風が吹いている。 灰色の道は真っ直ぐに続いて、灰色の空が待つ地平線へと吸い込まれていく。 どこへ辿り着くのだろう。
僕は歩き出した。先は見えない。目的も分からない。けれど足を撥ね返すアスファルトの硬い感触は本物だった。 僕は歩く。景色は変わらない。道はどこまでも続いている。 耳鳴りは消えていた。
ここは現実かもしれない。
ここは空間≠ゥもしれない。
どちらでも、もう僕には関係ないような気がした。空間≠ヘもはや僕のものではなく、僕が帰るべき場所はなくなった。恐怖に足もとをすくわれて在るべき場所を見失った。
「そんなもの、始めからないのさ。」
そうだ。 そんなものは、始めからなかったのだ。僕の恐怖が作り出した妄想だったのだ。 君は、そのことを教えるために現われたんだろう。そうなんだろう? 僕は歩を止めた。隣りを見る。天使は何も言わない。ただじっと僕を見下ろしている。彼の足は、僕と同じ、灰色の道についていた。ずっと僕と並んで歩いていた。 彼は答えない。何も言わない。悲しそうな顔で僕を見下ろしている。 悲しそうな顔? 僕は手を伸ばした。両目を隠す黒布に触れたい。その下を知りたい。何を悲しんでいるのだろう。何を苦しんでいるのだろう。君も、何かを恐れているのか。 目隠しに届いた僕の手を、天使の手が捉えた。包むように、僕の手は彼の顔に触れる。 温かいな。 「お前の手は、温かい。」 この存在は温かい。
風に乗り 土に埋もれ 空気に溶けて 世界の果てで 世界の一部になる
僕は泣いていた。 泣こうと思ったわけではない。いつの間にか泣いていて、止めようとしても止まらないだけだ。 もう随分、こうして泣いたことはなかった。空間≠ェ現われてから、僕には泣く必要がなかった。泣かずに済む場所があった。悲しい世界を、苦しい世界を、見逃すことができる場所があった。
僕は世界を失った。だから涙を止めることができない。
僕は世界を失った。
本当に、そうだろうか。
「こんなものは世界じゃない。」 天使の口から声が漏れた。脳に直接届く声じゃない、天使の口から出た言葉だ。 それは今までのどんな言葉よりもはっきりと、僕に届いた。僕の体を突き破って、僕の心を貫いた。
それなら。
それなら、僕の世界はどこにある?僕はどこを生きればいい?どこにいれば、僕は、この恐怖に、生きることの恐怖に苛まれずに存在できる?
天使は僕の手を放した。右手を上げる。鎖の垂れ下がった右手。真っ直ぐに、道の先を示した。 指の先では、遥か遠く、灰色の道が灰色の空に突き刺さっている。
僕は歩き出した。
彼の示す方向へ。
足音は一つ。
僕は振り返らずに歩いた。
僕は目を開けた。 人込みの中を、一人で歩いている。 涙は止まらない。 太陽は沈んでしまった。 回りには無数の人間がいる。僕は巨大な塊の一部になってしまったのだろうか。 横断歩道で足を止める。隣りに並んだ人が僕の顔を一瞥する。涙を見て目を見張る。 世界が色を取り戻す。 歩行者用の信号機からけたたましい音楽が流れる。 世界が音を取り戻す。 止まっていた人々が一斉に歩き出す。 巨大な塊は姿を崩す。綺麗に解れて、たくさんの小さな個体になる。
悲しいから 苦しいから 生きてみようと思う
僕は迷路を抜けた。 ビルとビルの間の、長方形に切り取られた空は、沈んだばかりの太陽に下から照らされて真っ赤に染まっていた。 それは強烈な色だった。 こんな色は見たことがない。
ああ、これが世界なのか。
僕が生きる世界。たくさんの僕が生きている世界。そして、誰もいない世界。 やっと、見つけることができた。
お前は幸せだな。
彼の声が響く。
太陽が沈んだ後、ビルの隙間から見えた夕焼け空の赤に。 一抹の陰も冷たさもないその赤に。 僕は、ただ泣き続けていた。 その景色の一部になって、僕も強烈な赤に染められながら、希望にも絶望にも似た、よく分からない激情に飲み込まれて。 何の抵抗もせずに、僕は泣いていた。
この物語に終わりはないのだ。 僕はこれからもずっと、果てのない世界を目指して歩いていくのだ。
僕は、ただ、泣き続けていた。
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