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作品名:目には目を歯には歯を 作者:藤田耕太郎

第1回   聖橋の偽証
 その年もいつしか緑風の爽やかなシーズンを迎えた。
 東京の多摩丘陵地帯は緑一色に彩られるようになった。

 多摩電鉄幸福駅の長いプラットホームからオレンジ色をした十輌
連結の東京ゆき特別快速電車が滑りだし鉄路を軋らせながらしだい
にスピードをあげていった。

 幸福駅ビル8階の法律事務所の窓から菊野文彦が見おろす駅前
通りには巧みに遠近法を駆使した一幅の絵画のように鮮やかな新緑
に彩られた街路樹の柳並木がつづいている。

 それは1999年5月13日の早朝であった。
 警視庁の通信指令センターでは110番通報のベルが鳴り響き係官
は緊張して応答の姿勢になった。
 東京駅の1番線ホームに滑り込んだ中央線の1番電車の車掌から
の通報によれば、お茶ノ水駅近くの聖橋の欄干から神田川の水面す
れすれに全裸の変死体が吊るされているとのことだった。

 警視庁捜査一課はただちに現場に捜査官を出動させた。
 千代田警察が交通規制をしいて通行禁止になっていた聖橋の現場
に春山捜査一課長が駆けつけたときにはすでに千代田警察の刑事
らによって全裸の変死体は聖橋のうえに収容されブルーのシートに
仰向けにされていた。
 春山捜査一課長がみおろした遺体は一糸纏わぬ全裸のうえ両耳を
切断され両眼を抉りとられ、人間としての個性を喪失した無残な蒼い
顔であった。
「これはまた酷い ! 」
 春山捜査一課長はおもわず深い溜め息を吐いた。
「なんとまあ。これは酷すぎる」
 砂山警部が春山課長に相槌をうち遺体の脇に屈み込む。
「鑑識さん。カメラ」
 怒鳴るような砂山警部の声に敏捷に反応してカメラ担当の係官は
遺体の全容にピントをあわせ、がちゃりとシャッターをきる。
「ほとけの髪の毛はきれいに剃りおとされているな。砂山警部」
 春山捜査一課長も遺体に覆いかぶさるように屈み込む。
「それどころか課長。このほとけは陰部まで切断されているから性別
も判断できない」
「だが警部。胸の乳房からみて、すくなくとも女性ではなさそうだ」
「たしかに乳房をみるかぎり、これは男性の胸ですな」
「そうすると、このほとけは男の勲章まで奪われたことになる」
「男の勲章 !! 」
「ああ。陰茎だけでなく、睾丸まで切断されているからだ」
「なるほど。課長 、うまいこと仰言る。男の勲章か」
「まるで男のアレを切断したアベサダ事件そっくりだな」
「はい課長。男のアレまで奪ったんですから」
「男にとって、いちばん肝腎な勲章まで奪われたんじゃ堪らない」
「男の性器まで切断したんですから、このヤマは性に絡むなにかこ
う特別な事情が事件の背後に隠されているようですな」
「そうすると、このヤマは、女性による犯行かもしれない」
「いや。いまただちにそうと断定することはできない。もし自分が
愛する女を冒した暴漢に対する復讐ならば、みせしめのために暴漢
の性器を切断し陰毛まで剃りおとしたくもなるでしょう」
「なるほど。そういう気持ちはわかります。ひょっとしたら、この
ヤマは、性の乱れの成れの果てというケースかもしれませんね」
「ほとけの両方の手首を緊縛しているロープだが、かなり堅牢にでき
てるらしい。このロープはなんに使用するものかね」
「ええと、このロープはかなり太く堅牢に造られていますから、おそ
らくビルからの脱出用のロープでしょう」
「このクレーンで被害者を神田川の水面すれすれまで吊るしたんだ
から、ロープもかなり長い。ロープを手繰り寄せてくれないか」
「はい、課長。ただいま」
 砂山警部は白い手套を嵌めた両手で橋の欄干に沿って収容されて
いたロープを手繰り寄せる。
「あ、課長。このロープには名札がついてます」
「どこのものかね」
「ええと。これは桜門大学お茶の水病院になっていますが」
「桜門大学お茶の水病院か。そうすると、このロープは非常の際に
ビルからの脱出にもちいる避難用のものでしょう。カメラさん。その
ネームプレートの部分をアップにしてくれないか」
「はい、課長」
 鑑識班のカメラ担当はロープに装着された桜門大学お茶の水病院
という金属製の名札にピントをあわせシャッターをきる。
「ほとけの手首からロープをはずし指紋をとってくれないか。橋の
欄干にも指紋が残されているかもしれない。とにかく指紋の採取を
入念にするように」
 課長の命令に敏感に反応して鑑識班はロープや橋の欄干からの指
紋の採取にとりかかる。
「このほとけの首に残されている傷痕だが、警部はどうみるかね」
「はい。課長。これは絞殺されたときの傷痕でしょう」
「この傷痕からみて凶器は縄目のある紐状のものではなく、なにか
こう堅い材質の幅のあるもので締め付けられたものではあるまいか」
「はい、課長。おそらくそうでしょう。たとえば革バンドのようなも
ので締め付けられたときにできた傷痕ではないでしょうか」
「そうすると犯人は別の場所で被害者を殺害してから聖橋まで屍体
をはこび、この欄干からクレーンで神田川の水面すれすれにまで吊
るしたということになりますかな」
「おそらく、そうだろうとみられます。両耳を切断し両眼を抉りとり、
しかも髪の毛を剃りおとして丸坊主にし、男の勲章を丸ごと切りお
とし、それでも飽き足らず陰毛まできれいに剃り、橋の欄干から吊
るして、人目に曝したという所為からみて、犯人の狙いはみせしめ
のためでしょう」
「そうだとすれば、やはりこのヤマは性の乱れを契機として発生し
た復讐を込めたものとみられます」
「多分、そんなところでしょう。それでは、ほとけをワゴン車に収容
してくれないか」
 砂山警部は叫ぶように命令した。
 両方の手首に痣のような傷痕を残した無残な遺体は、ブルーの
シートを被せられ係官によってワゴン車に収容された。
「被害者の殺害現場が別の場所だとすれば、凶器の発見は困難かも
しれないが、聖橋の周辺を隈なく探索し凶器の発見に全力をあげて
くれないか。わしはひとまず本庁ヘひきあげる。あとの指揮は警部
にまかせる」
 春山捜査一課長は黒塗りの公用車に乗り込む。
 課長を乗せた公用車は、サイレンを鳴らしながらはしりだしたワ
ゴン車のあとを追った。

 砂山警部の指揮により聖橋の真上から、その下の神田川一帯を含
め、捜査官による凶器の探索が必死につづけられる。
 砂山警部は、聖橋のうえからメガホンで捜査員を叱咤する。
 ボートに乗り込んだ捜査員は、長い棒で川底を掻きまわしてゆく。

 中央線から多摩鉄道に乗り入れる特別快速電車が手狭なお茶ノ水
駅のプラットホームから新宿方面に向けて発車する。


 多摩地区における桜の名所として識られる羽村堰に沿って玉川上水
を1キロほど降ったブナの新緑のなかに菊野邸は静かな佇まいをみせ
ていた。

 菊野邸のキッチンでは、アイボリーの壁に掛けられた『日捲りカレン
ダー』が1999年5月14日の金曜日をしめしている。
 セピアで木彫風の縁取りをした壁時計の長針がぴくりとうごき夜の
7時になる。
 キッチンの窓は開け放たれている。
 白いエプロン姿で佐保子が夕食の準備におわれている。

 菊野邸の書斎はすべて窓が開け放たれている。開け放たれた窓か
らときおり涼しい川風が舞い込んでくる。玉川上水の畔だけに夕風は
涼しさを増してくるのだった。
 菊野文彦は、どっしりとしたおおきなデスクに向かい民事訴訟の
答弁書を作成するためパソコンのキーをたたいている。
「ただいま」
 新調したばかりの背広を着込んだ長男の法彦がはいってくる。
「はい。夕刊 ! 」
 法彦は黒いカバンを絨毯のうえに投げだすようにしてソファーに
踏ん反り返った。
「ああ。お帰り」
 父の文彦は返辞をしただけでパソコンのキーをたたきつづける。
「いささか疲れた」
 ぼやきながら法彦は目を瞑ったままふうっと溜め息を吐く。
「なに云ってんだい。まだ司法修習生の生活がはじまったばかりだ
というのに。弱音を吐くな」
 文彦はパソコンのキーをたたきながら法彦を貶した。
「そりゃそうだけど。あのォ」
 法彦は上半身を乗りだし父のほうに向きなおった。
「みんなおなじ司法試験の合格者だというのに。周りじゅうが、ず
ば抜けて頭のいい奴ばかりだ。オレなんか司法修習生のなかでは最
底だということがわかった。1998年というおなじ年度に司法試験に
合格して、法務省からおなじお墨付きをもらったはずなのに」
「なにをぼやいてるんだ。そりゃその」
 文彦はデスクを離れタバコを銜えてソファーに向かった。
「司法修習生に成り立てのころは、だれでも一度はそういう壁にぶ
ちあたるもんだ」
「そいうもんかなあ。親父もそうだったんか」
「まあね。だれでもビギナーのうちは」
 ソファーに身を鎮めた文彦はライターでタバコをつける。
「そういうもんだ。まあ、そいうもんだと決めて、風呂にでもは
いり気分を転換するのがいちばんだ」
「それじゃ、お先に風呂を浴びさせてもらおうっと」
 法彦は起ちあがりカバンを引き寄せ書斎から消えてゆく。
 天井に向け紫の煙を噴きあげた文彦はタバコを銜えたまま夕刊
を摘みあげる。
「おお、これはまた」
 朝陽新聞夕刊のトップ記事では黒い生地に白い大活字で全裸の変
死体が聖橋に、というキャッチフレーズで聖橋事件を報道していた。
「なんてまあ、これは」
 文彦は新聞をひろげたままテーブルのうえに載せた。
「残酷なはなしなんだ。前代未聞の所為というしかない」
 タバコの吸いさしを灰皿に磨り潰していると夕風が夕刊のペーパー
を絨毯のうえにはこんだ。
 文彦はソファーに凭れ天井をみあげる。
文彦「現場に目撃者はいただろうか。なによりも聖橋自体が目撃して
いるはずだ。これは擬人的なはなしにすぎない。残念ながら聖橋には
証人となる資格がない。証言能力が否定される。仮に証言できるとし
ても犯人に脅迫されて偽証するかもわからない。これこそ聖橋の偽証
ということになってしまう。眼鏡橋で有名な聖橋が汚染されてしまった」
 文彦は絨毯のうえの夕刊を摘みあげようと腰を浮かせた。
「あなた」
 妻の佐保子が開け放たれた書斎に顔を覗かせた。
「お食事ができましたから、いらしてください」「
「ああ。それじゃ飯にするか」
 文彦は夕刊を新聞立にもどし起ちあがった。


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