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作品名:感情というもの 作者:奥辺利一

最終回   1
目まぐるしく移り変わる感情の瞬間を的確にとらえて描写するには、我々の言葉は貧弱だ。否むしろ言葉を操る人間の脳が貧弱なのだと言った方がいいだろう。言葉を操る能力を知性と呼ぶなら、知性はこの意味で感情にはかなわないだろう。感情と呼ばれる精神の働きは言葉が生まれる以前から人間に備わっていたものなのだから、それは当然のことかもしれない。
感情の一部には、時と場合によって表現することが忌み嫌われたり、禁じられるものがある。このような時と場合を社会的な制約と表現しても構わないのだろう。しかし、人が社会的な制約を受けて感情をコントロールしようというのは仕方のない事だけれど、それがいつも成功するとは限らない。
感情のほとんどは、厳しすぎる原始の社会を生き延びるために獲得されたらしいのだから、それは命にかかわるほど重要な意味を持つものである。それをコントロールしなければならないというのは、生命の生き延びようとする意志を失わせるほどのことなのではないか。(余談、ウイルスにだって生き延びようとする意志はあるのに、人間社会はそんなウイルスに脅かされ、無力化しようと必死になっている。)
感情をコントロールすることに失敗して破滅の道に陥ってしまうというのは、今に始まったことではないらしい。感情の起伏が激しく不安定なのが病気だということにされてしまうのは、日常生活や社会生活に支障をきたすことが多いからだ。彼が自律性や主体性を失っていないにもかかわらず、病気として社会的に隔離することには問題があると言わなければならないが、歴史を眺めてみれば、権力が個人の権利を侵害する例は枚挙にいとまがない。つい八十年前にも偉大な権利の侵害行為は行われていた。
権力による権利侵害は、狡猾で巧妙な仕掛けを施し、合法的という化けの皮を着て行われるのだからたちが悪い。人々は権利侵害によって命が奪われるかもしれないのに、権力が行う犯罪を熱狂的に歓迎する。これは明らかに、感情を操作することによって知性を働かなくさせる典型的な例だろう。これは実に死に至る病のようなもので、戦争によって我々の数世代前の日本人が塗炭の苦しみを舐めさせられたことを忘れてはならない。
自分たちは他より優れている。自分たちの国の政府が外国にペコペコ頭を下げているのを見るのは我慢がならないというのも、プライドと称される感情の一種なのだろう。我々は誰しもこのような感情を精神の一角に住まわせているのだ。これが生き延びるために獲得した精神の働きの一種だというのは本当だろうか。現代人は激烈な競争社会に生きていて、常に他国の脅威にさらされているから、これを跳ね返さなければならないというのは本当だろうか。そうしなければ生き残っていけないのだろうか。仮に生き残れないにしろ、見えない敵と戦うように仕向けること、そうやって個人の生きる権利を侵害することは許されるのだろうか。国が滅びてしまわないように他国と戦い、そのために命を捧げろと言うのは理不尽ではないのだろうか。そもそも国とは何なのか? 我々が命を懸けてまで守らなければならないものなのか? 我が国の政治家が国民の生命や安全を守るために粉骨砕身して働くというなら、第一に言いたいのは、国民を戦渦に巻き込むようなことだけはしてくれるなということだ。国を守る気概のない者はこの国から出て行け、と言われるようなご時世になれば、筆者などは最初に路頭に迷うことになるかもしれない。
本来、生き延びるために獲得された感情が、今はその暴走によって命の危機の引き金になっているというのは、何という皮肉な逆転だろう。今は人の外敵が人そのものになってしまったようだ。他人によって傷つけられる人々の数はこれからも増え続けるのだろうか。
感情的な生き物が、感情によって自らを亡ぼすのを免れるために必要とされるのは、想像力と共感力ではないか。これは何も個人について言えることではなく、社会的な、あるいは政治的な場面でも当てはまるのだろう。特に国を率いる指導者には、個人的な感情に流されるようなことがあってはならない。そんなことをすれば、隣国のように分断に苦しむ困った社会ばかりが増えことになるかもしれない。しかも、それが一時の感情でなく、計算づくだとしたら、これは恐ろしい事だ。
最近、首相が交代した。前政権の功罪がいろいろ取りざたされているが、最大の功績は、長期にわたる政権の維持によって、諸外国からの認識が定着しつつあったということかもしれない。一年ごとにトップが交代する国が他国の信頼を得られないのは当たり前のことだ。一方で、長い政権担当期間に、彼は様々な問題を引き起こしている。その罪の評価については、さまざまな意見が存在するが、これによって国民の信頼を大きく毀損したのは間違いない。一国の命運を左右する国会の場で個人的な過ちの追及ばかりが目立つというのは、あまりに情けない。これが与党ばかりではなく、野党の責任が大きいのは言うまでもない。
この間に目立ったのは、さまざまなメディアに踊った、政権を擁護する声のかまびすしさだった。そのような者の存在を彼は心強いと感じていたのだろうか。そうだとしたら、あまりに世間知らずだと言うよりほかはない。そのような事態を引き起こしておきながら過剰な擁護論を控えさせようとしないのだから。ネット上の感情的な擁護論はさておいて、雑誌に投稿された様々な形の擁護論が、どのような意図をもって行われたのかを思わず想像してしまうとき、心胆寒からしめるという思いがしてくるのだ。個人の計算づくの行動であったとしても、それが表現の自由の旗の下では認めざるを得ないが、そのことによって彼に関する内心の評価を下落させることも表現の自由の下では認められるのだ。
新政権では首相に近い人物が法務大臣と公安委員長のポストに就いている。これに関連して思い出すのは検察庁法の改正問題であり、前首相側近の選挙違反事件だ。前政権の政策を継承するというのが、変なところに集約することが無いのを願うばかりだ。


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