夜が明け目を覚ますと日が高く昇っていた。
どうやら佳奈と小枝は既に起きたようだ。
俺は二人の姿を探して歩く。
すると程なくして見つかった。
「おはよう。今日は早いんだな」
「おはよう、敬介」
「…おはよう、お兄ちゃん」
佳奈はいつも通りの様子だ。
けれど小枝は昨日の話を思い出したのか元気のない表情だった。
そんな小枝に改めて意思確認をしなくてはならない。
「…小枝」
「な、何、お兄ちゃん?」
小枝は呼ばれてビクリと肩を震わす。
恐らくは別れを告げられると思って覚悟を決めたのだろう。
でも俺の言葉は離別を告げる言葉ではなく、確認の言葉だ。
「小枝、お前は俺たちと一緒に行きたいか?」
「え?」
やはり小枝は別れの覚悟をしていたらしい。
意外とでもいうように間を抜かす。
「どうなんだ?」
俺は再度確認を促した。それに対して小枝の返事はやはり判りきったものだった。
「―――…私、一緒に行きたい」
本心としてはまだ、ここに残ってほしいと思う。
それでもそれは俺の勝手な押し付けに過ぎない。
どうしたいのかを決めるのは俺ではなく小枝だから。
だから自分の意思を押し殺して小枝に最後通告だけを告げる。
「本当にそれでいいのか?安全の保証なんてどこにもないし、いつ死ぬかも判らないんだぞ? 本当に後悔しないか?」
「後悔なんてしないよ。お兄ちゃんは大切な家族だもん。家族と二度と逢えなくなるかもしれない代わりに手に入れた保障なんていらない。そんなものを選ぶくらいなら私はお兄ちゃんと一緒に居たいよ。…でも…駄目なのかな…?…迷惑になるのかな…?」
小枝も深く悩んでいた。
もちろん兄の言葉が真意だなんて思ったわけじゃない。
あれは私を思っての言葉だということくらい分かっていた。
でも、だからこそ悩んだ。
私が生死も保障されない死地に一緒に行くことはきっと兄を苦しめることになる。
(…お兄ちゃんを苦しませることはしたくない)
それでも気持ちを抑えられない。
(…本当は一緒に行きたい。…でも、それは私のわがままだよね…)
もし私が死んでしまうようなことがあったなら兄は自分を責めるだろう。
結局、自分は兄の言うようにここに残るべきなんだ。
(…それが一番いいんだ。そうすればお兄ちゃんを苦しませなくて済むはずだ)
…ちょっと悲しいけれど我慢しないといけない。
傷つくのは私だけでいい。
悲しいのは私だけでいい。
「私はここに残ろう」
兄想いな妹は一人、決意を口にした。
言葉にすると悲しみが雫になって溢れ出す。
(…今のうちに泣けるだけ泣いておこう…)
そうすればきっと、明日「さよなら」って言われても泣かなくて済む。
きっと涙なんて枯れてしまって出てこないから。
少女は人に付かないように独り頬を濡らした。
(…それなのに……覚悟してたのに…)
兄からの言葉は別れじゃなかった。
「お前は俺たちと一緒に行きたいか?」
小枝は覚悟で固めたはずの心に亀裂が生まれるのを感じた。
(…やめてよ…そんなこと訊かれたら、我慢できなくなるよ…)
理性で口を硬く閉ざそうとする。
絶対に口を開いちゃいけない。開いたら本音が出てしまうから。
しかし無理やりに固めた虚勢は殊の外に脆いもので、すぐに決壊してしまった。
「…私、一緒に行きたい」
一度言ってしまうともう抑制なんて効かない。
だから兄の最後の確認にも即答してしまった。
…これで私は兄を苦しめてしまうんだろう。
そう思った瞬間。
「迷惑なもんか! 俺だって一緒に連れて行きたかった! でも怖かったんだ!お前が死んでしまったらと考えたら怖くて堪らなかった! だからお前をここに残していくべきだと思ったんだ!」
俺は思いの丈をそのまま小枝にぶつけた。
虚勢も自分勝手な思いやりも全部捨てて吐露する。
「でも、それは俺の独りよがりな我が侭だった。俺、お前の気持ちを全然考えてなかった。…ゴメンな、お前の兄貴なのに自分勝手な奴で……」
何で私が謝られるのだろう?
謝るのは私のほうだ。我が侭なのは私だ。私が兄をこんなに苦しめたのに。
どうして兄は私に謝るんだろう?
謝らないといけないのは私なのに…。
「お兄ちゃんは謝らなくていいよ。お兄ちゃんは私のことを思ってくれてた。それが私はとても嬉しい。むしろ我が侭だったのも、謝るのも私のほうだよ。ゴメンね。私のせいで、いっぱいお兄ちゃんを苦しめて。…本当にごめんなさい」
「小枝!」
俺は小枝の体を抱きしめた。
(本当に俺は馬鹿だ! 自分勝手な考えだけで小枝を悲しませることをしてしまった)
俺は何回、過ちを犯せば気が済むのか?
自己嫌悪を感じずにはいられない。
覚悟を決めよう。
この先、何が起こるか分からない。でも、
「小枝、もうお前を離さない! 親父たちの替わりに俺がお前を護るから!」
「…ック…ヒック…お兄ちゃん…!」
抱きしめた腕に更に力を籠めた。
もう二度と離れないように。
痛いくらいに抱きしめられた。
力強さに優しさが籠っていることが伝わってくる。
涙が溢れた。
昨日、あれだけ泣いたのに。
涙はもう枯れたはずなのに。
止まることなく涙は溢れ続けた。
「…ック…ヒック…お兄ちゃん…!」
私を想ってくれる兄の胸にしがみついて私は泣いた。
私の涙で兄の服がみるみる濡れていく。
それでも私は泣き続けて、兄はそんな私をもっと強く抱きしめてくれた。
それがとても嬉しかった。
悲しくなるくらいに、私は幸せだった。
今日、俺たちはこの村を出る。
だけどその前に俺は一之瀬に会いに行くことにした。
あの人にはいろいろと世話になった。
だからここを発つ前に一言お礼を言いたいと思った。
向かう途中に大きな地震があったけれど、倒れそうな物は周りにはなかった。
一度足を止めはしたけれど、しばらくして収まったから怪我はない。
そしてこの村に来てから何度か訪れた場所にたどり着く。
そこに彼はいつもと同じように立っていた。
いつものように家族に黙祷を捧げているのだろう。
「よぉ、オッサン」
「お前らか…。今日はどうした?」
呼ばれたことで俺に気付いて振り返った一之瀬の態度は相変わらずだ。
「今日、村を出ることにしたから、挨拶くらいはしておこうと思って。アンタには世話になったからな」
「…そうか。今日発つのか」
少し遠い目をしている彼は雰囲気に少しの寂寥を漂わせている。
「ああ。それでアンタには礼を言っておきたかったから」
「礼なんて要らねぇよ。俺は何もしてねぇしな。そんなことよりもお前らアテはあるのか?」
知り合ってまだ数日しか経ってないけど、飾らない態度も実にこの人らしいと思う。
「いや。アテはない。でもここに居ることはできないと思うから。だって俺たちはそう思って自分たちの町を出たんだから」
「…そうか」
彼は止めようとするでもなく静かに頷いた。
「ああ、だから行くよ。…ありがとう、オッサン」
立ち去ろうとする俺に、
「元気でな。お前らの無事を祈ってるぜ」
今も背中を向けたままのオッサン。
俺はその後姿にもう一度口には出さずに礼を言った。
川崎たちは今、体育館を捨てて隣町を歩いている。
川崎家の構成は父親と母親、そして弟が一人の四人家族だ。
弟の雅樹は今年6歳になる。
来年入学するはずだった小学校は既にコンクリート片の山になっている。
空腹とはいえ、やはりそれなりに腕白な子供だった。
死んでしまった町を家族で歩いていると雅樹が何かに興味を惹かれたのか一人で駆けていった。
「おい、雅樹! そんなところに入ったら危ないからやめろ!」
「そうよ、戻ってらっしゃい!」
栄一と母親の美紀子の視線の先にあるのは雅樹の後姿、そして倒壊を免れたビル。
雅樹はそんな親の注意など聞く耳持たず、そのまま廃墟の中へと消えていった。
それを川崎と栄一、そして美紀子が追いかけた。
一階はオフィスだったらしく今はもう使えないパソコンやプリンタにシュレッダーなどが置かれていた。
しかし、そこに探す姿はない。
二階に上がると雅樹が何もない部屋の中で飛び跳ねて遊んでいた。
その心中は秘密基地を見つけたような気持ちなのだろう。
「…まったく…こんな所に居たのか…。ほら、こっちへ来い」
家族揃ってホッと息を撫で下ろす。
けれど、それも一瞬のことだった。
『ッ!』
相変わらず跳ねている雅樹の足元の床がミシミシと軋む音を上げた。
その音に今度は全身から血の気が引いていくのを感じる一同。
それでも当人だけは相変わらずご満悦の様子だ。
「雅樹! 危ないからこっちへ来い!」
栄一は怒鳴って呼び寄せようとする。
けれど雅樹は怒られると思ったのかビクリと肩を震わせて後ずさってしまった。
その時だった。
大きな地震が起きた。
その振動で雅樹は体勢を崩して転んだ。
その負荷にとうとう耐え切れなくなった床が雅樹の足元から崩れて、雅樹はぽっかりと開いた穴の中に落ちていった。
地震は数分もせず収まった。
急いで川崎たちは一階に向かった。
「…ッ!」
「くそッ! 嘘だろ?」
「…嫌……嫌ぁ……」
そこで見たものは赤い水溜りに沈んだ幼い男の子の姿。
直視できずに思わず目を逸らす川崎。
やり場のない感情を吐き捨てる栄一。
顔を隠してその場に蹲った美紀子。
その先にあるのは見紛うこともない雅樹の姿だった。
しかし明らかに違っているのは陥没してしまっている頭蓋と折れた首だった。
その他にも傷はあるけれど、目立ったのはその二箇所だ。
恐らくは即死だったのだろう。
さっきまで元気に跳ねていた体はピクリとさえ動かなかった。
「…クッ!」
最初に金縛りから解けたのは栄一だった。
ぎこちなさが残る体を理性で動かして雅樹だった体を持ち上げる。
まだその体には暖かさが残っていたけれど、だんだん冷たくなっていくのが皮膚を通して伝わってくる。
泣きたくなるけれど、一家の主としてここで泣くわけにはいかない。だから、
「こんな所に置いていったら可哀想だ。どこか他の場所に埋めてやらないと」
苦虫を噛み潰したような表情で辛そうに、しかしあくまで冷静に栄一。
当然だ。自分の最愛の息子が一人、目の前で死んだのだから。
「嫌よ! そんなのは嫌ッ! 雅樹はまだ生きてる! 生きてるのよ!」
美紀子は栄一から引っ手繰るように雅樹を奪った。
彼女は息子の死を目の前にして壊れてしまっていた。
そして階段を駆け上がっていく。
「美紀子! どこへ行く! 雅樹はもう死んでしまったんだ! 現実を見ろ!」
栄一はその後を追いかけようとして一度足を止めた。そして、
「信吾! お前は外で待っててくれ!」
そう言い残して栄一は美紀子を追い、階段を駆け上がった。
川崎は栄一に言われたとおりにビルから出る。
そして後ろを振り返った。
(…何だ? この感じは?)
川崎はさっきと変わらないはずのビルを見て、何か異様な胸騒ぎを感じた
それから数分後。
ビルは音を立てて崩れ去った。
中にいる家族をそのまま残して。
栄一は三階の奥で蹲っている美紀子に声を掛ける。
「…美紀子」
「…嫌…何も言わないで……」
「美紀子、辛いかもしれないがこれは現実だ。受け入れないといけないんだ」
栄一は自身さえも引き裂かれるような思いだった。
「…嫌…嘘よ……雅樹が死んだなんて嘘よ……」
美紀子は体温を失った息子を抱きしめる。
「いい加減にしないか!」
「…ッ!」
三度怒鳴った栄一の声に竦みあがった美紀子は手の中に納まっている体を見る。
そしてようやく現実を受け止めた。
「…あ、あぁ…雅樹が……雅樹が……」
「…すまない。俺が護ってやれなかったばかりに……」
栄一は自嘲しながら美紀子と雅樹に謝罪した。
「…さぁ、こっちへ来い。…外で信吾も待ってる」
「…ええ…今、そっちへ……」
と美紀子が立ち上がろうとした瞬間。
ビルはひしゃげて崩れ落ちた。
断末魔さえ上げる暇はなかった。
本当にそれは、ほんの数秒の出来事だった。
「親父―ッ! おふくろーッ!」
崩れ落ちたビルを前に川崎は叫んだ。
瓦礫を必死の思いで漁る。
「くそッ! くそッ!」
いくらどけても瓦礫ばかりで他には何も出てこない。
焦りと不安が胸を締め付けて、まともに息さえできない。
それでも撤去し続けて見つけた。
家族の変わり果ててボロボロになった死体を。
「やめろよ! 俺を一人にするなよ、おい!」
嘆いても嘆いても耳に届くのは自分の声だけだった。
返事をしてくれる訳もなく、ただひたすらに静寂に還った世界に川崎の嘆きだけが木霊する。
「…新山」
ふと浮かんだのは親友の顔だった。
「…俺、今やっとお前の気持ちが分かっちまったよ……」
今はどこか遠くにいる親友に話しかける。
「…お前はこんなに辛い思いをしてたんだな…」
やはり返事はない。
「…俺、勝手なこと言ってゴメンな……」
人気のない町には川崎の声だけが響き渡っていた。
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