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作品名:奇妙な連中 作者:奥辺利一

第5回   5
再会へ行くと、そこに留美子の姿はなく、アルバイトの女の子が読みかけの週刊誌の上に頬杖ついて居眠りしていた。いつも通りの照明が点いているのに、店の中はいつもより暗い印象だった。カウンターの内側の、いつも留美子がいるあたりが特に暗かった。沸騰した薬缶が乾いた蒸気の音を立てて、クーラーのやかましい風の音と調子を合わせている。店の中を歩きながら布製の笠を被った電灯の下の絵やポスターを眺めていると、ぼくの足音に気づいたらしく、振り返ると幸恵がこっちを見ていた。「驚いたわ。起こしてくれればいいのに」ぼくは帰ろうとしていたところだった。幸恵は恥ずかしさを振り切るように小刻みに体を揺らして居住まいをただした。「帰ろうと思ったところさ」「いいじゃない。暇なんだからさ。話でもしてったら」ぼくは素直に承知した。カウンターの端に腰を下ろすと「コーヒー?」と注文を訊かれた。しばらく考えてから水だけ貰った。「コーヒーぐらい奢るわよ」幸恵がそう言うのを聞いても嬉しくはなかった。疲れていて何も口に入りそうになかった。「遠慮しないで」遠慮してみたところで如何ということもないという思いがするのを押し返さなければならなかった。いつものように幸恵が色々聞いてくるのが想像されて煩わしかった。口を利くのさえ億劫で、一言喋るのに途方もない意志の力が要求されるのに驚いた。無意味なことを話すのにどれだけの覚悟が要るというのだろう。恐れが言語中枢を麻痺させてしまうのがよく分かった。ぼくが答えるのを嫌がるので、幸恵はまた週刊誌をめくり始めた。幸恵の化粧した顔をぼんやり眺めていると、急におかしさが込み上げてきて、笑いを堪えると、空っぽの胃袋に痛みが走った。「何がおかしいの」ぼくが笑うと幸恵は露骨に不快な表情を見せた。途端におかしさは消し飛んでいった。なぜ笑い出したのか、考えてみても分からなかったが、笑いだけはいつまでも消えなかった。押し殺した笑いがげらげら馬鹿笑いになった。多分に挑戦的な笑い方だった。いつまでも笑っていると、幸恵は僕の頭がおかしいと言った。本当に気が狂いそうな気がした。笑いが収まった後で、これが正気の状態なのかと疑った。正気の状態だと思い込もうとしても、そうだという確証はなかった。胸の鼓動がはっきり聞こえるのが分かった。耐えきれずに立ち上がると角が店に入ってきた。アルバイトの帰りで、いつもより青ざめて見えた。一枚ガラスの扉を肩で押し開くようにして黙ったまま入ってきて、黙ったまま僕のわきの椅子に腰を下ろしかけた。ぼくは宙ぶらりんの格好で立ったまま、このまま帰ってしまうのもどうかと迷っていた。角との間には新しい話題がありそうにもなかったが、彼と幸恵の間には二人以上に話題もないらしいので、幸恵の勧めに従って帰らないことにした。帰らなければならないという要求は帰らないでいる理由と等しいか、それ以上に希薄だった。帰るにしろ帰らないにしろ、何かきっかけがあればそれでよかった。幸恵は考えていたほど怒ってはいないようなので、彼女をイライラさせた償いのつもりもあって、そこに留まることに決めた。角がコーヒーを注文すると、幸恵は頼みもしないのに僕の分まで淹れてくれた。とても飲む気になれなかったが、角は黙ってばかりいるので、手持無沙汰から一口すすってみたが、胃液が食道を駆け上り、喉元から口中にどっと流れ出すような感覚が起こって気分が悪くなった。突然、留美子に会いたいという欲求が勢いを増してきて、その強大な力に押しつぶされそうだった。「留美子さん、遅いわね」しびれを切らしたように幸恵が言う。「どこへ行ったの?」そう訊くのは自然な流れのはずだった。「熊谷さんと二人で出て行ったのよ。もうずいぶんになるわ」それはあまりに残酷な仕打ちだった。この皮肉な現実からの挑戦に対する防備を整える間もなかった。再び帰ろうとして立ち上がり、何かを言わなければならないと思ったが、言葉にはならなかった。とっさに見た角の顔が薄ら笑いで歪んでいるように見えた。
 夜道はひときわ暗かった。徒に早足になって、ときどき盛り上がったアスファルトに躓いた。アパートの部屋に帰ろうとして、まるで見当違いの方角へ向かって歩き続けた。部屋では邪念と妄想が僕の帰りを待っているのに違いない。遠くの背丈の低いビルの明かりや街路灯が空っぽの魂を引き寄せる。そうでも考えなければ、冷え冷えとした虚ろな感覚と混乱した熱い感覚が同時に僕の内部にあることを説明することはできない。空っぽの魂は、抵抗し難い磁力線のような力に引きずられながら、そのような力が存在しないことを承知していた。狂気に似た熱い感覚は、その不思議な引力に抗い反発しながら、それを確実に自己のものにする努力を続けなければならないのだ。雑然とした観念の交配から生じる澱んだ熱を冷えた心に伝えてやって両者の平衡を図らなければこの焦燥と混乱から抜け出すことはできないだろう。
 そのとき頭に浮かんだのは、闇の中に点在する灯りの一つ一つが、迷路に迷い込んでしまったような二重の混乱から僕を救い出してくれる手掛かりになるかもしれないということだった。それでも僕は、ぼんやりと滲む灯りとその背景の闇とを憎んでいた。留美子や熊に向けられることのない屍のような憎悪は、掴みどころもなく徒に空転するばかりだった。ぼくは闇を憎み、闇の中に点在する灯りを憎んだ。はるかな遠い現実という名の幻を憎んだ。
 何処をどう歩いたのか、夜の冷気の快さに振り返ると、いつの間にか熊のアパートの前にたどり着いていた。明かりが消えた二階の部屋を見上げているうちに、ようやくいつもの自分が帰ってきた。留美子への思いと熊への思いが対立することなく存在するのは奇跡的だった。これまでの留美子への思い入れはぼくを気弱にしたが、熊へ寄せる感情がそれに輪をかけていた。この感覚を忘れないように、繰り返し確認するように、はるかに暗い空を見上げた。小さな星の輝きの間に熊の角の猫の、そして留美子の顔が見える気がした。それが消えるのを待って、三人の奇妙な連中への思いと留美子への思いを心の中に仕舞い込んで鍵をかけ、闇の中に流してやった。
(昭和50年頃 新人賞落選作抜粋)


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