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作品名:今という時代(若者の政治的発言に期待して) 作者:奥辺利一

最終回   1
長い歴史の中で、今を措いて高度な文明を享受している人類は存在しなかったと思われる。過去に誕生した数多くの偉人によって成し遂げられた業績は目覚ましく、一部の例外を除いて、人類の幸福に貢献してきた。それらはしかし、人類全体の幸福をもたらすものではなかった。いつの時代と言っては語弊があるから、こう言っておこう、人類が欲望に目覚めて以来、優れた道具や科学技術は何者かの専有物として扱われることになった。そのことが富や権力の源泉になるからである。いつの間にか人類の共通の遺産であるはずのものが、人々の暮らしに対する貢献と利益の享受は、欲望に魅入られた人々の強欲と表裏一体のものとなったのである。数多くの科学者の中には、それを望んだ者がいるかもしれない。それを確かめるのは難しいから、そのような者はごく限られた変わり者だということにしよう。

 歴史上の一時期を除き、国家の運営は実力者に握られてきた。それが共和的な政治形態においてもそうだ。
 政治家と呼ばれる人々は、何を目指して政治を志したのだろう。その中でも、為政者と呼ばれる人々はエリート中のエリートであるという感想は、歴史書の中に埋もれてしまったような感がする。歴史の中には国の統治に係わった多くの偉人が登場する。彼らがどのような器量を持った人物なのかは、会ったことが無いから分からないが、現代の政治家と比べてみることはできるのだろうか。それは酷なことなのだろうか。
 為政者の宿命とは何か? 彼らの弱点は、常に国家の運営という重責にあえがざるを得ない点にある。為政者が自国の利益を追求するのは至極当然のことである。過ちを恐れずに言えば、高い道徳心を要求される国家の運営は、国家という抽象的な組織の存続や繁栄に寄与するものでなければならず、いかに優れた為政者であっても、その良心は人類全体に及びようがない。大国がしのぎを削り、格差が顕著な世界の中で、共通の利益は存在しないように見える状況下に置かれる国民はいつも近視眼的である。己の暮らしが脅かされるのを恐れるのは当然の権利だと思い込む。従って、世界の平和は彼らにとって欠くべからざるものであるが、平和のために自分の暮らしを投げ出しても構わないとは考えられない。世界の平和と自身の繁栄は密接不可分なものであると考え、同時に成り立つものだと考えがちであるが、果たしてそうだろうか? おそらくは、平和の尊さを訴えはするが、自ら身を切る覚悟をしたくてもできないだろう。遠くの犠牲には目をつぶることもできるが、それが自分たちの身に降りかかることまでは甘受しない。民主主義が市民の権利を最優先する仕組み(実際はそうでないことが少なくない)であるなら、市民に選ばれた政治家は、この権利を損なうことは許されない。グローバル化が促進する国際社会において国家の利益が対立するのを避けることは難しい。この場合の国家の利益とは国民の利益と言うことが出来るから、為政者は国家を代表して他国との競争に乗り出してゆかなければならない。
 このような状況下において、国内向けの様々な政策は国力の強化(それは何も軍事力の強化を意味しない)に寄与するものでなければならないが、そのことを怠りがちな政府は他国の脅威を隠れ蓑にする恐れがある。国内政治のほころびや失政を国民の目から誤魔化すために、他国脅威論的な世論を喚起するのだ。それは歴史を振り返ってみればよく分かることだ。
「権力は腐敗する」とは言い古された言葉であるが、それは今日でも変わらないらしい。権力の腐敗がなぜ起こるのか、今一度真剣に考えてみる必要がありそうだ。かつては「政治不信」ということもよく叫ばれたが、それが常態化すると、このような言い回しも聞かれなくなってしまった。このような移り変わりが意味するものは、政治に対する期待の喪失に他ならない。それではこの国の国民の未来を現状の政治現象に委ねてしまうことに、恐れや不安を抱かなくても構わないのだろうか。おそらく、「そうだ」という声は少数派のはずだ。
 ひょっとすると、国際的に困難な時代だからこそ、為政者にはますます多くのことが期待され、そのために小さな間違いは大目に見る必要があるということなのだろうか。それが一つや二つなら目をつぶることも有るかもしれない。しかし、自己都合の恣意的な権力の行使が目に余る場合は、今こそ国民の声という鉄槌を下す必要がありそうだ。

 その昔、若者の大半は反体制的な考えを持ちながら、考えるばかりではなく、積極的に行動するものも少なくなかった。彼ら若者の多くは、少なからぬ危機感を抱いていた。彼らと現代の若者の心が決定的に離れてしまったとは思わない。時代背景はいささか異にしても、現代の若者にも不安や焦燥はあるだろう。その危機感を統合するのを阻むものは確かに存在する。それがコミュケーション能力だと言い切ってしまっても差支えないかどうかは分からないが、若者特有の感受性の特徴は、他者の痛みに対する共感や同情ではなかったか。それを原動力として連帯することは可能なはずなのに、現実の若者は政治的、あるいは社会的な孤立を望む傾向にあるのかもしれない。
 信頼のおける政治の実現を目指すなら、正しく政治を監視する目を持ち続けるための政治に対する国民の関心を呼び覚ますほかにない。この国の未来を担う若者に対する期待は大きいと言わなければならない。
 
 いつの時代においても、権力者が住民に対して従うことを要求するのは変わりがない。ここ数百年の間にマグナカルタなどが成立し、その仕組みが少しづつ変わってきたようには見えるが、要求を正当化する手続きが変わったということだけで、その本質は変わらない。統治機構が住民に奉仕するだけのものだとしたら、誰が政治家を目指すだろう。だからと言う訳ではないだろうが、政治に携わる者にはさまざまな特権が与えられている。しかし、それは国民との契約に基づくものであって、国民の機嫌を損なえばいつだって反故にされるものでなければならない。
 法律の病。「悪法も法なり」という言葉がある。法治国家という言われ方もする。そこでは個人の立場よりも法の支配が優先されなければならないらしい。それはそうだろう。国家の秩序を維持するためにてんでんばらばらな規範が横行したのでは収拾がつかない。しかし、法律が個人の権利や立場と対立する場面は少なくない。法律によって定められた制度や基準が現実に起きている現象と矛盾する場合に、法律を盾にして国民の要求を受け付けないのはおかしいというのは、誰でもが理解しうる理屈だ。ところが政治は平気で多くの国民の声を無視する。
 これは架空の話ではない。昨今の疫病対策などについても実際に起こっているのだ。特定の公務員の定年制度の変更でも起こっているのだ。第一に、国民が納得する説明ができないまま政権を担い続けることが出来るということ自体が、実に不思議なことだと言わなければならない。勿論、説明のできないことがあるのは仕方がない。しかし、自らが提案した法案の必要性をまともに説明できないにもかかわらず強引に採決しようというのは、民主主義を無視した暴挙である。このような性格の政権に民主主義について語る資格があるとは到底思えないし、民主主義国家の政治を担う資格がない。
 そこで我々は深く反省しなければならない。こんな醜悪な政治を許しているのは、他ならない日本国民そのものなのだ。


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