僕は目を開けた。 いつもの教室の、いつもの席に座っていた。 授業が始まっている。僕が目を閉じたのは休み時間だったはずだ。時計を確認する。三十分ほどの記憶がない。 今のは夢だったのだろうか。 いや、眠ってはいない。 現に、机の上に広げられた教科書は入れ替わっている。 珍しくもない、慣れたことだった。 まるで精神と肉体が完全に分断されたかのような錯覚。 精神が現実と地続きの幻をさ迷っている間も、僕の体はそれまでと何ら変わらないように活動しているのだ。
昔からうわの空になることが多かったように思う。道を歩いている最中に意識が途切れ、気がつくと目的地に着いていたりするのだ。 夢ではないと思う。 僕が浮遊する世界は確実な実体を持っていて、夢のように、現実の僕に不可能なことがその世界では可能だというようなことはなかった。
僕はその世界のことを空間≠ニ呼んでいた。
空間≠ナも、やはり僕は僕だった。 未だに、現実にいる僕と空間≠ノいる僕のどちらが本当の僕なのかはわからない。 現実から空間≠ヨ旅立つときはごく軽い浮遊感を味わうが、空間≠フ中で僕の足は常に地面についていた。空間≠ヘ僕の願いが叶う場所ではなかった。 空間≠ヘいつも、いつかどこかで見たことのある風景となって現われる。そして僕は必ず一人でそこにいる。何かが起こるわけではなく、僕はただそこにいるだけだった。
教師が淡々と教科書を読み上げていく。黒板では、千年近く前の中国王朝の歴史が壮大に繰り広げられている。生徒の大半は教師の角張った文字をぼんやり眺めていた。 僕は黒板を見つめたまま、先程さ迷った空間≠フことを思い出した。 空間≠ナ僕以外の生物を見たのは初めてだった。それも天使……まさか。 現実離れし過ぎていて、いつもの空間≠ニ同じものとは思えない。
数日前、夢を見た。
夜、寝ている間に夢を見ることは久しくなかったが、その夜は夢を見た。 それは僕の背中から羽が生えてくるというものだった。 僕はようやく手に入れたその羽ですぐにも飛び立とうとする。しかし僕の背中に生えた羽はとても重くて、僕は立っていることすらできなくなって、その羽に引っ張られるように座り込んでしまう。すると羽から根が生えて、僕は地面に縛り付けられてしまうのだ。最後の瞬間、僕に生えていた羽は真っ黒になっていた。
空間≠ノ現われた天使は、片方の羽が黒かった。 あの日見た夢と、何か関係があるのだろうか。 『そんなもの、始めからないのさ。』 天使はそう言った。 僕が心の内で呟いた問いに、天使はそう答えた。 空に自由はなかったのか。 鳥たちは空に、陸上では得られなかった自由を求めて飛び立ったのではないのか。 だとすれば、なぜ彼らは未だに空を飛んでいるのだろう。早く次の場所へ飛び立てばいいのに。
次の場所。
僕は教室の窓越しに空を見上げた。
次の場所とはどこだろう。
海を捨て、陸を捨て、空を捨てた生物たちが次に辿り着くのはどこなのだろう。
頭の中で、何かが軋んだ音をたてた。
空間≠ヘ、街の雑踏の中や学校の休み時間などによく出現する。 僕は口数が少なく、友人と呼べる人間も特にいない。自分から打ち解けようとしたこともなかった。それは僕が「学校」という組織に属し始めた頃からのことで、記憶の中で僕はいつも一人でいた。 一人が好きだったわけではない。 大勢が一人を嫌うのだ。 僕はいつも一人でいた。 疑問に思ったことはない。悲しみを抱いたこともない。 ただ、言うなればひどく客観的に「自分は一人である」ことを意識する時があった。 顕著なのが授業の間にある十分間の休み時間だ。 他の生徒にとってその時間は短いようで、休み時間の終了を知らせるチャイムが鳴ると大体の生徒は不満そうな表情を浮かべて席につく。 しかし僕にとっての休み時間は本当にただの休憩で、机の上の教科書を取り替えれば、後はひたすら授業開始を待つだけだ。 その時、僕は完全に一人である。 何かの本に書いてあった。「孤独というのは一人で部屋にいる時ではなく、大勢の人間が周りにいる時ほど強く意識するものだ。」 果たして僕のそれが「孤独」であるかは不明だが。 そうしていると、だんだんと僕の中から音が消えていく。視界は明るくはっきりしているのに、音だけが遮断されるのだ。 学校全体のざわめきも、隣で話すクラスメイトの声さえ聞こえない。 僕は完全に外界から隔絶される。 喧騒の最中にあって、僕にだけ静寂が訪れる。 その瞬間、脳と視神経が切り離される。 僕の脳は眼球が捉えた映像を完全に無視して僕を違う景色へ誘う。 それが空間≠ナある。
寝ている間に見る夢には色がついているかどうか。 僕の夢は白黒だ。色の明暗や濃淡は解るがはっきりした色はない。それに比べて、空間≠ノは色がある。音も匂いも、暑さや寒さ、物の質感、現実世界で僕の肉体が感じている全ての感覚がある。そこでは僕の五感は現実と同様に全て正常で、むしろ現実では様々なフィルターを通してからようやく届くそれを、空間≠ナは直に受け取ることができる。僕は現実よりも鮮やかな世界に触れる。 けれどそれ以上に、現実と空間≠ニでは異なることがある。 空間≠ノおける僕は、肉体的にも一人だった。僕の視界に入るのは静物であり、僕の脳で認識できる範囲での「動物」は存在しなかった。 それなのに、どうして今日に限ってあんなものが現われたのだろう。 今日の空間≠焉Aいつもと変わったところはなかったはずだ。
いや。
太陽が消えていた。 昨日まではあった。心地良い空間≠ノおいてあの光体だけが不快で、僕はいつも掌を翳し、あれが発する強烈な光を遮る必要があった。 空間≠ナの太陽は現実より強い光を発していた。降り注ぐ対象が僕しかいないということを見せつけるかのように、季節に関係なく、いつも僕を照らしていた。 何度、消えてくれと願っただろう。 太陽が消えても世界が明るいのなら、あんなものは必要ない。 『お前は幸せだな。』 声が甦る。 僕は幸せなのだろうか。 僕はどうして幸せなのだろう。 再び、教室から見える切り取られた空へ目を向けた。 もしも、あの空へ飛び立つことができたなら─── その時には解るかもしれない。僕が幸せかどうか。
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