薄闇に包まれたトンネルの中央で女子生徒らしき人影が、壁に手を当てている。 凭れているんじゃなくて、壁にてのひらを当てている。 そのためにそこに立っている。そういう感じに見えた。 高架の下のその暗い道は狭く、片側にガードレールで隔てられた、ふつうにすれ違うのもめんどうなくらい細い歩道が一本あるだけで、おれは彼女を避けるために車道を歩いた。 昼間だと車はライトを付けないため逆に見とおしは悪くて危険だが、普段車も人もあまり通らぬ場所なので轢かれる心配はなかった。 おれが近づいていっても彼女は壁に向かって手をついたまま、身動きひとつしない。 まっすぐにただ壁だけを見ている。 制服のデザインや上から羽織っている黒いコートの形に見憶えがないから、おれの進行方向とは逆の方の校区の生徒なのだろう。 それから彼女のコートの裾や背中に付いているまだ真新しい複数の靴跡も、学校に行ってりゃなんのシンボルか、だいたい想像はつく。 こういう奴が近くにいるときの対応は、おれもよくわかっている。 黙ってとおり過ぎる。 それだけの話だ。 で。 「なにしてんの」 その女子生徒の横で立ち止まり、おれはガードレール越しに質問した。 微かな残響。 沈黙。 「…呪文を唱えてるの」 おれを一瞥し、彼女は小さな声で言った。 「この橋が壊れないように」 かすれて消えそうな声だったが、意志の力を感じた。 そういう言葉のような気がした。 「あ、そ」 おれは高架の下を出て学校に向かった。 学校の行き帰りでその高架の下は毎日歩いているが、それ以来、その女子生徒を見かけたことは一度もない。 だからあの日、あの女子生徒が何を思ってスプレーで書き殴られた落書きだらけの薄汚れたコンクリート壁に手を当てていたのか、本当のことなんて知りようがない。 永遠の謎ってやつだ。 とか格好つけてみたところでつまんねぇ話がおもしろくなるわけでもない。 ようするにそれだけの話だ。
特に関係はないんだがつまんねぇ話をしたついでにおれのことについても、ちっとだけ話しておこう。 おれの名前は今村忠人。性格は面倒見がよくお節介を焼いてしまうのが長所であり短所でもある。口数が多いのは自覚してるが口が軽いよりかはマシだと思ってる。授業中にまでぺらぺらしゃべるのはたしかにまずいけどムッツリよりかはいいんじゃねぇのかな。 ところでおれは野球部に入ってるんだがおれの通ってる学校はこの辺じゃそこそこの強さらしい。つってもそこそこってのは謙遜じゃなくて全国大会まで行けたのはせいぜいが1、2回程度。ここ数年は地区大会の決勝か準決勝で涙をのむ、てな程度のチームだった。 で、おれは今んとこチームのムードメーカーを担ってる。ようするにベンチで応援ってポジションだ。 全国大会まではいけないまでも決勝まで行ってりゃそれなりに野球のうまい奴ってのは集まってくるもんで、おれだってこれでもマジメに練習に励んでるんだがそう簡単にはレギュラーにはなれなかった。 だけどもこないだの秋季大会の予選でおれにもついにチャンスが回ってきた。受験前で3年はほとんど引退、くわえてインフルエンザの流行で体調不良が続出し、補欠にも出場の機会が与えられたのだ。 その日もおれはベンチの隅っこで応援の声を張り上げてるだけの役だったが、だからって腐ってるよりかはちっとでもチームのためにできることをするのがポリシーだし、なにより打席に立てる可能性はじゅうぶんにあるから自然と気持ちは高ぶっていた。 相手チームは全国大会常連の強豪、しかし相手側も病欠者が多いらしく、特に投手陣が崩壊していて初回から乱打戦になった。 しかも試合がもつれればもつれるほど、投手力不足の相手チームは徐々に守備の面でも崩れ始めた。 で、うちの4点リードで迎えた8回裏、いつもどおりベンチで応援していたおれにもついにお呼びがかかった。 結果は犠打成功、走者は2塁へ進塁。 その後追加点はなかったが、おれはそのまま交代もなく、打球の飛んでくる確率の低いレフトの守備に回された。これまで出場機会のなかった補欠にも実戦を経験させると同時に次の試合のためにレギュラーを休ませるという監督の配慮と計算のおかげだ。 だけども、この日の計算は裏目に出た。 きっかけは平凡なレフトフライだった。 補欠だからって練習をサボっていたわけではない。しかしちょっとした風の悪戯が打球の軌道を変えた。ミットにおさまるはずだった球は直前で愛用のミットを外れ、肘に当たってファールゾーンへと逃げていった。 打球の当たった痛みより焦りのせいで、転がっていく球の行方を見失った。 頭はまっしろだったが必死に2塁へ投げた。 返球は一回地面でバウンドして、それでも2塁手のミットにはおさまった。 一方打者は、すでに3塁に達していた。 野次が飛んだ。 相手チームから、そして自軍からも檄が飛んだ。 ノーアウトで3塁。 しかし9回裏で4点差。不安はなかった。あとで監督になんて謝ろうか、そんなことだけを考えていた。 以後、試合が終わるまで、おれのところにボールが飛んでくることはなかった。なぜなら相手は全国大会の常連校、だから対戦相手の弱点は的確に見抜いていた。エラーが出たとき本当に動揺していたのはエラーをした張本人のおれではなく、マウンドを任された投手だということを、だ。 次の打者は、バントだった。ノーアウト3塁なら当然の策だ。当然内野手は全員とも読んでいた。 しかし打球は、ランナーのいる3塁側へ転がった。セーフティーバントだった。 奇策というほどのものではないが、動揺していた投手は即座に対応できなかった。 結果ノーアウト1、3塁。 次の打者は初球を強振、打球は内野ゴロだったがセカンドのミットを弾いた。 それからは、四球とバントの繰り返し。 試合終了になるまで、打球が外野まで転がってくることはなかった。 最後は満塁からの四球で終わった。 チームは自滅した。
試合後、監督はなにも言わなかった。 チームメイトも連帯責任という空気だった。 翌日、3年の暇な先輩連中が集まって、練習終了後に部室で緊急ミーティングが行われた。ようするに反省会という名目のお説教だ。 特に敗戦投手となった金井が槍玉に挙げられた。 そのあとだ。 3年の伊藤が全員を睨んで言った。 「おまえら、虚無僧は誰にするか自分らで決めろ」 と言って出ていった。 おれは立ちすくんだ。 責務はマウンドを任された投手にもある、と言えるかもしれない。だが、投手が沈黙するわけにもいくまい。ましてや、来年の大会で確実にマウンドを負かされるであろう金井と万年補欠のおれとでは秤にかけるまでもなく、答えは決まっている。 で、おれはそれ以来、「虚無僧」になった。
うちの野球部には伝統的なペナルティがある。 公式戦で敗北する明白な理由となるような大きなミスを犯した場合に限り、罰則として今後の試合で打点とポジションに応じた守備のノルマ(例えばピッチャーなら奪三振数、キャッチャーなら盗塁阻止数、野手ならランナーを刺すなど)をこなすまで校内では一切しゃべってはならない、という掟だ。虚無僧は修行のいっかんとして一切言葉を発しない、というところにならったらしい。これは文字どおりどんなに練習がきつかろうが、また誰に何をされようが、絶対に口をきくことが許されない。たとえ教師が相手でも、だ。もし禁を破っているのを部員に見つかればあとで気合いを入れられる。 ただしこれはレギュラーならば練習試合を重ねれば、いずれノルマは達成できる。 しかし補欠はたとえ練習試合であれ、出場の機会は監督の気まぐれしだいになる。控えであれレギュラーに昇格する以外、補欠のままノルマを果たすなど不可能だ。 だからレギュラーメンバーは必死に補欠に落ちないように練習する。 本来はレギュラーに発破をかけるための罰だったのだろう。が、そんな志はとっくに形骸化している。 誰を「虚無僧」に選ぶかの権利は3年にあるがレギュラーのほとんどは3年だ。だから3年が選ばれることはない。で、2年か1年が犠牲になることになるが、レギュラーを選べばチームワークに影響が出る。 だから、結局は補欠から選ばれることになる。 そして選ばれた補欠は、試合への出場機会には恵まれないから、ノルマを達成する可能性など、ない。 がんばればなんとかなる、なんて嘘だということを、この罰は身をもって教えてくれる。 能力のない奴を排除する。 それが、この罰の目的だ。 ようするに虚無僧に選ばれた補欠は、退部するしかない。 だけどもいっぺん始まったものはそう簡単には終結なんてしないもんだ。 杜氏春って知ってるか? 中国の伝承かと思ったら芥川龍之介とかいう作家が書いた話らしい。 その話じゃ主人公は仙人になるために、いろんないやがらせを受けるけれども堪え続ける。 だが最後に仙人になることをあきらめることで、杜氏春は何もなかったことになる。 だけども「虚無僧」がやられるのは、終わりのないいやがらせ、それだけだ。 まったく不思議なもんだぜ? 人間ってのはさ。 最初は恐い先輩に言われたからとか、伝統だからとか仕方なく…という感じですまなそうにしていた連中の目が、だんだんと楽しそうに変わっていくんだからな。
ランニングの後のキャッチボールの相手がいない。 二人一組のストレッチも相手が見つからない。 ありていに言えば練習中、周囲から無視され出した。 補欠だからと言って遊んでもいられない。 とりあえずひとりでやれるだけの練習はやった。 練習が終わってロッカーに戻ってきたら、着替えがない。 ロッカールームの外の側溝に、丁寧に一枚一枚、汚水に浸かっていた。 こりゃやべぇ。このまんまだとおれの部活人生真っ暗だ。 どうにか挽回しないとおれの青春の思い出が墨で真っ黒に塗りつぶされてしまいかねない。 だからって退部すりゃすむ、ってもんでもない。 いっぺんでも逃げた犬は死ぬまで叩かれる。 それが現実だ。 退部すりゃ負け犬の烙印が付いて回る。 今度はそれが叩かれる理由になる。 まぁこういう運動系の部活ってのは基本実力主義だからおれが練習に死ぬほど励んでグローブさばきがうまくなってレギュラー昇格なんてことにでもなりゃいいだろうがそう易々とはいかないもんだ。 だからってふてくされてるわけにもいかない。 周囲から完全無視だからって、油断してるとやばい。 顔に硬球が飛んでくる。 わざとなのはわかっているが、狙ってのことだから避けるにはいきなりすぎる。 鼻水みたいなすっぱいような苦いようなしつこい味が口中に広がってくる。誰かが鉄だか錆だかの味がするって言ってたような気がするが鉄なんて齧ったことないからわからん。気持ち悪い味だってことだけは確かだ。しかもいいかげんにしろっていいたいぐらいにしつこく溢れてくる。青春の味ってのは苦いもんだってのだけはよくわかった。 こんなこといつまでもやってらんねぇ。 だからって逃げるわけにはいかない。 野球のポジションってのは九つだ。たとえ控えであれ、ルール上ベンチに入れる人数にも定員がある。なのに部員は1年と2年だけでその4倍近くいる。 見上げれば眩暈を起こしてぶっ倒れそうなほど高い目標だがおれが尻尾を巻いて逃げ出さないかぎり成功への道はそこにあり続ける。 泥を噛み締めながらおれは誓ったね。 まぁ見てな、これからがおれのサクセスストーリーの始まりだ、てな。
そんである日のことだ。 練習試合の日程が決まった。 相手はおれらが秋季大会で敗戦したあの学校だった。 練習後、おれは監督に呼ばれた。 「…部員全員を管理できるのは完璧とはいえんが、おまえが孤立していることは把握している」 おれは直立不動でいた。誰かが耳をそばだてているかもと心配したわけではない。監督に対しては全員いつもこうだ。 「でな…、もしあれだったらこんどの練習試合は休んでいいぞ」 ときたもんだ。 おいおい指導者だったらこういうときは似たような場面で機用して「なに考えてんですかっ監督!?」「ふ…まぁ黙ってみてろ」「カキーン!」「やった、代打サヨナラ満塁ホームランだ!」てな感じで名誉挽回のチャンスを与えるもんじゃないんですかね? なんて補欠のおれが言えるわけもない。だから、 「じゃあ自分は観客席から応援しますわ」 なんて言ってみたら「それはおまえの自由だからやりたいんなら好きにやればいい」とだけ返された。 それだけの話だ。
んで翌日だったか翌々日だったか。 朝起きて、朝連に行こうかなって考えながらぼーっとしてたらテレビで列車の脱線事故のニュースをやっていた。 知ってるとは思うけど老朽化した線路のボルトが緩んで4両編成の最後尾の車輛が脱輪したけど、幸い駅の近くで減速していたんで怪我人はなかった、というあのニュースだ。 それがなんだというわけでもない。 なにかを思ったわけでもない。 いつもどおりおれはあの高架の下を歩いた。 うちのチームが練習試合を行う相手の学校へ行くのには、ここから東へちょっと行った場所の駅で電車に乗り、この高架の上の線路を通っていく。 で、おれは鞄からサインペンを取り出し、小さな字で、
○○野球部 みんな死ね
と走り書きした。 溜飲が下がったような気がした。それでなにかが起こるわけでもないから特になんとも思わなかった。 ようするにそれだけの話だ。
それから翌日だったか翌々日だったか。 いつもどおりあの高架のところを通りかかった。 そしたら滅多にひととすれ違うことのないあの場所で、暗がりに人が立っていた。 同年ぐらいの女のようだった。 そいつは、おれが落書きしたあの場所で、どういうつもりか、壁に手を当てていた。 制服からして違う学校だとすぐにわかったが、自分の書いたつまんねぇ落書きを読まれてるのかもしれないと思うと恥ずかしさもあって、どこを見ているのかをそれとなく確かめるために、声をかけてみた。 なぜかその女子生徒はおれの落書きを隠すように、壁に手を当てていた。 話しかけてみたが、意味がわからない返事だけだった。 授業が終わって部活の練習もサボって学校を出たおれは、高架のところまできたところでふと今朝のことを思い出し、落書きだらけのトンネルの壁に視線を向けた。
みんな死ね
おれが書いた落書きは、変わらずそこにあった。 あらためて見ると、情けないぐらい小さな字だ。 それと、朝は気づかなかったが、おれの落書きのそばに、小心者のおれの字よりももっと小さな字で、
がんばれ
とだけ、書いてあった。 なんかわかんねぇけどなにかをわかったような気がした。それがなんなのかわからない。けど、なにかが見えたように思えた。 で、おれは、逃げた。 逃げた。 なんでかなんて、未だにわからない。
それからなにかが変わったのか、てか。 相変わらず野球部にも学校にも、おれのポジションはない。 たまにロッカーから靴やユニフォームやら道具やらが消えてて、部室の外の側溝で見つかる、そういうことばっかだ。 誰かに励まされたところで現実はなにも変わりゃしない。 そんなもんだ。 今じゃあの高架の壁に書かれていたおれの落書きも、市の清掃運動とかでほかの落書きと一緒に消されてもう見ることはない。 んで、おれはと言えば学校とかでつまんねぇことがあって、でその高架の下を通るときは、あの場所でもう立ち止まることもなく、 「…おまえもな」 とだけ呟いて、とおりすぎる。 あれ以来なにも変わってないのと同じように、おれは相変わらず同じ道を歩いている。 それだけの話だ。
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