俺たちの住む町も世界規模に至る災害の影響を多大に受けていた。 この町も昔は県内屈指の大都市として栄えていたらしい。 しかし今や既にもうそんな様子は見る影もない。 そこにあるのは地盤沈下で倒れたビルの残骸。 罅割れたアスファルト。 壊れた機械。 そのどれもが当時の名残など残してはいない。 数ヵ月後には成人を迎える少年は近隣地区の避難場所(かつては中学校の体育館だった場所)の片隅で蹲っていた。 少年は今、亡き家族のこと、亡き親友を偲んで泣いている。 少年は見てしまった。 目の前で両親が生き埋めになる瞬間を。 自分と妹を助けるために死んでしまった両親を。 少年は初めて知った。 失って初めて分かる尊いものがあることを。 「この世には神様なんていない」 大切な人が言っていた言葉の意味を。
(…俺は何の為に生きているのだろうか…?) そんなことを思ったのは俺がまだ高校に通っていた頃の話だ。 俺は校内の中庭でいつものように煙草を咥えている。 ちなみに今は数学の授業をボイコットしてきたところだ。 「あのクソ先公、寝てたらいきなり頭ぶってきやがって!」 ボイコットした理由は寝ていた俺をいきなり担当教師が教科書で叩いたからだ。 鬱憤を晴らすように足元の石を蹴飛ばす。 けれど石は遠くに飛ぶでもなく、近くにあった花壇の中に消えていった。 (大体、数学なんて何の役に立つってんだ? 公式やら何やらなんて社会に出ても使わないってのに。他の授業もそうだ。社会に出て役に立たないことなんて何の意味があるんだってんだ!) こんな疑問に憂鬱さを覚えるのもいつものことだ。
そして最後には『どうしてこんな学校に入ってしまったんだ』という後悔に行き着くのだ。 (そもそも何で勉強なんてしないといけないんだ? そんなことしなくても生きていけるだろうに) 一人、愚痴を零しながら煙をふかす。 とそこへ突然、怒声が聞こえた。 「おいお前、授業中だろう! こんな所で何をしている!」 声を張り上げているのは生徒指導の山下だ。 俺たちの学年の学年主任もしているこの教師は五月蝿くてウザったい奴の一人だった。 「……」 「黙ってないで何とか言ったらどうだ! まったく煙草なんて吸いやがって!」 俺は聞き慣れた説教を聞き流す。 でも説教というものは聞いているだけでイライラとしてくるものだ。 そしてとうとう苛立つ気分に耐えられなくなって立ち上がる。 「おい待て! どこに行く?」 「俺、これからやることがあるんで失礼させていただきます」 山下の静止を促す声に棘をたっぷり含ませた生返事を返してその場を撤退しようとする。 「嘘を吐くな! そうやって他でサボる気だろう!」 しかし山下に肩を掴まれて無理やり足を止めさせられた。 「ッ! 何すんだよ!」 「来い! 生徒指導室で特別指導だ!」 結局、次の授業の予鈴が鳴る前まで説教された。 「分かったか! もうボイコットなんてするんじゃないぞ! お前はもう常習犯なんだからな、これ以上やらかしたら留年にするぞ!」 「ハイハイ、分かりましたよ」 「ったく! お前みたいな奴は将来ロクなものにならないだろうな」 もちろん山下の罵倒は聞き流した。 この指導も大方は聞き流していたから何を言っていたのか憶えていない。 強いて憶えていることといえば顔を真っ赤にして怒鳴っていて今にも高血圧で卒倒しそうだったということくらいだった。 (学校に通っている意味なんてあるんだろうか? ウザったいだけだからもう辞めてしまいたい) 元々、高校は出ないといけないという社会通念とでも言うべきモノに脅迫されて入ったようなものだ。 意味がないと思ってしまうとやる気も出ない。 それどころか嫌いになる一方だった。 (将来だってどうにでもなるさ。適当な仕事について生きていられれば俺はそれでいいんだ)
放課後になり、机にうつ伏せていた体を伸ばす。 俺は空っぽの鞄を手に席を立ち、クラスの男子生徒に声を掛ける。 「おーい川崎!」 「ん? どうした新山?」 名前を呼ばれて振り返ったのは昔からの悪友である川崎信吾だ。 こいつとは小学校からの腐れ縁で、どういう因果か今もそれは続いている。 「放課後だし、ゲーセンにでも行こうぜ!」 「ゲーセンか…。よしいいぜ。放課後も予定なくて暇だったし」 「なら決定だな」 ほんの三言で決まった放課後の予定通りに俺たちはゲームセンターに向かう。
その途中で俺は決意したことを川崎に話すことにした。 唐突に神妙な面持ちになった俺に相手は怪訝そうな表情だ。 「…川崎」 「ん?どうしたんだよ? 変な顔して」 「俺、学校辞めるわ」 「は? いきなりどうしたんだよ? 今日の授業の事でも根に持ってるのか?」 突然の俺の激白に川崎は素っ頓狂な声を上げた。 「それもあるけど、なんか最近になって思うんだ」 「何を?」 「何で俺は高校に入ったのかって。でも理由なんて思いつかなかったし、何より思ってたほど良いモノでもなかった」 「それで辞めるのか。でも辞めてからどうするんだよ? 就職でもするのか?」 川崎は俺の身を案じて心配そうにしている。 こいつは昔から軽薄そうに見えて実際は本当に友達想いな奴なのだ。 「取り敢えずはそうするつもりだ。でもまだ具体的にどうしたいつてのは決まってない」 「…そうか。…まぁお前が決めたことに俺が何か言う気はないけどよ。っていうか止めても無駄だろうしな。お前は昔から人の言うことなんて聞かない奴だったし」 長年の付き合いで川崎は俺の事をそのように評価しているらしい。 流石に付き合いが長いためか俺の事をよく分かっている。 「なら頑張れよ!」 だから気心の知れた幼馴染はそれ以上引き止めるでもなく代わりに激励してくれた。 1ヵ月後。 俺は親に断ることなく学校に退学届けを提出した。
数日が経ったある日、両親は学校に行かなくなった俺を不審に思って突然に問いかけてきた。 「…敬介、話がある」 「は? 何だよ?」 家にいる事が嫌で出かけようとしていた所を親父に呼び止められた。 「いいから来い!」 俺は無視して玄関の戸を開けようとしたけど、腕を力任せに引っ張られて居間まで連れてこられた。 そこには黙ったまま俺を見据えるように椅子に座っている母親の姿もあった。 俺は不満を声に籠めて問い返す。 「何だよ、話って? どうでもいい事ならさっさと済ませてくれよ。俺はやることがあるんだ」 「敬介、お前、学校はどうした?」 (何だ…。そんなことか) 俺は用件に落胆に似た気持ちを覚える。 「学校…? …ああ、辞めた」 「辞めただと? お前、親にも相談せずに勝手に決めたのか!」 「関係無いだろ! 俺の人生は俺が決める!」 俺の返事に親父が怒りをあらわにした声で怒鳴った。母さんは親父とは対照的に涙を拭っている。 「ふざけるな! 関係無いだと? 俺たちがどれだけお前の事を想っているのか知ってるのか!」 「そんなの知るかよ! 俺は俺のやりたいようにしたいんだ!」 その俺の言葉に返ってきたのは平手だった。 緊迫していた空気の中に頬を叩く音が甲高く響き渡る。 「ッ! …何すんだよッ!」 「馬鹿な息子を殴って何が悪い! 俺はお前をそんなふうに育てた覚えは無いぞ!」 「ハッ! 知るかよそんなの! 俺は俺のやりたいようにして育ったんだ! 俺こそアンタの思い通りになんてなった覚えはねぇよ!」 「クッ! お前のことなどもう知らん! 勝手にしろ!」 「ああ、勝手にするさ!」 俺は親父に啖呵を切って家を飛び出した。 その日は朝まで街を憂さ晴らしの為に目的もなく彷徨うように歩いた。 それから数ヶ月。 仕事を探したけれど高校中退という経歴も影響してなかなか採用されなかった。だからしばらくはバイトをする事にした。 そして半年後に現在の仕事に就いたという訳だ。
それから2年後。 現在(いま)から遡ること3時間ほど前のことだった。 朝焼けの中、彼は眠っている体を大きく揺さぶられて目を覚ました。 ここ数年に亘り地震などは日常茶飯事だったから咄嗟に目を覚ますことは出来なかったが未だ寝ぼけて覚束ない頭と体でいつも以上に大きな揺れを感じていた。 窓の外から聞こえるのはけたたましいサイレンの音だ。 その音を聞きながら寝起きの余韻に浸っているとドアを蹴破るかの様な勢いで入ってきた父親が怒鳴るように言う。 「起きろ敬介!」 「何だよ、クソ親父! 寝起きなんだから静かにしろっての!」 親との角質は今なお続いている。 今この部屋に親父が入ってきたのも数年ぶりのことだ。 「何だじゃない早く支度しろ! 避難警報が出てるんだ!」 「避難警報ってそんなに今回は凄いのか?」 「そうだ! わかったらさっさと支度して家から出ろ! 俺は小枝(さえ)を起こしに行ってる母さんの様子を見てくる」 「わかった!」
昨日までは平凡な日だった。 仕事が終わって自宅に帰宅した俺は夕飯もロクに食べずにベッドに突っ伏してそのまま眠った。 夜中に目を覚ますとシャワーを浴びる。 下着だけを替えて空腹感から台所を漁り夕飯の残り物を食べてまた寝る。 仕事が休みの日には街へと遊びに行ってみたり家でダラダラと過ごす。 そんな自堕落な生活が俺の当たり前な日常だった。 当たり前だからこそ生きることに何の疑問も持たず、目的もなく生きていた。 『将来どうなりたい』とか『どういう事をしたい』とかは考えたこともなくて、正直なところ遠い未来の話だと思っていた。
俺は昨日から洋服を着たままだったから、そのままの姿で階段を降りた。 小枝の部屋は俺の部屋と同じく2階にある。 しかし一向に両親が降りてくる様子は無い。 揺れも時間を増すごとに強くなり家自体が撓みそうなほどだ。 俺は心配になり、両親と妹の居る2階へと戻る。 辿り着いた先では両親が妹の為にストールを用意していた。 風邪気味だった小枝はこんな時に限って熱を出したらしい。 しかしここに留まっているわけにもいかないので、それを妹の肩に掛けた状態で父親が背に負ぶった。 階段を降りて1階に辿り着いたその時。 限界を迎えた柱がミシミシと音を立てて折れた。 それに伴い降ってきた天井に母さんは下敷きになった。 「瑞江ッ!」 親父は振り返って母さんの名前を呼んだ。 「…あ、貴方……」 返ってきた返事はあまりに弱弱しくて今にも消え入りそうな声が響いた。 「敬介、小枝を頼む!俺は母さんを助けてから行く!」 「あぁ! 無事で居ろよ、親父!」 結局、親父と話したのはこれが最後だった。 …「お前たちは生きてくれ」と言う声が聞こえたのは気のせいだったのだろうか。 駆け出して数秒。 背中に何かが崩れる大きな音がして振り返ると昨日まで暮らしていた場所には見慣れない瓦礫の山。 「親父ッ! 母さんッ!」 俺の叫びは人通りの無い住宅街に響き渡った。 しかし返事はない。 それで親父たちはもう助からないと直感してしまった。
小枝を背に抱えた俺は避難場所に指定されていた中学校の体育館に辿り着いた。 これ以上ないくらいに息を切らして口から込み上げそうになるものを懸命に飲み込む。 ここまで来る途中で見た光景は知っているはずのモノではなかった。 住宅街であった場所はコンクリートの破片や木片に砕けた瓦がそこら中に散乱し道路を埋め尽くしている。 その道々では周辺の民家だったモノの跡地から「助けてくれ…」などの声が聞こえた。 それをあえて無視して走る。 人一人でどうにかできるモノではない物量に下半身を押し潰され、血まみれの体で助けを求める姿は医学の知識の無い俺から見ても既に手遅れだったから。 脳裏にまで染み付きそうな声を必死の想いで振り払って全力でその場を走り去った。 息を整えると今度は友人や知人の姿を探す。 これ以上知っている人たちの犠牲を知りたくない。 でも確かめずにはいられなかった。 俺には恋人がいる。 高校を退学して間もない頃に知り合った一つ年下の彼女である。 ふらつく足取りで彼女を探す。 すると思ったよりも早く目的の人物は見つかった。 「…良かった。無事だったんだな、佳奈」 「…敬介? 敬介……ッ!」 彼女は俺の名前を呼び返し縋り付いて泣きだした。 名前は鳴瀬佳奈。 彼女と知り合ったのは高校を辞めてから働いていたバイトの職場でのことだ。 彼女とは一緒の時間にシフトが入ることが多かった。 最初は仲が悪かったけれど次第に意気投合。 結果的に付き合うことになった俺の彼女だ。 昔、両親を亡くして、今は叔父の家に住んでるんだ 普段は明朗な性格のはずの彼女がこんな風に泣くのは初めてのことだった。 「…佳奈…―――」 後に続けようとした言葉を飲み込む。 安易に出来てしまった想像は恐らく当たっているだろう。 俺に掛けられる言葉などない。 その事実を俺自身が数十分前に身を以って知っているからだ。 俺は苦しそうにしている小枝を背負いながら胸を貸した。 佳奈が泣き止んでから数分が経ち、俺は昔からつるんでいた親友を見つけて声を掛けた。 「おい、川崎!」 「あぁ、新山か…。お前は無事だったんだな…」 昔から煩いくらいの元気が取り柄だった川崎の声は沈んでいた。 まったく彼らしくない声のトーンだ。 「どうしたんだよ? お前らしくも無い返事して」 川崎家とは家族ぐるみで知り合いだ。 俺はさっき顔見知りの川崎の両親がここにいるのを見たので配慮もなく訊いた。 しかし返ってきた答えに訊くのではなかったと心の底から後悔した。 「飯田が死んだ…」 「……は? …死んだって…あいつが…?」 一瞬、耳を疑った。飯田は川崎と同じく幼馴染であり親友だった。 昔はよく悪戯をして回っていたから、三人して近所の悪ガキと言われていた。 中学以降は三人とも別の学校に通っていたけど休みの日には集まって馬鹿騒ぎをした。 その親友が死んだと言う衝撃を簡単には受け入れられなかった。 「…俺だって信じられないさ。それでもここにいた人が地割れに巻き込まれて飲み込まれていくあいつを見たって…」 家族だけではなく友人までも失ったショックで俺は眩暈がして倒れそうになる。 けれど倒れるわけにはいかないので必死に支える。 十分に考えられることなのに考えから意識的に遠ざけていた現実が目の前にあった。 「…どうしてこんなことに……」 「………」 この場にいる誰もが口を開けずに静かな慟哭と小枝の荒い息遣いだけが響いた…。
俺は川崎たちに手伝ってもらい倉庫からマットを引きずり出して小枝をその上に寝かせた。 校舎に行けば保健室にベッドは有るけれど、いつ崩れるか分からない状態だ。だから やむなくマットに寝かせるしかなかった。 ようやく気持ちが落ち着いてきたけど、それと同時に込み上げてくる思い。 …それは強い後悔と深い悲しみだった。 (…もっと親孝行しておけば良かったな……) いつまでも平穏な日が続くと思っていた。 それが俺の当たり前の日常なんだと昨日までは思っていた。 だから両親に反発して、正直『両親なんて居なくなってしまえ』とまで思っていたのに居なくなるとこんなに悲しいなんて…。 なくなって始めて大切さに気付いた自分の愚かさを思い知って後悔した。 …もう戻ってこないことを知りながら。 …いや知っているからこそ。 (…こいつにはなんて説明しよう……) 小枝の顔を見ながら思う。 もう少ししたら目を覚ますだろう。 しかし妹にこんな事実を教えるのは辛かった。 こいつは俺と違って両親想いな奴だったから両親の死を知ったら俺以上に悲しむだろう。 もしかしたら立ち直れないくらいに傷つくかもしれない。 しかし小枝も本来なら今年の春から中学生になるのだ。 嘘をついて騙せるほど幼くも無かった。 どうすれば良いのかと思考のループに苛まれていると当人が目を覚ました。 俺は努めて明るく振舞おうとする。 …だけど…。 「ケホ、ケホッ! …お兄ちゃん…お父さんとお母さんは…?」 妹の一言で息が詰まった。 何も知らない妹。 まだ幸せの日々の中に居るべき妹の姿を見て堪らなくなった。 「…親父も母さんも……もう…いない…」 「……え…それってどういう…?」 「………」 もうこれ以上は言葉にできなかった。 できなかったけど、小枝には事実が伝わってしまったらしい。 熱で火照っていたはずの顔を蒼白にしていた。 「…嘘……。…嘘…だよね…?」 「…済まない」 俺がやっとの思いでそう答えると小枝はプツリと糸の切れた人形のように倒れこんで泣き喚いた。 その様子が見ていられなくなって俺は体育館を飛び出した。
「畜生…ッ!」 誰にとも言えない憤りで俺は体育館の壁を殴る。 殴った手の甲に切り傷が出来てジンと痛んだ。 そのまま立ち尽くしていると突然肩に手を掛けられた。 「…止めなよ。そんな事したって、もう……」 振り返ると佳奈がいた。 伏し目がちに見たせいで顔は見えない。 「…放っておいてくれ……」 つい投げやりに言ってしまう。 俺は半ば自暴自棄に陥っていた。 するとパンッという音がして頬が叩かれたことを知った。 「……ッテェな! 何すんだよ!」 「アンタがそんなんでどうするのよ! 悲しいのは敬介だけじゃないのよ…!!!」 …佳奈は泣いていた。 俺はさっきも同じような光景を目にしたのに何をしているのか。 …佳奈の言うとおりだ。 俺が一人でこんな事をしていても取り返しなんてつかない。 そのうえ余計に小枝を悲しませるだけだ。 …つくづく自己嫌悪する。 「…悪い、当たっちまった……」 「…うん」 しばしの沈黙。
不意にそれを佳奈が破る。 「…この世界に神様なんていないんだよ」 神様なんていない。 それは付き合う前から何度か佳奈の口から聞いた言葉だ。 口癖のようにいつも言っていた。 今なお、解けない氷は残っている。 「だからあたしたちは自分で道を切り開くんだと思う」 「………」 「だから前を向いて歩かないとといけない。立ち止まったら、そこで終わってしまうから……」 「…そうかもしれないな」
朝になると食料と水が配給された。 今この場にある食料は学校にある僅かな非常食だけだ。 水も貯水槽に貯まっている分だけだ。 既にいつ底をついてもおかしくない状態だった。 その中で一日の食料として一人当たりに配布されたのは乾パン5枚と100ミリリットルの水だけだ。 俺は自分の分の食料を小枝に譲った。 健康な自分はいいとして体調の悪い小枝には少しでも栄養が必要だと思ったからだ。 「…そんな。駄目だよ。お兄ちゃん…ケホッ、ケホッ」 「そんなに咳してるのに気を遣うな! さっさと治すことだけに専念しろ!」 まだ遠慮がちにしているようだったが、それでも俺の強引さに根負けしたのか小枝は言うことを聞いた。 その様子を見ていた佳奈と川崎が近づいてきた。そして…。 「看病してるお前も体調崩したら本末転倒だろ?」 「そうよ。敬介もちゃんと栄養摂らなきゃ駄目よ」 そう言って乾パンを分けてくれた。 非常時での二人の厚意はとても嬉しかった。 乾パン二枚を小枝に食べさせて薬を飲ませる。 その後は何もやることが無かったから雑談会になり他愛もないことを話し合った。 更に数日が経ったけれど状況は悪化するだけだった。 今も小枝の具合も一向によくなる様子はない。 それどころか薬、食料、水のどれもが尽きかけていた。 数百人は居るはずの体育館内には全く生気がない。 まるで生きている人なんて存在しないかのように。 そこに居るのは餓えと乾きに苦しむ人。 栄養失調で体調を崩した人たちばかりだった。 配給されるものは日に日に量が少なくなり、保存されていたものも今やここに来たときの半分以下の量しかない。 そんな中には自分の分だけではなく他人の物を奪う人。 この状態に耐えかねてここを去っていった家族。 酷い場合はノイローゼ状態から自殺しようとする人もいた。 でもそれを止めようとする人も居なかった…。 「酷いことになってきたな…」 俺が言うとそれまで黙り込んでいた川崎が口を開いた。 「歴史の授業中にこんな時代の話が出てきたな…。石川のジジイのオカルト話が本当の事になるとは思わなかったぜ…」 俺たち三人はこの中学校の卒業生だ。 石川とはここで歴史の担当をしていた当時四十歳後半の教師だ。 雑談の多い教師で当時はよく要らない豆知識を聞かされたものだ。 ここに居ないということは転勤したか、 あるいはもうこの世に居ないかのどちらかだった。 「そういえば、あたしたちのクラスでもそんなこと言ってたわ…」 俺たちは揃って肩を落とした。 「あたしたち、これからどうなるんだろう…」 佳奈の口から零れた不安。 その不安を取り除く都合のいい言葉は今ここで口にしても全く効果があるとは思えなかった。 それくらいに事態は深刻だった。 「親父が死んだときに俺に言ったんだ。『お前たちだけでも生きろ』って。だから俺は生きていたい」 二人は同意して頷く。 「でもやっぱり今の状況は間違ってる。人を犠牲にする生き方は違うと思う。でもここにいたら、そういう生き方しか出来なくなるかもしれないし、最後には助からないと思う。だから俺はここを出ようと思う」 それに対して、今度はさっきとは打って変わって二人して驚く。 「ちょっと待って! 本気なの?そうやって出て行った人もいるみたいだけど、外はここ以上に危ないのよ! ここはまだ地盤が安定してるから大丈夫かもしれないけど、他のところはそうでもないし、大体食べ物だって今より無いかもしれないじゃない!」 「確かにそうかもしれないけど、もしかしたらそうじゃないかもしれないだろ? ここに居ても何も変わらないんだ。だったら変わる可能性を探したい。それにここに居たら、きっと小枝も死ぬしかなくなると思う。だけど親不幸だった俺にできる最後の親孝行が俺と小枝を生きることだと思うんだ」 「そう…。でもあたしは敬介と別れるなんて嫌! 敬介が行くならあたしも行くわ」 「俺は両親が居るからここに残る。置いていくわけにもいかないからな。でも俺は俺なりに足掻いてやる!」 俺たちはこれからの自分たちの生き方をここで決めた。 一日でも長く生きていくために…。
俺たちは話し合いの末に明日にでも出ることに決めた。 だから長年の親友との時間を少しでも長く過ごしたくなって夜中になっても話をした。こうして夜更かしをして馬鹿な話で盛り上がるのは修学旅行のときに似ていて、とても楽しい。 楽しすぎて後ろ髪を引かれそうになる感覚を覚えた。 でももう決意したことを今更やめようとは思わなかった。 だからその想いを振り払う。 話していると眠くなってきて気がついたときには眠っていた。
今日は珍しく夢を見た。 俺は普段はあまり夢を見ない体質だった。 見ていた夢は高校を中退した時の出来事だった。 あの時は親父と随分と揉めたものだ。 折角、中学の頃から素行の悪かった俺が高校に入れたのに1年半で辞めると言い出したからだ。 「お前という奴は何て親不孝な奴だ! そこまで親を悲しませたいのか!」 「うるせぇクソ親父! 俺の人生だ俺のことは俺が決める!」 そう言って親父に言ったら本気で引っ叩かれたな。 「子供が偉そうなことを言うんじゃない! そんなことしてお前はこれからどうするつもりなんだ! 本当に考えているのか!」 「そんなのはなるようになる! これから仕事に就けばいいんだろ!」 「お前はどこまで捻くれてるんだ! もう知らん、勝手にしろ!」 (今にして思うと親父の言っていたことが正しくて俺はガキだったな) 思った瞬間、夢の中の景色が変わった。 思い出したくない光景。 両親を一瞬で失ったあの日の出来事だった。 夢なんて思い通りにはならないことは知っている。 それでもこの地獄だけはもう2度と見たくは無かった。 と、そこへどこからともない声が届く。 誰かに呼ばれていると分かって目を覚ました。 「大丈夫、敬介?」 「あれ…? ここは…」 目の前に見えるのは高い天井。 そして佳奈と川崎の顔だった。 「お前、魘されてたぞ」 「ああ、悪い。嫌な夢を見てたんだ」 「大丈夫なら良いけどよ」 グッと体を伸ばしてみるが汗で服が肌に張り付く不快感こそあるだけでは体調は良かった。
とうとう今日、俺たちはこの場所を発つ。 校門の前まで川崎が見送りに来た。 「…行くんだな」 「…ああ、元気でな」 話したいことは昨日のうちに話してしまっていて残っているのは挨拶だけだ。 昔から割とアッサリとした関係だったから今回もそんなに未練を残すようなことも無い。 もしかしたらこれが今生の別れになるかもしれないけれど、その考えは頭から無理やり引き剥がして言う。 「絶対に死ぬなよ。またこの4人で逢うんだからな」 4人とは当然俺と佳奈、川崎と背に負ぶっている小枝のことだ。 「お前こそ、ちゃんと彼女を支えてやれよ!」 川崎はわざとおどけて軽口を叩いた。 「さよなら」は言わない。 俺たちは絶対にまた逢える。 そう信じて校門を後にして歩き出した。 まだ見ぬ明日に向かって…。
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