あたしは嫌な子供だった。 世間一般の子供にあるような天真爛漫さも、いわゆる天使のような可愛らしさというものもなかった。子供心にあたしは自分がそういう類の子供でないことを承知していたし、そういう類の子供たちを軽蔑してもいた。 かれどお母さんは、自分の体から出てきたあたしに当然そういう類を期待していたし、あたしはお母さんの子供として、そういう類の期待に応えるのは産んでもらった人間の義務なんだろうと頭のどこかで理解していた。でもあたしは嫌な子供だったから、あたしを産んでくれたお母さんのためにプライドを捨てて、軽蔑していたそういう類の子供になりきることはできなかった。 お母さんはあたしを時々本気で睨みつけたりする。お母さんは立派な大人だから、それを小さなあたしにぶつけたりしなかったし、心の中の苛々を綺麗に隠していた。でも時々、目の端っこや何かにそれが滲み出てしまっていて、あたしは嫌な子供だったから、そんなお母さんの本当をちょっとだけ知っていた。 勿論、あたしは知らないふりをしてた。もっと嫌な子供にならないように。 でも、嘘ってあんまり長い間は吐き続けていられないみたいだ。あたしは段々その嘘に疲れてきていて、でも今更お母さんには言えないから、あたしは考えた。嘘を本当にしてしまおう。そうすれば嘘を吐く疲れはなくなる。 そうしてあたしは嘘を本当にしようとして、嫌な子供から、嫌なあたしに変わった。 誤解しないで欲しい。あたしの嘘は完璧だった。あたしの嘘は疑う余地のない本当になった。嘘は、裏に隠された真実を知る人がいなくなれば本当になる。あたしはあたしだってうまく騙せていた。 あたしがそれを「嫌なあたし」って言うのは、そのあたしが今のあたしじゃなくて、目の前で死んでいるあたしのことだから。 これは、嫌なあたし。 目の前で、嫌なあたしが死んでいる。
でも、とあたしは思った。 一人きりで笑っているのにもいい加減疲れてきて、音が消えた気怠さのの中で、あたしは今考える。 確かに目の前で死んでいるあたしは嫌なあたしだけど、でもどうして死んだんだろう。 その辺を、あたしはよく覚えていない。事故だろうか。それとも病気? 尋ねてみても、当たり前だけど返事はない。ここにはあたしと死んだあたししかいないんだから。 そうだ、あたしは今、三人いる。 死んでいるあたし。 生きているあたし。 死んだあたしを見ているあたし。 生きているあたしは、もう記憶の中にしかいないから、それはもう実体のないもの。あたしの目に映るのは、死んでいるあたしと死んだあたしを見ているあたしの二人だけ。 本当は三人とも同じ一人のあたしのはずで、それなのにどうしてもその三つがくっつかないのは、やっぱりあたしが死んでしまったからなんだろうか。 さっきまでは確実に同じ人間だったのに、何かの拍子であたしたちはばらばらにされてしまった。失礼な話だ。あたしはそんなこと望んでいなかった。 一体何が、あたしたちを引き裂いたんだろう。
あたしは手を伸ばす。嫌だけど、目の前のあたしにちょっとだけ触ってみようと思った。 あたしには、「死ぬ」ってどういうことなのかわからない。 「死ぬ」ってどういうことなんだろう。 そんなの死んでみなくちゃわからないって、死ぬ前のあたしは思って田。(それ以前に、死ぬ前のあたしは、死についてなんて考えたこともなかったけど。)でもとにかくあたしは死んでみなくちゃわからないと思ってた。 撤回。死んでみてもわからない。
死ぬって、どういうこと?
だからあたしは、それを実感してみようと思って、死んでいるあたしに手を伸ばした。
触れない。 あたしの手は、死んだあたしに届かなかった。 どうしてだろう。一生懸命手を伸ばしても、立って歩いて近づいてみても、あたしとあたしの距離は縮まらない。あたしの手は届かない。 どういうこと? あたしは自分の手をじっと見る。そして、おかしなことに気づいた。 指が膨らんでいる。 それは小さな変化だった。多分、あたしじゃない人にはわからないと思う。あたしはもう長い間この体で生きてきたから、その小さな変化を見逃さない。 右手の指の、第一関節から先が、空気を入れたゴム手袋みたいに膨らんでいる。
あたしの体が、ちょっと変。
あたしは強い人間だった。
蘇る記憶。断片的。生きているあたしが目を覚ます。
初めて世の中というものを見た時から、あたしは強い人間であろうと思っていたし、実際あたしは強い人間だった。 幼いあたしの目線で見た世の中は硬かった。 初めて抱かれたお母さんの腕。 初めて握ったお父さんの指。 初めて両手と両足で押さえ込んだ床、土、コンクリート。 掴んだベッドの柵も、うさぎのぬいぐるみの目も、あたしの口内を突き破った白い歯も。 世の中はとても硬かった。 硬い世の中に放り込まれて、望みもしないのに投げ出されて、幼いあたしは途方に暮れた。 世界がこんなに硬いのでは、柔らかいあたしは術を失くす。爪痕も残せずに、無残に転がっていくしかない。
絶望?
悲観するにはまだ早い。あたしは世界を何も知らない。世の中の仕組み、歯車の構造。あたしを押し流す硬い風の行方。
だからその時、あたしは決めた。 強くなろう。 この硬い世の中に、あたしの両足を突き刺すには、あたしはもっともっと強くならなくてはいけない。でないと、この世の中から弾き飛ばされてしまう。
それが世界の第一印象。 本能で決めたあたしの生き方。 それ以来ずっと、あたしは強い人間として生きてきた。
手首から先がゴム手袋になってしまった。足も、ちょっとずつ膨らんできている。 誰かがあたしの体に空気を入れている。あたしを膨らまそうとしている。歯車の一端。世の中の仕組み。 空気が必要なのは、あたしじゃなくて死んだあたしの方なのに。 死んだあたしからはここにいるあたしが抜け出してしまって、それはただのイレモノにまってしまったんだから、隙間を埋めるための何かが必要なはず。 誰か早く、死んだあたしに、あたしの代わりになる中身を詰めてあげて。 あたしの体に合う、あたしより相応しいものを。
そんなもの、あるのだろうか。
膨らんだあたしは何かに似ている。 あたしは自分が誰かの手で、何かにならされているような気がしてとても不愉快だった。 あたしは知っている。 あたしがなりつつあるものは、多分あたしの大嫌いなもの。
|
|