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作品名:幻覚 作者:奥辺利一

最終回   2
次に、レンタルビデオ屋の前に差し掛かったとき、俺の意識は別れたばかりの彼女に向かった。これまでに何度、ビデオを借りてきたかわからないほど足繁くレンタルビデオ店に通っていた。レンタルビデオの店舗を発見したとき、俺はこれまで繰り返してきたビデオを借りるという行為の意味を考えて顔をしかめた。それはほとんど意味を成さない行為であるばかりでなく、自分の恥ずべき性欲と緊密に結びついた行為であった。
性欲は、概ね定期的に起こるという点で飢餓感と同じ性質のものだ。また、食べることとまったく逆の、排泄するという行為によって満足を与えられるものである。排泄が滞ると体の器官の一部は刺激を求めて敏感に反応するようになった。本来、精液の製造と射精は快感を生み出すという目的を担うものではない。快感は精液の放出に付随するものに過ぎないのだ。ところが、精液の製造と放出が本来の目的を遂げる以前に、快感こそがその目的であるかのようにすり替わってしまっているようなところがあった。
なぜ人類はこのような不合理な機能を改めることなく今日まで伝えてきたのだろう。彼女が言うようにすべての事象に原因があるのだとすれば、このことにも合理的な理由があるはずであった。
俺はビデオの再生によってテレビ画面に映し出された数多くの女性のことを思った。これまで頻繁に借り出したテープに収められたのは均整の取れたプロポーションの女性であったり、綺麗な顔立ちの女優たちであったが、彼女たちに対する評価は決して高くはなかった。例外なく、彼女たちは独立した存在ではなく、男優によって玩弄される存在として意味を持つに過ぎないからだった。彼女が肌を許すのは選ばれた男優という特別な存在に限定されていた。しかも、彼女たちは行為によって生まれる快感に歓喜する自分を演技しているのに過ぎなかったのだ。
だから、彼女たちの快感、または歓喜の演技は俺を奮い立たせることはあっても慰めになることはなかった。俺は虚ろな快感を貪りながら、体を触れ合うことの意味を考え続けた。行為が性欲を満たすためだけのものであれば、その意味を考える必要はないのだ。性感が肉体的な感覚に留まらず精神的な感覚になるためには、性的興奮を呼び起こすための過剰な演技は障害でさえあるのかもしれなかった。
性欲の満足は自己陶酔に似ていた。そのことが相手との距離感を感じさせるような場合もあった。自己陶酔の状態を手に入れるためには観衆の存在が必要となる場合もあるらしかったが、個人的には観衆の前で行為に没頭することの困難さを思わなければならなかった。
彼女たちと公園で出会った彼女を同列に考えることは難しかった。彼女は明快な意思を持った存在であった。その彼女を性的に従属させることは、ひとつの世界を征服するよりも難しいだろうという思いが頭の中に充満していた。
しかしそれは、彼女の性的な魅力を減ずるものではなかった。彼女は服を脱がなくても十分に魅力的だったが、服を脱いで目の前に現れた美しい肢体を想像するだけで激しい眩暈のような陶酔を予感させた。
彼女が目の前に裸身を曝すには彼女の意思が伴わなければならないことに気付いた俺は、難攻不落の要塞が目の前に屹立するのを想った。彼女が自らの意思で、俺の目の前で着ている衣服を脱いでいく様を想像することは激しい興奮をもたらしたが、そのようなことが現実に起こる可能性を考えると、気持ちは暗く沈んだ。「彼女の裸体を想像する事すら罪なのだ」と、誰かが非難する声が聞こえていた。
それにも拘らず、俺は彼女の肌の温もりを想像していた。いつか自分の手が彼女の肌に触れることを、俺ばかりでなく彼女も進んで望むような事態が起こる日のことを想像していた。やがてそれはひとつの切望になった。

         九

なぜ、再び公園に足を踏み入れることになったのかは分からない。理由のひとつは、そこで再び彼女に出会うかもしれないという簡単なものであった。理由は簡単だったが、その決断は重苦しい重大さを帯びたものだった。それからもうひとつ、行きずりの男に自分から進んで身の上話を聞かせるという行為の源に在るものの、その在りのままの正体を見極めたいという気持ちが起こっていた。今はそれだけが二人の間に存在する唯一の、蜘蛛の糸で繋がれたような幽かな接点であった。
昼下がりの公園は生憎の曇り空だったが、そこに集う人々は直射日光の脅威を免れて、いかにも安心したような表情を浮かべているように見えた。俺はぶらぶら歩きながら池を周回する道を一回りした。池の端に彼女の姿を見つけることはできなかったが、決して落胆してはいなかった。むしろ、そのことによって心の負担が軽くなったような気さえした。インフルエンザに罹った体が快方に向かい、気分が好転しつつあるのを意識したときのような安堵感に浸りながら、そのときの俺は既に、彼女が現れないことを願っていた。彼女が現れてしまえば、現実社会で起きることが、夢幻の中にいるような意識に間違ったメッセージを送ることよって、現実はますます夢幻的なものに近づいて、幻のような意識の世界がますます勢力を拡大することに寄与する恐れがあった。
俺は深呼吸してベンチに腰掛けた。そこは彼女と最初に出会ったベンチから少し離れた場所にあるベンチだった。そして、何気なく目を移動させて辺りを窺うと、少し離れたベンチに腰を下ろした彼女の姿を発見したのだった。

彼女は時々、直に俺の顔を見つめたが、なぜわざわざそうしなければならないのかは分からなかった。人間を観察する場合は、やはり顔の表情を見るのが手っ取り早いのかもしれなかったが、俺の顔を見つめて俺に彼女の顔を見るように命じたとき、彼女は明らかに俺の反応を窺おうとしていた。
そのとき俺は、彼女は自分の美しさを意識しているのではないかと思った。自分の魅力を意識するのは個人の特権であった。そして、そのことを他人が示す反応によって確かめるのは許されることであった。
しかし、そのような行為が相手に特別な思い込みを起こさせる可能性も否定することはできないのだ。つまり、彼女が自分に関心を抱いていて、その関心が男女の間の恋愛感情に関するものだという誤解を生じさせかねないということだ。そのことに彼女が無頓着でいられるとは考えられなかったが、彼女は少しも照れたような素振りを見せることがなかった。
正確な言葉は忘れてしまったが、彼女は俺と再会できたことを喜んでいるようなことを言った。俺は彼女のことを意識するあまり、再会を恐れながら期待するという矛盾に悩まされていたことに彼女が永遠に気付かないことを願ったが、そのような願いが叶うだろうとは思えなかった。
そうして、俺は相変わらず自分自身に対して怯え、その怯えがますます気持ちを萎縮させるのを眺めていた。そのような心の働きは、彼女に対する感情をさえ簡単に歪曲することを可能にしたが、そのせいで彼女を神話の中の女神のような神秘的な存在に祭り上げることも平気で行いかねなかった。そのような盲目的な過ちを純粋な気持ちの高まりと錯覚する恐れもあった。

俺は羨ましかったのだ。タレントを夢見て果敢に挑戦してきたことと、公園で見知らぬ男に話しかけるという行為が彼女の中では矛盾なく継続しているのだという気がしたからだった。
生きている間には、ひとつの思いが他の思いを、ひとつの行為が他の行為を裏切る結果に陥ることが、抜き差しならない運命の回転する歯車のように付きまとっていた。
それは彼女にとっても同じことであった。彼女も例外なく同じような悩みに悩まされているらしかった。しかし、そのことで落ち込んでいる暇はないように見えた。
「何か悩み事?」彼女は突然そう訊いたが、俺にとってはどこか用意周到さを感じさせるものだった。
「ええ、まあ・・・」
「そう。大変ね」そう言って彼女は俺の顔を窺うように見た。
「・・・・・・」俺は戸惑いを覚えて、ただ首を傾げて見せた。悩みを抱えていることが簡単に見破られてしまうような人間は最も軽蔑すべき部類に属するのだ。
「でも大丈夫。救いは必ずあるのよ」と彼女は言った。「あなたは救われる資格がある」と。そして、「生きとし生けるものは皆救われる資格があるの」だと。しかし、「そのことに気付くのはホンの一握りなの」と。
「君は不安を抱えて生きているのね」と彼女は言った。「その不安の源を見つめてみたことがある?」と訊いた。
不安には確かに原因があった。その原因は一つひとつがみな繋がっているようなところがあった。そして、最大の要因は自分が現実社会に適応して生きて行くことができないのではないかというものであった。
「それは自分を取り囲む壁のような存在の社会の中に孤立していることから生じているの」と彼女は言った。
そのような寓話は何も目新しいものではなかったが、彼女の口から改めて語られると、新たな真実味を加えるようだった。
「あなたには誰かの手助けが必要なの」と彼女は言った。その言葉が俺に恐怖感を思い起こさせた。誰かに救いを求めるには乗り越えなければならないハードルが、他でもない自分自身の中にいくつも存在することが予想されたからだ。
「ところで、君は自分の死を考えたことがある?」と藪から棒のように彼女は訊いた。
 俺は秘密を見破られたような恥ずかしさと焦りを感じた。
「そんなこと・・・」
「そうね。考えずに済む人は、ある意味幸せなのかもね。でも、そんな人はいないわ。生きている以上、誰だって考えずにはいられないの。だって、いつかは皆死ぬんだから。だから、死の影から逃げることはできないの。意識しようとすまいとね。だから、考えないではいられないんだけど、普通は死のうと思う人はいないはずなのよ。生きようとするのが生き物の本能なんだから。それでもつい、死を考えてしまうのは、生きることが辛いと感じるからなんだわ。だから、なぜ辛いのか、そこを見つめる必要があるのよ」
「・・・・・・」
 俺は彼女の長い言葉の全体を理解することを諦めなければならなかった。ただ最後の、なぜ辛いのかを見極めなければならないという部分だけが耳に残った。
「それが分からない?」
「さあ・・・、そうかも・・・」生きるのが辛いから死にたいなど、あまりにも当たり前すぎることを認めるのは気恥かしいことなのだ。
「それじゃあ、君が信じられると思うものは何?」
「・・・・・・」
 俺には信じるものなどひとつもない。信じるものなど何もないということを信じていると言っていいのかもしれない。それは、信じることができるのは自分自身が作り上げた揺るぎない信念たけだということなのかもしれない。おそらくそうだ。しかし、その信念が信念として存続するためには、その信念を支える理論的根拠、若しくはエモーショナルな陶酔が必要であった。
 彼女は我が意を得たりという風に笑顔を見せた。
「そうよ。すごいわ。そう考えられる人は少ないのよ。たいていの人は科学的なことを言うか、誰かの受け売りの言葉を言うだけだから。でも、そうしながら、自分では信じていないのよ。そうかな、と思う程度のことなの。それではだめ。信じてもいないことを鸚鵡返しに言ってみても始まらない」
「・・・・・・」
 俺は、彼女の言葉に僅かな励ましを感じたが、それだけで暗く閉ざされたような前途に光明を見出すようなことは無かった。現状に不満だけを感じて、信じられるものが何も無いと息巻いてみても、それで現状の変革が達成されるはずはないのだ。
 そのような俺の焦りを見透かしたように、彼女はこう言った。
「現状に満足していないんだったら、私に預けてみない?」
それはある意味、決定的な一言だった。俺はその言葉を、俺の人生を彼女に預けてみないかという以外に理解することはできなかった。
「預ける・・・、ですか?」
 そのとき俺の頭を過ぎったのは、彼女と緊密に結ばれることがあるかもしれないという神々しいイメージだった。
「そうよ」そう答えた彼女の瞳は、深く見る者の魂を引き込むような色合いを見せていた。
「でもそれは・・・」
 俺が口ごもりながら話そうとするのを遮って、彼女はこう言った。
「預けるというのは、言葉の修辞上の問題、つまり言葉の綾というやつ。私に手伝わせてくれないということを、少し言葉を換えて言ったまでなの」
「それは・・・」
恥ずかしいことに俺は、預けるという言葉が手伝うという言葉に言い直されたことに少しも注意を払わなかった。ただただ、自分が彼女に関心を持たれているのだという認識に固執し、熱に浮かされていた。
それから俺の最大の興味が、彼女の俺に対する気持ちを探り出し、その思いを観念の世界のものでは終わらせず、現実味のあるものに再構成することに向かったのは、仕方のないことであった。

        十

次に公園で会ったとき、俺は彼女が前日の別れ際に言った言葉を蒸し返していた。あの言葉の意味をもっと明確にしたいと考えたからだ。人生を預けるということは、彼女にすべてを委ねろということであるはずがないからだ。そのようなことは有り得なかった。やっぱり人間は一人ひとりが社会の最小単位として独立している存在だからであった。
「人生を共に生きるということですか」と俺は勇気を振り絞って訊ねた。
すると彼女は、「そうよ」と、いとも簡単に答えた。その様子にまるで他所事のような印象を受け取って、俺はどぎまぎした。
「それは生活を共にするということですか」と訊くと、「ある意味ではそういうことになるかしら」と少し意味不明なことを言った。
それでも俺は彼女と二人で暮らすことを考えていた。そのためにクリアしなければならない条件をいくつか考えてみた。ひとつは収入の道を確保するというものであった。運悪くピザの配達の仕事を手に入れることはできなかったが、もう少し丁寧に探せば、俺に働き手としての価値を認める仕事が見つからないこともないだろうと思われた。もうひとつは彼女に満足する生活を提供することができるかどうかだが、これは相手の願望や価値観に関することだから一人で判断できる問題ではなかった。
すると彼女は、「そんなことを考えるべきではないわ」と言った。
一瞬、俺は耳を疑った。
「あなたが私の個人的な希望を考慮する必要はないのよ」と彼女は澄ました顔でそう言ってから、これまでにないチャーミングな微笑を浮かべた。
「あなたは、自分を解放するために生きるべきなの。そのときに私たちがお手伝いできることがありはしないかということなの。私のために何をしなければならないかなんて、あなたをますます不自由にするばかりでしょう」
 俺は彼女の言葉が理解できなかった。彼女は追い討ちをかけるように続けざまにこう言った。
「あなたを拘束しているものは何? コンプレックス? ・・・そうだ、そうなんだわ。それともプライドかしら? そうだとしたら、そんなものは捨ててしまいなさい」
 彼女は楽しげにそう言った。その有様は、新しい玩具を手に入れて喜んでいる子供のようでもあった。しかもその傍らで、俺は囚人のように拘束されているのを感じるばかりであった。その証拠に、何もかも思い通りに行かないのだという、いつもの箴言が思い出された。
「・・・・・・」
「あなたを待っている人々がいることをあなたは知っている?」
「俺を、ですか?」
「そうよ。彼らはあなたを上手に受け入れてくれるわ。そして、いろいろ助けてくれるわ」
 彼女が語った助けという言葉は、まるでヒーリングミュージックのように魅力的に響いた。彼女から繰り出される言葉の中でも、一、二を争う魅惑的な言葉だった。それは媚薬の陶酔で俺を欺き、酔わせるかのようであった。
「どんなふうにですか?」
「まず、寝る場所が用意されるわ。それから食べ物。そして、一番大事な仕事も。それから、最も重要なのは、彼らがあなたを理解しているということなのよ」
「理解している・・・?」俺は、半信半疑だった。俺の何を理解しているというつもりなのか? 俺は彼らが簡単に理解できるような単純な生き物ではないのだ。
 それは、こういうことなのだ。恐らく彼らは、俺はそれが誰かはまだ知らないのだが、俺のことを良く理解しているのだろう。しかし、俺は彼らに理解されたいと思っているわけではなく、むしろ理解し損ねて欲しいと思っているのだ。なぜなら、そのことは、今では俺の唯一の存在理由なのだから。理解するよと言って作り笑いされても困るのだ。考えただけで虫唾が走るというものだ。
「そうよ。しかも、あなたを拒絶したりしないわ。皆優しく受け入れてくれるの」
 その言葉を聞いた俺は全身に鳥肌を立たせていた。これまで一度だって、多くの人間に受け入れられることを夢見たことなどなかったからだ。むしろ俺は、つまはじきされることに慣れ過ぎてきたために、独りで居ることに安らぎを覚えるようにできてしまっていたのだ。
「助けは要らないんです」俺は済まなそうにそう言った。彼女に逆らうことは一種の反逆罪なのだ。
俺がそう言うと、彼女は目を細めて笑った。まるで、絵のような笑顔だった。悪戯に優しさを強調することはなく、笑うことが自分のためではないという見せ掛けの微笑に似ているようなところがあった。
そうして、俺の未熟さを優しく諭そうとするつもりらしかった。そんなことをされなくても、俺の未熟さは成熟する可能性を著しく欠いた、誰が見ても滑稽なほど醜悪なものであることは周知の事実なのだ。今更、「あなたは子供に過ぎないのよ」と言われてもリアクションの取りようがないのだ。
「あなたは、誰かと共同生活をしたことがある?」
「共同生活ですか・・・?」
俺は恥ずかしさのあまり彼女の顔を直視することができなかった。もっとも、これまではできていたかと言えば、それも疑問だった。
「そうよ」彼女はテストの答え合わせをするようにさらりと言った。
 俺は、まるで心の中を見通されているのではないかと思い、縮み上がった。心の中まで裸にされていると感じるのは、言いようもないほどグロテスクで気味の悪いものだった。
「いいえ、子供の頃を除けば、そんなことは記憶にありません」
妙な答え方だった。記憶に無くても共同生活をしたことがあると受け取られかねない言い方だった。
 彼女は満足そうに頷いて見せたが、それが俺の答え方を肯定するものでないことだけは、俺にも察しが付いていた。
 頭の中で、誰かが俺に向かってこう叫んでいた。
「僕は貴女を求めているのです。貴女と共に生活したい。時々公園で会うことだけでは満足できない。常に貴女の存在を感じていたい。貴女の傍に居たい。それは不可能ではない。目を閉じれば貴女の姿を思い浮かべることができるというだけでは我慢できない。目を開いて貴女の姿を見たい。手を触れて感じたい」
 その言葉に彼女が気付いてくれることを俺は密かに期待していた。俺の望みは、いかにも小さくてみすぼらしいものであったが、今はその他のことを考えることができないのだ。
その声に彼女が気付くことはなかった。
「して見たいとは思わない?」
 そう言ったときの彼女の表情は、これまで俺に見せたものの中でも、一、二を争うほど妖艶なものだった。その妖艶さに何時までも魅入られて居たいと思わせるほどだった。
「・・・・・・」
「案外、いろいろな発見があるかもしれないわよ」
「・・・・・・」
発見という言葉が彼女の唇を通して語られたとき、俺は失神しそうなほど強烈な眩暈に襲われた。彼女の言葉は俺を、自分がまるで盲目だったかのような錯覚に陥れたのだ。
「いいえ、絶対すべきよ。そうすれば、これまでにない新しい世界が目の前に広がるのよ」
「・・・・・・」
「私が請合ってもいいわ」
 彼女は自信に溢れているように見えた。そのような自信の源に目が届かない俺は、ただ表面に現れた姿に惹き付けられるほか無かったのだが、それはもちろん彼女の罪ではない。彼女が俺の思いが及びもしない自信に溢れているということだけで彼女を責めることはできない。
 責められるべきは、彼女の自信に素直に共感できない俺の方なのだ。
「イメージが湧かないんですよ」俺は逃れるように、辛うじて自分の意思を乗せた言葉を発することができた。
「イメージ・・・?」彼女が首を傾げると、その表情には無垢な子供のあどけなさが漂って見えた。
このとき俺の挑戦は成功しそうに思われた。彼女が明らかに元の彼女とは別の人格に生まれ変わったのを感じた俺は、胸が苦しくなるのを覚えた。
もっともそれは、いつもの幻覚の一種に過ぎないものであった。
 俺が次の言葉を捜していると、彼女は困惑した表情を見せ始めようとしていた。俺は彼女の上に起こるだろう変化を極端に恐れた。俺の恐れとは関係なく、彼女は予測不可能な変化を繰り返すのに違いなかった。
「どう言ったらいいんでしょう・・・。俺が誰か知らない人と暮らすということが・・・」
 俺は恥ずかしさを堪えてそう伝えた。
「それは、考えすぎよ。考える必要がないことを考えては駄目」彼女の反応は単純明快だった。
「・・・・・・」
俺はどうでもいいことを考えようとしているわけではなかった。考えようとしなくても、それはまるで呪術者の呪文のように浮かんでくるのだ。
「もっと前向きには考えられない」
「・・・・・・」
前向きに考えるということは、何も考えないということと同じことであった。思考は根深く記憶と結びついているから、その記憶を無かったことにしてしまわなければ、新しい発想法など身に着けることはできないのだ。
「あなたは、もっと外側に目を向けなければ駄目。自分の殻の中に閉じこもってばかりいては駄目」
「・・・・・・」
俺は呆然として彼女の顔を眺めていた。彼女が皆と同じことを言うのを聞くとは思わなかったことが、次々と襲ってくる寂しさの理由だった。
次に思ったのは、今すぐ反論すべきだということだったが、反論するためには理路整然とした説明が必要だし、その根拠も必要になるだろうという考えが浮かぶと、俺の意識は罪を自覚した場合の生殖器のように萎縮せざるを得なかった。
「あなたは、殻に閉じこもっていると言われるのを当然のことだと思ってはいない?」
「いや、・・・そんなことは・・・」
 俺は苦痛から目を逸らし、逃れたいと思っているだけなのだ。それが自分を守るための唯一の手段だとしたら、そうせざるを得ないではないか。
「仕方ないと言うつもり?」
「さあ・・・」
「それは、褒め言葉でもなんでもないし、むしろ軽蔑を含んでいるのかもしれないのよ」
「・・・・・・」軽蔑されることを望む人間はいないが、自分が軽蔑にふさわしいのなら、それは甘んじて受けなければならないのだろう。
「ところで、軽蔑するどころか、あなたを評価する人もいることを忘れては駄目よ」
「・・・・・・」何処の誰がこの俺を評価すると言うのだろう。俺は首を傾げたが、それは彼女への問い掛けのつもりであった。
 答える代わりに彼女はこう言った。まるで俺をおだてようとするかのように。
「あなたは、自分を過小評価しているだけなのよ。あなたの魅力や能力に気付いていないのよ」
「・・・・・・」自分で自分の能力に気付くとは、どういうことだろう。ノーベル賞を受賞すれば気付くかもしれないが、差し当たってそのような予定はないのだ。
 そのとき俺は、彼女が俺の隠れた能力の存在を証明してくれることを期待していたのだが、それが過剰な期待でもあるかのように、彼女は少しもそのことに触れようとはしなかった。
「あなたには経験が足りないだけなのよ。もう少し経験を積めば、少しずつ分かってくるはずよ」
 彼女は、あくまでも彼女のやり方で、熱心に励まし続けた。
 俺は、恥ずかしさを堪えて、何が分かってくるのかと訊ねた。
「それは、いろいろよ。・・・生きることの意味とか・・・。そうよ、毎日が充実するには、生きることの意味を正確に認識して、そこに向かって前進しているんだという確信を抱くことが必要なのよ」
「生きることの意味とは何ですか?」俺は顔の火照りに俯きながら訊ねた。
「それは、幸福を追求することだけど、そのためには自分だけではなく、自分を含めた大きな世界の幸福を考える必要があるわね」
「大きな世界の幸福ですか?」
「うん。人にはそれぞれ役割が有るわけだから、その役割を自覚することによって大きな幸福に寄与することになるわけ」
「・・・・・・」何も俺は、大きな幸福を求めているわけではなかった。自分の幸福さえ考えられない者が自分以外のものの幸福を考える余裕など有りようがないではないか。
「でも、直ぐにそうなれるわけではないわ。順番に段階を踏むことが必要なの」
「・・・・・・」俺は彼女の顔を見直した。誰も教えようとしなかったことを、彼女が教えようとしているように感じたからだが、彼女以外の人間が教えられなかったことを何故彼女が教えられるのだろうか? 少なくとも彼女はその意欲を持っているらしいということが、俺には驚きであった。
「分かったわ。とりあえず、目の前の世界が劇的に変化する瞬間を体験してみたいとは思わない」
 彼女は柔らかな微笑を振りまきながらそう言った。その表情を見ていると、自分が変わった後の姿を気持ちよく想像させるようであった。彼女の言葉に従えば、ひょっとして今まで経験したことのない世界に足を踏み入れることも不可能ではないのではないかという考えが浮かんだ。
「それは・・・」俺は彼女と出会った瞬間からこの時までのことを素早く思い起こしていた。
「とりあえず、ヨガの講習会に参加してみない」
「ヨガですか・・・?」それは思いもしなかった言葉であった。
「そう。聞いたことがあるでしょう」
「ええ、言葉だけは・・・」
 すると、彼女はこれまでになく熱心な様子で説明を始めた。
「ヨガというのはね、インドで生まれた健康法なのよ。体と心を鍛える方法なの。これを習得することによって、健康な体と精神を手に入れることが可能になるのよ。そして、それからまだ先があって、その先にある修法を実践することで、自分を開放することもできるし、まったく別の完璧な人格に生まれ変わることも不可能ではないのよ」
「・・・・・・」
生きる辛さから開放されることとヨガの修行がなぜ結びつくのか、俺には理解することができなかった。おそらく世界は、体験して初めて分かるもので満ち溢れているのだ。しかし、その全てを経験するというのは文字通り不可能なのだ。

 やがて、何の進展もないまま別れの時間がやってきた。俺との収穫の少ない会話にも、彼女は少しも嫌な顔を見せなかったが、その顔に疲労の影が忍び寄っているのは隠しようがなかった。何も成果を得られず心を残したまま去って行くような風情は、母にはぐれて泣き続けた後で眠りに就いた子供を見るときのような痛ましさを覚えさせた。俺は、誠実な男なら誰でもそうするのだという義務感に駆られて、別れの儀式のために手を差し出した。
ところが、俺が手を差し出すと、彼女は明らかに躊躇いの色を見せて、俺の顔ではなくその手を見た。俺の手が汚れているのかもしれないと思った俺は、その掌をズボンの上から腿に擦り付けてから、再度彼女の前に差し出した。
 すると彼女は、慌てて脇の下に抱えた鞄に手を入れ、何かを探し始めた。そうして彼女が取り出したのは、ピンク色をした携帯電話だった。
 俺は彼女に向かって差し出した手を仕方なく引っ込めなければならなかった。
携帯を開いて確かめるような素振りを見せた後で、「あら嫌だ、行かなくちゃあ。ごめんなさいね。また会いましょうね」そう言い残して彼女は帰って行った。

         十一

「なぜ不安になるか、分からないのなら教えてあげるわ」
彼女はにこやかな微笑を浮かべてそう話し掛けていた。俺は只管その美しい顔に見とれていた。
「あなたは、あなたが何も信じられないということを信じているのね。それが信じられるのなら、なぜそのほかのことが信じられないのかしら。おそらくそれは、あなたが信じられるものを見つけられずにいるからよ。なぜ見つけられないのかといえば、見つけたくないからでしょ。それ以外には考えられないわ」
 俺はただ黙って彼女の言葉を聞いていた。彼女の言葉はいちいち耳に心地良く響いた。
「それでは、なぜ見つけたくないの? それは、見つけることが怖いからよ。見つけなければならないことは存在するのに、そのものとあなたが如何にアンバランスな存在かということを見せ付けられることに恐れを抱いているからよ」
 確かに俺は信じられるものが見つかるとは思っていなかったが、それが俺が見つけようとしないからだとは夢にも思わなかった。それは成長すれば自然にやってくるもののように思っていた。誰に習うわけでもなく野生動物が成長するに従って子孫を残す方法を実行するように。しかし、何時になってもそれはやってこなかった。それが俺の不信をますます加速したことは否めない。
「あなたはいろんな不安を持っているわ。その中で最も中心的なものは、あなたの存在を脅かすような不安かもしれない。でも、元々そんなものは存在しないのよ。そういう不安の幻影にあなたは取り付かれているだけなの。その結果、何事に対しても臆病になっているわけ。それって、おかしいと思わない? もうあなたは十分に脅かされているはずなのに、もっと脅かされるかもしれないという影に脅かされるなんて」
 次に彼女は俺の生き方の根本的な誤謬に触れてこう言った。
「正しく綺麗に生きようとしていない。それが辛さにつながっているんだわ。全てを正しい行いだけで貫いて生きて行けるほど、この世界は甘くはないのよ。だから、自分にとって心地良い生き方だけを考えて、法に触れなければかまわないという考え方ができない?」
 彼女は気負うことなく淡々と話を進めた。その話し方は俺が知っている彼女そのままだった。誰も騙そうとしたり傷つけようとしたりしない素直さを感じさせるものだった。
 しかも、その表情は明るく、衒いがなかった。俺は、彼女が醸し出す自信の源が何に由来するのか、どのようなメカニズムによって彼女のように自信を獲得することができるのか、それを知りたいと思った。もし、彼女と同じような心の在り方を獲得することができるのであれば、彼女の言葉に従うことに恐れを抱くべきではないと考えるに到った。と言うより、俺は彼女と同じ位置に到達することを望んだ。それが彼女と一体になることかもしれないと。肉体的にはもちろん精神的にも一体となること、それが自分の望みなのだという結論に到達すると、俺の胸は不思議な感動で満たされた。

「どう、あれから、何か変化はあった?」彼女は少し疲れているように見えたが、その疲労の原因が自分にあることなど、俺は思いもしなかった。
「変化ですか・・・?」
「そう。どんな小さなことでもいいわ」
 俺は夢を見たことを話したいという衝動に駆られたが、それを話してしまえば、夢で得た感動が地下から発掘された遺物のようにたちまち風化してしまうような気がした。それでも、話さなければならないという誘惑に打ち勝つことができなかったのは、俺の弱さそのもののせいであった。
「夢を見ました」
「あら、どんな夢?」そう言った彼女は少女のように目を輝かせているように見えた。
俺はそんな風情に何故か興醒めして、夢の話を正確にすることを止めた。
「夢にある人が現れました」
「誰? 私が知っている人?」
彼女は嬉しそうだった。何か楽しいことを期待していることを窺わせるような様子だった。
「それが、・・・あなたのような綺麗な女性でした」
 俺が冗談半分にそう言うと、彼女の表情が一変した。
「分かったわ」
「なにが、ですか?」
 彼女は俺の質問を無視した。
「良い人を紹介するわ。それでいいでしょ」真剣な表情でそう言った後で、上目遣いに俺を見上げた。その表情には、えも言われぬ妖艶さが漂っていた。
「それは、誰ですか?」俺は期待に体が震えるような興奮を覚えたが、素直に喜ぶ気にはなれなかった。彼女がわざわざ自分を紹介するというのは有り得ないことだった。
「あなたが求めているものをくれる人よ。あなたの希望を必ず叶えてくれるはずよ」
「希望ですか・・・?」
「そうよ。一度、彼女に相談してみたら」
 そう言って彼女は意味ありげに笑った。その笑い方は生身の人間が持つ独特な生々しさを感じさせた。
「・・・・・・」
「私の講義は終わったの。もう実践するしかないの」
「実践ですか・・・?」
「そうよ。実践することで生きることの意味を学ぶのよ」彼女は澄ました顔でそう言った。その顔はいつもどおり端整で隙が無かったが、どこかよそよそしさを感じさせるものだった。
「しかし、どんな・・・」
「あなただって、性欲を感じることがあるでしょう」そう言う彼女には恥じらいの欠片も見られなかった。
「しかし、俺は・・・」
「何?」彼女は時々見せる、苦しくも悲しくも見えるような表情を見せて訊いた。
「わざわざ紹介してもらわなくても・・・」
「どうして?」彼女の憂いは深まった。
「・・・つまり、あなたに指導してもらいたいからです」
 俺は恥ずかしさを堪えながらそう言った。口に出してしまうと、体が思いっきり軽くなったような気がした。すると、彼女は俺の気持ちを察したかのように微笑みながらこう応えた。
「ええ、もちろん。指導と言うより、一緒に頑張りましょう」
 俺は有頂天になりかけていた。俺の伝えたかった思いが彼女に伝わり、彼女はそれを受け入れてくれたような気がした。
 しかし次の瞬間、彼女は頭から水を被せるようにこう言った。
「だから、最初は、これから紹介する女性と付き合うのよ」
「紹介する・・・、付き合う・・・?」俺は驚いて声を上げた。
「あら」彼女も驚いた様子を見せた。「これから紹介する女性は、私と同じ考えを持った人よ。何も驚くことはないわ」
「驚いてはいませんが、その必要はありません」
「どうして?」
「どうしてって・・・、あなたから直接・・・」
「・・・・・・」
 彼女は眉間に皺を寄せて、理解できないという顔を見せただけだった。俺は、気持を高ぶらせてからこう言った。
「あなたが、僕から遠くへ行こうとしているような気がするんです」
「どうして、そんなことを考えるの?」
「どうしてでしょう・・・」
「それは、おそらくこういうことかもしれないわ。私があなたを導くのを急ぎすぎているせいなのかも」
「導く、ですか・・・」俺は鸚鵡返しにそう言ったが、それが彼女の目には特別なリアクションに映ったらしかった。
「ううん、そうじゃないわ。それは言葉の綾よ・・・。一緒に、同じ目標に向かって進んで行くのよ」彼女は少し慌てていた。
「あなたと一緒ではいけないんですか?」俺はまるで他人事のように精一杯抑えた調子でそう言った。
「もちろん一緒よ。それは忘れないで」
「でも、それでは・・・」
 俺が言いかけると、彼女はそれを遮るようにしてこう言った。
「いい、私は貴方のためを思っているのよ。だから、あなたのほうから私に歩み寄って・・・」
確かに彼女はそう言ったのだ。そう言って俺が彼女に近づくことを要求した。そこで初めて、俺は彼女を受け入れることができないのを悟った。
彼女の要求は当然なものであると思われた。人と人が関係を結ぶためには、互いを受け入れるように努力しなければならないのだ。そして大切なのは、要するにお互いが受け入れるよう努力するに値するかということなのだ。その意味で、俺は努力させるに値する男ではないというのが手っ取り早い結論なのだった。
それでも俺は、彼女がいつか気持を翻して、俺の傍に歩み寄ってくる日が来るだろうという思いに囚われていた。そのために払わなければならない犠牲が必要だとしても、彼女を失うことには換えられないのだと。

          十二

結末は意外に早くやってきた。俺はまた、当てもなく公園に出掛けて行った。
俺がそこへ出掛けて行ったのは、もちろん彼女にまた出会えるかもしれないという期待を抱いていたからであった。出掛けるときに自分に言い聞かせたのは、彼女の意見に逆らうことは考えないようにしようということであった。
彼女は生きた手本なのだから、取り敢えずは彼女の言葉に従ってみようというのが俺が到達した結論であった。

 俺は四度、公園のベンチに腰掛けた妖精のような彼女の姿に出会っていた。しかし、最後の出会いは春の日差しのような暖かい気持で俺を満たすどころか、有り得ない仕打ちで俺を打ちのめした。
 彼女の傍らには見たこともない若い男が、いつか電車の中で見かけた予備校生のような男の子が寄り添うように座っていたのだ。
 俺は胸騒ぎに耐えながら彼らに近付き、気付かれないように隣のベンチに腰掛けて、二人の様子を窺った。
 すると、こんな破廉恥な会話が聞こえてきた。俺が彼らの方に目を向けることができなかったのは、彼らに見つかるのを恐れたためばかりではなかった。したがって、以下の描写には多少なりとも俺の想像が含まれていることを断っておかなければならない。
「女の子と寝たい?」
 彼女がそう訊くと、若い男は恥ずかしそうに頷いた。
「そのためには、努力しなければだめでしょ。努力してる?」
「・・・・・・」男は首を振った。
「それではだめよ」そう言いながら彼女は男の子の背中をぽんぽんと拳で叩いた。
 そのとき俺の中で激しい嫉妬と憎しみが噴出していた。俺は見たこともない若い男に嫉妬し、彼が当然のように彼女の傍に座っていることを憎んだ。
「悩みなんか、誰にでもあるわ。でも、他人に自分の悩みを理解してもらっても、解決にはならないわ。自分で自分から追い出すようにしなければならないの。・・・悩みから開放されたい?」
「・・・・・・」
「開放されたいと思うなら、一緒にいらっしゃい」そう言って彼女は満面の笑みを浮かべた。その屈託のない、透き通るような明るさは十分に魅力的だった。彼女が勧めるのなら、進んで汚いことに首を突っ込み、自分を汚すこともできるかもしれないという気がした。まさに、彼女に付いて行くことで彼女が思いのままになるのであれば、俺は迷わずそうしただろう。しかし、彼女が思いのままになり、手に入るということの確実な保証がなければならない。この保証を取り付けなければ、それから先のことは有り得ないのだ。
「一緒に、ですか?」男は煮えきらない態度でそう訊いた。
「そうよ」そう言って彼女は相手をからかうような特徴的な笑いを見せた。「でも、誤解してはだめよ。私はあなたの所有物ではないし、あなたのすべてを受け入れようと決めたわけではないんだから」
 恐れていたとおり、彼女は彼を誘っていた。悩みや不安から脱け出すことができると言って誘っていた。それが単なる勧誘に過ぎないことを俺は知っているつもりになっていたが、選りによって同じような手口を使おうとしているという事実が、俺のプライドを傷つけた。彼女に対する不信が沸々と沸き上がったが、どこかで、これは単なる誤解に過ぎないのだという思いにすがろうとしていた。その結果、彼女がこれまでに見せた表情をいちいち思い出し、その裏側に隠されたものを検証する必要に迫られていた。
 そのとき、「誰かがこっちを見ていますよ。ストーカーじゃないですか?」男が俺の視線に気付いてそう言った。
 その声に促されて彼女がこっちを見た。俺は顔を背けることも忘れて、まともにその視線を受け止めていた。その瞬間に、その冷酷な目が捉えていたものが昨日までの俺ではないことを、俺は悟らなければならなかった。
「いいえ、知らない人よ。気にしないで。それより、これを読んでみない」そう言って彼女が取り出したのは、「日常の困難な事態に関する純粋な考察」とタイトルが付けられた小冊子であった。

          十三

私的制裁が認められていない国では、司法制度が代わって復讐を果たしてくれる建前であった。復讐のために第三者機関が存在するというのは合理的に見えるが、国は個人の復讐を代行するために懲罰を行う国家機関を設置しているわけではない。あくまでも、公的に認められた権利を保護するためと秩序の維持という要請に応えるためである。
ところが、個人の権利侵害は公的に認められたものに限定されるわけではない。私的な権利侵害は存在したし、私怨というものを忘れ去ることはできないのだ。
人々はさまざまな形で私怨を晴らしてきた。人間の行動の中で、その動因が明確であるという点において最も合理的だと考えられるものは報復であるかもしれない。
自分の中に自然発生的に起こる理念や信念というものを考えることが難しいように、まったく個人的な動機から善行を行うということを考えることは難しい。人々は学習によって善良な人間として成長するのだが、同時に善良なものの対極にあるものの存在についても学習させられるのだ。
そのような善良さとは、主義主張の正統性や理論的な整合性を言うのではない。他人の物を盗まない、他人の心を傷つけない、他人に不愉快な思いをさせないという程度の低次元のものである。他人によって盗まれ、傷つけられ、不愉快な目に合わされて初めて善良であることの真の意味を学習することになるのだが、その意味を知ることは、その対極にある悪意に満ちたものの存在を知るということから出発するのだし、その悪意に満ちたものを体得することから始まるということを否定することはできないのだ。したがって人は、善行を為す前に、ほとんど何の努力も必要とせずに悪行を為すことができるのだ。

復讐という言葉が初めて頭に浮かんだ。彼女の仕打ちが復讐を受けるに値するかどうか慎重に考えようとしたが、このような場合に冷静になって考えるのは無理な話だった。感情の高ぶりが憎悪となって、嵐のように荒れ狂うのを抑えることができずに、目の前で繰り広げられている裏切り行為について考えるたびに沸き上がる怒りに体がブルブル震えた。
俺が彼女に対して企てる復讐を誰も阻止することはできないだろう。強行法規に抵触しない場合には、どんな方法を使っても私怨を晴らすことを阻止することはできないのだ。
俺は立ち上がり、ふらふら歩いて隣のベンチに近付いていった。
最初に俺に気付いたのは、若い男の方だった。俺の顔を盗み見るようにした彼はぎょっと驚いた表情を見せた。
次に俺の方に顔を向けた彼女は、見知らぬ他人を見るような冷酷な目つきで一瞥すると直ぐに顔を戻した。
俺は彼らの視線を跳ね返しながら尚も近づき、計画通り二人の前に立ち止まった。
二人の視線が俺に釘付けになった。一人は怯え、もう一人は侮蔑するような視線だった。
俺はその目を代わる代わる見てから彼女に向かってこう言ってやった。
「あなたのしていることは、宗教の勧誘なんじゃないですか?」
 すると彼女は血相を変えて俺のことを睨みつけた。その目に曝されると、俺は自分の計略が半ば成功したのを悟ったが、それだけではまだまだ不十分なような気がした。
 そこで俺は、「騙されないように注意したほうがいいよ」自分が騙されそうになったことを恥じながら彼女と並んでベンチに座った子供のような若い男に言ってやった。男は驚いたように目を見開いて俺の顔を凝視すると、その後で同じような目をして彼女の方を見た。彼女は立ち上がったが、その顔は鬼のような怒りの形相に変貌していた。
「何を余計なことを・・・」そう言った彼女は血の気が引いた唇をぶるぶる震わせていた。
 俺は彼女の敵意に満ちた態度に怯んだ。彼女の怒りや憎しみの純粋さが俺を怯えさせたのかもしれない。
 彼女の言うとおりであった。宗教の勧誘だって、法に触れなければ許される行為なのだ。しかし、適法な行為が人を傷つけないとは限らないのだ。
「あなたは自分が正しいことをしていると思っているんでしょうが、本当にそうなのか、時々は反省したほうがいいよ」
 そう言いながら俺は、彼女に対して初めて優位に立ったような気分に包まれていた。
彼女の表情が塑像のように固まってしまったように見えて、俺は二人の関係が最終局面を迎えたことを直感した。すると、彼女が公園の中で声をかけてきた瞬間のことやベンチに並んで腰掛けて会話したことなどが懐かしく思い出された。
その懐かしさが俺の力を見せ付けることを容認したのかもしれない。彼女との思い出は既にどぎつい欺瞞の色に彩られて、俺の悩みや不安を弄んだ後の無残な残滓に成り果てていた。俺を欺いた彼女の美しい顔を、二度とそのような目に会う男が現れないように処置してしまわなければならないという思いが、俺にこれまで感じることがなかった勇気を与えた。

 傷害事件を起こしてから暫らくして、親から小包が届いた。
意味不明の小包を受け取るというのは、気持の良いものではないが、懐かしさが込み上げてきて、俺は両親の顔を思い出そうとしていた。しかし、どうしても彼らの顔を正確に思い浮かべることができなかった。これまで自分は、彼らの顔を正確に記憶しようとしたことが無かったのではないかと思わなければならなかった。彼らから逃げ出そうとしていた俺は、彼らを記憶することさえ拒否しようとしていたのだということに気付かなければならなかった。
小包を手に取ってみると、それは意外に軽いものだった。サイズも両掌に乗る程度のもので、さほど大きいものではなかった。その軽さや大きさが小包には不似合いだという思いを抱かせた。僅かばかりの物をわざわざ小包にして送りつけるという彼らの真意を測りかねた俺は、その包みを開けることを拒否するのが妥当だと決め付けていた。
送り主の意図がまるで分からなかった俺は、暫らくの間その小さな包みをテーブルの上に置いたまま手を触れることもできずにいた。
 親からの説明はついに届かなかった。俺は、それが彼ら一流のメッセージの送り方なのだと気付かない振りをしなければならなかったが、受け取った小包をそのまま放置しておくのも気味が悪かったので、意を決して包みを解いた。包みの中に収められていたのは俺にまつわるポートレイトや記念写真やテスト用紙など、幼い頃の思い出の品々であった。
 俺は、それらのものを直視することができなかった。それらは醜悪な過去と現在を結ぶモニュメントとなって俺に復讐しようとしていた。手に取って眺めるのもおぞましい、恥辱にまみれた犯罪の現場写真に匹敵するものであった。
 俺はその醜悪さに泣いたわけではなかった。そのように醜い存在が自分なのだとすれば、そのことを哀れんだり悲しんだりしている暇はないのだから。


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