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作品名:家族ゲーム 作者:奥辺利一

第8回   同情?
今は、部屋に置いてあったドレッサーの鏡には覆いが掛けられ、化粧箱に付属の鏡は取り外して伏せられている。さすがに、家族が使う洗面所の鏡をなくすことは出来ないから、顔を洗う時も務めて鏡を見ないようにしている。日に日に自分の顔が暗く醜くなって行くのを見るのは耐えられなかった。

父親は美佳を避けている。顔を合わせても会話が弾むことはない。父親が何を思って生きているのかと考えてみたこともない。美佳が知る限りの父親は彼女の中で既に完結していたから、その他の部分が在ることに気付くことも無かった。このことに気付かされたのは、探偵に見せられた一枚の写真のお蔭である。それはおぞましく厭わしいもののはずなのに、通常は避けられない嫌悪感を抱くことが出来なかった。そして、そのことを苦もなく受け入れている自分を見つめることが恐ろしかった。
振り返ってみれば、平穏だった日々が、父親が抱いていただろう怒りや不安から目を逸らしてきたのに過ぎない事を悟らされた今は、自分の迂闊さに気が滅入るばかりだった。それと同時に、何の感慨もなく、今は父親の弱さや邪悪さを無抵抗に受け入れられるような気がしたが、確たる根拠が有るわけではない。父親の優しさを探して幼い頃の記憶を辿ってみると、思い出すのは幼い感情と結び付いた、頼りなく朧げなものばかりである。子供にとって親と過ごす最も濃密な時間は幼児期に違いなく、成長に従って批判精神に目覚めてしまうと、幸福な記憶は後退し、マイナスの記憶ばかりが蓄積されるような気がする。

美佳が学校やアルバイト先の行き帰りに、かなりの頻度で足を止めるのは、白い外壁に水色のガラス窓が印象的な花屋である。
花屋の店先に飾られた色とりどりの花を眺めていると、心が浮き立つような喜びに満たされるのだが、束の間の癒しの後に感じるのは、見事に咲き誇って人目を引くものも、やがては萎れ朽ち果てる運命にあるという過酷さに他ならない。それでも目を逸らして通り過ぎることが出来ないのは、それらの姿を記憶に留めることが、自分が出来るせめてもの事だというヒロイックな思いに突き動かされるからだった。
夕方を過ぎて、花屋のショウウインドウの前に佇んでいた美佳が名前を呼ばれて振り返ると、そこに立っていたのは父親の雅之だった。静かに笑っている父は、心なしか疲れているように見えた。
「花を買うの?」
「ううん。見ているだけ」
自分のために花を買うのは贅沢だ。花は気兼ねなしに見ることが出来るものの一つであり、誰かのために買うものかもしれないという思いが浮かぶ。
「この花は誰に買われるんだろう」と雅之は言ったが、「気に入った花を他人に盗られるのはどんな気分がするのだろう」という独白に聞こえた。
「良い人に買われるといいね」
「自分のために買いたくはならないの?」
「買ってほしいという思いが伝わってきたら、迷わず買うわ」
「そうなんだ」
父親の何気ない一言が侘しさを掻き立てるのは珍しい事ではない。自分に花を贈ってくれる人物の姿を思い浮かべる前に諦めなければならないことが、花を散らせる冷たい雨のように沁み透る。
父親は会計事務所の顧問のような仕事をしていると言うが、美佳は仕事の具体的な内容を知らない。知っているのは企業会計の法律に明るいらしいということだけである。美佳が進学先を法律学科に選んだのは、そんな父親の無形の影響を受けたためかもしれない。
「仕事は、楽しい?」家路を辿り、肩を並べて歩きながら美佳は尋ねた。
生まれて初めて娘から聞かれた気がした父は驚いたように美佳を見た。
「楽しくもあり、そうでない時もあり、という処かな」しばらく考えた後の答えにしては、ありきたりのものだった。
「仕事なんか放り出して、好きな事をしたいと思わないの?」父親からどんな答えを導き出したいのか、分からないまま美佳は畳みかけた。
「それじゃあ、生きていけないよ」
それが課された責任の表明だとしたら、もう少し違った言い方が有るかもしれない気がした。
「家族が重荷だから」
「そんなことは考えたこともない」声を荒げることもなく父は言ったが、悲痛な響きを感じ取った美佳は心が震えた。
「お母さんも頑張っているしね」
母は、月に何度となく、義母の介護のために父親の実家を訪ねている。
「何か厭な事でもあったの?」
父は、「おかしなことを言うな」と言いたいのを堪えるように首を傾げながら訊いた。
「厭なことがあったら、どうすれば良い?」これは誘導尋問ではない。聞き返すのが礼に適う気がした。
「何とかして解消するさ」
「お父さんだったら?」
「さあ、その時にならないと分からないな」
「誰かに頼る?」
「うん。頼るかもしれない」
本当に困ったことが起こった時には、何かに縋らずには居られないと言うのは自分にも分かる気がする。縋りつき方には各人の流儀が有るというのが分かっているからと言って、それが許されるかどうかは別の問題だった。
母親との馴れ初めを聞いてみたいと思ったが、とうとう切り出せないまま二人は我が家のマンションに辿り着いていた。


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