もはや謝罪の声は自分の耳にも届かない。
そして川崎は横に崩れ落ちるようにして永遠の眠りに就いた。
彼の目から一滴の涙の雫が頬を伝い、地面を僅かに濡らした。
「おい、マジかよ…」
「…ウソ…こんなことって……」
俺たちが見たもの。
そこは漁村だった。
でもそれは昔の話。
今は巨大な水溜りに沈められた箱庭。
外気にさらされているのは一際高い建物の屋根の天辺くらいなものだ。
町は海に沈んでいた。
「…何だよ、これ……」
常軌を逸した海底都市。
こんな非常識は漫画ですら見たことがない。
故意に誰かが海底に町を作ったなら国宝にでもなったかもしれない。
けれど、これは自然災害が作り出したおぞましい芸術に過ぎない。
こんなものを愛でることなどできるはずもなかった。
喉もとまで上がってきた胃液を飲み込む。
そして現実から逃れるようにして俺たちはその場を立ち去った。
空腹感さえ忘れさせられるような、
あるいは空腹が助力してか吐き気を抑えきれなくなりそうだったから。
「まさか…町があんなことになるなんて……」
「あたし…悪い夢でも見てたような気がする」
どうやら佳奈も同じ事を感じたらしい。
「逃げ遅れた人がいなければいいんだけど……」
「…そうだな」
逃げ遅れた人がいたとしたら今頃は海の藻屑か、魚の餌か…・・・。
いずれにせよゾッとしない。
そんなことはあってはならないことだ。
しかし俺たちも人の心配ばかりしていられる立場でもない。
これ以上飲まず食わずが続いたら栄養失調でいつかは動けなくなる。
無事な町を探して彷徨う。
知らない風景を頼るものなく歩き続ける。
今までもそうしてきたはずなのに、今まで以上に不安だった。
1時間歩いても2時間歩いても町は見つからない。
見えるものはいつまで経っても車道と脇の山に生えた木々。
そしてどこから流されてきたのか、海に浮かぶ海の家の看板や木片。
……ただそれだけ。
それから数日間。
夜通しで無事な町を探して歩いた。
体は中に鉛を詰め込まれたような異様な重さ。
今にも倒れてしまいそうな体。
立ち止まったら、もう歩けない気がした。
体力がなくなりかけた頃、
「…何だあれは?」
「…わからない。けど、なんでだろう? …懐かしい気持ちになる」
夜明けが近づいた頃、とても幻想的な景色を見つけた。
天上に広がる無数の光の粒。
儚くも力強く、
それぞれが自身の存在を主張しあっている、
無数の輝き。
その輝きを、
動かないはずの体に鞭を打って、
追いかけた。
ただひたすらに追いかけた。
たどり着いた先は小高い丘。
その先は崖。
下は岩礁が広がり、更に先には海。
水平線の先にあるモノは何なのか?
それは見たこともない強い光を放っている。
その事実だけが唯一、理解できた。
知らないはずの何か。
でも、ひどく懐かしい。
ノスタルジックな感情に捕らわれて、
俺たちは歩みを止めた。
「…これは…現実なのか? ……それとも…」
「……夢にしか見えない。こんな綺麗なものは見たことがないから」
しかし現実に広がっている。
これは奇跡だろうか?
はるか昔に見えなくなったはずのもの。
見えていた当時は太陽と呼ばれたもの。
月と呼ばれたもの。
星と呼ばれたもの。
その全てが遥か彼方に輝き、
水面を照らす。
海は光を反射してキラキラとしている。
街灯の足元を照らす光とも、
火の力強さを感じる光とも違う。
世界を包み込むような優しい輝き。
止まった足はもう動かない。
そのまま地面に座り込んだ。
長い沈黙。
先に口を開いたのは佳奈だった。
「…ねぇ、敬介」
「…ああ」
佳奈の言葉の先を促す。
「…あたし、こんな景色がこの世界にあるなんて知らなかった」
「…俺も知らなかったよ」
きっと誰も知らないのだろう。
もう百年もの間、人々の記憶から忘れ去られたモノだから。
「…神様っていると思う?」
何度も聞いた質問。
初めて訊いたのは二年前。
「神様なんていない」
それは佳奈を縛りつける呪縛。
真夏のような暑さの中でも解けることのなかった永遠の氷。
「…どうだろうな…?」
俺の返事は変わらない。
適当にはぐらかすだけ。
「…前はあたしも信じてなかった。もしも居たとしたら恨んでた。あたしの大切な人たちを奪った人がいるなら、絶対に許せないから」
「……俺も同じ事をこの間まで思ってた」
「けどね。今、あたしはきっと神様はいると思うんだ」
「…どうしてだ?」
俺は訊ねる。
それほど嫌っていた神様が居ると信じる理由を。
「だって今、二人で見てるこの景色はきっと頑張ったあたしたちへのプレゼントだと思うから……。それに神様がいたから敬介と出会えた。色んな事を一緒にできた。一緒にいられた。今はそう思えるの」
「…なるほど。確かにそうかもな」
解けないはずの氷は解けて消えた。
十年ほどの時を経て、
ようやく佳奈の心は春を迎えた。
佳奈を苦しめた鎖はもうない。
「……敬介」
依然として前を向いたまま佳奈は再び俺を呼ぶ。
「……何?」
「…あたし、眠くなってきちゃった。疲れたからかな?」
「……随分と歩いたからな」
「……うん。……あたし、寝るね」
「…おやすみ、佳奈」
「…うん、おやすみ…敬介。……最後に二人でこんな景色が見れてよかった」
「……佳奈?」
返事はない。
安らかで幸せそうな顔だった。
もう二度とその眠りから覚めることはない。
「……先に寝たのか…。…ああ…俺も眠くなってきた」
幻覚だろうか?
目の前に川崎が立っている。
「…川崎? …どうしてこんな所にいるんだ?」
川崎は少しだけ呆れた後、ニカッと笑った。
「なに言ってんだよ! 約束しただろ? また逢おうってよ!」
「…そうか。…そうだな。…約束…したもんな」
「おう!」
やがて川崎の姿が霞んで消えていった。
次に立っていたのは両親だった。
「…親父…母さん……」
「よく頑張ったな、敬介」
「…すまなかった、親父。……俺」
「安心して。お父さんはそんなこと怒ってないわよ」
「…そうか…よかった…」
「小枝も来てるから何か言ってやれ」
いつの間に現れたのか、
そこには小枝の姿があった。
「久しぶりだね、お兄ちゃん!」
「…小枝…俺……お前に生きてって言われたけど…悪い…もう駄目みたいだ…」
「…ううん、お兄ちゃんは頑張ったよ。…もう休んでもいいよ」
「…そうか…俺…もう休んでもいいんだな…」
「また一緒に花火しようね! 今度はお父さんとお母さんも一緒だよ!」
「…そうだな。…一緒に花火しような……」
親父たちの姿も霞んで消えた。
走馬灯という奴だろうか?
今までの思い出が脳裏で泡のように浮かんでは消えていった。
短い人生だったなと思う。
間違いはたくさんある。
あり過ぎるほどだ。
けれど不思議と後悔はなかった。
昔のことを思い出すと結構スカスカな人生で、あのままだったらきっと後悔した。
けれど俺は旅に出た。
辛いことばかりの旅だった。
人の死にも直面した。
人を自分で手にかけてしまった。
妹を悲しませた。
妹を死なせてしまった。
恋人も死んでしまった。
でもそれと同じくらいの幸せを手に入れた。
何もなかったスカスカの人生を意味のあるものにできた。
最高の親友がいて、
尊敬できる人と出会って、
大切な妹がいて、
何よりいつも支えてくれた彼女がいた。
みんな俺の人生の宝物だ。
意味のないはずだった人生に確かな意味を見つけた。
だから後悔しない。
笑っていられる。
最後に佳奈の顔が見たくなって顔を横に向けた。
そこには佳奈がいた。
「……敬介」
「……佳奈」
「…一緒に行こう?」
差し伸べられた手。
「…ああ、一緒に行こう! いつまでも一緒に居よう!」
俺はその手をしっかりと掴んだ。
約束したから。
いつまでも一緒だって。
つないだ手は、もう離れない。
愛しい人を、もう離さない。
――俺たちはいつも一緒にいる。きっと永遠に―――
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