20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:家族ゲーム 作者:奥辺利一

第7回   衝撃の罠
探偵からのメールを受け取った美佳は、彼の事務所だという、今にも潰れてしまいそうなビルの二階の部屋を訪れていた。擦りガラスが嵌め込まれた木の扉には変色した真鍮のドアノブが付いている。恐る恐るノックすると、錆びた蝶番のきしむ音とともに勢いよく開いたドアの陰から現れたのは、見たことのない顔だった。何も言わずに廊下に飛び出す瞬間に美佳を一瞥した男の目の、ぎらぎらした色彩だけが印象に残った。
驚いて立ち尽くしていると、「どうぞ、入って」部屋の奥から呼びかける声がした。
「どうだい、驚いた?」自分から事務所に呼び出しておきながら、探偵の態度は秘密を暴かれたような恥ずかしさを滲ませている。
「いいえ」
当然の如くに否定すると、探偵は、無理はするなと言うように笑ったが、どこか余所行きの感じだった。
「今出て行った人は・・・」美佳の耳元で、気に掛かることが有れば何でも確認しろと言う声がしている。
「ああ、同業者の知り合いさ。いろいろ協力し合うんだ」どこか上の空という調子で答えが返って来る。
「それで、どうでした?」いつになく落ち着かず、妙にそわそわしている探偵に向かって美佳は切り出した。
「この仕事をしていると、色々な人間のいろいろな生活実態を垣間見るわけだけど、それはあくまでもその人間の一部に過ぎないわけだ。だから、それだけを以て彼全体を評価したり糾弾したりするのは行き過ぎなんじゃないかな」
探偵は遠回しに、この件はなかった事にしようと言いたいらしい。美佳の心は憤りに震えた。探偵が美佳の心の中に無頓着なのは仕方が無い、などとして済まされる問題ではない。調査依頼の対価として支払おうと不道徳にも考えたことさえ、中年男は忘れていた。
「色々と調べるうちに、君のお母さんに関するという情報が飛び込んで来たんだ」
「何処から?」
「うん、まあ、それはまだ言えないんだけどね」
「・・・・・・」
この時点で探偵の言動の不自然さに気付くべきだとしても、調査の進展に絶大な期待を寄せていた者には所詮、無理な話だと言わなければならないだろう。
「それで、その場所に行くと、そこに現れたのは・・・」探偵は言い難そうに話を途切れさせた。
美佳は暗い予感に喘ぎそうになりながら探偵の次の言葉を待っていた。
「君のお父さんだったんだ」探偵の表情がどんよりと歪んでいる。災厄は、どうしていつも突然に起こるのだろう。
「なに、それ? どういう事ですか?」
美佳が信じられないとばかりに声を上げると、それは自分も同じだよと言うように探偵は目を瞬かせた。瞬時に、稲光のように鋭い考えが美佳の脳裏に浮かんだ。
「その場所が問題なんですね」
探偵はこっくりと頷いた。夫婦の不和の原因が一方だけにあるのではない可能性があることが分かった瞬間だった。
「確かな証拠はあるんでしょうね」
「見る?」探偵は試すように言って、美佳の反応を待った。
「見たほうが良いですか?」
「見るべきだろうね」
探偵がテーブルの上に置いたのは、ピントが甘いせいで古ぼけたように見える写真だったが、そこに映っていたのは、紛れもない美佳の父親の上半身だった。そしてその背後には、見知らぬ若い女性が写り込んでいた。
「誰なんですか?」美佳は若い女性を指差して尋ねた。
「そこまでは分からない」
「それじゃあ、間違いかも知れないんですね」
探偵は、「そう考えたくなるのは当然だ」という表情をしている。
「今後の判断と、その対処方法のチョイスは僕らには出来ない」機先を制するように探偵は言い放った。
「仕事を離れて・・・、と言うのも無理ですか?」美佳には、そう言う自分の動揺が手に取るように分かる気がした。
「君は他人を易々と信じるタイプじゃないだろう」
「・・・・・・」
「別に責めているわけじゃない。他人を疑わないことの方が怖い目に遭う確率は高くなるからね」
 こんなフォローの言葉に動かされるほど間抜けではないという思いが考えを鈍らせた。
「相手を信じないような奴の相談には乗れませんよね」相手を詰るのと自分を責める気持が交錯する。
「そんな事はないだろう」
「それじゃあ、今はその気分じゃないということですか」
「調査の継続ということなら話は別だけど・・・、まあ、それも止めておいたほうが良いかもしれない」
「聞かなかったことにすべきだということですか?」
探偵は黙って頷いた。
「一般的な話ということでは、生きるということは善悪ではなく、選択の問題だからね。しかも、その選択に自分の純粋な意思を反映させるのは難しい。様々な影響を受け続けるからね。それが許せるのか許せないのか、受け入れられるのか、られないのか、そこがポイントなんだろうね」
「ずいぶん曖昧なんですね」
「曖昧と言えば曖昧かもしれないが、見方を変えれば揺るぎない真実だと言えるかもしれない」
「このことを、母は知っているんでしょうか?」
「それも分からない。依頼者は君だからね」探偵は、母親に事の顛末を告げる積もりはないと言っている。
「でも、知ってしまったから夫婦の間がぎくしゃくしているというのは有り得ることだね」
「私に何ができると思いますか?」
「何かしたいの?」
「このまま何もしないで居られますか?」
「何かをしようとすれば、それは否応なく両親の個人的な部分に踏み込むことだからね」それが間違いだったとしても、個人的な過ちを指摘されて喜ぶケースは稀なのだろう。
想像を絶する事象を淡々と指摘する中年の男を美佳は縋るような思いで見つめた。
そのときから家族を守らなければならないと考えるようになったのは、家族の崩壊によって自分が危うい立場に追い込まれるのを避けるためではない。人が人を信じて、何ができるかを検証しなければならない積もりになっている。
「お父さんは自由な意思を持った立派な大人なんだよ」
「そうでしょうか?」
「違うの?」
「違うとは思いませんが、大人なら自覚した行動をとるべきです」
「奥さんを裏切るような行為は即刻辞めるべきだと言うんだ」
「ええ」
「その前に、お父さんがなぜ間違った道に足を踏み入れてしまったのかを考える気はないの?」
個人的な相談に乗るのは探偵の仕事ではないと言っておきながら、個人的すぎる問題について語ることの矛盾を考える暇はなかった。
「勿論あります」
そう断言してから美佳は漸く不安に駆られた。家族という枠組みに安住し、余計な事は言わなくても解り合えていると思っていた美佳には、家族の心の中に土足で踏み込むことなど考えもしないことだった。
「第三者の力を借りることが出来れば楽だよね」誰かの力を借りることで父親を立ち直らせようということらしい。
「第三者ですか・・・」
「そうだよ。君だって、ある意味第三者だからね」
「どういうことですか?」
「お父さんに今一度、家族について考えてもらうんだよ」
「私が父に話をするということですか?」そんなことは到底考えられないことだった。
「話し辛いよね」
「ええ、まあ」
「一度、壊しかけてみるか」
「・・・・・・?」
「家族というものをさ。その時初めて個々の家族が家族についてどう考えているのかが見えて来るんじゃないか」
その時美佳の頭に浮かんだのは、すでに我が家は壊れかけているのかもしれないというものだった。
「それで本当に壊れてしまったら、どうするんですか」美佳が訴えるように言うと、探偵は困惑したような表情を見せたが、その目は何故か笑っていた。
「それが君の望みだったら、好都合と言うものだ」
 美佳は頭から冷水を掛けられたように、悲鳴を上げそうになった。何気ない言葉で相手との距離感を突き付けられるのは日常茶飯のことである。探偵が意図的にこんな言辞を弄する術を持ち合わせているのかと訝しんでいると、彼は急に表情を引き締めて言った。
「これから、いくつか質問をさせてもらうからね。答えたくなかったら答えないでいいが、厭なことを聞いても気を悪くしないように」
「・・・・・・?」
「君のお母さんが継母だというのは本当なの?」思いがけない事を切り出した探偵は冷徹な検事のような目付きになっている。
「・・・・・・」
「最初の日に君が言ったんだよ。継母のお母さんは財産目当てで、お父さんを愛していないんだと」
さすがに美佳は返事に窮した。今更、架空の物語を聞かせた方が仕事を頼みやすいと思ったからだとは言えなかった。
「それで、君はお母さんをどうしたいの?」
「どうって・・・?」
「追い出したいの?」
こんな質問で混乱に引きずり込まれるとは、思いもしないことだった。
「父のためになるんだったら・・・」答えの一端を言葉にすると混乱に拍車がかかった。
「お父さんのために夫婦仲を元通りにしたいんだ」
「ええ、まあ」
「それは、おかしいじゃないか。財産目当てでお父さんを愛していないお母さんとの夫婦仲を取り持つというのは、ずいぶんな矛盾だぜ」
そうやって他人を批判することが許されるなら、この世界は怨嗟の声で満ち溢れることだろう。
「私は誰も責めたくないんです」
「どんなに善くない事や不都合なことが起こっても、誰にも責任はないという考えなんだ」
「そう言う訳では・・・」
「いや、そう言ってるのと同じだよ。でも、社会の秩序に反する行為を許すべきではないとは思わない?」
「・・・・・・」
「そこは直してもらわないと」
探偵に、社会との向き合い方の原則について諭す権利が有るとしたら、その根拠はどこに在るのだろう。仮に在るとしても、教育者のような言い方が鼻についた。
「まあ、それはそれとして、この件をご夫婦二人の問題に絞ってみると、誰かが証拠を突き付けて懺悔させるのが手っ取り早いんだけどね」
 こんな単純で乱暴なやり方で問題が円満に解決するはずがないという考えが浮かんだ。
「お母さんにそれができるとは思えないしね」
こんな不遜な物言いの裏にある探偵としての経験に向き合うには、ある程度の精神力が求められる。探偵が試しに家庭を壊しかけてみようかと言ったのは、こんなことだったのか。その後に生まれる事態がどのようなものなのか、想像もつかないまま行動している自分が情けなかった。
 混乱から抜け出すために美佳が思いついたのは、本筋の調査の進み具合がどうなっているのか、ということだった。
「お願いした件はどこまで進んでいるんですか?」
「うん、それが・・・、予想もしなかった事態になったので、いち早く連絡したほうが良いと思ってね」それが見え透いた言い訳に聞こえることが美佳を安心させた。
「それで、どうなの?」
「何が、ですか?」
「依頼を取り下げるなら、いつでも構わないよ」
その言い方が気の毒そうなのを通り越して、押しつけがましく聞こえるのが気になった。被害者と加害者が逆転してしまうという珍事に遭遇したのを憐れんでいるからだけとは思われない。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 1866