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作品名:小石 作者:奥辺利一

最終回   1
  小 石

 終業式が終わって、子供達はしばしの間、学校の勉強と規則から解放されることになった。教室の中といわず廊下といわず、校舎のあちこちに弾んだ歓声が溢れていた。
 ウサギ小屋の前で低学年の子供達が小屋を取り巻くように集まってなにやら相談していた。相談の主題は、長い夏休みの間、誰がウサギの世話をするかということであった。二年生の女の子は七羽のウサギの過酷な運命に気が気ではなかった。暑い夏の盛りに、彼らは遊び相手をしてくれる者もなく、小屋の掃除もしてもらえず、餌も水も与えられずに放って置かれるかも知れないのだ。
「誰かが見てくれるに決まってるさ」
 小屋の金網に手を掛けて張り付くようにして中を覗いていた男の子が言った。
「誰かって、誰?」女の子が心配そうに声を上げた。
「そりゃ・・・」男の子は言葉に詰まったが、すぐに「先生か、PTAの人」と答えを見つけて自慢そうに鼻の頭を拳でこすった。
「先生なんか世話するかい」
 子供達の背後で低い声が聞こえた。大勢の子供が驚いて振り向くと、そこに立っていたのは六年生の高橋和夫であった。
 低学年の子供達は驚き、その言葉が本当かどうか確かめたいと思ったが、声を上げることも出来なかった。六年生と話をすることは稀だった。しかも、それは顔を見たこともない大柄な六年生であった。背丈は女性教師と変わらないほど高かった。大柄な和夫は低学年の児童を見回してにやにや笑っていた。児童の輪のはずれにいた数人の女の子が手をつないで後ずさりを始めたかと思うと、「わー」っと声を上げあげながら逃げるように走り出した。その様子を見た和夫は、気に入らないときや困ったときの癖で「ちえっ」と舌打ちして地面を蹴飛ばした。
「先生に訊いてみろよ。誰が世話するか分かるだろう」
 すると、さっき鼻の頭をこすった男の子が勇気を出して、和夫が知っているなら教えてくれるように要求した。和夫は男の子をじろりと睨むと嬉しそうに笑って見せた。
「それは良い考えだ。先生に訊くより早いや」つられて男の子も笑った。
「いいか、夏休みの間は六年生と五年生が世話するんだ。先生やPTAじゃないんだよ」
「へーっ」児童の輪の間から驚きの声が挙がった。
「どうして、六年生がするの?」と聞き返したのは二年生の女の子だった。
「そんなこと知るか。先生が決めたんだよ。そんなこと。知りたかったら先生に訊きなよ」
 そこへ飼育係りの五、六年生が手に手に箒やちり取りを持ってウサギ小屋に向かってやって来た。
「ほら見ろ。言ったとおりだろう。あいつらが交代でするのさ」
 低学年の子供達は、目をぱちくりさせて飼育係りがやって来るのを眺めていた。
「さあ、分かったら家へ帰りな。掃除の邪魔だよ」
 そう言って和夫は両手で子供達を追い払う仕草を見せた。子供達はまだ、ウサギ小屋が高学年の飼育係に掃除されるのを見ていたかったが、和夫の態度がそれを厳しく許さないように見えたので、一人二人とその場を立ち去って行った。
「おい、遅いぞ」子供達が帰って行くのを見届けてから、ぞろぞろと歩いてくる飼育係の集団に声を掛けた。
「こんな仕事はさっさと片づけてしまおうぜ」家に帰れば、暫くの間は大手を振って遊び回れることになっていた。
 小屋の掃除には役割分担が決められていた。新学期が始まって新しく飼育係が決まると最初にその割り振りが行われた。最初は話し合いで決めるということで始まったが、誰も積極的に手を挙げる者はなかった。和夫にしても、その他の飼育係にしても、自分から進んでなったという者は少なかった。最後には担当教諭が一人ですべてを決めてしまった。喜んで引き受ける者もいなかったが、積極的に逆らう者もいなかった。厭だといってみても、時間ばかり掛かって決まらないのでは、そのことで嫌われ者にはなりたくなかった。
 役割分担は、掃除を担当する班と餌や水をやる班に分かれていた。掃除班は文字通り小屋内外を掃き、汚物を取り除く役割だった。もう一班は餌箱や水飲み器具を掃除し、新しい餌と水を用意するほか、寝床になる藁を取り替えるのが仕事だった。
「おい、代わってくれないか」
 そう和夫が声を掛けたのは五年生の上原靖彦だった。靖彦は餌やり班だったが、和夫は掃除班の仕事を嫌い、靖彦と当番が一緒の時は、決まって自分が餌やり班の仕事を横取りしていた。
 靖彦はこの時何を思ったか、和夫の命令に従う素振りを見せなかった。和夫が差し出す箒を受け取らずに、黙々と餌箱の清掃に励んでいた。靖彦が和夫の言うことをきかなかったのはこれが初めてだった。
「おい、聞こえないのか。代われっていうんだよ」
 和夫の中に驚きと羞恥と怒りが起こった。彼にとって靖彦は、従順な家来であった。いつも気弱そうに飼育係の輪のはずれにいる五年生は、誰にとっても付き合いにくい相手であった。いつも厭な顔ひとつ見せず言う事をきくのが却って薄気味悪く、次第に誰からも声を掛けられない存在となっていた。そのことに気づいていたから、和夫は事ある毎に靖彦に話し掛けるようにしていた。だから、少々気に入らなくても自分の言うことをきくのが靖彦のためだと思っていた。また、これまで彼は、係りの誰に対しても反抗的な態度を取ったことがなかった。それがよりにも選ってこの自分に対して反抗的になるということが起こったのだ。
 和夫は、その場はおとなしく引き下がった。これ以上迫るのは得策でないという判断があった。まるで自分が弱い者虐めをしているように見られてしまうのは望むところではなかった。
「これからどうするの?」
 ウサギ小屋の掃除が終わって道具類を片づけに向かう途中で、五年生の坂下敬一が和夫に声を掛けた。それを聞いて和夫はほっとした。さっきの靖彦に対する対応が間違いでなかったことを確認した思いで「宇田川に行こう」と元気に声を張り上げた。

 靖彦は飼育係の子供達の群からはずれて昇降口へ向かった。上靴に履き替えて階段を上り始めると靖彦がたてる靴音だけがそこら中に響いた。階段の途中にも通り過ぎる廊下にも児童の姿はなかった。そのことが靖彦の心を落ち着かせた。
 二階の外れの教室に辿り着くと、誰もいないことを確認してから中に入った。閉め切った教室の中は暑く、空気は重苦しかった。最初に窓際まで行って窓を開けた。それから自分の席に腰を下ろしてぼんやり辺りを見回した。教室がこれまでとは別な表情を見せていることに満足した。明らかな違いはほかにクラスメイトが誰もいないことだった。心の落ち着きの一番の原因がそこにあると気づいてしまうと、すぐに忘れてしまおうとした。
 靖彦の机には落書きが目立った。コンパスの先でひっかくようにして書かれた落書きはなかなか消えなかった。すぐに消えるどころか机が廃棄されて捨てられるまでそこに刻まれたまま残る可能性があった。靖彦以外のクラスメイトの悪意で行われた落書きは、靖彦がこのクラスに在籍したという永遠のモニュメントになりそうだった。
 人の気配を感じて、顔を上げて振り向くと入り口に立っていたのはクラスメイトの桑原智恵子だった。白地に赤いストライプのシャツにジーンズの生地のスカートを履いていた。頬も唇も赤く、黒目がちの瞳が遠くからでも目立っていて、おかっぱの髪をカチューシャで留めていた。
 靖彦はその姿を確認するとすぐに視線を元の位置に戻した。可憐な智恵子の姿を見ているにはそれだけの理由が必要だったし、そのことを説明するために口を開かなければならなかった。
 やがて智恵子は歩き出して教室の中に入った。自分の机のところまで来ると中を覗き込むようにしてから一冊の本を取りだして、その本を確認すると胸に抱えるようにして靖彦を見た。
 その間、靖彦は身動きもしないでいたが、智恵子がたてる物音に神経を集中させていた。そうしていると無味乾燥な物音が一人の少女に姿を変えて心の中に浮かんでくるような錯覚に捕らわれた。心の中に浮かび上がった少女の姿はおぼろげで頼りなかった。そうしてその姿が消えてしまうのを予感しながらじっとして息を殺していた。時間の経過がその姿を消してしまうことを確信しながらその瞬間を心待ちにしていた彼は、現実の中の少女が自分を見ていることに気づくことはなかった。
 その時、誰かが「さようなら」と声を掛けた。靖彦は驚いて振り返った。見ると、今まで心の中に浮かび上がっていた少女の背中が廊下の向こうに消えて行くところだった。
 誰かが悪戯を仕掛けたのかも知れなかった。そのようなことには既に慣れていて驚くことはなかった。ただ少女の行き先がしきりに気になった。彼女は家に帰るのに違いなかった。返るべき家があって、その家は暖かさに溢れた綺麗な家に違いないと思われた。
 靖彦は机の上に目を移した。そこには相変わらず醜い落書きが残っていた。少女の家に関する想像が、自分に理不尽なプレゼントをくれた者達に対する複雑な思いを増幅した。

 宇田川は市街地のはずれを東西に流れる、この辺りでは最も大きな川だった。七月になると鮎が遡上し十一月には鮭が上った。所々に用水路に水を引くための堰が造られていて、その下が子供達に格好な川遊びの場所になっていた。
 和夫が自慢のヨットの模型を抱えて宇田川に着いたとき、日射しは中天から降り注いでいた。土手には黄色い向日葵や女郎花が咲き乱れ、堰は清らかな流水を湛え、水面に青い空と白い雲を映していた。堰の導水路を流れ落ちる水流は勢い良く、泡立つ滝を飛び越えようとして跳ねるのは子鮎の群であった。
 河原には既に大勢の子供達が姿を見せて、ゴムサンダルを履いた素足を川の瀬に入れて小魚を追いかけ回したり、水着に着替えて水浴びしたりしていた。
 和夫はコンクリートの堤防の間に造られた階段を下りて堰の上に立った。たちまち五、六人の子供が和夫を取り巻くように集まってきた。彼らの目当ては和夫が抱えた大型の模型だった。和夫は多くの視線を感じながらこれを無視するように黙々とヨットの帆を張る作業に専念した。本物のヨットと同じ構造の帆を、メインマストに高らかに引き上げる作業は最も心躍る瞬間だった。作業を終えると額の汗を拭ってから、誇らしげに大型の模型を両手で頭上に高々と抱え上げた。水中安定板とバランスを取るように細く長く張られた白と赤の帆を持つ姿は海上を飛び交う鴎のように美しかった。子供達は、そうすることが唯一その美しさを共に享受する手段だとでもいうように、口々にその美しさを褒めた。その儀式を見届けてから、和夫は堰の上を渡り、清らかな淵の水面にヨットを浮かべた。南から常に吹いてくる風を受けてヨットは軽やかに水を切り川上に向かって滑り出した。
 見守る子供達の間に歓声が起こった。ヨットは風と共に彼らの歓声を受けて誇らしげにまっすぐ進んだ。やがて白い船体は堰の淵を斜めに横切り、港にたとえられた対岸の堤防の法面に辿り着くはずであった。
 その時、水面を滑っていくヨットの近くに水柱が上がった。ヨットは爆撃に曝された船のように水柱に続いて起こった波に翻弄されて船体を激しく上下させた。ヨットが帆走する様に心を奪われていた子供達の間にどよめきが起こった。
 靖彦は欄干にもたれて和夫が所有するヨットの周りに群がった子供達の集団を眺めていた。彼らは悪魔に魅入られた哀れな生き物であった。そして悪魔はヨットを使って彼らを操る和夫であった。彼らはどこにでも徒党を組んで現れたが、その様は危険な香りに満ち満ちていた。集団は悪意を持たなくても、集団であるというだけで周囲を威圧し恐怖心を煽った。
 靖彦は欄干沿いに橋の中間点まで進んだ。見下ろすと、白鳥のように白いヨットが和夫の手を放れて帆走を開始するところであった。
 靖彦は足元に転がっていた拳大の石を拾い上げると、それを握りしめて上半身を欄干の外側に乗り出した。ヨットは川面を斜めに横切って橋桁付近を通過しようとしていた。靖彦は石を握った手を正面に突き出して目を瞑った。手から石を放してしてしまえば下を通過していくヨットに命中する恐れがあった。彼の脳裏に集団に対する反逆者として名乗りを上げることになるのだという考えが鮮明に浮かんだ。
 指先から石が離れて落ちたとき靖彦は激しい目眩に襲われた。直前までの高揚した気分は跡形もなく消滅して、企ては実行に移されてもう後戻りは出来ないのだという深い後悔に苛まれた。
 幸いなことに、落下した石は目標物をそれて近くに水柱を立たせただけであった。

 康彦は、ようやく昼寝から目覚めて胸苦しい夢から解放された。目覚めてからもなお暫くは、夢の余韻がぼんやりとした頭に取り付いていて、身動きをすることもできなかった。やがて、眠りの中にあったときはひっそりと息を潜めていた身体の機能が力強い活動を開始すると、夢と現実の境界線がはっきりと見えてきて靖彦を安心させた。もっともそれは、不愉快な夢が意識の目覚めによって破られたという自覚による安堵にほかならず、さっきまで彼を苦しめた夢を生み出したところの、彼の周囲に壁のように立ちふさがって心を悩ませる状況に改善の兆しが見えてこないことに変わりはなかった。
 畳の上に上半身を起こして周囲を見渡した。部屋は、古い土蔵を改造したものだから真夏の昼下がりでもひんやり涼しく薄暗い。足が届きそうなところにある座卓の上には、康彦が午前の遊びから帰って食べたおむすびとゆで卵、キュウリとトマトのサラダという昼食の残骸が散らばっていた。古びた食器棚のほかには調度品と呼べるもののない部屋を康彦は嫌っていた。今は亡き大家のおじいさんの気まぐれな隠居所として使われていたものを、大家の未亡人の好意で母子二人で住まわせてもらっていた。古色蒼然とした粘土細工のような建物は、靖彦の家庭の貧しさの象徴として彼を苛んだ。畑や花壇が造られた庭の真ん中に唐突な印象を与えるためにわざわざ造られたような建物は、晩年になって家人とのつきあいを拒むように一人そこに寝起きしていたという老人の気性をうかがわせる名残でもあった。この老人の生前の記憶が康彦の中に痕跡をとどめていたわけではなかったが、老人は決して幸福な人ではなかったのだろうと考えずにはいられなかった。老人に対しては何らの悪感情も抱いてはいなかったけれども、彼の不幸が同じ場所に棲む自分に悪い影響を及ぼしているのではないかという疑いを抱かざるを得ないのには十分な理由があるような気がしてならなかった。
 かつて、無関心を装いながら常に母屋に向かって聞き耳を立て家人を監視する老人の姿があった。この老人の孤独が康彦に取り付いたかのようであった。康彦は、会ったこともない老人に肉親の間に通い合う情愛に似た親近感を覚えると同時に、意味もなく半ば本能に引きずられるように彼を憎んだ。靖彦が味わう辛酸はこの土蔵のせいに違いなかった。
 母屋に住む家族が、とりわけ大家であった老人の未亡人が母と康彦が離れの土蔵に住むことを容認していたのは、ひとえに彼がこの世を去るときに残した遺言のお陰げであった。その遺言が人々の間に起こした波紋はさまざまの色彩の紋様を描き出したといわなければならないが、子供の靖彦にとっては知る由もないことであった。
 康彦が憎悪さえ抱いている土蔵の部屋を片づけたり大家の庭の草むしりを手伝ったりするのは、母を喜ばせたいからであった。経済的にもまた精神的にも彼の守護神である母を喜ばせることは彼に課せられた最大の義務であった。康彦の行動規範は、常に母の言動に左右されていた。彼はそのことを不満に思うどころか、依然として当然のこととして受け入れていた。彼の判断に任されるのは母の関心が及ばないところに限られていたが、それでも靖彦の自由な選択がもたらす些細な冒険の結果が母の耳に届くのは避けられなければならないことが多かった。
 康彦の日常の中には驚くほど多くの約束事があった。それらを守ることは彼の生活の安寧を保障するものであった。そのことを理解していなければ、この科せられた義務を果たすことをすこぶる困難なものにしたことだろう。
 康彦は立ち上がり、昼食の跡片づけに取りかかった。流し台の隅に置いてあった生ゴミを集めるかごは連日の熱気のせいで黒い黴がはびこりはっきりとした異臭を放っていた。黴は手で触るとぬるっとした水生動物のぬめりのような感触を皮膚に伝えた。棚の釘にかかった亀の子たわしを手にとって磨き始める。金属製のかごは全体に錆が廻っていて、靖彦の手はたちまち赤茶色に染まった。こすっても磨いてもかごは少しも綺麗にならない。ならないばかりか、かえって強く悪臭を放ち出したようである。靖彦の腕には一層力がこめられ、額には汗も浮かんできた。やがて、靖彦の目から大粒の涙がこぼれて落ちた。少しも綺麗にならないかごに対する憎悪のせいではない。一生懸命努力しても報われることのないような徒労感が彼を襲ったせいであった。

 康彦が草むしりをしていると、彼の姿を見つけた大家の嫁がキャラメルなどのお菓子を持ってくることがあった。康彦はこの小太りの嫁が嫌いであった。彼女はおしゃべりが好きで、小学校のことなどを聞きたがった。康彦は、両親が離婚していることを世間の誰もが、近所の子供たちまでが知っているのは彼女のおしゃべりのせいに違いないと本気で考えていた。
 大家の嫁は康彦を誉めた。学校の成績が良いことや、草むしりを手伝ってくれることが庭の管理上で非常に役立っていることなどを挙げて誉めた。彼女が必要以上に誉めることで康彦は警戒心を抱いていた。彼女がくれるお菓子など欲しくはなかったが、これを拒絶することなど考えられないことだった。康彦は金縛りにあったようになってお菓子を受け取るとき、大家の嫁の目を見ないことによって抵抗の意志を表わしたが、気まぐれで自分本意のこの女には通じなかった。
 康彦に友達が少ないことは、彼の母が最も気にかけていることのひとつであった。夕食の食卓を囲みながら、母はその日一日の康彦の行動について報告を求めた。康彦はそのたびにいくらかの作り話を交えて報告しなければならなかった。つまり、勉強や手伝いの時間を除いて彼は必ずしも独りぼっちでいたわけではなく、多くの時間は友達と一緒に過ごしたことになっていた。母は黙って康彦の話に耳を傾けていたが、彼の報告がいつも同じようで代わり映えしないことに気がついていた。そのうえに、友達との交流が必ずしも良い結果をもたらすことばかりではないと無理やり思い込もうといている節がないとはいえなかった。彼女は靖彦の将来に広がる漠とした危惧に捕らわれて、そのような困難な人生を切り拓いて行くために息子が身に付けなければならないものを見出さなければならないと考えていたが、それが何ものなのかいまだに確信を抱くものに出会ってはいなかった。考えられたものは学問であったが、わが子が人の上に立つほどの学問を身に付けることが出来るとも思われなかった。
 彼を近所の子供たちから疎外している要因を数え挙げることは容易であった。家にテレビがないために、人気番組に関する話題に加われないこと。病気になる恐れがあるという理由で川での水遊びを許されないこと。用意されたおやつのほかに駄菓子屋で買い食いしてはならないこと。最大の要因は、一般的に子供たちは好奇心という魅惑的な衝動と戯れながら行動様式を形成して行くが、康彦にはそれが欠けているという点であった。

 後片づけを終えると、康彦は台所の土間から出入り口のガラス戸に近づいて行ってそこから外を眺めた。入り口近くダリヤの花の脇に真新しい自転車が午後の日射しを受けて輝いていた。かつて彼はうっとりしてそれを眺めたものであった。所有する歓びとは自己の生命が所有物と一体になることなのだということを一台の自転車が教えてくれた。自転車が受ける傷は確実に康彦の肉体に痛みをもたらした。康彦は、うっとりとして真新しいプレゼントを眺めるとき、魂が体から抜け出して自転車の中に宿ってしまうのではないかと疑うことさえあった。それはこれまで母から贈られたものの中で最高の贈り物であった。当時、新品の自転車を持つことは多くの子供の願いであった。彼が真新しい自転車を引いて現れたとき、近所の子供たちが示した関心は並大抵のものではなかった。それは彼らが康彦に見せる関心をはるかに上回っていた。彼らは新品の自転車に手を触れたがった。一度でいいから乗せてくれるようにと懇願した。しかし、康彦はこれらの願いをことごとく拒絶した。大切な所有物を彼らの手垢にまみれさせることは、自分の魂を泥靴で踏みつけにされるのと同じだからであった。すると当然のこと、子供たちは康彦を無視し仲間外れにした。真新しい自転車に対する関心が大きかった分、子供たちの康彦に対する仕打ちは徹底したものとなった。子供たちは以前にまして康彦が住む土蔵の近くへやってきて遊ぶことが多くなったが、決して彼を仲間に入れようとはしなかった。それはガキ大将の和夫の意向によるものであった。和夫は、自分が誰よりも先に康彦の自転車に乗る当然の権利があるものと考えた。そうでなければ和夫が統率する集団の秩序を維持することができないからであった。康彦の拒絶は集団に対する裏切り行為にほかならなかったから、彼を集団からはじき出すという措置は理にかなうものであった。連日、康彦は遊びに興じる子供たちから遠く離れ、おあずけをくった犬のように彼らの様子を見守った。傍らには綺麗に磨き込まれた自転車が番犬の主人のような顔をして寄り添っていた。康彦は、自分に対する無関心が、たとえそれが見せかけのものであったとしても、いかに屈辱を味あわせるものであるかということを思い知らされた。
 この無関心は、母の贈り物によって顕在化したものではあったが、それが以前から、彼が生まれたときにまで遡っても存在したのではないかと考えるに至った。しかし、この時ほど近所の子供たちが康彦に関心を抱いたことはなかったのだ。康彦に対する関心の高さが無関心を装うという形で示されるというのは皮肉であった。

 夏の盛りであった。人々の歴史を飾るものとして植えられた木々は、灼け付くような日射しをものともせずに、おびただしい葉を茂らせた枝を吹き渡る南風にそよがせていた。休むことを忘れてしまったのではないかと思わせるはど、蝉時雨はどこまで行ってもついてきた。
 康彦は顔を上げて夏空を見た。青空は、康彦の頭上高く入道雲を湧き上がらせて、その大きさを誇っていた。この空に比べれば、この田舎町は余りに小さい。人の心はなおちっぽけだ。また、この小さな町のどこへも行くあてがないということもまた、気が滅入るほど確かなことだった。康彦は自転車を引き出した。あてもないのに、歩いて出かけるには目的地が余りに遠いような気がした。
 自転車にまたがる。全身の力を両足に集中してこぎだした。自転車は速度を上げて、瞬く間に庭を通過した。そのまま速度を維持して道に飛び出し左にカーブを切ったとき、危うくバランスを崩しそうになった。肝をつぶしたけれど委細かまわず走り続ける。ひたすら自転車を走らせることが目的といえる唯一のことだった。力の限り走り続けて、くたびれ果てて行き着くところ、そこが目的地なのだ。
 庭を突っ切って、道に飛び出すと目の前に県立高校のグラウンドが展開する。時々、体育の授業やクラブ活動に使われるだけのサブグランドは、その周囲を背丈の高い夏草が覆っていた。人気のないグラウンドは遠い国の草原のようにだだっ広く、遠く畑との境界付近には陽炎が立ち、蜃気楼のような光景は強烈な日射しに後押しされて、目眩を誘うように揺らめいて踊っていた。真夏にこのグラウンドが子供達で賑わうのは、夕餉前のひとときと決まっていた。夕日が西の空を焦がした後、辺りが黄昏て子供達の輪が次第に小さくすぼまる頃、家人が呼びに来るまで、女の子は白爪草を摘み、男の子はキャッチボールや缶蹴りに熱中した。幸福なときがたちまちに過ぎてしまうことを知り尽くしたもののように、子供たちは誰も彼も、夜の帳が身近に迫り享楽の一日の終焉を告げられるまでいつまでも帰りたがらなかった。
 人影が絶えた道に沿った生け垣の内も外もひっそりと静まり返って、町並みは、灼け付く太陽に頭を垂れ、照りつける陽光に痛めつけられ虫の息となった巨人を連想させた。松や梅その他の植え込みの幹に取りすがった油蝉だけがジージーと機械のうなり声のような鳴き声を立てていた。この年は、例年にも増して油蝉の発生が多く、目に付く蝉といえばほとんどが油蝉であった。彼らは、交尾のための相手を捜し求める以外は、単独で行動するのを好んだ。なおかつ、思索する知識人のようにたおやかな静寂を好んだ。彼らが妊婦や乳幼児にまれに害悪を与えるのではないかと疑いを持たれるように切実に、なおかつ、ドタバタ喜劇の幕間にふさわしい狂騒曲を奏でるように鳴き交わすのは、自己の存在を同種の異性に知らしめるか、恋敵となる同性に対する強烈な競争心に突き動かされてのことにほかならなかった。
 靖彦の自転車は、道が十字路に分かれた地点にさしかかった。小さな個人医院の角を左手に折れると、城跡公園や小学校に通じ、真っ直ぐに進めば幼稚園を通り過ぎて、商店街の裏手に割烹料理屋などの飲食店が軒を連ねる一角へと向かう。右手に進めば和夫達が水遊びに興じる宇田川の土手に行き着くことになる。靖彦は自然にそう考えたが、そう考えただけで、子供たちの陽気な歓声に悩まされなければならなかった。この歓声が持つ響きは、劇的な音楽の調べにも似て、遠くから子供たちの遊戯を見守る人々の胸に秘めやかな興奮を呼び覚ますものであった。しかし、その輪の中に参加することが絶望的な靖彦に、輝くばかりの嬌声は、現実には届くはずのない距離を飛び越え頭の中で反響して、徒に彼を苛立たせた。
 自転車は自然に速度を落として停車した。靖彦は自転車を降りて立ち止まった。彼の視線は行き先を決めかねて宙をさまよった後で足元の地面に落ちた。細かい砂利が敷かれ、敷かれては踏み固められた地面から立ち昇る熱気が汗で湿った頬の辺りにまとわりついてきた。眩しさが徐々に増してきてものの輪郭がぼやけてゆき、ほとんど光り以外のものを認識することができない限界点に達した後、世界が一瞬にして暗転しようというまさにそのとき、靖彦はジージーという唸り声が耳元の空気を震わせ聴覚を刺激して否応なしに頭の中まで進入しようという勢いで迫ってくるのに気が付いた。
 目を凝らし、生まれながらの仇敵を捜すような険しい表情で、平穏であるべき世界を騒がせている元凶を探した。敵は巧妙に姿を隠し容易にその正体を現そうとはしなかったが、ようやくそのうちの一匹を、個人医院の前庭の診察室らしい白いペンキ塗りの木の枠でできた窓の近くの松の木に潜んでいるのを発見した。胴を震わせ全身全霊を傾けて鳴き続ける昆虫が、この上もなくグロテスクな害虫そのものに思われた。何かが確実に靖彦の凶暴な感情に火を点けにかかっていた。
 靖彦の体が自然に動き、地面の小石を拾い上げた。小石を手にした瞬間、靖彦の意識は激しい憎悪に混濁した。様々な人間の顔が走馬燈のように浮かんでは消えて行った。彼らは靖彦を刺激し、怒りの炎に油を注ぐようであった。靖彦は手の中の小石を力一杯に憎むべき敵めがけて投げつけた。小石は大きくそれて目標物のかなり下に当たった。油蝉は驚きもせず、靖彦を嘲笑うかのように耳障りな鳴き声を立て続けた。
 靖彦は決意した。この世界の昆虫と名の付くすべての生き物をこの手で抹殺してやるぞと。手始めに、生意気にもこの自分の行為をせせら笑う哀れな油蝉をこの崇高な行いの生け贄に捧げてくれようと。
 康彦と油蝉の間には憎しみをぶつけ合うほどの敵対した関係など存在しなかったはずである。本来彼らは子供たちの玩具であった。彼らはその身を凶悪な人間の子供たちの捕捉の危機のうちに置き、時には宿題の標本となって提供しつづけた。その様な親密な関係は一方的に断ち切られた格好であった。
 しかし、靖彦の腕から放たれる小石は、彼の心のように乱れて軌道が定まらなかった。何投目かが大きくそれて、松の木を通り越して行ったかと思うと白いペンキ塗りの窓枠のガラス面に当たり、乾いた衝撃音を立ててこれを破壊した。
 敵の油蝉が身を潜めている松の木の背景には病院の建物があって、油蝉めがけて小石を投げるということは、すなわち多くの窓ガラスが取りつけられた建物めがけて小石を投げつけるということであった。小石が目標物を捕らえきれずに後方へ流れ、勢いあまって窓ガラスを破壊することを予測するのはさほど難しいとも思えないが、康彦はそのような判断力を働かせるに必要な冷静さを喪っていた。
たちまち津波のような後悔と恐怖が靖彦に襲いかかった。体が凍り付いてしまったようにこわばって動けなくなった。
「逃げよう。見つかればどんな罰を受けるかもしれない」
「逃げても無駄だ。犯人が僕だという事はすぐに分かってしまう」
「弁償させられるかもしれない。でも、お母さんに頼めばガラス代くらいはすぐに出してくれるだろう。」
「いや、このことが知れたらお母さんはひどく悲しむだろう」
 すっかり怖じ気づいて混乱した意識の中で、断片的な考えがフラッシュのように現れては消えていった。
 頭に浮かんだ思いの数々のように迅速に行動することができれば、目下の災厄からは逃れられそうであったが、靖彦の体は完全に自由を失い、身動きすらできなかった。
 やがて、おそらくそれは窓ガラスが音を立てて砕け散ったのとほとんど同時に起こったのにちがいないが、静かだった建物の内部にがやがやと人々の立ち騒ぐ声がさざ波のようにわき起こった。
 やがて、静かだった建物内のざわめきが康彦にも認識されるようになった頃、壊れたガラス窓の隣の窓が開かれて口髭をたくわえた白衣の医者が顔を現わした。医者はどうか知らないが、靖彦にとっては何度か道で擦れ違い見覚えのある顔であった。開け放たれた窓の内側の白衣の影は目も鼻も大きめで眼光鋭い顔を思い出させた。医者はすぐに靖彦に気づき事態を理解したようであった。二人は医者の怒りを含んだ胴喝する声が直接康彦に届く距離を隔てて向かい合った。
 人生には、批評家にいわせれば錯覚または気の迷いで片づけられるものであっても、個人的にはわずかに残された勇気や希望の残梓を根こそぎ消滅させる出来事が突然の災厄となって訪れる瞬間があるものなのだ。苦い後悔と絶望が康彦の意識を占領しつつあった。医者は無言で康彦を見た。無関心に、動物園の人気のない動物を眺めるような視線であった。すぐ後に、血相を変えた中年の看護婦が玄関から転がるように飛び出してきた。鬼のように激しい怒気を含んだ声を張り上げて怒鳴り散らした。もし、その場に大勢の観衆がいたならば、その誰の目にも康彦の顔から血の気が引いて行くのが分かったはずだ。康彦はなにかが音を立てて足元に崩れ落ちるのを感じた。漠然と、人生とはこんなにも脆いものなのだという考えが浮かんだ。失うものはなにもないと思われる自分から、それでもなお血の滲むような思いをして守ってきたものまで奪おうとする暴力的な力が働くことの理不尽さを噛みしめた。彼が加害者であることは間違いなかったが、披が加えた害に対して与えられる罰がその何倍にも相当するという点で間違いなく被害者でもあった。しかし、被害者である彼はその責任を他に求める立場になかった。康彦は悄然として医者を見た。康彦の運命をその掌中に握った男は、外見に似つかわしくない柔らかい声で怒鳴り散らす看護婦をたしなめた。看護婦は主人に忠実な従者の役を見事に演じ切ったことに満足して玄関の内に姿を消した。医者もまた何事もなかったかのように眩しそうに夏空を見上げ、天候を確かめるために窓を開けてみたのだというふうな素振りを見せてから窓を閉めて悠然と姿を消した。
 靖彦は一人屋外に取り残された形であったが、今はもうむきになって小石を投げつけていたときに彼を捉えていた焦燥と孤独感は急速に薄まっていた。辺りを見回してみても、自転車を飛ばしてこの四つ角に差し掛かったときそのままに、彼の身の上には何も変化が起きていないもののようであった。ひとしきり蝉の鳴き声が高くなったような気がした。

 ずいぶん前のことであった。医者は、戦国時代にこの地方を治めた豪族が築いた城跡に造営された護国神社の石畳の坂道に架かる朱塗りの橋の欄干に寄りかかってうまそうにたばこを吹かしていた。そばを通りかかった康彦を呼び止めて話し掛けた。
「君は、上原さんのところの子だね」
 康彦は黙って頷いて見せた。
「成績がいいんだってな?」
 康彦は今度は黙って首を横に振った。
「将来は何になるつもりなの?」
 医者は重ねて訊いた。康彦は曖昧な表情を見せるばかりであった。
「勉強がんばれよ」
 医者の言葉の意味が分かってもその意図を理解できずに康彦は首を傾げて見せた。医者は康彦の態度を可愛いと思ったのか優しそうに目を細めて笑った。
「お母さんは元気か?」
 この一言が康彦を驚かせた。医者は母を知っているのだ。なぜ知っているのか、康彦は大げさな戸惑いと強い好奇心を抱いた。靖彦が一番強く感じたのは、この医者が母に対して何らかの感情を抱いているのに違いないと言うことだった。でなければ自分がその息子であることを知っているはずがなかった。
 靖彦は今は亡い大家やその息子の母を見る目を見たときの不愉快な気分を思い出した。いつからそうした不愉快さを感じるようになったのかは覚えていない。気が付くと彼らの姿を見るだけで気持ちが悪くなるような気がするようになっていた。
 医者に説明を求めるようにじっと待っていた。
「どうした?」
 医者は訝しそうに目を細めて靖彦を見た。睨み合いが続いたが、暫くしてから医者が根負けして口を開いた。
「大人を警戒するののは良いが、・・・まあいいだろう、そう急ぐことはない」
 靖彦は医者が母に対してどのような感情を抱いているのを聞いてみたいような気がするのと同時に、それを懼れる気持ちでもあった。そのような心の動きを医者に知られるのは避けたいと思った。そのためにはあくまで子供らしく振る舞わなければならなかった。
「どうして知っているんですか?」
「誰を?・・・君をか・・・」
 靖彦は頷いた。
「どうしてかな・・・」
 医者は曖昧な答えをしただけだった。その後でこう付け加えた。
「近所の子供は知っているさ。お得意さまだからな」
 子供と思って馬鹿にした答えなのか本心なのかよく分からない言い方だった。
「それにしても、お母さんは働き過ぎじゃないか、身体に気を付けないと。体を壊しては元も子もない。お母さんに言いなさい。具合いが悪くなったらいつでも気にしないで病院に来るようにと」
 康彦の漠然とした不安や期待は雲散霧消していた。
 康彦は医者の言葉にひどく恥ずかしい思いをしたことをまるで昨日のことのように鮮明に覚えていた。

 午後七時を過ぎてようやく母が帰宅した。顔には疲労の色がにじんでいた。いつもは口にしたことがない「疲れた」という言葉を聞かされて、体が縮むような思いがした。
 靖彦は、台所で忙しく立ち働く母へ背を向けて、壁際においた座卓に向かって教科書を読んでいた。母にたいするねぎらいの言葉を捜しても見つからなかったから、本を読むことに集中しようとしたが、書かれた内容は少しも頭の中に入ってこなかった。
 母は、靖彦のねぎらいの言葉を拒絶する傾向があった。親が子供のために働いてくたびれるのは当たり前のことで、子供に感謝される筋合いのものではないと考えている様子がうかがわれた。一人息子の願いが実現可能なものであれば、母は喜んで努力するのだった。そうして、自分は靖彦に何事も求めようとはしない心積もりであった。靖彦が生まれたことでもう十分であるといわんばかりであった。母が口やかましくいうのは、靖彦の将来にとって今のうちから身につけておくべき事柄、それらは一朝一夕では獲得することが困難な事柄に限られていた、これらの事柄を習慣として身につけさせたいがためであった。靖彦に社会性を身につけさせるということを親に課せられた社会的な責任であると捉えていたわけではなく、あくまで我が子の身の上を案じてのことであった。我が子が自由を最大限に享有することができるようにその基礎を堅固なものにするためのものであったが、そのことが逆に靖彦を束縛することとなっているのに気づかなかった。
 靖彦ができることは、母に余計な苦労をかけないこと、そのこと以外にないと考えられた。そのことから、つい数時間前の出来事が、既に母の耳に入っているのではないかと恐れた。母を悲しませることがいかに罪深いことなのかを痛いほど自覚していた。そのことによって、彼の存在を可能にしている支えのすべてを失うという現実的な恐れが彼を恐怖へ駆り立てていた。
 子供が石を投げることは人類が誕生してから今日まで連綿と行われてきた行動であって、これからもおそらくは未来永劫繰り返される行動なのだということ。その結果たまたま窓ガラスを割ってしまうことだって、大いにあり得る話しなのであって、そのことをもって親子が逮捕されるということなどありはしないのだということに靖彦は気がついていなかったが、靖彦が恐れるのは、彼のうかつな行動によって母が傷つくこと、そして靖彦を蔑み見限ってしまうことであった。
 二人はいつものように向かい合って食卓についた。靖彦は、自分がいつもより伏し目がちで居ることに強い違和感を感じたが、自分から修正することは困難であった。母が口を開くことが自分の心を開かせるきっかけになることをしばしば経験していたが、今宵は母が口を開くことを恐れ、その度に体内に衝撃が走った。

 翌日、またしても靖彦はひとりだった。午前中には子供会の学習があった。班長と副班長という役割の上級生の家で、近所の小学生で構成される班単位で行われる学習会であった。今年の班長は和夫だった。班長と副班長は六年生から選ばれるのが常だったが、今年は、班のなかでは六年生が和夫ただ一人だったので和夫が班長、五年生の忠が副班長をつとめていた。学習会は和夫と忠の家で交互に開かれた。勉強会は、各自が夏休みの宿題を持ちよって、上級生が下級生の分からないところを教えるという形式で進められた。学習の場は入口に近い茶の間か、茶の間に客が来ている場合は隣の座敷が当てられ、家中の机になりそうな家具が総動員される事になったが、それでも足りない場合は畳の上が机になった。靖彦は、部屋の中央に並べられた飯台などからすこし離れた畳みの上に夏休み帖をひろげて、黙々と見慣れた問題に取り組んだ。学習会が始まってからしばらくたち、夏休みも折り返し点を過ぎる頃になっても、靖彦の態度にはすこしの変化も見られず相変わらずひとり黙々と夏休み帖に取り組む姿を呈していたが、これを見ていた和夫の母も忠の家族もそれをすこしも変だとは思わず、むしろ勉強熱心でおとなしい子供と噂するほどであった。

 親たちは、靖彦と和夫を取り巻くグループとの緊張関係に気がついていなかった。気がついていた場合も、そのことが抜き差しならない重大なことだという認識を欠いていた。そのほうが子供たちには好都合であった。彼らも靖彦と自分たちの関係が日常の延長線上の出来事の一つに過ぎないのだという確信を得る手がかりになったからであった。
 しかし、ひとり和夫の母だけは少し違った捉え方をしていた。学習会が終わって帰ろうとしていた靖彦を和夫の母が呼び止めて、井戸のほうへ歩いて行ったから、彼もまた仕方なくその後に随った。
「あんた、和夫のやつにいじめられてんじゃねえの?」
 井戸の陰で立ち止まった和夫の母は、振り返るといきなりこうきりだした。
 靖彦はとっさにどう答えていいかわからなかったので、沈黙を守ったまま和夫の母の顔を見詰めた。その顔にいつにない真剣さがみなぎっていることは小学生にも読み取れた。
 度重なる問いに靖彦は黙って首を振った。実際のところ靖彦にいじめられているという認識はなかった。緊張関係があるのは事実であったが、その関係は対等な立場に立った上のもので、一方的にいじめられているというのとはまるで別のものであった。
 靖彦は、彼の顔を見つめる和夫の母にいいようのない圧迫感を感じたが、それは見知らぬ他人にそうされたときのような嫌悪感を伴うものではなかった。彼女は靖彦が自分の子供のせいで逆境に置かれ、つらく悔しい思いをさせられているものと思い込んでいた。そのいわれのない罪悪感が彼女を駆り立てていた。
「いいかい、今度いじめられたら、いつでもおばちゃんにいうんだよ。いいね、分かったね」
 そう言い残して和夫の母はその場を後にした。
 和夫の母は善人であった。和夫を口汚く罵るのは、そのもっとも顕著な証拠であった。しかし、彼女の行動には彼女なりの計算があってのことであって、靖彦たち子供にはそれを見抜く感覚が育ってはいなかった。したがって、和夫に従う者にとっては敬遠すべき存在であったが、和夫と一線を画する者にとっては敬愛すべき人物であった。
 それよりも確実にいえることは、和夫の母にはわが子を守ろうとする母の本能が働いていたに過ぎなかったということであった。彼女にとって康彦は、息子が何かしでかすきっかけとなりうる迷惑な存在であった。できれば靖彦を息子から遠ざけたいと思ったいたが、それが無理ならば息子に振り掛かる災難の芽を事前に取り除いてしまわなければならなかった。このような認識とともに、この危険が靖彦の側の一方的な原因に基づくものではないということにも気づいていて、そのことが彼女が抱く罪悪感の源となっていた。
 康彦は、和夫に対して同情心を抱く自分を発見して驚いた。和夫の母もまた正しく彼を理解してはいないような気がした。そのこと自体は和夫のというよりは、その母の弱点であるはずであった。同情されるべきは和夫の母であったかもしれない。しかし、康彦が憐れみを感じるのは和夫に対してであった。
 和夫が彼のグループを率いることができるのは、彼にその能力が備わっていたために過ぎなかった。また、グループの秩序を維持するためには多少の理不尽な振る舞いも必要であった。完璧とはいえないが、和夫は彼に与えられた役割を半ば忠実に果たしているのだった。

 いつもとかわらない午後であった。和夫たちのグループは宇田川で水遊びに興じているはずであった。靖彦は、昼寝から目を覚ますと、歌謡曲の一節を繰り返し口ずさみながら自転車に跨った。大家の敷地内から表に飛び出し、高校のサブグラウンドの前で昨日とは逆の方へと方向を定めた。白昼夢のような出来事が起こって自分を苦しめた病院の方向へ向かう勇気が湧いてこなかったためであった。
 和夫たちがいつも通っている駄菓子屋の裏手を回って幹線道路を横切り、高校の敷地の周囲を巡る狭い道を駆け抜けると城址公園へ通じる舗装道路に出た。道の両側には見事なポプラの大樹が夏空を覆い隠すようにその枝を大きく広げていた。
 その並木道を見慣れた少女がこちら側へ歩いてくるのが目に入った。桑原智恵子であった。同じクラスとはいってもほとんど口を利いたことがなかったから、いつもはただ一瞥しただけですれ違うはずであった。
 智恵子は、ピアノの稽古の帰りであった。白いワンピースに水玉の模様が入り、腰には水玉と同色のベルトがついていた。
 智恵子は赤いリボンのついた麦藁帽子をとって靖彦に挨拶を返した。
 靖彦は自分がなぜ自転車を停めたのか理解できなかった。流れる視野の中に麦わら帽子を被った少女を認めたとき、靖彦の心はその姿に釘付けになった。少女が桑原智恵子であることを認めなければそのまま通り過ぎたはずであった。靖彦が自転車を停めるための必然的な前提として少女が桑原智恵子でなければならないということではなかった。しかし、同じクラスの顔見知りの中でも靖彦にこのような行動をとらせたであろう相手は数えるほどしかないといってよかった。
 智恵子は、靖彦に挨拶するために解いた麦藁帽子のリボンをしなやかな手つきで結び直した。
 その姿を目にしたとき、靖彦の中で何かがはじけるのを感じた。それはこれまでに経験したことのない感覚であった。靖彦は偶然に感謝した。予期しない出来事が良くないことに限って起こるのではないということに初めて気づかされた気がした。
 靖彦は、その時智恵子とどんな会話を交わしたのかまったく覚えていなかった。ふたりが途切れがちな会話を交わした時間が長いものであったのか、短かったのかさえ覚えていなかった。そのようなことはどうでも良いことであって、肝心なのは、ふたりが突然に出会って挨拶を交わし、なおかつ会話を交わしたという事実であった。その内容がどうであったかは些事に過ぎなかった。
 麦わら帽子を手にして微笑み掛けている智恵子の姿が象徴するこの瞬間を忘れることはないだろうと靖彦は思った。
 康彦は、自分がかつて望んでいて諦めかけていたものの一端を垣間見たような気がした。彼の周囲に張り巡らされた眼に見えない障碍がわずかにほころびを見せた瞬間でもあった。
 康彦は丁寧な挨拶を心がけて智恵子と別れた。智恵子は康彦の方向を向いたまま二、三歩後ずさりをして止まった。康彦もまた、自転車にまたがった姿勢を智恵子の方へ向けて振り返ったまま動かなかった。ふたりは照れ笑いを浮かべながら徐々に遠ざかった。

 牛越橋は、宇田川の中流に架かる木造の狭い橋だった。昔、この場所に橋が架けられていなかった当時、牛の背に乗って川を渡ることが多かったというのが橋の名の由来であった。橋の下流には灌漑用の堰が設けられ、堰の上流は小学生が泳ぎを覚えるのにちょうど良い深さの淵を形成していて、川岸近くに住む子どもたちの格好の遊び場になっていた。
 夏の盛りであった、見上げる空は透き通るように蒼く眩しく輝き、南の空には煌く入道雲が沸き上がっていた。遠くから聞こえてくる自動車の警笛が優しい動物の鳴き声のようにかすかに届いていた。普段は耳障りな蝉の声も埃っぽい湿った風も少しも敵愾心を起こさせずに、それぞれがそれぞれの持ち場を守っているのだと思わせるような穏やかな午後だった。
 宇田川の河原は大勢の子供たちであふれていた。水遊びに興じる子供たちの歓声が、牛越橋の欄干に寄りかかって立っている靖彦の耳元まで届いていた。ひたすら享楽を求めるために動員される五感によって生み出された歓声は、眼下に展開する主役たちの動き同様に複雑に絡み合って独特な音色を奏でた。
 靖彦は大きな声で河原で遊びに興じる子供たちへ呼びかけた。彼の心は決まっていた。今こそ和解のときであった。無用な意地の張り合いをしているときではなかった。あれからずいぶん無駄な時間か流れて行った。もう無意味な時間の経過をただ手をこまねいて見送ることはやめなければならない。自分の意志で誤りは正されなければならないし、その時がきたことを示す必要があった。
 靖彦を励ます声が聞こえた。その声は母の声であり桑原智恵子の声であるような気がした。
 河原にひときわ大きな和夫の声が響き渡った。橋の欄干に立ち上がった人影があった。靖彦であった。彼は橋の欄干に立ち上がり、その上を静かに渡り始めていた。子供たちの視線がすべて自分に注がれたのを感じたとき、靖彦の全身を喜びの閃光が貫いた。靖彦は眼下に拍手が沸き起こったのを聞いた。靖彦の英雄的な行動を称える拍手であった。その拍手の音を優しく話し掛けてくる声のように靖彦は聞いた。
 次の瞬間、ひときわ大きな和夫の声が再び起こった。悲鳴に近い驚きの声だった。
 見ると、欄干の上の靖彦の足元が大きく乱れて均衡を失った体重を支えきれずに、靖彦の身体は緩やかに空中に踊った。
 靖彦は二十メートル近い距離を落下するのを感じながら、いつか見た夢にどこか似ているという思いに深く囚われていた。



















和夫の母とのふれあい。
和夫の悪口を言う母への反発
和夫との和解 事故 橋の欄干からの転落 和夫に伝えたかった 自分が和夫のために少女に接近したことを
少女との出会いが影響を及ぼす。

少女は憧れの対象であった。手が届く。社会との同化を促す。和夫との和解。


母の存在をまじかに感じながら、和夫の母が和夫のことを口汚く罵る光景が脳裏に浮かんで来るのを抑えることができなかった。


 庭を突き切って道に飛び出すと突き当たりが県立高絞のグラウンドであった。時々、体育の授業やクラブ活動に使われるだけのサブグラウンドは、一面に背丈の低い夏草に覆われていた。人気のない草原には陽炎が立ち、眩暈を誘発するように揺らめいて踊っていた。真夏にこのグラウンドが子供たちで賑わうのは夕げ前のひと時と決まっていた。夕日が西の空を焦がした後、辺りが黄昏て子供たちの輪が次第に小さくすぼまる頃に家人が呼びに来るまで、女の子は白爪草を摘み、男の子はキャッチボールや缶蹴りに熱中した。
 人影が途絶えた小道に沿って造られた生垣の内も外も焼け付く太陽に頭を垂れ、照りつける日射しに痛めつけられ虫の息となった巨人のようであった。松や梅その他の木の幹にすがった蝉だけがジージーと機械の唸り声のような鳴き声を立てていた。
 康彦は小道が十字路に分かれた地点にさしかかった。小さな個人医院の角を左に曲がると城址公園や学校へ通じ、まっすぐ進めば幼椎園を通り過ぎて商店街の裏手に割烹料理屋などの飲食店が軒を連ねる一角へと向かう。右手に進めば和夫達が水遊びに興じる宇田川の土手に行き着くことになる。自転車は自然に速度を落として停車した。康彦は自転車を降りて立ち止まった。彼の視線は行き先を決めかねて宙を彷徨った後で足元の地面に落ちた。砂利が敷かれ、敷かれては踏み固められた地面から立ち上る熱気が、汗で湿った頬の辺りにまとわりついていた。眩しさが徐々に増してきてものの輪郭がぼやけてゆき、ほとんど光以外のものを認識することができない限界点に達した後、世界が一瞬にして暗転しようとするまさにそのとき、康彦は、ジージーという唸り声が耳元の空気を震わせ否応なしに聴覚を伝わってきて、頭の中まで侵入しようという勢いで迫ってくるのに気がついた。彼は目を凝らし、生まれながらの仇敵を探すような険しい表情で、平穏であるべき世界を騒がせている元凶を探した。敵は巧妙に姿を隠し容易にその正体を現そうとはしなかったが、ようやくそのうちの一匹を、個人医院の前庭の、珍察室らしい白いペンキ塗りの木の枠で造られた窓の近くの松の木に潜んでいるのを発見した。康彦の心に凶暴な憎悪の感情が募った。胴を震わせ体全体であらん限りの力を振り絞って鳴く昆虫が、グロテスクで身勝手な害虫そのものに思われた。
 康彦の体が自然に動き、地面の小石を拾い上げると松の幹にすがった敵めがけて投げつけた。小石は大きくそれて目標物のかなり下にあたった。油蝉は背きもせず康彦を嘲笑うかのように耳障りな鳴き声を立て続けた。康彦はこの世の中の蝉という蝉を一匹残らず抹殺するんだという悲壮な決意に体を震わせて小石を投げ続けたが、たった一匹を始末するのにさえ相当な困難が予想されるのだった。康彦の腕から放たれる小石は、彼の心のように乱れて焦点が定まらなかった。何投目かが大きくそれて松の木を通り越していったかと思うと、白いペンキで塗装された建物の窓ガラスに当たってこれを破壊した。しまった。津波のような後悔と恐怖が康彦に戦いかかった。体が凍りついてしまったようにこわばって動けなくなった。逃げよう。見つかればどんな罰を受けるかも知れない。逃げても無駄だ。犯人が僕だと言うことはすぐに分かってしまう。弁償させられるかもれない。お母さんに頼めばガラス代くらいはすぐに出してくれるだろう。いや、このことが知れたらお母さんはひどく悲しむことだろう。すっかり怖じ気づいて混乱した意識の中で断片的な考えがフラッシュのように現れては消えていった。
 やがて、静かだった建物内のざわめきが康彦にも認識されるようになた頃、壊れたガラス窓の隣の窓が開かれて口をを嘗えた白衣の医者が顔を現わした。医者はどうか知らないが、靖彦にとっては何度か道で擦れ違い見覚えのある顔であった。開け放たれた窓の内側の白衣の影は目も鼻も大きめで眼光鋭い顔を思い出させた。医者はすぐに靖彦に気づき事態を理解したようであった。二人は医者の怒りを含んだ胴喝する声が直接康彦に届く距離を隔てて向かい合った。
 人生には、批評家にいわせれば錯覚または気の迷いで片づけられるものであっても、個人的にはわずかに残された勇気や希望の残梓を根こそぎ消滅させる出来事が突然の災厄となって訪れる瞬間があるものなのだ。苦い後悔と絶望が康彦の意識を占領しつつあった。医者は無言で康彦を見た。無関心に、動物園の人気のない動物を眺めるような視線であった。すぐ後に、血相を変えた中年の看麓椅が玄関から転がるように飛び出してきた。鬼のように激しい怒気を含んだ声を張り上げて怒鳴り散らした。もし、その場に大勢の観衆がいたならば、その誰の目にも康彦の廉から血に気が引いてゆくのが分かったはずだ。康彦はなにかが音を立てて足元に崩れ落ちるのを感じた。漠然と、人生とはこんなにも脆いものなのだという考えが浄かんだ。失うものはなにもないと思われる自分から、それでもなお血の擾むような思いをして守ってきたものまで奪おうとする暴力的な力が働くことの理不尽さを噛みしめた。彼が加害者であることは間違いなかったが、披が如えた害に対して与えられる罰がその何憤にも値するという点で間違いなく被害者でもあった。しかし、被害者である彼はその責任を他に求める立場になかった。康彦は浦然として医者を見た。康彦の運命をその掌中に逢った男は、外見に似つかわしくない柔らかい声で怒鳴り散らす看蔑掃をたしなめた。看蔑婦は主人に忠実な徒者の役を見事に演じ切ったことに満足して玄関の内に姿を消した。医者もまた何事もなかったかのように眩しそうに夏空を見上げ、天候を確かめるために窓を開けてみたのだというふうな素振りを見せてから窓を閉めて悠然と姿を消した。
 靖彦は一人屋外に取り残された形であったが、今はもうむきになって小石を投げつけていたときに彼を捉えていた焦燥と孤独感は急速に薄まっていた。辺りを見回してみても、自転車を飛ばしてこの四つ角に差し掛かったときそのままに、彼の身の上には何も変化が起きていないもののようであった。ひとしきり蝉の鳴き声が高くなったような気がした。


 体の自由が利かなかったにも拘わらず、靖彦は身構えた。突然に彼を見舞った惨状は、靖彦のこれまでの経験にはなかったことであったから、このような場面に遭遇した場合の対処方法には無縁であった。したがって、彼が身構えたというのは、そのときまでにすっかり平常心を失ってしまっていた心の備えとでもいうべきものであったが、それが万全のものでないことは当然であった。
 彼を襲うであろう危機に関する予測をするのは簡単であった。彼は、これから展開するであろう恐怖に満ちた光景を、危険を回避するために小動物に与えられた鋭い嗅覚に似た感覚によって察知した。
 慌てて靖彦は記憶の糸をたぐり寄せた。映画のフィルムを逆回転させて、その中に納められた映像の中に間違いを見つけだす作業に取りかかった。主役はもちろん彼自身である。よもやという期待に藁にもすがる気持ちで、必死に記憶された映像の細部にわたって仔細に点検した。どこかに間違いが発見されなければならない。でなければ、自分がこのような惨めな思いを味あわなければならないような羽目に陥ることはないはずであった。その間違いが見つかれば、そこを修正しさえすればこの恐怖から解放されるかも知れない。そしてなによりも、その後の記憶を抹殺することも可能なのだ。
靖彦の怯えきった目が呆然と見詰めるほかない建物から最初に飛び出してきたのは、年配の看護婦であった。背の低い少し太目の看護婦は、その外形に似て常に忙しなく飛び回るタイプの人間であったが、この時ばかりとその傾向に輪を懸けて、猛烈な勢いで玄関から飛び出すと、彼女の精神とほぼ同化しかけたとも思われる病院の建物、このかけがえのないものに損傷を与えた極悪人を決して赦しはしないという決死の覚悟で、哀れな少年に罵詈雑言を浴びせ掛けた。正当な怒りは、正義を貫くため、当然に信賞必罰の精神を思い起こさせ、人々の共感を勝ち取るはずであった。が、彼女の怒りは、彼女個人の中で荒れ狂い、行き先を求めて暴走する蒸気機関車のようであった。彼女の顔は達磨の緋の衣のように紅潮し、全身から毒気を発散させて地団駄踏んだ。幾分過剰に、滑稽ささえ感じさせる怒りの表現は、しかし、後悔の念に打ちひしがれ萎縮した少年の心を鞭打ち罰を与えるのに十分な効果を発揮した。
 やがて、診察室の窓が開かれて、口ひげを蓄えた白衣の医者が顔を現した。窓の内側の白衣の影は、目も鼻も大きめで遠くからでもすぐ見分けがつくという特徴を持つその顔で、眼光鋭く騒ぎを起こした張本人を睨みつけた。それは何度か道ですれ違い見覚えのある顔であった。

 恐怖と後悔が幼い心に悪魔のようにとりついていた。医師の赦しを受けて恐怖が去った後は、言い様のない後悔が後から後から際限もなく心に湧き上がった。康彦の投石という行動を促したものは油蝉という取るに足らない生き物であった。康彦はかつて、彼らを厭うたり呪ったりしたことはなかった。彼らはむしろ蟷螂やカミキリムシなどよりは親近感をいだかせるものであった。お世辞にも美しいとはいえないその姿や鳴き声は、それでも夏の季節を彩る得がたい存在であった。その身近な存在が彼を裏切ったのだという重大な思いが心に重くのしかかり康彦を苦しめていた。


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