の女将の絹さんに 直接お遭いしてきたんだ」 「なるほど。そうでしたか。お手間をとらせました」 「それで菊野弁護士のご意見にしたがって、あすの午前中に白山 被告人に対する公訴取り下げの手続きをすませます。あすの夕刻 までには白山さんを釈放できるでしょう」 「それはどうも」 「これで松瀬病院長殺害事件の捜査は振り出しにもどりました。 ただ、間接的には、白山がこの事件にかかわっているかもしれない という疑惑が残ります。この疑惑が解消されるまでは、あらためて 重要参考人として事情聴取することになります。こんかいは、司法 試験受験のベテランといわれる、あのご老体にすっかり翻弄されて しまった。白山には、二度と揚げ足をとられたくない。そこで菊野弁 護士からも白山に対して目を光らせていただきたい」 「目を光らせるといいますと」 「あすの白山の事情聴取には、菊野弁護士にも立ち会っていただ きたいんですが」 「わかりました。それで白山の事情聴取は明日の何時からですか」 「あすの午後2時を予定していますが」 「それでは、午前中に八王子の法廷がおわったら、そのまま地検に 直行することにしましょう」 「よろしくおねがいします」 電話はそこできれた。 菊野弁護士は机上にひろげていた書類をカバンに入れた。デスク をはなれドアに近づいた。 チョコレート色のおおきなカバンを提げた菊野は自動ロック方式の ドアノブを捻り、電灯のスイッチをきり、がちゃりとドアを閉めた。 人気のしない廊下にでた菊野はエレベーターホールに向かった。
東京地検の五十嵐検事室の壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が 黒く太い文字で1999年5月26日をしめしている。 黒い縁取りの円い壁時計の長針がぴくりとうごき午後2時になった。 検事デスクの前には、白山咲一が座らされていた。 五十嵐検事は黙りこくって、先に白山が提出した供述書のコピーを あちこち捲っている。 検事室のドアがするっと開いて菊野弁護士があらわれた。 「あ、菊野先生。こちらへどうぞ」 杉山検察事務官は検事デスクの横脇に折畳み式椅子をひろげた。 菊野弁護士はおおきなカバンを絨毯のうえにおき、黙って椅子に 掛ける。 白山は腰を浮かし、菊野に向かいぺこりと頭をさげる。 「きょうは、お忙しいところを」 検事は書類を捲る手をやすめ、菊野に視線をうつした。 「どうもありがとうございます。ええと」 五十嵐検事は白山に視線を浴びせる。 「きょうの事情聴取には菊野弁護士に立ち会っていただきます。日頃 から親密な交流があられるという菊野先生の目の前ですから、白山 さんもお得意のパフォーマンスではすまされません。白山さんには包み 隠さず、ありのままの真実を述べていただきます。そこでまずお訊ねし ますが。白山さんはなぜ聖橋事件について虚偽の供述をなされたので しょうか。どんな魂胆だったのでしょうか」 「魂胆だなんて。検事さん」 白山は反発のまなざしになった。 「白山さん。なぜ虚偽の供述をでっちあげたのですか。白山さんには、 なにかの魂胆があったはずですが」 五十嵐検事は、厳しい表情になり、取調べのときのポーズになった。 「はい。それは」 白山は躊躇いの表情になった。 「白山さん。なぜ虚偽の供述をされたんですか。はっきりその理由を 述べてください。なぜですか」 「はっきりもうしあげますが。それはですね。検事さんが事情聴取の レベルから、まるで被疑者に対する取調べのような態度をとられた ので、反発してみたかったからです」 「なるほど。そういう白山さんのいつもの姿勢が、沢井法夫検事殺害 の悲劇に繋がったのではありませんか。白山さん」 検事はいっそう厳しい表情に変わった。 「あなたは、その沢井法夫検事殺害事件で執行猶予の判決が確定 し保護観察中のはずです。保護観察中だというのに、なぜ自分の首 を締めるようなことをされたのですか」 白山は、検事の追及を無視して沈黙したまま表情を変えることも なく冷ややかに検事のひたいのあたりを凝視している。 「白山君。これは」 菊野弁護士は白山に叱咤のまなこを向けた。 「君のためにも、きわめて重要なことだから、はっきりさせなさい」 「はい。菊野先生。それは、その」 菊野弁護士に叱咤され、白山は渋々くちをひらいた。 「クランケの人権を無視して、まるで患者を虫けらのように扱う大学 病院が現実に存在してる事実を、主権者としての国民のまえに顕出 して大学病院を運営する理事者に反省させるためには、公訴を提起 してもらったほうが、マスコミも騒ぎたてるし、いっそうおおきな効き目 を発揮できると考えたのです。虚偽の事実をもっともらしくでっちあげ たのはそのためです。検察を愚弄する意志がまったくなかったといえ ばウソになりますが。わしはオペのとき松瀬教授の執刀を受けたこと はあります。けど、別に個人的な恨みなどはありません。ですから 松瀬を殺害しようなどと考えたことはいちどもありません」 「ほう。そうですか。仰ることはもっともらしく聞こえなくもないが」 検事は重要参考人を被疑者並に訊問する姿勢になった。 「それだけでは、どうも。なんとなく抽象的で具体性が感じられません。 それだけの理由で、執行猶予取り消しの危険を背負い込むというの は、なっとくできませんな。もっと具体的な動機があるはずですが」 「検事さんにそう云われても、わしとしては、これ以上つけくわえること はありません。同義反復になりますが。法治国家のもとで合法的に 許されている裁判手続に訴えても埒があかない。そこで訴訟の場に 松瀬を誘いだす代わりに松瀬殺しを自供し、公訴を提起させれば、 マスコミが騒ぎたてることを計算にいれ、大学病院内の乱された秩序 に対して国民に批判の目を向けさせたかったんです」 「そうでしたか。白山さんのお気持ちは」 五十嵐検事はいくらか穏やかな表情になった。 「わからないでもない。しかしあなたが考えたような非常手段こそ法治 国家のもとでは、かえって社会秩序を混乱させるものとして非難される ことになりましょう」 「はい。そのことは十分に承知しております」 五十嵐『このまま白山を釈放するのではなく、ここでなんとか聖橋事件 の解決に繋がるような糸口を手繰り寄せなければならない。そのため には、誘導訊問の手法で白山をぐいぐい牽引するしかない』 五十嵐検事は胸のなかで呟いた。 「ところで、その」 五十嵐検事は白山の顔をじいっとみつめた。 「他人に刑事処分を受けさせる目的で虚偽の事実を官憲に申告した ときは、どんな犯罪が成立しますか」 「ええと。誣告の罪つまり改正された刑法第172条によれば虚偽告訴 の罪となります」 白山は口述試験の受験者のように淀みなく滔々とこたえた。 杉山検察事務官『これは参考人の事情聴取ではなく、もるで司法試験 の口述試験のムードになってしまった。五十嵐検事はなにを企んでい るのだろうか。誘導訊問により白山に、なにかの新事実を吐かせよう としてるのかもしれない』 杉山検察事務官は胸のうちで勘ぐった。 「そうですね。それでは」 白山の供述に引き込まれ検事の訊問は司法試験の口述試験委員の ような口調になってしまった。 「自分を罪に陥れる目的で虚偽の申告をしたときには、どんな犯罪が成立 しますか」 「はい。これは自己誣告の問題になります。自己誣告については学説 が対立しております。そのときも誣告罪が成立するという肯定説に対し、 誣告罪は成立しないとする否定説があります。わしの場合、誣告罪が 成立するとされてもやむをえません」 「仰るとおりですね。しかし今回は」 五十嵐検事の眼光は鋭くなっていった。 「虚偽告訴の罪としては立件するつもりはありません。ただ、このよう に官憲を愚弄するような所為は二度と繰り返さないよう厳重に警告 しておきます」 「はい。誓って」 白山『ここは、検事に媚び諂いのパフォーマンスでゆくことにしよう』 胸のうちで、白山はそうきめた。 「二度とこのようなことはいたしません」 「ところで聖橋事件について、あなたが書いた供述書ですが」 検事は、白山が留置所で書きあげた供述書のコピーを、これみよ がしに摘みあげる。 「この供述書は、どこまでが虚偽のでっちあげで、どこが真実に合致 しているのか説明してください」 「はい。わかりました」 「まず千代田マンションの350号室を見張っていたことはどうか」 「はい。そのことは真実です。千代田マンションから100メートル ほど離れた真向かいの丘の上マンション3階の露出した廊下から 双眼鏡で千代田マンションの350号室を見張りました。松瀬教授 がドアの脇におかれていた南天の鉢のうしろからカギを取りだし、 マンションの350号室に入ってくところを望遠レンズをもちい撮影 してあります」 「ほう。その写真はどこにありますか」 「はい。飽和銀行幸福支店の貸金庫に保管してあります」 「その写真を提出していただけますか」 「ええ。捜査上の必要がありましたら提出しますが」 「それで実際に千代田マンションに侵入したんですか」 「いいえ。それは、わしのオリジナルシナリオです。真実ではありま せん。千代田マンションには一度も行ったことがありません。ただ、 遠くから監視していただけです。それに、350号室の浴室で松瀬教 授を殺害したということもまったくのデタラメです。また非常脱出用の ロープを例の病院の清掃員のもちださせたということもありません。 さらに凶器の出刃包丁やカミソリを神田川に投棄したという事実も ありません。そのうえ、松瀬教授の遺体を大型冷蔵庫用の段ボール 箱に詰めてワゴン車で運んだということも事実無根です。これらは、 意図的にわしが書き下ろしたシナリオですから真実ではありません」 「わかりました。今後も捜査の進展に伴い、必要が生じたときには、 再度の事情聴取ということも考えられますが」 「わかりました。呼び出しがあればいつでも出頭いたします」 「白山さんも、その」 五十嵐検事は物柔らかな表情で説得的な口調になった。 「司法試験受験のッベテランですから釈迦に説法かもしれませんが。 刑法で規定している執行猶予取消しの条件をあらためて確認して ください。執行猶予取消事由に該当するような所為をしないよう。 この機会に警告しておきます」 「はい。以後は肝に銘じて」 白山は低姿勢になった。 「弁護人の不行き届きでどうも」 菊野弁護士は頭を掻いた。 「被告人の虚偽の陳述すら見抜けず、検察側にはお手数をおかけ しました。この点、陳謝します」 菊野弁護士は、お世辞のパフォーマンスを演じた。 「いや。捜査官としての自分も、被疑者の供述の虚偽性を察知する ことさえできず、恥じいっております。このようなことになったのは、 弁護人のせいではありません」 検事は菊野弁護士に視線をうつした。 「ええと。それでは、白山さん」 五十嵐検事は白山のほうに向きなおった。 「きょうは、菊野弁護士とごいっしょにお引取りくださって結構です。 拘置所での生活ご苦労さまでした。今晩からは、ゆっくり休養なさって ください」 白山は起ちあがって検事のまえに頭をさげた。 「どうも、いろいろと」 菊野弁護士は、絨毯のうえにおいてあったチョコレートいろのおお きなカバンを引き寄せた。 「お手数をおかけしました」 菊野弁護士が顎で白山に退室をうながすと、白山は先に検事室から でていった。 菊野弁護士は白山につづいて検事室から消えていった。
菊野邸のキッチンでは壁に掛けられた『日捲りカレンダー』が黒く 太い文字で1999年5月28日になっている。 セピアで木彫風の縁取りをした壁時計の長針がぴくりとうごき午後 7時になる。 水色のエプロン姿の佐保子は鮪のオオトロの切り身をおおきな 刺身皿に盛り付け、ラップに包んで冷蔵庫にいれる。 佐保子は調理台に向かいシュンギクとか椎茸とかインゲンなど テンプラの具を刻んではおおきな皿に載せテーブルにはこび、ガス レンジに載せたテンプラ鍋に油をそそいだ。 菊野邸の書斎では、窓を開け放ったまま菊野文彦がどっしりとした デスクに向かい分厚い判例集を捲っている。 そこへ長男の法彦が司法研修所から帰ってきた。 「ただいま。はい夕刊」 法彦は新聞を応接セットのテーブルに載せた。 「お先にシャワー浴びさせてもらうから」 ネクタイを緩めながら法彦は書斎をでてゆく。 文彦は開いた判例集のうえに、分厚く赤紫の表紙で装丁された六法 全書を文鎮にして載せ、回転椅子をぐるりとまわしタバコを銜えソファー に移動した。 ソファーに凭れた文彦はつけたばかりのタバコをくちに銜えたまま、 夕刊ひろげ、ぎくりとした。 「えっ !! またか」 文彦がひろげた夕刊のトップ記事では、黒い生地に白の大活字で ショキングな事件がとりあげられていた。 菊野は、タバコを灰皿に載せ夕刊のトップ記事に喰らいついた。
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