20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:奇妙な連中 作者:奥辺利一

第3回   3
 それからしばらくして、ぼくは一人で再会に来ていた。留美子はカウンターの内で映画雑誌を読んでいるところだった。狭い店内に一人の客もいないのは幸いなことと思うべきだったかもしれない。「一人なんて、珍しいわね」コーヒーを沸かしながら彼女は言った。「そのうち来るだろう」「そうだね」ぼくは手持無沙汰なまま、妙に緊張しながら雑誌を借りて捲りながら訊いた。「映画が好きなの?」「ああ、それね。お客が忘れていったのよ。もう忘れちゃったんでしょ。だいぶ前のことだから」ぼくは黙ってコーヒーを啜りながら、うつむき加減の留美子の顔を美しいと思った。唇のあたりをぼんやり眺めながら、その肉体を抱きたいという胸苦しい願いが起こらないのを不思議に思った。そうして胸の中で彼女に向かって美しいという言葉を叫びたい衝動がうずくのを感じていた。すると体が震えて、例の不快な痙攣が起こり始めた。それが僕と留美子の間に横たわる障害の距離感で、同時に僕の存在と世界の間の溝のようなものでもあった。ぼくは空を思った。大空を翔るジェット機の飛行機雲を眺めていた幼児期の幸福な思い出が突然に蘇って、田舎の風物への郷愁を駆り立てるのだった。ぼくの心臓は不整脈の症状を呈して悲鳴を上げた。右手で持ったコーヒーカップが皿の上で小刻みな音を立てるのを聞きつけた留美子が顔を上げてぼくを見た。「震えていない? 寒いかしら? 風邪でも引いた?」ぼくは弱々しく首を振って見せた。すると、「ウフッ」と彼女は笑った。そのとき僕の目の前には毒花のエキスのような、または高級娼婦の留美子が出現していた。その矛盾に僕は愕然とした。ぼくの求めているものはたった一つのものに違いないからだ。けれども、その一つのものさえ測りがたい矛盾を含んだものなのだということをぼくは知った。ぼくは一人では生きられない。しかし、大勢の人々の中で生きることもかなわないのだ。決して自由になれないということは、感覚の一部になってしまうほど分かり過ぎているのに、不自由さに腹を立てずにはいられない。留美子に向かって言うべき言葉を探しあぐねている僕は、ぼく自身に向かって言わなければならない言葉も持たなかった。そして現実は、ぼくたちの言葉では決して捉えることができない彼方に存在した。現実は、ぼくの存在を飲み込んでおきながら消化してしまおうとはしないのだ。ぼくは孤独という原始的な形態で窒息してしまう他ないのだ。「笑わないでくれないか」やっと繰り出された言葉はぼくを涙ぐませた。「どうしたの?」と尋ねる留美子の目が笑っているのが精一杯の優しさを含んでいるように見えたけれど、ぼくには子ども扱いされているように感じられた。留美子はぼくたちに優しかった。彼女が年齢の垣根越しに接するような態度はぼくたちをイライラさせたけれど、心の奥底の優しさに気が付いていて、その優しさがなおのことぼくたちを暗い気分にした。ぼくは留美子の顔を見て欲望を掻き立てようとしてみた。そうすることが唯一の救いの道であるように思われた。彼女の存在をその肉体のみに限定させようと努力してみた。彼女の笑顔や声音、その優しさを忘れてしまおうと考えた。単に彼女の性的なシンボルばかりに生命を与えようとしたが、欲望は息を潜めるばかりだった。「あんまり見つめないでよ。気味が悪いわ」留美子に諭すように言われたぼくは顔を赤くした。「どうもしないさ」「本当に? だけど、なんだか変よ」「変なのは元々さ」「そうね、みんなおかしいんだわ」留美子の言葉は思いがけなく自嘲的な響きを含んでいて、ぼくの耳を塞がせた。「よせよ」「なにが?」「そういう言い方」ぼくがそう言うと声を立てて笑った。「あんたたち馬鹿よ」彼女は続けて笑った。ぼくは何も言えなかった。「だから好きなんだけど」留美子はぼくたちを好きだと言った。その言葉を聞いたとき僕は本格的に何かを失ってしまう不安に襲われていた。
 ぼくたちは知り過ぎてしまったのだ。知り過ぎてしまう以前には未知の未来が開けていた。しかし、幸福な少年が思い描くバラ色の未来が幻想にすぎないことは、少年期を過ぎてしまった大人であれば誰もが知っている。少年の可能性が不可能性に墜するのを見送りながら人々は成長するのだ。そうして無理やりに承認させられてしまう唯一の可能性が無数の不可能性の上に構築された寓居であることに気づいてから生きることの戦いが始まるのだ。
 留美子はぼくたちを奇妙な連中と呼んだ。彼女がぼくたちをそう呼ぶとき、ぼくたちは疑いもなくぼくたちが風変わりな連中なのだと信じることができた。「そうさ、俺たちはまともじゃないんだ」そう言うのは猫と僕だった。角は「そうかもしれないな」と歯切れが悪かった。しかし、熊は決してそうは言わなかった。彼だけは自己の正当性を信じている素振りだった。そのような熊の信念をぼくは貴重なものに思った。それは理屈をつけて説明することができない、理解しようとする過程を超えて通じ合う、ある種の精神感応にも似た感覚的な了解であった。しかし、彼の信念に従うならば、現実とはぼくたちのような人間にとっては、その存在を許さないという点で、互いに対立するものでなければならないが、ぼくたちが今こうして生きている現実がぼくたちの肉体を支配する限り、肉体から分離した精神の存在があり得ないという事実を否定することができない現実が、すでに精神の開放を阻止しないではおかないのだという単純明快な法則が、ぼくたち自身が信じる自己の正当性などという代物を根こそぎにしてしまうだろうことは自明のことだと言わなければならないのだ。だから僕は熊の意識的な態度を愛したけれど、「俺たちはまともじゃないんだ」と言う他なかった。ぼくと猫がそう言うたびに不愉快そうな気分を隠そうともせずに、「俺たち自身にとって自己といわれるものは、それが自己というものの中に存在すると信じられるときには永遠に無のままで、存在しないことなのだ。同時に自我の意識などというものは、自己が自身の外部に引きずり出された結果生じる対外的な意識に他ならないから、自己の存在はそこではすでに抹殺されているんだ」と言うのだった。彼は信仰によってのみ自己の存在が保障されるのだと信じて疑わなかった。理性への信仰が、その信仰の理念と考えられるときに生じる堅固な信念が自己そのものであるような意思の王国を、肉体の中に打ち立てることが熊にとっては至上の幸福と考えられていた。これがぼくたちの密約の骨子となる思想であった。ぼくたちは各人がそこに君臨する王国の建設を誓い合っていたのだ。各自の純粋なエロスが空想にとどまらず、完璧な形で実現される世界をぼくたちは半ば嘲り合いながら、心のどこか隅のほうで、あたかも幼児が母に救いを求めて取りすがって泣くような頼りなさで守り合っていた。しかし、ぼくたちにはやはり、ぼくたちが思い描くユートピアの実現は信じられなかった。アダムもイブもいない一人ぼっちのユートピアの中で如何して生きたらいいのか、見当もつかなかった。ちっぽけな豆粒のようなユートピアを癌の病巣のように内蔵の一部に拵えて、飢餓する他はないのだろうかという不安に取りつかれていた。「生きなければならない」という叫ぶ内部からの声を悪魔の囁きのように聞いて、やがて憎むべき現実に小突き回され、疲れ果てすり切れた襤褸靴のように埋め立て地の屑になってしまうことだろうという予感に脅かされ続けていた僕は四六時中青ざめた顔をして、嘲笑で顔を歪めて歩いていた。そうして眼前に立ち塞がる現実からの抑圧ののっぺらぼうの正体を暴きたてることに熱狂的な関心を示したりするのだった。「人間は、生きている間はどんなつまらないことのように見えるものでも、実はそれが最も重要なものであったことが後で分かるような使命を負っているのだ」というすっぽんのような顎をした教授の意地悪な冗談を聞かされた翌日の新聞に、某大学の六十三歳の教授が女子学生を研究室に連れ込んで暴行を働いたという記事を発見しては、満足気に頷いてみたりした。または、蒸発していたという人妻と同棲していた学生が、人妻が夫のもとに還ったと知ると、その後を追ってゆき、刃物で人妻に切りつけたというニュースを聞いて、その学生に感謝したりした。「これが現実なのだ」ぼくたちはそういう風に目で頷き合った。ぼくたちの生きている世界には栄光も誇り高い香りも善意の光の一欠けらもないのだ。欲望がうごめき、苦渋に満ちたこの世界には見えざる悪意のようなものが一つの巨大な機構となって、我々を支配しているのに違いない。このような現実の中でぼくたちは孤立することを余儀なくされている。熊の言葉を借りれば、孤立した自己は永遠に無のままの存在に過ぎないのだろうが、無こそが永遠の絶対的理性に他ならないと考えられるのであった。本質的な根拠を持たない存在であるところの本然的自由に満ちた生命は、孤立してある時にはすべてを超越した存在に成り得るものであった。無であるところのものは、それが善であると考えられる有限なものの存在の前提となるから、この点でも絶対的なものであると考えられる。こう考えてくると、僕のエロスとは無であるところの存在に回帰することを願うものであったかもしれない。無であるところの存在が死によってのみ実現されるものならば、エロスとは死の衝動と同一のものに違いないと考えて僕は激しく失望し、恐怖に震えた。「しかし、無とは死の状態とは本質的には違うものなのだ。それは明らかに存在するものと考えられる有の条件付きの無だからである。無の存在となるためにはその前提として有るものとして存在しなければならないからである」熊はぼくたちにそう教えてくれた。彼は無であることが永遠なのではなく、理性への信仰が完全なものとなったときに実現される意思が永遠なものなので、それが無の自覚、あるいは実現と考えられるのだと説明した。僕にはどうでもいいことだった。このままでは僕は生きられないだろうという恐怖が衰弱した頭に取り付いていて、薄っぺらなハートを捻り潰してしまいそうだった。その苦悩を悟られまいとして、ぼくは馬鹿な鸚鵡のように意味のないことを喋り、意味なく笑った。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 831