ファラオになって、20回目の雨季が来た。ナイル川は例年のように猛威を振るい、国に実りをもたらす。民はいつもこの氾濫を恐れるが、女王にしてみれば、ナイルが氾濫しないほうがよっぽど恐ろしかった。この恵みがあってこそ、作物が育てられる田畑ができる。こうして絶えなく降る雨の匂いは、豊作を予感させるものだ。 女王は憂鬱だった。毎日のように元老院からの意見書が届く。 トトメス1世の娘として生を受けた女王は、トトメス2世の頃から実権を執ってきた。そして幼いトトメス3世の摂政としてファラオを名乗ったが、トトメス3世ももう大人になった。これ以上摂政として君臨するのには無理があるのかもしれない。 雨の匂いの中で、女王はふと過去の思い出にふける。 父王は大きな人だった。寛大であり偉大であり、民からも慕われた。幼かった日の女王は、父王の乳香の匂いに包まれるのが大好きだった。 その跡を継いだ夫王は、頼りない男だった。政には疎く、とてもあの父の血を継ぐ者とは思えなかった。病で臥せっていることが多いくせに、いっぱしに側室を抱えて、その子供に跡を継がせるよう遺言を残していった。夫も側室イシスも、オレガノのツンとした匂いがして、女王は二人を憎らしく思ったものだった。
王殿の中庭で物思いにふける女王を、じっと見つめる男がいた。元老院のパルスタである。40代半ばにして元老院にまで上り詰めたこの男は、今こうして見つめている女が、長年ファラオでいることが不思議でならなかった。女王は確かに男勝りではある。政にも長けており、先々代のファラオを思わせる。しかし、所詮は女なのだ。王家に男子が生まれなかったのならまだしも、先代王も今王も王の血を受け継いだ男子である。今王は幼くしてその座についたが、元老院で政治はまかなえる。そのために元老院があると言ってもいい。しかも王が成人した今、女王の出る幕はないはすなのに。こうして中庭に佇む女王の姿には、いつもの威厳は失せ、か弱くさえ見える。それなのに、なぜ…。 「ファラオ」 思わず声を掛けてしまった。女王がはっとしたように振り向く。その顔は、いつもの女王の顔だ。 「何?パルスタ。いつからそこにいたの」 パルスタは少し動揺しながら答える。 「はい、先ほどから…」 「さっきから、何?」 「いえ…、その…、お顔の色がお悪いようにお見受けいたしますが」 「そうか。別になんとしたこともないが」 「さようでございますか。まもなく夕餉の時刻でございます。食の間へおいでくださいませ」 「そうだね」 宮殿の中へ向かう女王の背中を見ながら、パルスタはほっとしていた。もうすぐ、全てが終わる。 「パルスタ殿」 大臣のハットリカが声を掛けてきた。 「覚悟はできているか」 「はい」 「誰にも、覚られてはならぬ。医師への根回しはできているか」 「はい。あの者には貸しがございますゆえ」
食の間では、トトメス3世が既に食事を済ませていた。食後のワインを飲みながら、横目で女王をにらみつける。 「これはこれはハトシェプスト女王陛下。失礼して先に頂いてしまいました」 「…」 女王はため息をつく。彼女の親族は、この国にもうこの男しかいない。父も母もなく、夫と一人目の娘には先立たれ、2番目の娘は隣国へ嫁にやった。かつて共に食卓を囲んだ家族は、自分を包んでいた温かい香りは、もうここにはない。
パルスタが空の杯に水が注ぐ。 「ファラオ、今日の水は一際甘いとされるキントラ泉の水でございます」 「そうか」 口をつけようとした女王は、眉をひそめてそのまま杯を置く。 「どうなさいました?」 パルスタは焦った。覚られたか? 「水が少し泥臭いか。…雨のせいであろう。水はもうよい」 女王はさらに杯を向こうへ押しやる。
「…なんとしたことか!」 女王の食事を見つめていたハットリカはつぶやいた。これが何年も準備してきた女王暗殺計画の結末か…!先王が死んだ時も、女王に政権をとられた時も、ただ今日のためにじっと耐えてきたのだ。医者を取り込み、料理人を雇い、寵臣を遠ざけ、誰にも知られぬように毒を手に入れ、女王の杯に近づける男を手に入れた。それなのに、それなのに、たかが雨に邪魔されようとは…! 食事を終えた女王の後姿を見送ってから、ハットリカは食卓へ近づいた。水の満たされた杯をとり、一気に水を飲み干す。そして、自室へと帰っていった…。
翌朝、女王は大臣が自室で眠るように死んでいたと聞かされた。医師の見立てによると、急な病であったということだ。 女王はため息をつく。また、信頼できる臣下を失った。この微妙な情勢のなかで、話し相手になる貴重な人材だったのに。 孤独に苛まれながら思う。これから権力を維持していくにはどうしたらいいか。 自分はあと何年生きるか分からないが、その時は確実にトトメス3世の政権となり、私の墓さえまともに建つか、怪しいものだ。そして気性の荒いトトメス3世のことだ、今まで築き上げてきた隣国との外交もだめにしかねない。 国の行く末にまで思いを馳せたところで、書記長が声を掛けてきた。 「ファラオ、死にました大臣の後任を決めませんと」 「そうか。だれかよい人物がおるのか?」 「元老院のパルスタがよいと存じます。ファラオのお身の周りに居りますゆえ、ファラオのなさりようを分かっております」 「そうか…あの男がそれほどの器とは思っていなかったが、元老院におったのであれば政にも通じておろう。パルスタでよい」 「はい、ではそのように取り計らいます」
書記長の男が出て行くと、女王は中庭へ向かった。今日も雨が勢いよく降り、中庭の池に波紋を作っている。
女王の憂鬱は今日も続く。この雨が空から降り続くように…。
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