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作品名:孤独 作者:奥辺利一

最終回   2
問いかけることだけがすべてであるような人生をぼくは歩んできていた。誰も何も答えてはくれず、問いかけることの無意味さを教えてくれる人さえいなかった。それでも何故問いかけることを止めなかったのかというと、あいまいなことを曖昧なまま放っておけない生来の気質のせいらしいのだが、実のところ、問いそのものが正当なものなのか、ぼく自身にも分からなかったのだ。なぜ男は女を求めるのだろうかなどという問いが問われるだけの価値があるとは思えないのは当然なのに、これほどつまらない問いに対する妥当な回答が得られないというのは、問いの下らなさ以上に、馬鹿げたことだった。この問いに友人の一人は答えた。「女は男の持っていないものを持っている。人間というやつは、ないものねだりをする生き物なのさ」こんな説明で納得するくらいなら「人間はその昔、男女一対で一体をなしていた。その体を人間の悪行に激怒した神が男と女に切り離してしまったのだ。それ以来人間は昔を想い出しては己の分身を恋しがるようになったという次第である」という神話を信じるほうがロマンがあって楽しいものだ。なぜ男は女を求めるのか? この問いに完璧な答えを与えるのは不可能かもしれない。仮に不可能であると仮定してみたところで、男が女を求めるという事実は依然として事実であって、認めるほかはない。しかし、これまた仮定の話だが、科学がこの謎を解明することができて、何らかの操作でこの原理を覆すことが可能になれば、男は女を求めるという事実は大幅に修正を加えられることになるだろう。男は男を愛するという新しい事実が誕生するかもしれない。これは実に奇妙なことかもしれないが、現在でも男色を好む男がいることは知られている。このような未来にはどう対処すればいいのだろう。おそらく、歴史的に人間が積み上げてきたものの大半は崩れ去ることになるのだろう。それが案外簡単にできてしまうかもしれない時代に僕らは生きている。

 今朝もやはり、目が覚めてみると背中に鈍い痛みを感じた。この痛みが数週間続いている私のイライラの第一の原因だった。ある朝突然に右に肺の裏側辺りに起こった鈍痛は、数週間を経過した今朝も、不快な苛立ちから私を開放してくれてはいなかった。体を動かさない分にはほとんど感じないのだが、体を捩ったり、何かを始めようとすると、まるでそれを妨害するように、背中を圧迫する重苦しい痛みが肩甲骨の下部から腰のあたりにかけて起こるのだった。気まぐれに呼吸を妨げるほどの激痛であったかと思うと、ただ重苦しい圧迫感だけの場合もあって、そのことが余計に気がかりにさせた。こんな不安によって引き起こされる苛立ちも、まるで生来の気性のようにでかい顔をして居座りかけていた。
 私は背中の痛みを刺激しないように楽な姿勢を探してじっとしていた。狭い部屋の中で口を利く相手もなく、壁を眺めていると、くすんだ気持ちがどこまでも沈んでいくような錯覚がして、これからしなければならないことさえ考えられないほど体も精神も委縮してしまうのだった。その上に時々、底の底まで沈み込んだ気分が猛烈な勢いで浮上してきて、感情を乱し、思考を混乱させた。ひとしきり荒れ狂った嵐が収まると、巻き上げられた疲労感が再び私の存在を打ちのめしにかかる。私の存在はもう十分に分裂解体されているというのに、凶暴な悪意はなおもその攻撃の手を緩めようとはしない。そうだ。それはまさに悪意と呼ぶべきものの仕業なのだ。背中の鈍痛も、私の苛立ちも神経衰弱もすべてこの悪意のなせる業に違いないのだ。
 その日は私の人生における最悪の日のうちの一日だった・・・、というのは滑稽なほど大袈裟な表現かもしれないが、私には真実呪われた日だったのだ。前の晩に同じアパートの女住人とのいざこざがなければ私は何事もなく目覚めたはずなのだ。事実、目を覚ました時にはそんな嫌な記憶はどこか得消え去っていて、数百年の眠りから覚めた人のように静寂の中から突然に騒がしい世界へ、私の意識は墜落したわけだった。その瞬間に私は私が眠りに落ちていたことを確認した。それはまったく意味のない認識のはずだ。今まさに動き始めようとするとき、以前の状態がどんなだったのかを知るなど、どうでもいいことなのだ。しかし私にはこの上なく貴重な瞬間なのだ。その瞬間に至るまで自分がどこで何をしていたのかを知ることは、どんな場合でも重要な要素なのだ。それが生きているという感覚につながるのならば、自分の行為の一瞬一瞬を頭の中で反芻することができるのをおろそかにすべきではない。それがオナニーのように至極個人的な行為の場合はなおさらだ。このような理屈の根拠を説明することは不可能に近く、また真理を悟ったような気がする瞬間のように無意味だ。
 私は目覚め、その瞬間まで眠りの中にいたことを知覚する。すると、それだけで生きることについて考えを巡らす準備が整うのだ。もちろんそれは、準備ができるということだけで、それからすぐに素晴らしく陽気なアイデアが浮かぶというのではない。時にはすっかり陰気な気分になってしまうこともある。しかしそれはそれで、妄想の中で女を抱くことほど無意味ではないのだ。このようなとき、私の思考回路は完全に停滞してしまったかのように感じるのだが、実はそうではなく、思考がその習慣として培ってきた論理を組み立てる仕方を見失っているにすぎず、証明することはできないが、こんな時でも私の頭脳は偉大な哲学的覇権への至近距離を徘徊しているのかもしれないのだ。
 馬鹿げた妄想だと言われればそうかもしれないが、それを信じられないのは大いなる不幸に違いない。疑うことに慣れすぎて、信じることを忘れているのが現代人の最大の欠陥だというのは本当かもしれない。疑うことしかできないのは現代人の宿命なのだろう。人生が空っぽの器のようなものだということは誰でも気づいていることだ。この器を満たすために何ものかを選び取らなければならないのだとしたら、何を基準に選択すればいいのだろう。神の教えというのはどうだろう。この教えが正しいのか否かを詮索するのは無意味なことだ。大事なのは誰の教えかということだ。その人物がカリスマ的な存在であればあるほど、信じるだけの価値があるということになるのだろう。疑いがないというのは望ましく、エアコンのきいた快適な部屋にいるような寛ぎを与えてくれるので、信じるとはそれだけのことなのだ。
 毛ほども疑いを持たずに信じ切れるというのは、誘惑的だ。疑うほかに自分の存在を確かめることができない者にとっては、あまりに魅惑的で、そのせいで素直に信じてみる気を削いでしまうもののようだ。信じる信じないということで私たちを拘束することはできない。ある種の人間は、信じないふりをして信心深く、信じるふりをして軽蔑することもできるのだから。ただ避けなければならないのは、信じるものが無いから闇雲に信じるということだ。信心とか信仰心とかは尊いものだけど、決してそれが全てというわけではないことを忘れないでほしい。疑うことが信じることと同じ価値を持つとは言わないが、少しは自分が信じているものを疑ってみるくらいの気位は持ちたいものだ。疑いもなく信じ切れるほどのものが存在したためしがあるだろうか。わからない。わからないということは少しも恥ずべきことではない。恥ずべきはわからないことの前で躊躇することだ。手探りでもいいからわかろうとする努力を怠らないことだ。努力という言葉は妙に青臭く前時代的な響きを持つ言葉で、真顔で口に出して言うには勇気がいるけれど、自分を納得させるくらいのことはしてみなければならないだろう。他人を納得させる必要は少しもないが、私たちには少し自信が欠けているようだ。ところで、自信過剰はいけない。一握りの満足した人間は自信過剰で、丸々と肥えた豚のように鈍感で鼻持ちならず、他人をイライラさせることが得意な連中に見えるのだから。


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