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作品名:家族ゲーム 作者:奥辺利一

第11回   見えざる仇敵に会う。
美佳は自分が持っているものの中で最も地味な洋服を選んで出かけて来た。自分の体が僅かばかりの白と灰色と黒に覆われていると、フォーマルという言葉を思いついたが、気分は真逆だった。
 前の晩は珍しく父親の帰りが遅く、母と二人の夕食になった。
「最近、物価が高くて困るわ」と言いながら食卓に運ばれてきたのはイタリア風の魚料理だった。母親は料理が得意だ。料理で人を喜ばせるのが好きなのだろう。色々なものを見様見まねで作るらしいのだが、これはまずいと思ったことが無い。
「父さん、遅いわね」
二人で食卓に着くと、不在の人の話題になった。美佳にはどうしても聞いて置きたいことが有るような気がしている。
「何か言ってなかった?」
「何を?」
「遅い理由」
「仕事の付き合いなんでしょ」
母親には気にする素振りも見えない。これが演技なのだとしたら極め付きの名演だと言わなければならない。美佳には、この際だから聞いて置きたいことを訊いても構わないだろう、という気持ちが起こっている。
「父さんって、真面目?」
何を言い出すのかと言うように美佳を見た母の目は、仕事で疲れていることを差し引くと、涼やかだった。
「真面目なんじゃない」期待した答と違う気がしたが、これ以上聞くのは憚られた。
母親は、「あなたはどう思うの?」とは訊かなかった。その代わりに、「明日はどこかに出かけるの?」と訊いた。
美佳はこれまでの経緯を洗いざらいぶちまけてしまいたい衝動に駆られたが、その後の修羅場が胸に迫り、とても出来なかった。
子供はいつの日にか、親との間に一線を引かなければならないが、それはいつどのようにして起こるのだろう、ということが美佳を悩ませていた。意識的に可能になるとは考えられない。自分はいつだって、その一線を意識しながら生活してきたのだからと言えば、嘘になる。しかし、折に触れて抱く感慨は、それが繰り返される間は、絶えずそうだったと言えるのではないだろうか。

指定された場所は一時代前の香りがプンプンする古ぼけた喫茶店だった。入口の脇にレンガを積み重ねた花壇の植物は枯れかかっているし、入口のドアに覆いかぶさるように枝を伸ばしている樹が松だというミスマッチな絵柄に、時代錯誤という言葉が思い出される。珍しい木の床を踏みしめると砂ぼこりを連想させる音がする。四方のレンガの壁が薄汚れて見えるのは、隙間なく書きつけられた悪戯書きのせいだ。
昼下がりの店内は閑散としている。
年老いた店主の「いらっしゃい」と言う声を脅しの文句のように聞きながら、美佳の足は客の居ない店の奥の暗がりへと向かった。
「待ち合わせ?」と声を掛けてくる老婦人も、美佳の暗い顔を訝しげに見ている。
これから遭遇する場面の対処法を十分に練って来たはずなのに、徒な胸の鼓動に邪魔されて何も考えられない。頭が真っ白になると言うのはこの事か。取り敢えず最低限の準備として心に決めたのは、相手の女性の素性と性格を把握する事であった。そのことを繰り返し考えていると、難しさが骨身に染みるようだった。父親との関係に基づいて自分がどう振舞わなければならないかなどは、その次の問題で、相手の影の大きさに今更ながらおろおろするばかりであった。
現れた女性は、写真に写っていたのと同じベージュ色のコートを着ていたから、木のドアを厳かに押し開けて入ってきた瞬間に美佳は認識した。
入口に立って店内を見回した女性は、すぐに美佳を見つけると迷うことなく近づいて来た。美佳の後悔は頂点に達したが、今更逃げることなど叶わない。
「吉川美佳さんね」
美佳をしっかりと見つめて呼びかける声の主は、そんなに年齢が離れているわけではないのに、自分よりずっと年上の印象だ。声にこれと言った特徴を見出すことはなかったが、或る種の人の声には聞く者の心を否応なく掴んでしまう力が有るのを教えられる気がすると、初対面の人物との距離感を麻痺させる魔力のような力の存在を思わせた。
美佳が、金縛りにあったように、身じろぎも出来ないまま頷くと、相手の表情が微かに緩んだように見えた。その瞬間に美佳は、頭の中で地道に積み上げて来たものが崩れて行く恐怖に、育ちかかった信頼を裏切られるような苦しさと忘れかけていた敵意が改めて募った。
「私が西田ひかり。よろしくね」
なぜこんな風に、何のわだかまりも無いような挨拶ができるのだろう。予定では相手の顔を睨みつけてやるはずが、思うに任せない。
「すぐに分かった?」
何が分かったのかと訊いているのだろうかと頭をフル回転しても、浮かんでくるのはすべて見当違いのものばかりだった。
「ここの場所よ」
言葉にまつわる約束事を無視した会話の進め方は、シンデレラを困らせて澄ましている意地悪な姉たちのようだ。
「気に入った?」
「ええ。でも、少し・・・」
「そうね。古すぎるわね。でも、そこが好いとは思わない?」
美佳は改めて店内を見回す。カウンターの中で休憩を取っているらしい老夫婦の姿が垣間見えた。
「嫌いではないです」こんな答えのどこが受けたのだろう、相手は軽やかに笑った。
序でに目を細めたまま、「いつもこんな格好をしているんだ」と言う。美佳の服装が地味すぎると言っているのだ。
「いいえ。違います」
「今日は特別なんだ」と言って、西田ひかるは再び笑った。まるで慣れ親しんだ友人のように。美佳はそれを止めたいと思った。
「どうして、笑うんですか?」
「気にしないで。分かるような気がしただけだから」
何が分かると言うのだ。相手が意味不明な言い回しをするたびに、美佳は距離を保つように身構えてしまう。
そのような心の動きに無頓着そうに、ひかるは軽快に言い放った。
「さあ、聞いてもいいわよ」
「・・・・・・」
「色々聞きたいことがあるんじゃないの」
目の前の女性の屈託のない率直さに美佳は目を見張った。そのせいで頭の中を整理する間もなく、真っ先に思いついたことを口に出した。
「貴方と飯岡さんとは、どんな・・・?」飯岡とは例の探偵の姓である。
「どんな関係なのか、聞きたいの?」
相手がふと見せた余所行きの畏まった顔を見ると、困らせてやろうという陰険な思いが頭をもたげるのを省みるどころか、快くさえ感じる。
飯岡は二人の関係を明るみにした張本人である。恨みに思うのは当然だろう、と考えるうちに、その探偵を使って調べさせたのは自分だということに気が付いた美佳は愕然とした。それにしても、自分が恨まれるとしたらそれこそ逆恨みと言うもので、そもそもの問題の根っこは二人の不適切な関係にあるのだ。
美佳の思考は、自己防衛のための正当化に走った。その上で、相手を見下すためではないが、西田ひかるが釈明する積もりなら、その必要はないと思っている。
「いいえ。何故、私に会おうと思ったのですか?」
「うん、そこなのよ。そこが肝心なんだけど、今はダメ。そのうち分かるようになるから」
自分の気持ちを説明できないとは、どういう事だろう。ただ相手をいたぶって楽しもうというなら、とんだ性悪女だ。
「私の父のことを良く知っているようですね」努めて冷静に装いながら美佳は用意していた言葉を口に出した。
「いいえ。そうでもない」相手は何故か、ばつの悪そうな表情を見せた後で、気を取り直すように表情を作り変えて、こう付け加えた。
「どれが正解なのかは微妙だから」
それは奇妙な答えだった。美佳は、人間は色々な顔を持っていると言いたいのだと受け取った。
「良き父親が・・・」という考えが自然に浮かぶのを振り切るのは容易ではなかった。目の前の女性が証人の一人かも知れないのだ。
「いろいろ聞いてもかまわない?」
「はい。応えられる範囲内のことであれば」と答えて美佳は後悔した。相手の反応を探ると、含み笑いをしているように見える。
「貴方って、素直なの?」
「さあ、どうですかね」答えられない問いを投げかけられれば、返す言葉の口調も投げやりになる。
「あなたにとっては、どうでも良い事よね」
この時美佳が抱いた感想は、「これは気遣いなどではない。嘲りなのだ」というものだった。
「聞きたいのは、そんなことですか?」
美佳が挑みかかるように言い放つと、相手は、そう慌ててはいけないと言うような鷹揚な態度を見せた。
「いいえ。でも、それも聞きたいことではあるわね」
美佳は怒りで立ち上がりそうになった。初対面の、僅かばかり年上で、しかも家族の障害となっている人物に翻弄される筋合いはない。
「どうして、私たち家族に関心を持ったりするんですか」父親に余計な関心を持たないでくれとは言い難かった。
「私たち家族に恨みでもあるんですか?」
ありったけの勇気を振り絞ってそう言う美佳の声は、僧侶の声明のように震えた。投げかける言葉が相手に対してどんな効果を発揮するのか考えなければならないのは当然のこととして、誰もがその時々に相応しい言葉を選ぶことが出来るとは限らないし、この時の美佳にとっても狂おしほどに疑わしかった。
「ええ、ずっと恨んでいたわ」
何気なさを装う人間が発する言葉の激しさに美佳は衝撃を受けた。
「どうして・・・?」
「驚かなくていいのよ。貴方には関係のない事だから」
こんな言葉が慰めになる筈もない。これがせめてもの気遣いだと言うなら、その前に果たさなければならない義務を履行すべきなのだ。
「おかしいじゃないですか。私たち家族があなたに何をしたって言うんですか」心の中で反芻する間もなく、思いが直截に迸り出た。
すると、相手は憔悴したような表情になった。
その様は美佳に罪悪感を抱かせるほどのものだったが、美佳の頭に、これは千載一遇の機会かもしれないという考えが閃いた。
「貴方しかいないんです」壊れかけた家族を元に戻せるなら、その第一番目のカギを握っているのが目の前の女性であることは間違いのない事であった。
西田ひかるは、押し黙って考える素振りを見せてから、顔を上げて美佳を見た。
「あなたは誤解しているのよ。でも、それは貴方のせいじゃない」
まるで諭すような言い方が美佳の神経を逆撫でにする。自分の苦悩を誰かのせいにする積もりだったなんて、根拠のない事を澄ました顔で言うことが出来るのは何故だろう。
「誰のせいでもありません」
自分は卑怯者ではないと宣言するつもりだったが、精一杯の抵抗のように惨めさを伴うだけだった。
「家族に依存しているってどんな気分?」西田ひかるは再び世迷言のような事を言い始めた。
「別に依存してるとは・・・」その気になれば、いつだって自立することが出来るはずだった。
「そう? だったら、支え合うとか信頼するとか言い直してもかまわないわ」
家族とはそういうものだという話を散々聞かされたことが思い出された。
「毎日が楽しい?」
「そんなこと・・・」
「考えたこともないと言いたいの? それとも、楽しいかと考えるのが変な事なの?」
「・・・・・・」
「楽しんじゃ駄目なの?」
「それ以前に解決しなければならない問題があるじゃないですか」
「どんな問題?」
無頓着さに呆れ返る思いがするのを、どうやってぶつければいいのだろう。さすがに、「人生に問題は付き物だ」とは言えないし、「貴方が問題の核心を成しているのだ」とも言えなかった。
「貴方には何の問題も無いのですか?」と切り返すと、そう来たかと言うように微笑んだ。
「問題にする積もりなら問題になりかねないことは山ほどあるかも」
どんな気持ちで生活すると、こんな禅問答めいたことを平気で言えるようになるのだろう。
「毎日が楽しくて仕方が無いんだ」嫌味を言うつもりが無いのに、こう言うと溜飲が下がる気がした。
「あなたが今、欲しいと思うのは何?」これが報復だとしたら、なんてちんけなんだろう。
「何でしょうかね」欲しいものは、すぐには思いつかないが、捨ててしまいたいものはずいぶん有りそうな気がした。
「仮に有ったとして、その価値がちゃんと分かっている?」
何の権利が有って試すようなことを言うのだろう、と思いながら美佳は考えた。
「欲しいと思うこと自体は価値とは無関係でしょうね」なんだか相手に妥協した気がして、軽く落ち込んだから、続けてこう言って遣った。
「でも、欲しいと思わなければ始まらないわけだから」
「あなたは頭が良いのね」
「そんな事、親にも言われたことがありません」
「お母さんは元気?」
西田ひかるがそう言った時の表情を生涯忘れないだろうと美佳は思った。自分が原因で苦しんでいる相手のことを気遣うというのは虫が良すぎる。そのような行動は偽善とも呼べないだろう。そう考えながら心惹かれる自分の存在を感じるのは屈辱的だった。
「母を知っているんですか?」
「ちょっと確かめてみただけよ。また会いたくなったら、飯岡さんにでも連絡して」謎の言葉を残して西田ひかるは喫茶店を出て姿を消した。


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