僕は目を開けた。 樹々の間を縫って差し込んだ光が瞼に当たっている。 そこは森だった。いつか訪れたことのある森。空間≠ノもよく現われる。 僕は一番大きな木の根もとにもたれて座っていた。 辺りは静かで、風と葉ずれの音しか聞こえない。視界は鮮やかで明るく、樹々の上からはあたかも日光が降り注いでいるかのようだった。
タイヨウハ キエタハズナノニ
それとも、ここは現実なのだろうか。 空間≠ナはなく、現実世界なのだろうか。 よく解らない。頭に霞がかかっているようだ。 ここは、どこなのだろう。 「とうとう現実と妄想の区別もつかなくなったのか。」 頭上から声が聞こえた。あの天使が枝に腰かけて僕を見下ろしている。 やはりここは空間≠セったのだ。 「当たり前だろう。」 天使は座っている僕の前に舞い降りた。 僕は暫し天使を見つめた。 天使はその両手足首に鉄の枷をつけ、そこから太い鎖を垂らしている。首にも枷がついていた。 両目は黒い布で覆われている。 初めて見た時は逆光で、輪郭が解る程度だった。しかしはっきりとした光の下にその姿を晒して見ると、それはとても異様だ。 束縛されていないのは片方の白い翼だけに思えた。 僕はその閉ざされた両目を見つめ、下に隠されているはずの素顔を想像した。
……何も思い浮かばない。思い浮かべることができない。
天使の顔は僕の頭の中においてひどく曖昧で、輪郭すらも覚束ない。それどころか、考えれば考えるほど歪んで奇妙な顔が完成する。 同時に、吐気を伴う頭痛が襲ってきた。体中を悪寒が走り抜け、額に汗が滲む。 頭が割れるように痛い。震えが止まらない。 心臓がすごい速さで脈打っている。 脳が危険信号を発している。目の前で、想像した天使の顔と、意味の解らない数多の映像とが重なった。 いつか見た景色、絵画、現実の記憶、空間≠ナの記憶。 それらが無音状態の中、交錯していく。 呼吸がうまくできない。苦しい。 全身の歯車が狂ってしまったようだ。 けれど僕は、体の変調の他所で、眼前に広がる映像に見惚れていた。 「馬鹿だな。」 引き戻す声がした。脳の近く。 突然映像の銀幕が破れ、天使の顔が現われる。閉ざされた瞳が僕の目を覗き込んだ。 体が軽くなった。頭痛も消え、汗も引いていく。 大きく、息を吐く。指先から、ゆっくりと動くかどうか確認してみる。 どうやら完全に正常に戻ったようだ。呼吸も脈拍も、何事もなかったかのようにいつも通りのリズムを刻んでいる。 今のは何だったのだろう。ほんの一瞬、あるいは途方もなく長い時間、僕は自分の体を操れずにいた。 「できないことをしようとするからだ。」 天使はまだ僕を見ていた。 目の前に見えない顔がある。両目は隠されているのに、視線だけは強く感じた。 僕は天使の顔に触れてみた。 温もりは、ある。普通の人間よりは冷たいが、確かに生物の温かさだ。 天使は、されるがままになっている。 僕は目隠しに触れようとした。 視覚はあるのだろうか。 さっきから僕の行動をきちんと把握し、的確な場所へ触れてくる。 見えているのだろうか。だとしたら、どうして目隠しなどしているのだろう。 「温かいな。」 僕の手が黒布に触れる寸前に、天使はそっと避けて立ち上がった。僕は行き場を失った自分の手を見つめる。 「お前の手は温かい。」 僕の、手? その手を、自分の頬に当ててみる。 「温かいだろう?ちゃんと、血が流れている。」
チガ ナガレテイル?
手首を強く握ってみた。 強く、強く。 やがて手が痺れてきて、逆に脈拍がよく解るようになった。 確かに、僕は生きている。僕の心臓は脈打っている。 「お前は何を確かめたいんだ?」 天使は僕の手を解放した。緩やかに、感覚が戻る。 僕は何を確かめようとしているのか。 天使の投げかけは感覚の復活とともに、全身に水輪のように広がっていった。 僕は、何を確かめようとしているのだろうか。 「だから妄想を繰り返すんだろう?」 妄想? それは、この空間≠フこと? 「そうだ。これはお前の妄想だ。」 これは、僕の妄想が作り出した映像なのか。 僕は違う世界にトリップしているわけではない。ただ、脳がこの映像を見せているだけなのか。 それにしては感覚がリアルだ。見ているだけの映像とは思えないほど、僕の体は色々なものを感じている。光の眩しさ、空気の冷たさ、大地の温もり。耳を澄ませば、木の幹を逆流する水の音さえ聞こえる。現実の世界でもこれほどまでに意識したことなどないくらい、僕は周りのものとひとつになっていた。 体が溶けていくようだ。 自分の体の線が段々に崩れていく。体と世界の境界線が曖昧になっていく。 ああ、またこの感覚だ。 風化するというのは、こんな感覚なのかもしれない。 「風化したいのか。」 天使の声が届く。僕はその声を直接聞いていた。耳がどこにあるのかも解らない。 「もっといいところに連れて行ってやる。」
ものすごい風鳴りがした。 僕の体は突風に煽られて空高く舞い上がった。吹きつけてくる風の激しさに目を開けることもできない。 呼吸ができなくなる。 体が千切れそうだ。 僕は必死でもがいた。何かにつかまらなくてはならない。早く体を支えなくては。
コンナ ショウゲキ ボクハ シラナイ
手を伸ばした。 思い切り、思い切り。 突き刺さる空気の矢に、指が何本か切り取られたかもしれない。 それでも僕は手を伸ばした。指先が熱い。血が出ているのだろうか。 それでも僕は手を伸ばした。風は四方から吹きつける。 それでも僕は手を伸ばした。指先が、何か厚いものに触れた。壁? 僕は手を伸ばした。指に触れた壁を掴もうとする。 突然、壁が消えた。否、手が壁を突き抜けた。僕の体は更にバランスを崩した。 誰かが僕の手を掴んだ。強く引っ張られ、体は止まり安堵する。 次の瞬間、地面に叩きつけられた。 あちこちで骨の軋む音がする。 僕の体は、壊れてしまったかもしれない。 僕は、壊れてしまったかもしれない。
僕は学校の玄関に立っている。 終業時刻はとっくに過ぎたらしい。玄関には僕しかいなかった。 靴を履いて外に出た。 放課後だというのに校庭は騒がしい。部活動に勤しむ生徒たちの掛け声が流れる。よくできたBGMだ。僕には届かない。 何時だろう。 校舎に掛けられた時計を見上げた。 目が屋上へと向く。生徒用に開放された屋上に、今は人影はない。ここからは見えない。 僕は走った。 玄関へ戻り、靴を脱ぎ捨て、階段を一気に駆け上がった。 四階建ての校舎は長い。たった十数メートル体を持ち上げるだけなのに、どうしてこんなに疲れるのだろう。 飛び上がるわけじゃないのに。ただ、持ち上げるだけなのに。 あと少し。あと少し。 屋上の扉が見える。 あと少し。あと。 勢いに任せて扉を開ける。 僕は目を閉じた。 正面から夕日が当たる。眩しくて何も見えない。 目が慣れてくるとフェンスが見える。そこには誰もいなかった。鉄柵に囲まれたコンクリートの床が広がっているだけだ。 力が抜ける。乱れた呼吸が治まらない。座り込んでしまいそうになるのを、辛うじて抑えた。 夕日が当たる。眩しくて何も見えない。
帰ろう。
夕日が沈む。 早く帰ろう。
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