村を発ってから数日。
あれ以来、生きている人間に出会うことは無かった。
もし生きている人間が居たとしても寂れた町の跡に居るのは俺が殺してしまったあの男の亡霊かも知れない。
それを考えると良い事なのだろう。
けれど本当に良い事なのかと訊かれれば答えられない。
その日は雨が降っていた。
「くそ! 雨が降るなんて!」
「どこか雨宿りのできる場所を探そう」
けれど建物もなく望めるものではなかった。
結局、ずぶ濡れになりながら誰もいない町を歩いた。
「こんな時に何もないなんて!」
悪態を吐くも雨は強くなるばかりだった。
せめて小枝だけでもと思って庇うけれど庇いきれない。
ようやく雨宿りのできそうな軒先を見つけて駆け込んだ時には三人とも水滴を服から滴らせていた。
いくら気候が暖かいといっても全身水浸しでは体が冷える。
しかも替えの服までもが同じような惨状に見舞われてしまっていた。
「取り敢えず服を脱がないと駄目だな」
「…そ、そうね」
やはり佳奈と小枝は女の子だ。男である俺の前で服を脱ぐことには抵抗を感じているらしい。
「…俺、服が乾くまで離れてるよ」
俺は佳奈たちの姿が見えない場所まで移動した。
すっかり水を吸って重くなった服を脱いで力いっぱいに絞ると、雨水が滝のように地面を叩いた。
翌日になって、やっと雨が止んだ。
まだ生乾きな服を着ていると、
「敬介! 起きてる?」
佳奈は真っ青な表情だった。
「起きてるけど。どうしたんだよ?そんなに血相変えて」
何でそんな表情をしているのか。
理由が分からないあまり、ついつい悠長な返事を返してしまう。
その様子に更に焦りを募らせた佳奈は、
「さ、小枝ちゃんが大変なの! いいから来て!」
強引に俺の腕を引っ張った。
その様子にただ事ではないことを悟る。
嫌な予感が頭を過ぎった。
「小枝ッ!」
俺は走って小枝の許に駆け寄る。
「…はぁ…はぁ…ケホッ、ケホッ!」
だけど俺の声すら聞こえていないらしく、ひたすら苦しそうに息継ぎをしている。
呼吸困難に陥ったかのように喘ぐ度にヒュー、ヒューと異常な音が聞こえた。
「どうしたんだ! 小枝、大丈夫か!」
「昨日は雨でずいぶん濡れたから喘息に罹ったのかもしれない!もともと風邪を引いてたから!」
「…そんな…小枝!」
もう一度呼びかけてみたけれど、やはり結果は同じだった。
もし本当に喘息だとしたら打てる手がない。
俺は医学の知識はないし、医者もいない。
それに知識だけがあっても薬がないから結果は変わらない。
気管支拡張剤があれば少しはマシになるのかもしれない。
それでも周りに病院はないし、素人の生兵法では余計に悪化する可能性もあり得る。
つまり八方詰まりだ。
俺は佳奈に小枝を預けて病院を探した。
そして一時間半くらい歩いて見つけたのは小さな診療所。
中に入ってみても患者はいなかった。
いるのは診察室で腰掛けている老人がただ一人。
老人は白衣姿で眼鏡を掛け、手元の紙を見ている。たぶんここの医者だろう。
その顔は皮膚が弛んで目じりなどに深い皺が目立っている。
もともと目が細いのか眼鏡をかけていても傍から見たら寝ているようにも見えた。
しかし実際のところはカルテの整理をしているらしく、机の上には何枚かの用紙が置かれていた。
「すみません! ちょっといいですか?」
ガラガラと探していた医者を見つけて思わず大声を出してしまった。
老人は少しだけ驚いてカルテに見ていた視線を俺に移した。
「どうしたのかい?」
気を取り直して老人は嗄れた声で俺に用件を尋ねた。
「妹が、妹が病気で! もともと風邪を引いていたんですけど、昨日雨に降られたせいで今朝から息苦しそうにしていて!」
気が動転してしまって上手く言葉が纏まらないのがもどかしい。
「まぁまぁ、落ち着いてゆっくり話して」
老人はそんな俺を宥め、それでようやく落ち着きを取り戻せた。
「…は、はい」
「それで今はどんな状態?」
「俺が見たときはまだ寝ていたんですけど、息をする度にヒューヒューって音がしてとても寝苦しそうでした」
「ふむ、話から察すると喘息かもしれないね。今、妹さんはいるかい?」
「いえ、今はいないです。病院を探しに俺だけが歩いて来ましたから」
老人は困ったように黙り込んだ。
がしかしそれも数秒のこと。
「ここら辺の人じゃないのか。どこら辺から来たかは分かるかい?」
「少し遠いですけれど何とか…」
老人の質問に俺は頭の中に地図を思い描いて答えた。
「遠いって言うとどのくらい?」
「…ここからだと一時間くらい掛かってしまいます」
「…一時間か。無理に動かすのは拙いな…。それに喘息だとしたら、ここには薬を置いてない」
「そうなんですか?」
「すまないね。ここは見ての通りの小さな診療所に過ぎない。そういった薬は大きな病院にしか置いてないんだ。でもここからまた距離が離れているからなぁ…。車が使えれば直談判で譲ってもらえただろうけど車道がこれでは車なんてとても…」
「場所を教えてください! 薬の名前が分かれば取ってきますから!」
「…しかし」
老人はそれは駄目だと言うように顔を曇らせた。
「お願いします!」
「分かった。私も付いていくという条件で手を打とう。一般患者に薬を分けてもらえるとも思えないからな」
「ありがとうございます!」
2時間ほど歩きとおしてたどり着いた場所。
そこには残酷な現実が聳え立っていた。
大量の残骸が途方もなく大きな山を造っている。
その周囲に散らばっているものはボロボロの布団やシーツに何かの一部だったガラス片や細かい金属片などなど…。
「…そ、そんな……」
網膜に焼きついた光景は目の前の土地に堆く積もったゴミの山だった。
「…どうやら地震で倒れてしまったみたいだな。残念だが、これではもう薬なんて見つけられないだろう」
こんなことがあっていいのだろうか?
どうしていつも世界は俺たちに理不尽に動くのか?
どうして小さな希望でさえも奪っていくのか?
俺はただ、小枝を元気にしてやりたいだけなのに…。
「…どうして…こんな……」
今ほど世界を憎んだことは過去にはない。
世界は悪意なく、ただ気まぐれに俺から色んなものを奪っていく。
何の成果もなく引き返す。
気休め程度の解熱剤をありったけ手に持って医師同伴で佳奈と小枝の待つ場所へ。
「どう? 薬はあった?」
佳奈の問いかけに力なく首を振ることしかできない。
「ところでその人は?」
佳奈は初対面の老人を見て訊ねた。
「この先の診療所にいた医者だよ」
「はじめまして。私はこの先の診療所で医者をやっている堀部というものです。病気の妹さんはこちらの方でよかったですか?」
「…はい」
老人はその場で聴診器を取り出して診察を始めた。
呼吸音などを測って
「…やはり喘息のようだ。しかも結構酷い状態だ」
やはり予想通りの病名を口にした。
「酷い状態ってどのくらい酷いんですか?」
「呼吸音が異常なほど乱れていていつ呼吸困難に陥るかわからない。それに衰弱も激しいようだ。このままでは3週間…いや2週間も持たないかもしれない」
残酷な仕打ちはまだ続いているようだ。
悪い夢であってほしいと思うけれど、紛れもないこれは現実だ。
「何とかならないんですか!」
「薬と安静にできる場所があれば何とかなっただろう。けれど今の状況では何の手の施しようもない」
「そんな! アンタは医者だろう! 何とか助けてくれ!」
つい慣れない敬語ではなく、普段のタメ口が洩れる。
それくらいに今の俺は取り乱していた。しかし、
「…すまない。医者も決して万能じゃないんだ」
「クッ! 畜生ォォーーーーッ!」
正確な時間は分からない真夜中。
目を覚ました私は絶対安静のはずの重い体を引きずるようにして眠っている兄たちの脇を通り、近くの空き地で腰を下ろした。
「…そっか…ケホッ…私……もうすぐ死んじゃ…うんだ……ケホッ、ゴホッ」
苦しい息を整えることもできず咳き込みながら、ポツリと呟いた。
膝を抱えて座り込んでいる手で上から降ってきた水滴が弾けて飛んだ。
身近に迫った死が怖い。
切ない。
悲しい。
不安。
そして何よりそれは淋しい。
上を見上げても見えるのは真っ黒く染め抜かれた雲ばかり。
下を向いても抱えた自分の膝しか見えない。
だからせめて自分の生きた世界を覚えておこうと前を向く。
涙で視界がぼやけたから、それを拭った。
何度も何度も拭った。
けれども止まらなくて。それでも拭う。
「…小枝? 駄目じゃないか、寝ていないと」
呼ばれたことに気が付いて声のほうに顔を向ける。
そこにいたのは兄だった。
「…お兄ちゃん」
「…お前、泣いてるのか?」
いつも優しい兄は、また自分のことを心配してくれている。
それが余計に悲しくなった。
「…うん」
「どうしたんだ? …まさか」
「…うん。…ケホッ。お医者…さんの話、聞い…ちゃったんだ。…コホッ、コホッ。本当は起きて…たけど寝てる…ふりして」
「…そうか。…本当は聞かせたくなかった」
やはり兄は私のことを気遣ってくれている。
それでも言われなくても分かっていた。だって自分の体のことだから。
兄は泣きそうな顔で私を見た。
「ゴメンな。俺、お前のお兄ちゃんなのに何もしてやれない」
「…ねぇ、お兄ちゃん」
「何だ?」
「…花火、楽しかったね」
口にすると、もっと悲しくなって。
もっと涙が溢れた。
「お兄ちゃんは…私に色々なものをくれた…ケホッ。いっぱい助けてもらった。コホッ、コホッ。だから…今、私はここに…いられるんだよ」
「………」
「これから先…ケホッ…もしも…もしも生きていられたら…きっと私、誰かのお嫁さんになって…幸せになんてなのかなぁ…?」
「そうだな。きっと俺でも相手に嫉妬するくらいに綺麗な花嫁姿で結婚するだろうな」
「…でもね…ケホッ…私、それと同じくらいの幸せを…コホッ、コホッ…お兄ちゃんにもらったから…」
「………」
「だから私、ケホッ…ちょっとだけ先に…お父さんとお母さんに…会いに行くよ」
兄は泣いている。顔をクシャクシャにして泣いている。
「…泣かないで、お兄ちゃん」
…辛い。
…本当はもっと生きていたいと思う。
…それでも辛いなんて言えない。
…そんなことをしたらもっと淋しくなってしまうから。
だから精一杯の笑顔で、
「ありがとう、お兄ちゃん!」
宣告を受けて2週間と3日後。
俺たちは笑顔を浮かべて眠るように息を引き取った小枝を看取った。
「…小枝」
「…小枝ちゃん」
佳奈は涙を堪えきれずに泣いていた。
けれど俺はなんとか涙を堪えた。
(…俺が泣いたら小枝が悲しむ)
その一念が容赦なく緩みかけた涙腺をせき止めた。
「…すまない。私が至らなかったばかりに…」
堀部医師は俺たちに頭を深く下げた。
だけど分かっている。この人が悪いわけじゃない。
きっと誰も悪くなんてない。
「…いいえ、お世話になりました。それに少しでも多くの人に看取られて小枝も幸せだったと思います」
「……そう言って頂けると助かる…」
堀部医師が診療所に帰って行った後。俺たちは空き地に小枝の墓を作って埋めた。
墓石なんて立派なものはないけれど、その代わり一所懸命に掘った。
佳奈はその作業中もずっと泣いていた。
さっきやっと泣き止んだばかりだったのに墓を掘ることで死んでしまったことを再確認してしまうと涙が堪えられなかったのだろう。
俺は悲しかった。
けれど、それ以上にまだこの世界に妹のために泣いてくれる人がいることをとても嬉しく思った。
俺たちは小枝の墓のある町を後にして再び旅に戻った。
さえの看病の間は気が付かなかったけれど、どうやら俺たちも風邪を引いてしまっていたらしい。
その上、ここのところは食料が探しても見つからなかったから俺たちは何も食べていない。
そして今、俺たちの目の前に広がっているのは大量の青。
その彼方にはこの世界の果てを見ているかのような錯覚さえ覚える水平線だった。
「とうとう海まで来たんだな、俺たち」
「そうね。もう随分と私たちの町から離れた場所まで歩いてきたんだ。ちょっと信じられないかも」
中学校の体育館を飛び出した日が昨日のように思える。
「川崎のやつ、今頃どうしてるかな?」
「きっと元気にやってるわよ」
そんなふうに話しながら海岸沿いの道路を歩く。
と眼下におかしな風景を見た。
「…おい、マジかよ…」
「…ウソ…こんなことって……」
信じられないものを見て俺は一瞬だけ空腹と暑さが見せる幻だろうとさえ思った。
でも佳奈まで同じものを見ているなら現実だ。
ありえないはずの光景は今、確実に目の前にある。
その頃、川崎は空腹に耐えながら衰弱しきった体を這いずるように動かす。
「…クソ…今日も何も見つからないか……」
しかしとうに限界を超えていた体を動かしていた気力も尽き、その場に倒れこんだ。
「…もう…歩けそうにもないな……。…不味かった学食が恋しいなんて」
もう目の前の景色も揺らいで見える。
「…おふくろの料理…もう一回、食いたかったな……」
二度と叶わない願いを口にしてみるが空腹は満たされない。
「…俺……ここで死ぬのか……」
だんだん眠くなってきて目を閉じた。
最後に浮かんだのは親友の顔だった。
「…悪い…新山……。…俺…約束……守れそうにない……」
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