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作品名:家族ゲーム 作者:奥辺利一

第6回   母親が見知らぬ男と親しげに話していた件
母親が務めている病院は普段に美佳が利用する駅の近くに存在した。夕方近く、バイト先から家に帰る途中で大石病院の反対側の歩道を歩いているとき、病院の通用口に通じている路地から現れた男の顔に見覚えがあることに気付いた美佳の足は震えた。
気が付くと、男の背中を追いかけて走り出していた。
振り返った男の顔は紛れもなく、母親が楽しそうに話し込む姿を目撃した時の相手の顔であった。
男に促されて入った喫茶店が、母親の不実を目撃した場所であったことが緊張に拍車をかけた。
「それで、相談って、どんなことなんだい」技師の男は柔和な笑みを浮かべて美佳の話を促したが、その背後に隠された意図は複雑すぎる気がして、これを明らかにする必要も感じたが、今は先を急ぐ必要があった。
「病院での母はどんな風なんでしょうか?」
「どんなって、何が?」
「働きぶりとか・・・」
「ああ、そうだね。人当たりは良いし、申し分ないって言ったらおこがましいが、まあそういう事だろうね」それは当り障りのない答えだった。
「そうですか」美佳が項垂れるように答えると、技師の表情に疑いの影が差した。
「わざわざ、そんなことが聞きたくて声を掛けたの?」
「いいえ。そうではありません」美佳は、深い考察を省略して、勢いだけで声を掛けてしまったことを激しく後悔していた。
「それじゃあ、お母さんのことが色々と心配なんだ?」技師の男の態度は落ち着いていて、その目は明るく澄んでいる。
美佳は自分の心の中が見透かされているような気がしたが、天祐のように与えられた話を進めるきっかけを逃すわけにはいかなかった。
「ええ、まあ」
「どうして心配なの?」
初対面の男に改めて問い質されると、嘘が暴かれるときの決まりの悪さを覚えると伴に、思いがけず母親に依存していることの証拠を突きつけられるような気がした。
「心配なんかしていないと思います」そう言い放ったとき、美佳の気持ちは決まっていた。
「あれ? さっきは心配だって言ったよ」
「言いましたけど、母は十分尊敬に値する人ですから」
技師は辺りを気にすることなく笑い声を上げた。
「それじゃあ、お母さんは安心なわけだ」
「どうしてですか?」
「親にとっては、子供に信頼されることほど嬉しい事はないからね」
「・・・・・・」
「それにしては、お母さんの話をわざわざ聞いて回るというのは、どうなんだろう」
恐れていたことが現実になろうとしている。切実な願い事が叶う確率は低く、それに比べて起こって欲しくないことが起こる確率はべらぼうに高い。
「やっぱりそう思いますか?」
高い確率でこちら側の意図を見抜きかけている相手の矛先をかわすにも、こんな言い方しか選択肢はなかった。
「気になることでもあったの?」
「いいえ、そういう事では・・・」
こんな言い分で相手を納得させることは出来ないだろうと思う一方で、自分が積み上げてきたものを否定することで、すべては帳消しになるかもしれないという都合の良すぎる思いが過ぎった。
「改めて伺いますが、母に関する良くない噂を聞いていませんか?」
舞台から飛び降りる積もりで聞いたのだから、相手の表情の変化を注意深く観察する必要があるのに、それが十分に出来ないことが悔しかった。
「仮に、お母さんに芳しくない噂が立っていたとして、貴方はそれを信じるの?」
「さあ、どうでしょう」
「自分は、そんなものは信じないな。噂はしょせん噂だもの。有りもしない話に尾ひれがついて、勝手に流通するような場合が多いからね。噂話が飛び交う裏には何らかの悪意が働いていることも多いんじゃないかな」
技師の男の話は十分な説得力を持つように聞こえた。彼が話の中身のように誠実な人間ならば、その点に信頼を寄せてわだかまりを解消することが可能かもしれない。
「それでは、母について変な話を聞いたことは無いんですね」
もう少し違う対応があっただろう。こんなことを聞いてしまえば、知りたかったことがうやむやなままで終わってしまうかもしれないという後悔が襲ったが、技師の答えは驚くべきものだった。
「うん、無いと言いたいところだけど」
「あるんですか?」
「あるとしたら、どうする?」初対面の小娘に使うには有り得ない言葉だった。
「それは、試しているということですか?」
「いや、君のためになりたいからさ」そう言う技師の顔には誠実さの名残が微かに見える。
「だったら・・・」美佳は混乱して唇を噛み、足元を睨んだ。
「事実を話すべきだと言いたいんだ」
「・・・・・・」
「事実を話すことが君のためになるかどうかは分からないから」
目の前の初対面の男が自分を試そうとしているのは明らかだった。それが男からのしっぺ返しだとしたら、どう対応すべきなのだろう。隠された事実に辿り着くには乗り越えなければならないのだが、問題はそれを受け入れた後の展開の予測であり、そのためには男が持っているらしい情報の中身を知らなければならなかった。
「情報には大きな価値がある。それを活かすも殺すも、それを手に入れようとする人間に懸かっているわけだ。まあ、それが偶然に手に入ることもあるが、その場合も同じことだね」
「それで、その情報は私にとって有益なものじゃないということですか?」
「確かなことは分からない。自分は君じゃないから。でも、知らないで済んでいたものが、知ってしまったことで済まなくなるのはよくあることだから」
「知らないことが知らない所で進行しているらしいというのも気持ちが悪いですよ」美佳を悩ませているのが、まさにこれなのだ。
「不確かであいまいな情報も情報の一部であるというのは、その通りだね」
「それらを一つ一つ潰していく必要もあるんじゃないですか」
「気が遠くなるような作業だね」
「そうですか?」
「そうだと思うよ」
 男は暗に、無駄なことは止めて置けと言っているが、そこには何らかの思惑が働いているに違いない。
「でも、これからも続けて行くんだ?」
「さあ、どうでしょう」
「どうしてもと言うなら、君が持っている情報と交換しよう」こんな提案をする相手の心情をどう受け取ればいいのだろう。
「私のものは、みんな不確かなので」いつからこんな風に偽ることを覚えてしまったのだろう。
「それでは、これから、それをどうするつもりなの?」
不確かな情報に振り回されるのは馬鹿げているから、それを吐き出してしまえと言っているらしいが、美佳にその気はなかった。そのとき美佳が義憤に駆られた頭の中で想い描いていたのは、男が疑惑をすべて事実だと認めて罪を贖うことだった。
「母親が子供を裏切ることをどう思いますか?」
「裏切るって、具体的にはどういう事を言うの?」
「信頼を損なうことです」
「それじゃあ聞くけど、子供に信頼されるお母さんとは、どういう存在でなければならないの?」
美佳は返答に窮した。母親に対する期待が普通のものだというのを、どうすれば証明できるのだろう。
「全てに完璧なお母さんなんて、居ないよ」
「居ないでしょうね」
「どんなお母さんだって悩みを抱えているし、困っていることもあるんだ」
ならば、そうだと言ってくれれば良いではないか。陰でこそこそするのは、それ自体が裏切りに等しいのだ。
整理しきれない思いに悩まされながら視線を感じて目を上げると、心配そうに見る相手と目が合った。
「この事をお母さんに話したほうが良い?」
 この一言が二人の関係を暗示するような気がして美佳は逆上した。
「この事って、何ですか?」
「君がお母さんのことを色々心配していること」
「止めてください」
 美佳が必死になって抵抗する姿勢を見せると、技師の男は浮かない表情になって話を続けた。
「お母さんは君の悩みに気付いているんだろうか」
「気付いたほうが良いと思いますか?」
「君はどう思うの?」
美佳が首を捻るようにして項垂れると、自身を支配する感情の乱れに羞恥心が取って代わろうとする。
「どうでもいいです」
自分が母のことで苛々するように、母もまた自分のことで苛々することもあるだろう。そんな面倒臭い事に巻き込まれたくないという思いが勝った。
「たぶん、お母さんは心配していると思うよ。それが君の思っている心配と同じ性質のものかどうかは分からないけど」
「それは、違うでしょうね」
「親は、子供が心配を掛けまいとしても心配するんだ」男は満足そうに頷きながら言う。
「・・・・・・」
「だから、相手のことを気遣うのは必要だが、それが解決できないからと言ってお互いを責める必要はないと思ったほうが良い。おそらく、家族はこうした流れに逆らうことは出来ないんだ」
「・・・・・・」
それが正しい認識だとしても素直に同意することは出来ない。美佳は、自分の態度を何らかの形で示さなければならないという義務感に脅かされたが、同時にそれが引き起こす事態に対する恐怖に口を閉ざさざるを得なかった。
「お母さんに対する心配が少しは軽くなったかい」
柔和に笑っている技師の男の顔から何を読み取ることが出来るのか、美佳の心は迷った。
「君は賢そうだから、今度お母さんに会ったら、心配しないように言っておくから」
 誰も頼んだわけではないのに、どんな意図が有ってこんなことを言うのだろう。
「それも、止めてください」
「そうだね、止めておくよ」
「じゃあ、自分は行くから。君はもう少しゆっくりしているといい」そう言って技師の男が店を出て行くと、入れ替わるようにして入って来たのは母親の真紀子だった。
二人は今も連絡を取り合っていたのだという思いがして、美佳は顔を背けた。頭の中では、このまま気付かれずにやり過ごすにはどうしたら良いかという考えが渦巻いている。
案の定、母親は美佳の席の前で立ち止まった。
母親の顔を見上げていると、自分が悪い事をしているような後ろめたさに襲われた。
「どうしたの?」母親に向かってかけた言葉が、まるで咎めるような口調になるのが悔やまれる。
「ううん。お茶が飲みたくなったから。ここに座ってもいい?」
にこやかに笑っている母親が嬉しそうに見えるのが余計に気分を落ち込ませる。
「どうぞ」
「何だか変な気分ね」
母親と二人だけで外でお茶を飲むのは初めてかもしれない。真紀子が年齢に似合わないはにかみを見せると、それが新たな疑惑に結びついた。
「良くここを使うの?」
母親が注文した紅茶を飲み始めたのをきっかけに、美佳は訊いた。彼女が正直に答えることは無いだろうという思い込みがあった。
「まあ、時々ね」
「誰と?」
「それは、色々よ。友達だったり、一人の事もあるし」
「息抜きの場所は必要だよね」
 これは労りの言葉ではない。母親が誤解の上に成立する安らぎの表情を見せたから、美佳はますます落ち込んで行った。
「疲れた?」母親は娘の元気の無さを気にしているらしい。
「うん。少し」疲れたと言うのが口癖だったのを思い出させる。
「学校はどう? 楽しい?」
「あんまり・・・」
なぜ法学部を選んだのだろう。入学して数か月で、法律家になる夢は消えていた。厳格な学問に没頭したいと思っていたのに、落とし穴がいくつもある理屈っぽさに付いて行けないと感じたから。
「今頃、お父さんはどうしているかしら?」
今なぜ、父親のことをわざわざ思い出させることを言うのだろう。これも一種のアリバイ工作だと思ってしまうのは考え過ぎだろうか。
「見つかった?」
母親は将来進みたいと思う道が見つかったかと訊いている。既に夢を諦めたことを知っているのに、おくびにも出さないのを優しさと呼べるのだろうか。
その時美佳の頭に浮かんだのは、「普段から何故、この女性は怒らないのだろうか」ということだった。
美佳が黙っていると、母親は念を押すように続けた。
「良い人が見つかるといいわね」
美佳の頭に白い霧のようなものが吹き募った。
「どうして?」何故こんなにムキになってしまうのだろう。ささくれ立った感情がすぐに制御不能になってしまうのは惨めすぎる。
「どうしてって・・・」
「一人じゃ、詰らないから」
「それもあるし・・・、出会いは人を成長させるって言うじゃない」
この女性は、わざわざこんなことを言うために待ち伏せしていたのだ、という考えが浮かぶと涙が零れそうになった。


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