目の前を大勢の人間が歩いている。 スローモーション。 人間の、塊。 それぞれの姿ははっきりしない。今、僕の目の前で蠢いている集団は、決して個の集合ではない。巨大な一つの塊だ。 音が消えている。 巨大な塊は蠢く。一切の音と、一切の色を失ったまま。 僕は恐怖に足を竦ませて、その場から動けずにいた。
怖い。
路地を席巻した圧迫感は、その正体を現した途端に消えた。 この集団には気配がない。 人間の、塊。 呼吸をするのも怖いほどの緊張は、気配のない集団に空回りしている。
ノミコマレル
足が動き出した。 僕の意に反して、僕を塊の中へと運んでいく。 嫌だ。嫌だ! 飲み込まれてしまう。 あんなものの一部になりたくない。 腕が伸びる。 僕の意に反して、塊に触れようとする。 蠢く塊の表面に、伸ばした腕が震える。おぞましい感触を想像して、吐気が込み上げる。 腕が、見えない壁を通り抜ける。塊の中へ入り込む。
ノミコマレル!!!!!!!!
僕の腕は、簡単に塊の中に入った。
壁などなかった。
僕は塊の中にいる。 そこはとても、何と言うか、空虚だった。大勢の人間がいる。でも誰もいない。 浮かんでいた汗が引いて、速まっていた鼓動が収まって、今度はひどく遅くなって、このまま止まってしまうのではないかというほどゆっくりになった。 体の震えは止んだ。 でも、どこかが震えている。どうしようもなく震えている。
ペンが床に落ちた。 教師が僕を一瞥して授業を続ける。 転がっていったペンは、前の生徒の足に当たって止まった。 僕に渡してくれる。僕は礼を述べて受け取る。 気付かれなかっただろうか。 体が震えている。 空間≠切り捨てることができない。 僕には境界線がわからない。 世界が曖昧になっていく。
「何を恐れている。」
天使の声がする。 今のは空間?それとも現実?
塊に飲み込まれた。 飲み込まれて、けれど吸収されず、塊の中で、僕は一人で立っていた。 現実世界のように空虚だ。色がない。 ここは空間≠カゃない。 塊の中で、僕は途方に暮れる。 こんな景色、僕は知らない。知りたくない。空間≠ヘどこへ行ってしまったのだ。あの心地良い世界は。 「そんなもの、始めからないのさ。」 天使の声がする。 僕は顔を上げた。目の前を、大勢の人間が歩いている。その向こうに彼はいた。僕と同じように塊の中に立って、閉ざされた両目で僕を見つめていた。 緊張から解放される。僕はその場に座り込んだ。震えはまだ止まらない。 心臓の、もっと奥。それと、頭のどこか。 「怖いか。」 震えている場所に、天使は直に声を届ける。彼の言葉は僕に届く。僕は受け入れる。 怖い。 「何が怖い?お前は何を恐れている。」 わからない。けれど、ここは怖い。砂漠で焼かれた時よりも、荒野に埋められた時よりも、迷路で迷っていた時よりも。 ここは怖い。 耳鳴りが再び僕を襲った。きつく頭を抑える。アスファルトを睨み付けて、遣り過ごそうと奥歯を噛む。 「認めてしまえばいい。」 空虚。 止まない耳鳴り、爆音、そして無音。 ここは、どこだろう。 「何を恐れている。」
僕は、怖い。
生きることが。
怖い。
僕は目を開けた。 床を蹴り教室を飛び出す。生徒たちのざわめきを縫って、屋上への階段を目指す。足を縺れさせながら駆け上がる。 もうすぐ次の授業が始まる。 僕は扉を開けた。
僕は怖い。 生きることが。生きていくことが。自分が生きているということが。 生きるという、実体のないことが怖い。生きている自分を認めるのが怖い。 生きている世界を生きるのが怖い。
怖い。
怖い。
世界は色を失っている。世界を生きる僕も色を失っている。世界には実体がない。僕には分からない。僕には実体がない。僕は知らない。
怖い。
怖い。
生きることは、怖い。
風が吹いている。 フェンスの向こうにくすんだ空がある。太陽は真横から突き刺さる。 僕は走った。太陽を一瞥して。灰色の空を睨み付けて。 恐怖は僕のスピードに追いつけない。 僕は走った。一気にフェンスを越えた。くすんだ空に飛び出した。
背中に羽は生えなかった。
世界はどこにあるのだろう。
僕は目を開けた。 放り出された体は、くすんだ空の中で動きを止めていた。 目に映るのは、空、太陽、色褪せた世界。舞い散る羽。
ハネ?
これは、君の…
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