あたしは強い人間だった。 そして、弱い人間を軽蔑していた。
あたしの嫌いな人間。 自分のことを弱いと認めている奴。 何にもしていないのに自分を弱いと決めつけて、開き直っている奴。 自分で自分の限界を決めるのは弱い人間のすることだ。あたしとは違う。
あたしは絶対に振り向かない。あたしは壁を作らない。自分を閉じ込めな
い。自分の足を引っぱらない。 あたしはいつだって前を見てた。前だけを見て走ってた。後悔なんて弱い
人間のすることだ。後悔して反省して、二度と同じ事は繰り返さないって
思ってみたって、それは自分を臆病にするだけだ。慎重になるなんて言え
ば聞こえはいいけど、それは結局前へ進む自分の足枷になるんだ。 あたしは騙されない。あたしは惑わされない。世界になんか狂わされない
。あたしは世の中に取り込まれない。 そう誓ってあたしは生きてきた。
あたしは、強い人間だ。
今だってそうだ。あたしは強い人間だ。生きているときと何も変わらない
。変わっていない。何故かあたしは二つに分断されてしまったけど、動か
ないあたしと膨らんでいるあたしに別れてしまったけど、あたしが強い人
間であるということは変わらない。
どうにもややこしいことになってきた。 あたしは一人で勝手に話を進めるわけにはいかないらしい。でも動かない
あたしは動かないから、いくら尋ねても返事はしてくれない。膨らんでい
るあたしのように、色々な余計な事を考えてもくれない。ただじっと俯せ
ているだけ。
動かないあたし。膨らんでいるあたし。時間が止まったあたし。時間にな
ったあたし。
生きているあたし。 死んでいるあたし。
生きていたあたし。 死んでしまったあたし。
あたしはどっち?
あたしは強い人間だった。
人間だった。
だった。
よくわからない。
よく、わからない。
死ぬって、そういうこと?
家族旅行に行った。 小学生の時。
あたしたちを繋ぐのは思い出だけ。あたしたちは生きているあたしが生き
た世界を共有している。
お父さんと、お母さん。あたしより先に二人から生まれた人間が一人。(
あたしはお兄ちゃんと呼んでいる。) 四人での初めての家族旅行。 海岸沿いの道を車で走って、確かそれは春先のことで、開け放した窓から
入ってくる風には微かに花の匂いが混じっていた。 あたしは鮮明に覚えている。 まだ冷たい空気。広がる海に興奮を抑えきれなくて、お兄ちゃんが走って
飛び込んだ。お父さんが慌てて止めに入って、二人でびしょ濡れて風邪を
引きかけた。 いちご狩りをして、みんなで籠いっぱいのいちごを摘んだ。出口でよその
おじさんとあたしのお母さんがぶつかって、お母さんの籠がひっくり返っ
てしまった。お母さんは「仕方ないね」って言ってたけど、顔はやっぱり
寂しそうだった。あたしは自分が摘んだいちごをお母さんにあげたかった
。でも、嫌な顔をされそうだったからやめた。 途中で通りかかった水族館。あたしはどうしてもイルカが見たくて、平面
じゃない本物のイルカが見たくて、頼んで頼んで連れていってもらった。
お母さんとお父さんの間に座って、一番前でイルカのショーを見た。 初めて見た本物のイルカは、テレビでも図鑑でもない本物のイルカは、体
の表面が濡れて奇妙に光っていて、円らな両目は奇妙に窪んでいて、餌を
もらって輪を潜って、餌をもらってジャンプして、水面に叩きつけられて
奇妙な声で鳴いていて、とにかくとても奇妙だった。 あたしの我儘で連れていってもらったけど、みんな「楽しかった」と言っ
てくれた。だからあたしも「楽しかった」と言った。
「楽しかった」家族旅行。他愛ない思い出。ありふれた思い出。普通の思
い出。 でも、本当は全部偽物の思い出。
家族旅行なんて行ってない。あたしだけ行ってない。風邪をこじらせてお
留守番。おばあちゃんの家で寝込んでいた。 すごく楽しみにしてたから、行けなかったのは悔しかった。おいていかれ
たのは悲しかった。でも、そう行ったら気がねさせてしまうし、変に興味
ないふりをしても白けさせてしまうので、あたしは適度な好奇心と無関心
を装ってバランスとって、みんなの土産話を聞いた。 楽しかった? 良かったね。 次はあたしも行きたいな。 今度はみんなで行けるよね。
家族で旅行したのはこの一回だけ。あたしの記憶の中では、笑顔の四人が
車に乗っている。 楽しかった偽物の記憶。果たせなかった約束。果たすつもりもなかった約
束。嘘つきなあたし。あたしは世界になんか騙されない。
いい加減、どうにかならないものだろうか。 このまま膨らみ続けたら、あたしは風船のように浮かんでしまう。 馬鹿みたいに膨らんだあたしの腕は、針で突いたら弾けてしまいそうだ。 表面は滑らかで、光を反射して光っている。 (あの時のイルカみたい。) もう全く訳が分からない。 あたしは何をしてるんだろう。死んだなら死んだで、さっさと成仏すれば
いいのに。どうしてこんなところで、膨らみながら、死んだあたしを見て
いなきゃいけないんだろう。 未練がましい。 あたしは頭を動かして周りを見てみた。ここが死後の世界なら、本で見た
ように三途の川や閻魔様みたいなのがいるんじゃないかと思って。 何もない。ただ白が広がっているだけ。天井も壁もない。白い空間。あた
したちを囲む。 どうすればいいんだろう。 成仏の仕方なんて知らない。
|
|