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作品名:さよなら世界…僕らのキヲク… 作者:火村擁

第11回   B 満月
目の前で、あたしが死んでいる。




乾いた血がたくさんついているけど、それはあたしの血じゃないと思う。だってどこも痛くない。あたしは血が流れて死んだのではない。
でも、あたしは死んでいる。そして、あたしは死んだあたしを見ている。死んだあたしの隣りで、一人で、死んだあたしを見ている。
見たいわけじゃない。人間の死体なんて見たって気持ち悪いだけだし、ましてそれが自分の体だったら尚更だ。
でも仕方がない。他にすることがないのだから。




どうしてこんなことになったのだろう。
あたしは考える。あたしを見つめながら。




あたしはちょっと前に生まれた。
あたしが生まれてから、実際は何年か、何十年か、もしかしたら何百年かが経っているのかもしれない。けれど今のあたしには、あたしが生きていたはずの時間の何分の一かの記憶もないし、大袈裟に言う程の思い出なんてものもないから、今、あたしが思うあたしが生きていた時間は多分ちょっと。だから、あたしはちょっと前に生まれた。そういうことになる。
お父さんが一人。お母さんが一人。二人とも普通に生まれて、あたしの知らない色々な普通の出来事を経験して、あたしの知らない普通の時間を経験して、あたしの知らない普通の時間を共有して、その結果あたしは普通に生まれた。
そうやってあたしの普通の人生は始まった。
「普通」っていうのがどんなものなのか、あたしにはよくわからない。あたしの普通が他の人の普通と同じかどうかもわからない。ただ、毎日の時間を過ごす上で特に困ったことはなかった。小さな考え事や気がかりなことならば、それは少しはあったけれど、それも人並み月並みなことで、あたしを普通じゃなくすような大層な出来事なんて全然なかった。あたしはありふれた人間だ。普通のあたしを生きていた。




目の前で死んでいるあたしは、さっきからちっとも動かない。
こんなに長い間じっとしているなんて凄いと思う。あたしは一時間だって大人しくしていられない性質だったから。
この死んでいるあたしはもしかしたらあたしじゃないのかもしれない。ずっと俯せに倒れて動かない。




一番最初の記憶はおばあちゃんの家。車を止める小さなスペースの奥に、鎖で繋がれた犬がいた。
名前は覚えていない。でも確か、白と黒のまだら模様だったと思う。
その犬は、あたしに向かって吠えている。おばあちゃんには大人しく尻尾を振るくせに、あたしは見るなり吠えられる。それが悔しくて、あたしは鎖が届かないぎりぎりのところに座り込んで、じっと犬を睨んでいた。
犬を繋いでいた鎖は頑丈で、あいつがどんなに頑張ってもあたしを噛むことはできない。でも時々、不意をついたようにあいつは飛び上がるから、実際よりも近くに来られたような気がして、あたしは驚いてひっくり返る。それがまた悔しくて、あたしは日が暮れるまで、ずっとあいつを睨んでいた。あいつもあたしを睨んでいた。
夜になっても、あたしは部屋の中からあいつを睨んでいた。
あいつはそんなことには気づかないで、犬小屋の中に潜って眠りこけている。
ちょっとだけ、勝った気がした。
あたしは、あいつが見たことないあいつを見ている。あいつの知らないあいつを知っている。
あたしはあいつが嫌いで、あいつもあたしを嫌いなのに、そんなあたしに自分の知らない自分を見せるなんて、なんて馬鹿なやつなんだろうと思った。




それからもうちょっとだけ大きくなって、お母さんにあいつのことを聞いたら、そんな奴は知らないと言われた。
おばあちゃんもあいつのことを覚えていなかった。
(変なのはあたし?)
なんだか寂しくなった。
忘れられたあいつ。あたしの人生最初の敵。




記憶がない、というのは嘘かもしれない。
あたし…「たち」だけの奇妙な時間の中で、あたしは少しずつ色々思い出している。
意識していなかったけれど、こうしてみると、あたしは案外たくさんのことを覚えているみたいだ。生きていた時にはどうでもよかったこと、普通だと思っていたこと。そういう全部が、今ではたった一つの、あたしが生きていた証拠になるような気がしてくる。
あたしはなんだか可笑しくなった。
あたしが生きていたことを証明するのは、死んだあたしの記憶だけ。
唐突に、笑い。
「死んでいるあたし」と、記憶の中に「生きているあたし」。
二人のあたしに挟まれて、「死んだあたしを見ているあたし」は、お腹を抱えて大爆笑。
沈黙を壊す笑い声。


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