あたしは強い人間だった。
硬い世界を感じて、強くあろうと決めてから、あたしはずっとそう思っていた。 それはどういうことかというと、あたしはつまり、あたしの中の弱い部分を片っ端から壊していった。 あたしは、あたしは強いと信じていたけど、でもやっぱり少しは弱い部分もあった。弱い人間なら、その弱い部分は見て見ないふりして隠したまま生きることもできるだろうけど、あたしは何せ強い人間だったから、そういうわけにはいかなかった。あたしに少しでも弱い部分があったなら、それは手遅れになる前に叩き潰す必要があった。 強いあたしに、弱さなんて必要ない。 あたしは、ただ強く、在ればいい。
あたしたちは思い出を共有している。 元は一人の人間だった。一つの強い物体だった。 死んでいるあたしは動かない。でも、膨らんでいるあたしと同じことを考えているはずだ。 あたしたちは、同じ一つの人間なんだから。
本当に、そうだろうか?
唐突に投げられる疑問。生きているあたしが目を覚ます。
月が出ている。
嫌なものを思い出した。あたしは顔を歪める。
あたしは月が嫌いだ。太陽によって生かされている。他者の力で光らされている。望んでいるのかも分からないのに、勝手に照らされて光らされて、形を暴かれて詠われて、そういうあれこれ文句も言えずに享受している。日に晩に姿を変えて変えられて、自分の一部を無様に晒す。 三日月、半月、二日月。上限の月、下弦の月。色々名前をつけられて、恥ずかしい名前で呼ばれても、それでも澄まして気取っている。本当は嫌なくせに、拒絶する勇気もないから取るに足らない些細なことだと気にしていないふりしてる。 でも所詮あいつは一つの物体、寂しい塊にしか過ぎなくて、よくよく目を凝らせば照らされていない部分も薄く見えてくる。三日月の向こうに見えるあいつの輪郭。丸い線。黒い空白。 あたしは勝ち誇る。 太陽の光に助けられて形を決められて、うまく逃げ果せたとあんたは思っているかもしれない。でもあたしは知っている。あんたが隠そうとしているもの。
あんたはただの抜け殻だ。
いつの間にか、足まで膨らんでいた。あたしは見慣れた腕の変化に夢中で気づかなかったけど、同じくらいのペースで両足も膨らんでいたみたいだ。あたしの足はメリハリがなくなって、棒状の風船のようになった。ピエロが犬を作るやつ。顔を隠したピエロの手が、あたしの足を捩じ上げる。胴体に刺さった風船を引っこ抜いて、あたしの足で犬を作る。足の犬はあたしに吠える。噛みつく。あたしは千切れる。千切れたあたしの悲鳴は犬の体に閉じ込められる。ゴムの臭いに包まれる。あたしの声は撃沈する。 込み上げる吐気を飲み込んで、あたしは右腕を噛んだ。思い切り噛んだ。ピエロに引っこ抜かれる前に、あたしが責任持って処分してあげよう。 あたしの腕は消しゴムみたい。弾力を持ってあたしの歯を拒む。 水分が奪われる。吐気は増す。まずい。あたしの腕はおいしくない。 もっと力を入れてみるけど、どうにも噛み切ることが出来ない。諦めて口を離したら、あたしの右腕にはくっきりとあたしの歯型が残った。 あたしの腕が弱いから?
違う。
あたしの歯が強いんだ。
あたしは春が嫌いだ。
何故だろう。思い出すのは嫌なこと、嫌いなものばかり。 あたしの記憶。思い出。生きているあたしが生きていた世界。
春。小学校の校庭を囲んで植えられていた桜が咲く。運が良ければ春休みのうちに散り切ってしまうけど、現実はそう都合良くはいかない。最悪の場合、満開を過ぎて散り始めた頃に学校が始まる。 散りかけの桜ほど気味悪いものはない。花弁はくすんで見るに耐えない醜態を晒す。未練がましく枝にしがみついて、臭いのきつい葉と領域の奪い合い。散った方も土に溶けず、見せ場を失ってなお存在を見せつけるように人の気配に踊らされて舞い上がる。もう誰もそれを、その抜け殻を綺麗だなんて思わないのに。
月に叢雲花に風。 あたしは断然雲と風を応援する。
桜の下には死体が埋まっている。桜は躯の血液を吸って、よりいっそう花弁を紅く染める。
ありふれた伝説。あたしに教えてくれたのはお母さんだった。 小学校の入学式。手を引かれてくぐった校門。
だから、一際紅い桜には気をつけて。死体だけじゃ飽き足りなくて、生きた人間の鮮血を求めるから。 どうして小学校には桜がたくさん植えられているのかわかる?桜は子供が好きなの。人間が一番おいしい時間よ。ここを出たら私たちは、汚く朽ちるだけなんだから。 桜みたいに、私たちは。
だからあたしの記憶は小学校で止まっている。あたしが一番おいしかった時間。
体を膨らませる空気に侵食されて、あたしは段々意識が混濁して来た。
お母さんの教えてくれた猶予の時間。許された成長。おいしいあたし。今が絶頂。 あたしは生きるのに、精一杯生きるのに必死だった。差し迫る現実。瞬く間に時間は過ぎる。足踏している暇はない。振り返る余裕もない。息吐く間に時間は過ぎる。 卒業したら、あとは朽ちるだけなんだから。(汚い)桜みたいに、あたしたちは。 握り締めた、お母さんの硬い手。 硬い、お母さんの、手。
あたしの、お母さん、の、手。
お母さんの。
オカアサン。
お母さんは、あたしの死を悲しんでくれただろうか。
あたしの数少ない好きなものの一つだった。 あたしに世の中を教えてくれた人。あたしに、強く生きることを教えてくれた人。 あたしはいつも控えめに、それでもずっとお母さんを見ていたけど、お母さんが泣いているのは一度も見たことがない。だからお母さんは、あたしが死んでも泣いたりしないだろう。 とても、強い人だから。
膨らんだ両手足から空気が流れ込むように、少しずつ、あたしは胴体まで膨らみ始めた。四方から均等に、ゆっくりあたしは膨らんでいく。
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