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作品名:家族ゲーム 作者:奥辺利一

第2回   彼氏らしい人物との会話。
 愛撫を受けている間中、美佳は目を開いていたわけではないのに、自分はこうやって相手の表情をつぶさに観察しているのだという錯覚に捕らわれている。
行為の間も冷たく覚めているというわけではない。敏感な器官への刺激によって生まれる快感は緩やかに押し寄せ、次第に高まって自分を無意識の空間に解き放ちつつあるのに、その一方で拭い去れないでたらめな感覚に対抗するように、感じるだけという受身の姿勢とは違う自分の存在を意識させるのであった。
 行為の最中の美佳は、ジェットコースターで急斜面を一気に駆け下るときの、重力から半ば解放されて体が浮き上がるような感覚や、体と意識がゆったりと波間に漂うようなさまざまな感覚に襲われるのだが、それらの中で最も刺激的なのは行為に夢中になっている相手の、時には苦悶し、時には放心したような表情を密かに観察することであった。そのような経験を繰り返す毎に、相手の姿を観察せずには自分の快感を手にすることができないところに行き着くのではないかという思いは深まった。
「なにを考えてんのさ」
着替えの途中で、ぼんやりと手を止めたままの美佳の背中に向かって、彼がベッドの上に体を投げ出したまま声を掛けた。
「別に何も」意識の半分を他者に占領されてしまったような感覚を説明することは不可能だったから、結果的に嘘を吐かなければならなかった。
「そうは見えないぜ」そう言いながら若い男は薄ら笑いを浮かべている。
美佳にとってそれは優しさの象徴なのではあるが、そればかりではなかった。嫉妬に駆られたときも彼は笑っていたし、怒っているときでさえそうしていることがあった。彼の特徴的な笑い方はさまざまな感情に起因していて、通常の感情と直接的につながった変化の表れとは言い難い面があった。おそらく彼自身は感情の起伏が表情に表れるのを嫌っているのだろうが、それがいつも成功しているとは限らないし、彼の性格を分かり難くするという弊害をもたらしていた。
「これからどうしようかと思って」話のきっかけを作るのに相応しい言葉に思い当たった美佳は続けた。
「いつも、これだというのは浮かばないんだよね。だから・・・」振り返って相手を見たが、その姿は何故かぼんやりしている。
「そんなもんさ。することが決まっているときは、そんなことを考えたりしないんだから。考えがないから考えなければならないのさ」
 そのとき美佳には、彼がいつも考えてばかりいる自分を攻撃するためにそう言ったのではないかという考えが浮かんだ。
「考えがない人なんかいる?」
「ああ、いるだろう。絶えず周りに左右されている奴はごまんといるのさ」
「でも、自分で考えて結論を出すんだから・・・」美佳は自分が何を言いたいのか完全に見失っているような気がして口を噤んだ。
「考えたからって、良い結論なんかでないよ」
「そうかもしれないけど、だからって、考えないわけにはいかないよ」
「だから、まあ・・・、そんな状態を考えると言えるかどうかなんだよな」
「どういうこと、それ?」
「ただ迷っているだけなんじゃないかってことさ」
「だって、それは・・・、仕方ないんじゃない」何かに脅迫されるような気がして、美佳は拗ねるように言った。
「迷うことからは逃げられないってのか?」
こんな彼の畳みかけるような鋭さが今は呪わしかった。自分は迷ってばかりいると囁く声が聞こえたような気がした。仮に、迷うことから逃げられないのだとしたら、ただ迷っているだけの状態を、どうやって整理すればいいのだろう。
「それは、まあ・・・、だったら、どうすればいいの?」
「まあ、どうもしないことだよ」
「なに、それ」
 美佳が呆れたように声を張り上げると、彼は片方の口角を吊り上げるようにして口元を歪めた。
「いつまでも迷うのは、そいつの勝手だ。だが、迷うか迷わないか、そのどちらかしかないんだ。中間はない。だから、自分が満足していれば、それで十分なんだ」
「満足なんか・・・」
「なに?」彼の顔は笑っていたが、声の響きは朽ちることのない陶器の肌のようにざらざらしている。
 迷うことによって与えられる満足とは、どんな状態を言うのだろう。そんなものは知りたいとも思わないが、迷いの先にも行き着くところはある筈だと考えることと矛盾することなく共存することは可能なのだろうか?
「さあ、それで何がしたいの?」と言う彼の得意そうな顔に神経を逆撫でされるような不快感を覚えたが、そこにも子猫を掌に抱くような手触りを認めるのは異常なのだろうか?
「何でもいいから話をしよう」と言うのは、話が聞きたいからではないことが多い。発信するものが枯渇しているのを隠蔽するためかもしれない。
「それは良い」少し時間をかけてから彼は答えた。
その顔はいつになく柔和だった。そんな表情のわけが、何の関心も抱いていないからなのだということに気付いたのは、後のことだった。
 美佳は話を進めようとしたが、どうすれば自分の気持ちが正確に相手に伝わるのか、腐心するのは恐ろしいほどの難行のように思われた。
「どうすればうまく伝わるのかな」
「さあ、どうしたって伝わるものは伝わるし、伝わらないものは伝わらないのさ」
彼は考えることさえ無駄だと言っているのかもしれない。確かに伝わるときは伝わるのだ。伝わったと実感するのは瞬間のことで、たちまちに過ぎ去ってしまうから、後になってそれが偽りだったのかを検証することも叶わない。彼は伝えようとすることの無駄を指摘したいのかもしれない。
「それは仕方がないことなんだよ」
 息苦しい閉塞感の中で彼が放った一言が、精緻でありながら傲慢で脆弱な秩序に風穴を開けるきっかけを与えてくれたような錯覚に、美佳の気分は明るくなった。
「そうよ。そうなんだわ」
 美佳は以前から、家庭内のことはプライバシーに関することだから胸の奥にしまって置かなければならないものだと自分に言い聞かせてきた。口に出せない事実を抱え込むことが自分の存在の証であると考えていたこともあったが、最近になって、その考えに少しずつ変化が現れ始めていた。プライバシーを原形のまま留めて置くためには、しばしば秘密と自分の関係を点検し直し、その度ごとに秘密のまま保持する必要を確認する作業を繰り返さなければならず、その孤独な作業を行うことに倦みはじめると、秘密が自然に流出することを望むようになったが、それが叶わないことを知ると、次第に自らの手で暴いてしまいたいという衝動が現れるのであった。
 その秘密とは両親に係ることであり、美佳はしばらく前から両親の不仲を気にしている。特に母親の父に対する態度の中に納得し難いものを感じていた。
「それは、こういうことじゃないかな」
 自分の推理だと断りもしないで、石黒卓はこんなことを言った。
「二人の仲が悪いのは、一番傍にいる君が感じている通りなんだろう。君は二人の仲を元通りにしたいと考えているようだけど・・・」相手が自分の言葉を聞き逃すまいとしているらしいと気付いた卓は眉をひそめるようにしたが、その様子は改めて言葉を選んでいるようにも見えた。
「どうすれば良いか考える前に、不仲の原因がどこに在るのかを調べて見る必要があるだろう。何か心当たりはないの?」
 彼氏の言うことは尤もらしく聞こえたが、美佳に思い当たる節はなかった。原因が分かっていれば単純に解決できることもあるだろうが、自分の経験から人の心が容易く変わるのを想像するのは難しいような気がした。
 美佳が考え込むしぐさを見せると、彼氏はお決まりのシニカルな笑いを浮かべて、こう続けた。
「まあ、不仲の理由として考えられるのはいろいろあるけど、大概は性格の不一致ということで片付けられてしまうのさ。もともとは他人の夫婦の性格が違うのは当たり前のことなので、誰もそんな言い訳を真に受けたりはしない。真相はずっと複雑なことは誰だって知っているが、そんな曖昧な理由が通用するのは、誰も他人の問題に首を突っ込みたいとは思わないからなのさ」そう言うと、石黒卓は仕様がないと言うように頭を左右に揺らした。
美佳は、相談する相手を間違えたかと後悔し始めていた。
「それより問題なのは君の方さ」
「わたし・・・?」
「当事者である両親は、そんなに深刻には考えていないんじゃないの」
「どうして?」
「世の中なんて、そんなものさ。深刻だと考えられる問題は、いつもうやむやなまま周りをはらはらさせるだけで終わるのさ」
 彼氏の言葉に従えば、美佳は必要以上に振り回されているということになってしまうが、そうならないためにどうすれば良いのかが知りたいのだ。
 両親は、美佳の心配をよそに、表面上は物分りの良い親を演じていたが、彼らがそれぞれの秘密を抱いているのは疑いようのないことであった。そのせいで、まるで何かに脅かされるように、家族の間では余計なことは喋らないように口を慎んでいるのだが、穏やかさの陰に見え隠れする不審な態度は、子供に知られては困る何事かを必死に隠していると言うより他なかった。つまり二人は、自分たちの関係性を公にしないことで美佳を蚊帳の外に置いているのだ。しかもその彼らだって、特に同盟しているわけではなく、お互いに干渉しないように努めながら娘を阻害していた。
 美佳は、どんな些細なヒントでも手に入れたいと、彼氏のほうに目を向けて注意深く観察しようとしたが、自分の中にそれを妨げようと働くものが存在して、直視することは難しかった。美佳が知りたかったのは自分の悩みと苦しみが彼氏に伝わっているのかどうかであったが、自分の悲しみを共有する人物が存在するなら、いつどんな姿で現れるかを知りたかったのだ。彼女は未だそのような人物に出会ったことがなかった。
 美佳の挙動不審な態度を見下すように困惑した表情を浮かべている彼氏に美佳は尋ねた。
「どうして、親は子どものことを分かろうとしないんだろう」
 すると彼氏は真面目な顔で思案するような素振りを見せたが、暫らくすると何かを思いついたように、せわしなく目や唇を動かし始めた。
「それは、自分たちの立場が危うくなるのを本能的に恐れているからさ」
「ええーっ、どういうこと、それ?」
「いや、あくまでも一般的な話だよ」美佳の反応に驚いたように彼氏は付け加えた。
「自分たちが無力なのを見たくないからさ」
「どうして無力なのを見ることになるの?」
「子供の悩みは、すべて自分たちに原因があるからだよ。それを知っているから、子供にはなるべく本当のことは知らせたくないと思うのさ。そのためには子供の悩みや心配に気付かない振りをするか、適当なことを言って誤魔化すしかないことを知っているんだ」
「それって、悲しすぎない?」
「悲しいかどうかは分からないが、それ以外に無視する原因があったとしたら、もっと悲しいだろ」
「だって、子供に嘘を吐くなんて、おかしいよ」
「別に騙そうというわけじゃない」
「じゃあ、どうして?」
「子供を守るためなんだろう」
「そんなことで守れるの」
「さあ、守れることもあるだろうし、守れないこともあるだろうね」
「だって、守ろうとして、結果的に苦しめるって、どう考えたっておかしいでしょ」
「まあ、そうだね」
「守るつもりで阻害する親からどうすれば逃げられるの?」
「そうだよ」
「何が?」
「逃げ出すんだよ。どこまでも、納得できるまで、逃げるしかない」
「そんなことが出来る?」
「さあ、どうだろう」
「そんなの無理よ」
「だったら、親の考えを改めさせるしかないのかもな」
「どうやって? どうぞ私のことを理解して下さいって言うの?」
「君に覚悟があるなら、親の素顔を炙り出すに限るんだがな」
「覚悟が必要なの?」
「まあ、覚悟というのは大袈裟かもしれない。予め心の準備があれば、驚くには当たらないわけだ」
「心の準備・・・?」
「ああ、そうだよ」
「どんな?」
「さあ、それは、分からないが、とにかく最悪の事態を想定していれば良いだろう」
「最悪の場合ね・・・」


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