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作品名:孤独 作者:奥辺利一

第1回   1
孤独といえば、ぼくはこれまで孤独でなかったことがないような気がする。他人から理解されているのか、いないのか分かれというのは、随分難しいことだ。自分にさえ正体不明なものを解ってくれというのは、随分虫のいい話なのだが、人間はしょせん自分勝手で虫のいい生き物なのだろう。いつも自分を甘やかしていて、そのことに気づかない。ぼくも例外ではない。いや、まさにその典型ともいうべき愚劣漢なのだ。けれども真面目なところが無いわけではないので、将来を考える時、ぼくの頭の中から楽しいことは消えてしまうのだ。夢や希望やささやかな願いさえ跡形もなくなってしまうのだ。人生を楽しいものだといえるのは、随分気楽で間抜けな人種か恥知らずな人々なので、彼らの悩みは夕食に何を食べようか、次の日曜日に何を着て何処に出かけようかといった類のものなのだ。そして僕の苦悩は・・・・・・。ぼくには苦悩だなんて空恐ろしいことは思いもつかないことだった。僕の愛はその対象を探しあぐねて、垢じみた胸のあたりで空転するばかりなのだ。それは勿論ぼくが無神論者であることに起因している。ぼくは甲や乙を愛することはできるだろうが、それがどれだけ確実なものなのかは分かったものではない。甲や乙への愛は神への愛に支えられていなければ特別な意味も価値もない。したがって僕の愛が肉欲の一断面に堕落せざるを得ないことを承知していても、やはり神の存在は考えられなかった。信仰と理性のどちらかを選ぶように迫られれば、躊躇なく理性を選ぶだろう。そのわけは理性がたとえ不完全なものだとしても、いつも自分の身近に存在するというたわいのないものであったが、神はあまりに遠く思われて仕方なかった。その存在に近づこうとするなら、そのための努力に生涯を費やしても、なお届きそうになかった。信仰に必要なのは勇気なのだ。戦場で敵兵を殺すのとは比較にならないほどの勇気がいるのだ。勇気と狂気は混同されがちで、近頃ぼくは本当の勇気にお目にかかっていなかった。ぼくについて言えば、ぼくは本当の勇気を自分の内部に認めたことがないのだった。そして狂気を発見することは容易かった。ぼくが狂気に神経質になっているせいもあるが、ぼくの周囲で一見勇気のありそうに見える者は、そのほとんどが時代の強制に狂わされているのがすぐ分かった。それと気づくには少しばかり注意深く、自分の弱点と他人の強がりを見比べてみればよかった。時代の強制というのは、こんな時代だから華やかさの陰に隠れて容易にその正体を現さないのだが、ぼくと同じ年代の若者の同質の哀しみを理解すればすぐ露見するはずだったのに、それができないというのは人々が共通の基盤を持ちえないからなのだろうか? 甲の哀しみと乙の哀しみが触れ合うことはないのだろうか? 今はそんな思いが脳裏をかすめるのだ。

 私は彼女を愛していなかった。愛したことがないのを、憎んだことがないことに気づくという形で思い知らされていた。私の愛は私の心に憎悪を掻き立てるほど強くなく、そのために幼児の魂のように純粋ではあったが、無垢な魂のようにすべてのことを無条件に受け入れることもなかった。純粋でいながら冷酷だった。純粋であるということは多分に、冷酷さを孕み、私の場合は、この冷酷さは純粋に個人的な自我の結晶にも等しく、固く閉ざされた世界から放たれる光であって、何物をも照らし出しはしなかった。私の背後には悪魔の影が映し出され、私はそれをただ眺めていた。恐怖心も起こらず、深い絶望だけが辺りにあって、このおぞましい感覚に慣れっこになってしまった私には、それと気づくことさえ稀だった。例の影がいつの間にかできているのを知って、おやまたかといった感想を漏らすのが常だった。人生はしばしば道にたとえられる。それは決して後戻りのできない道なのであった。人々は過去を懐かしがり、振り返ることはできるのだが、時の経過と並行して一直線に伸びている道を、それが時間と不可分なものと考えられている以上、後戻りすることは永遠に不可能な願望に過ぎないのだ。しかし、事実はそうではないのであって、この道は決して直線的なものではないのだ。歴史でさえ、ある時代には停滞し、ある時代には驚くべき速度で変貌を遂げた場合があるのであって、歴史には比べようもなく平坦な個人の人生にも紆余曲折はあるのだけれども、その道は絶えず未来を志向して歩むもののように考えられている。それは正しい。未来に待ち受けているのが後退や衰弱であったとしても、道はそこを歩むときには前進しているような錯覚に陥るものだけれど、たとえその道が輪をなしている道であっても、その道を歩く者にとっては足を踏み出す方向が前方であることは疑えない事実なのだ。

 老婦人が窓を拭いているのに私は出会った。彼女の仕事ぶりは実に丁寧で、まるでそれが課せられた最良の義務であるかのようだ。ガラス板の上のどんな小さな汚れも見落とすまいと、注意深く作業しているのだった。不思議な感動に支えられて私はその動きに魅せられていた。何者かに監視されているわけではないのに、彼女の働きぶりは真剣そのものに見えた。彼女はそうしてガラス窓と闘っているのだった。真剣そのものといった印象を受けるのは、そのせいだった。彼女の戦いは生きることとの闘いなのだという低俗な想像が私の心に起こった。するとこの年老いた婦人の労働がひどくつまらないものに思えてきて、むやみに腹が立った。ねぎらいに言葉をかけなければ済まないような罪の意識が起こって、いやなものを見てしまったという考えが頭をもたげてくるのに、胸が悪くなり、気が滅入った。「なあに、仕事だからね」彼女は答えるのに違いなかった。私は逃げるようにその場から消え失せた。

 老人たちが取り仕切る社会が根拠のない服従を強制するならば、我々はそれに対して反抗せざるを得なかった。少なくとも我々は生きる権利を与えられているからである。生きる権利とはもはや、単に生存する権利に過ぎないのではなく、この権利の下では死を選択する自由さえ認められなければならないと考える者にとって、社会を選択する自由が認められるのは至極当然のことで、老人たちに支配された社会が理不尽な服従を強制する場合には、我々は厳然と戦わなければならなかったのである。生きることはどのようなことなのかを知らなければならない必要は少しもない。生きることがどのようなことでないかを知りさえすれば良いのである。それは服従することではない。少しも既成の社会に服従する必要はない。けれどもどのような社会であっても、その存続の為に何物も強制しない社会というものは有り得ない。社会が命じる強制は必然的なもので、それを抑圧と受け取るか、生存のためのルールと受け取るかは議論の分かれるところであろう。その分岐点は社会の存続が個人にとって利益となるか不利益であるかにかかっている。従って、この議論が個人間の戦いに拡大するのは必然なのである。

















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