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作品名:幻覚 作者:奥辺利一

第1回   1
         一

その建物は、住宅地の真ん中に奇跡的に盛り上がったマウンドのような丘の上に、下草や蔓の類が絡まった雑木の林に囲まれて自分の存在を恥じるかのように建っていた。周囲には何もない。在るのは存在意義もはっきりしない、醜い形をした草や木だけだ。実際、彼らは捩れたような奇妙な形をし、埃や汚れた空気が運んでくる汚染物質にまみれている。試みに彼らが何時からそこに生えているのか説明しようとしても、俺に言えることは、俺がこの襤褸アパートに棲みつく遥以前のことに違いないということだけであった。
地上に存在するものすべてが意味を持っているのだと考えるならば、彼らも例外なく存在することの意味を持っているはずなのだろうが、それを感じることができて科学的に説明することができる者がいるとすれば、彼は奇跡の人と呼ばれる資格があるだろう。
生命はどのようにして生まれてきたのだろう。
 彼らの上に冬が訪れると、草は立ち枯れ、木は悉く葉を落として丸裸の老人のような姿を晒すことになったが、また春が巡って来ると、命の蘇りを信じることが偶然の産物ではなかったと思わせるように復活を遂げることになった。
その姿を見て神秘的な蘇りの教義を翻案することも勝手だし、科学的と称する説明を加えようとするのも勝手だし、その結果を学校で教えることも勝手だ。ただし、そのことを信じるか信じないかは個人の自由に属する範疇の私的な事柄だから、くれぐれも強制しないように配慮されなければならない。もっとも、彼らは強制などという言葉を使ったりはしないのだ。彼らが使うのは、努力であったり、責任であったり、社会的というような高級な言葉なのだ。
人々は科学的という表現を好んで用いるが、その姿の中に科学的な態度とかけ離れた狂信的な独りよがりを発見することがある。科学的という修飾詞が絶対的なという意味に使われることがないように注意して見守っていなければならないのは、時々、科学的な態度というものが公平な、あるいは客観的な態度と混同されてしまうという愚かしさにお目にかかることがあるからだ。科学的とは、単に学問的であったり理論的であったりすることに過ぎないのだから、人と会話するときの態度と同じような態度に他ならないのだ。
 ところで、一見すると何の役にも立っていないばかりか、油断するとアパートに通じる道を覆い尽くしかねないほどの勢いで勢力を拡大する厄介者の彼らにも、我々が直接見届けることが出来ない効用があることを、我々は知っている。彼らは我々が生き続けるために必要な酸素を作り続けているのだ。もし、彼らが気まぐれに反乱を起こし、酸素の製造を放棄してしまったら、我々は生きながらえることが出来るのだろうか? そう考えると、彼らの存在が我々の生存に深く関わっていることを、我々がうっかり忘れてしまっていることに気付くのだ。
 しかし、我々が彼らを大切にしていないことは疑いようのない事実だ。我々と我々の同胞は、紙を作るためや燃料にするため彼らを伐採し、畑を作るために焼き払っている。そうすることが我々の生存にとって都合がいいからだが、その先に待っているのはこれまで誰も出会ったことのないカタストロフィーなのだ。ところが、仮にそのことに気付いたとしても、この自然破壊を止める手段を講じることができる者はいない。それは、自国の利益のために国際社会の秩序を乱す行為を誰も止めることができないのと似ている。人類の未来に関して言えば誰もが皆、無責任なのだ。
 ここまで辿り着くと、どっと疲労感が押し寄せてきた。こんなことは、どこそこのラーメンがうまいとか、誰某が百億円儲けて捕まったのは運が悪いからで、黒幕は偉そうな顔をして罪を逃れるのだろうという、誰もが抱いている感想のようなものであることに気付いたからだ。これらの感想には何の罪悪感も伴わない。感想というのはそういうものだ。真剣に問題視するということであれば、現状分析で済まさずにもっと深い反省が必要なのだ。そして、行動を起こさなければ意味のない反省を繰り返すよりは、目の前の小さな実践を心がけるべきなのだ。そう考えて実行している人々が皆無かと言えばそうではない。子孫に遺して伝えるために自然を守るという見込みのない戦いに挑む名も無い人々がいることも事実だ。しかし、その地味な努力を取り上げようとする報道機関は少ないし、多くの人々は無関心だ。当たり前に正しい行為はこの国ではニュースにならないらしい。
 マスコミにすべてのニュースを危機に結び付けようとする傾向があるのは、テレビを見ていればすぐに分かることだ。世間の耳目を集めるニュースは危機的なものである必要があるとでも考えているかのようだ。そのような機関は、危機を回避するために努力する人々の姿に関する報道は価値がないとでも考えているのだろうか? そうではあるまい。彼らが最も重要だと考えているのは視聴率という数字らしい。だとすれば、危機的なニュース報道が多いのは、視聴者である我々がそれを好むのだと思われているということにはならないだろうか。もっとも、危機を伝えることは意味のあることなのだ。危機に気付かずに破滅に向かってまっしぐらに進むよりは、危機の存在を知らされることのほうが、まだましかもしれないから。
しかし問題は、危機を煽るようなニュース報道に曝され続ける結果、何時訪れるかもしれない、または既に直面している危機について我々が何の有効な手も打つことができないという無力さを自覚するように強制され、危機を煽る者の企みに見事に取り込まれてしまうということの恐ろしさなのかもしれない。

 築三十五年の木造アパートは、俺と数人の入居者の唯一の住み家だったが、その薄汚れた外観によって、この地域でも既に浮いた存在であった。トタン屋根は所どころ赤錆が目立って、その下の部屋は雨漏りのために住める状態ではなかった。外回りを保護するはずの外壁は土壁の上に木の板を貼り付けただけのもので、建築当初は防水塗料が塗られていた頃もあったのだろうが、今では塗料を塗ることもできないほど腐食して、歪んだ水紋を思わせる年輪が模様のように浮き出しているという有様だった。
 この建物の効用の第一は、家賃が格安なことはもちろんだが、これ以上ひどい暮らしを経験することはないだろう、俺は今、最低のレベルに居るのだということを実感させてくれるという点であった。

TVゲームの魅力は何だろう? RPGの魅力はクリアしたときの達成感であることは言うまでもない。さまざまな困難に直面し、謎を解き、目の前に現れる敵を撃退し目的地に辿り着くというのは、ある意味で人生に似ている。数千万人のゲーマーは誰の力に頼ることもなく独力で、しかも果敢に? 今現在も目の前の冒険に挑み続けているのだ。
彼らのこの努力は何を生み出すのだろう・・・。おそらくは、何も生み出さないのだろう。ゲームは彼らに愉しみと慰めを与えてくれる。彼らはゲームに没入することによって、束の間の平安とスリルと現実の世界では経験することが少ない興奮を手に入れることだろう。そして何時か自分も、ゲームの中に溢れている愛と友情と信頼とその他諸々の物を現実世界の中でも手に入れることが出来るのだという夢を見させてくれるのかもしれない。
 そういう夢を見ることが出来る人間は幸せ者だ。
 夢といえば、時々見るのは空を飛んでいる夢だ。スーパーマンのように宇宙の彼方を光の速度で飛ぶというのとはかけ離れていて、俺はいつも地上すれすれを飛んでいる。それも、人が走る速度よりも遥に遅い速度でのろのろゆらゆらと水槽の金魚のように泳いでいるのだ。スーパーマンのように腕を前に伸ばして飛んでいると、地上の人々、彼らは近所の餓鬼やおっちゃんおばちゃんなのだが、の顔をはっきり見ることが出来る。彼らは皆大口を開けて笑い、歓声を上げている。まるで空を飛ぶ俺を祝福しているかのようだ。ところが油断できないもので、彼らは空飛ぶ俺の後を一斉に追いかけてくるのだが、その手を伸ばして俺の足を掴もうとするのだ。その意図は明らかだった。彼らは俺を地上に引きずり下ろして似非スーパーマンの正体を暴き、弄ろうとしているのだ。
 夢から覚めて考えるのは、なぜ彼らが俺を引きずり下ろそうとするのかということだった。その答えはあまりに単純で、俺はいつもがっかりした。俺は、俺の体を空中から引きずり下ろそうとする人々の目が嫉妬の炎を燃やし、ぎらぎら光っているのを憶えていたが、その目に曝されることは少しも苦痛ではなく、むしろ快感であった。

         二

 目を覚ますと既に日は高く上っていた。しみだらけの薄っぺらなカーテンを通して差し込む光は畳の上に波のような模様を描いている。目を覚まして最初に考えたのは、学校に行かなければならないということだった。予備校を辞めた当初は毎朝、「しまった、予備校に行く時間は過ぎてしまった」と、そのせいで処刑されるような緊張感と共に目覚めたものだが、それが二日に一回になり、今では数日おきにはっとするという状態になっている。
 予備校に通っていたのは、それが自分にできる最低限のことだったからだ。他に何をしたいか分からないとか、することができないという人間にとって、学校とは都合がいいところなのだ。高校までは順調に来た。順調にというのは、落第せずに来たという意味だ。ところが大学入試ではことごとく失敗を重ねていた。その原因は明らかに学力不足にあった。勉強ができないということが致命的な欠陥であるかのような気がして俺を苦しめた。誰か他の人間にできて自分にできないことがひどく恥ずかしい気がしたから、意識の中では認めないようにしていたが、入試の失敗という現実から何時までも目を背けていることはできなかった。
親の落胆ぶりが目に浮かぶようだった。親は子供の俺に特別過剰な期待を抱いているというわけではなかった。人並みに大学を出て、公務員にでもなってくれればそれでいいぐらいに思っていたはずだ。ところが、そのような平凡な期待にも応えられないかもしれないということが次第に自覚されるようになるというのは、辛いことだった。
親の気持ちを考えれば、石に噛り付いても実現しなければならないと思うのが普通なのかもしれないが、そう思ったからそうなるというものではないのだ。
親に対して特別な注文はない。ただ、彼らがストレートに自分たちの思いを表現していれば、俺も少しは救われたのかもしれない。彼らは世間体を気にしているはずなのに、そのことをおくびにも出さない。自分たちの出費が無駄になったことを無念に思っているにも拘らず、そんな素振りは見せない。もし、彼らがストレートに彼らの感情を表していれば、俺は彼らにキレて反抗しただろう。殺意を抱いたかもしれない。そして、次の日の朝に何事もなく顔を合わせて挨拶することができれば俺は救われただろうと何度も想ったが、それは本当だろうか? そのような幸運が訪れることは無かった。何事もないような顔をして挨拶を交わすことができた時は救われたような気持ちになるが、それが欺瞞と同種のものであることに気付いてしまうと、俄かに落ち着きを失くしてしまい、絶望的な気分に襲われるのだった。
猜疑心の塊のような自分は、突然変異のように突如として生まれたのではない。環境が俺をそうさせてしまったのだ。こう言うと、自分の責任を棚に上げる卑怯な奴という謗りは免れないだろう。そのような誹謗中傷は意味が無い。そもそも基準がずれているのだから。
彼らの存在が俺の不安の原因と関係があると言うつもりはない。しかし、彼らが俺を産み出したのだからそれなりの責任を果たさなければならないのだし、俺は彼らの期待に応えなければならないのだろうが、俺にはできなかった。出来なかったという思いが心に重く圧し掛かっている。そのとき俺が親に対して抱いた希望は、このまま黙って消えて欲しいということだった。その存在が頭にちらつくだけで胃が縮み上がることがあったからだ。挙句に、不安が募ってきて居ても立ってもいられなくなるほどもがくのだが、彼らがそのことに気付くことはなかった。それを責める気はさらさらない。彼らが気付くことによって事態が改善されるよりは、もっと深刻な様相を呈したかもしれないからだ。
観念の中で彼らを捨てることはさほど難しくはなかった。もともと親の存在を、彼らの立場から突き詰めて考えてみたことはなかった。彼らは金蔓であり協力者であった。彼ら自身がそれ以上のものであろうとした形跡もない。彼らは彼ら自身の生活を守ることで精一杯なのだから無理はない。だからかどうかは分からないが、親から面と向かって説教されたという記憶がない。母親は、たいていは愚痴をこぼすのだが、その愚痴が説教の代わりなのかもしれない。何を目指してどうしろとは言わなかったが、それが彼らの優しさなのだと思ったことは一度も無い。
分かっているのは、結果的に彼らの子育ては失敗したということだけだ。そして、そのことに自分もまた深く関わっているということだ。

          三

 部屋の中で俺がするのは、コンビニで買ってきた弁当を食うこと、風呂に入って汚れた体を洗うこと、洗濯をすることだが、風呂も洗濯も我慢できる限界まで我慢してからする。水や電気の節約は重要なことだし、これらに無駄な金はかけたくないからだ。それ以外は寝ているかゲームをしているか本を読んで過ごしている。
 中古屋から買ってきたTVとゲーム機の周りにはソフトのCDが散乱している。どれも埃だらけだ。手当たり次第にかけてみるが、どれもこれも既に攻略してしまったものばかりだ。次に、床に積み上げた漫画本に手を伸ばすが、どれもこれも繰り返し読んでしまったものばかりだ。それでも、他にすることが無いから読み始めると、最初の数分間は読んでいられるのだが、次第に筋を思い出すと、そうやって繰り返し読んでいることの意味が分からなくなって苛々するのだった。
 ゲームと読書から見放されてしまうと、他にすることは一日中テレビをつけていることぐらいしかない。テレビも数日間続けて観ていると、中毒症状が興って、そこから何も受け取ることが出来なくなる。腹を抱えて笑ったお笑い番組のくだらなさに次第に腹が立ってくる。ニュース番組では、なぜそこに顔を出す必要があるのか分からないコメンテーターの決まりきったコメントに怒りが込み上げてくるようになる。
 人間はいつも同じ環境で暮らすという生活習慣には馴染まない生き物なのかもしれない。常に変化する、あるいは自分の周りは常に動いているんだという感覚を抱きながらでなければ安心できないのかもしれない。その上厄介なのは、常に安定を望むという安定志向が強いから、自分の立場が危うくなるような危険を回避した上で常に目新しい何かが起こることに期待を膨らませるという厄介な生き物なのだ。
いずれにしても、これら自覚症状のすべてから、自分は軽い欝の状態に落ち込みつつあるではないかという結論に辿り着いた。鬱病は脳機能障害なのだそうだが、俺にはそうは思えない。病院に出かけて行ったとき、何するにしても気力が湧かないんだと訴えると、医者は困ったような顔をして話を聞き終わった後で、欝の傾向があると診断し、抗鬱剤だという薬を処方した。この状態からいち早く抜け出さなければならないと焦っていた俺は、医者がくれた薬を決められたとおりに服用していたが何の効き目もなかった。薬は脳の中の感情を司る部分に働きかけてでもいるのだろうか、感情の働きが鈍くなったようにボーッとした状態がしばらく続くが、薬が切れるとまた以前の状態に逆戻りした。俺の不安は一向に改善されなかった。

 本当の自由な状態が分からないのに、不自由だと感じるのはおかしいかもしれないが、不自由さの感覚は常に全身に溢れている。生きている限りこの不自由さから抜け出すことはできないのだという予感が、自由という名の観念を渇望させるのかもしれない。と言うことは、自由と言われるものは観念の世界の中だけで存在するものということになる。そのような観念的なものに、俺が押し潰されようとしているのは間違いないことだ。観念的な世界のほころびに耐え切れなくなると、人は動物になりきろうとするのだが、観念的な世界に毒された生き物が再び自然に帰ることはできないのかもしれない。
 ある意味で、俺は自由なのだ。自由に発想し、自由に行動することができるのだ。しかし、それらに限りない制約が付きまとうのを避けることはできない。この制約が自由な意思を阻害し続けるのは間違いがない。この制約は俺自身の存在と深く関わっているものだから、これを断ち切ることはできないのだ。
 相対的な価値観の世界では、あるものを肯定することは相対する他方のものを否定することであり、際限ない矛盾の中に身を置くことになるのだ。しかも、肯定も否定もしない態度を取れば優柔不断の謗りを受けることを覚悟しなければならないから、臆病にならざるを得ない人間が増えるのは当然で、彼らを責めるべきではない。

          四

 親は俺を憎んでいる。しかし、完全に憎みきれてはいないようだ。
生活費はすべて親の仕送りに頼っていた。親は俺がいまだに予備校に通っていると信じているから仕送りを続けている。いずれ予備校を辞めたことがばれるだろう。そのとき彼らがどんな反応を見せるかを考えると恐ろしいが、取り敢えず大学にでも合格すれば諦めてくれるかもしれないというのが唯一の頼みの綱であった。
切り詰めたぎりぎりの生活をしていたが、それでも風俗に出かけるなど、臨時の出費が嵩むことがあった。いよいよ生活費が底をつき始めたので、何とかしなければならなくなった。そこで考えついたのが、宅配ピザの配達員のアルバイトだった。何故この仕事を思いついたのかは分からない。自分にもできそうだと思ったからだし、他にできそうな仕事が思いつかなかったからだ。取り敢えず収入が必要だったし、体を動かすのは嫌いではなかったし、何より優れた配達員になる自信があった。
 電車に乗るのは久しぶりだった。電車は人間が発明した地上で最高の乗り物である。きわめて安全で、運行ルールが守られている限り、飛行機のように墜落することがなく、船のように沈むことがなく、車のように衝突する危険がない。電車の運行に携わる人々が利用者の安心に大いに寄与しているという自負を持つのは当然のことだ。しかも、電車ほど身近で手軽な乗り物はない。鉄道が根強いファンによって支えられているのにはそれなりの訳があるのだ。
 昼間の電車は比較的空いていた。通路に立っている客は乗降口の周りに僅かに見られるだけで、天井近くで中吊り広告が規則正しく揺れている車内は適度に冷房が効いていて、湿気の多い外界とは隔絶された快適な空間を作り出していた。
 何気なく車内を見回していると、斜め向かいに学生風の男が座っているのが目に留まった。俺と同じように軽く無視される存在でしかない若い男だった。何気なく、彼が予備校生だという意識が頭の中に芽生えた。すると、彼はもはや、このまま放って置いて素通りできる存在ではないことに気付かなければならなかった。彼はライバルであった。大学生という地位を狙うライバルの一人というよりは、共に生きることを認めることさえできない宿敵として認識されなければならなかった。
 俺は男を無視しようとしたが、そうしようと思えば思うほど意識は彼の方に向かった。実際のところ、彼が本物の予備校生なのかどうかは分からなかったが、彼が電車の中で参考書を広げないということにこの男の安物のプライドを見たような気がして、俺の心はますます攻撃的になっていった。
 彼は人生の可能性を消耗し尽くしつつあった。そのことに気付きながら気付かない振りをしている。彼にとっては既に、予備校に行くという選択肢以外の選択肢は残されていないのだが、そのことを認めようとはしない。それどころか、自分の未来は洋々と開けていると信じ込もうとしている。これは明らかに誰かに信じ込まされているのだ。真面目に己の人生と向き合った場合にこのような間違った結論を導き出すことはあり得ないからだ。それでは一体誰によって信じ込まされているかって、・・・それはそう信じ込ませることが自分にとって望ましいと考える数多の人間によってだ。そのように画策する人間は、その前にこの社会を若い男に無邪気な信念を抱かせるのにふさわしい社会に作り変える努力をするべきなのだ。社会を浄化する努力を放棄しておいて、世間知らずな俺のような者に、人生は素晴しいと前向きに考えることが大事だと説いても、少しも届かないのだ。

 彼は自分がテストによって試されていることに気付かない。テストを受けて偏差値の高い大学に入ることが成功へのプロセスだと信じて疑わない。或いは信じていないにしろ、そのプロセスを辿ることが現状における最善の道なのだと考えている。
 考えてもみろ、この世の中に予定された成功への道程などというものは存在しない。絶えず危険と隣り合わせなのだ。ところが彼らはテストの結果によって達成感という名の僅かばかりのご褒美をもらって喜んでいる。このような喜びは何も生み出さないし、むしろこの餌によって、調教師に操られるペットのように考え方を規制されるという危険性さえ孕んでいることを忘れるべきではないのだ。
 しかし、彼が恐れるのは、自分が社会の在り方に疑問を抱いている隙にその間隙を突いてエリートの地位を獲得する人間が現れることなのだ。だから、疑問を抱くことは成功者にとってはタブーなのだ。
だから彼らは、この国が滅びて行くのに手を貸すことになる道を大手を振って進むことになるだろうと思われても仕方がないのだ。
 俺の妄想は立ち上がり、男の前に近付いて行った。男は驚いた顔をして俺の顔を見上げた。俺は慎重に言葉を選んで話しかけようとしたが、適当な言葉が浮かばなかった。どのような言葉がふさわしいのか見当もつかなかった。いきなり、お前は国を滅ぼそうとしているのかと訊くわけにはいかなかったし、君はこの国の現状をどう考えているのかと訊けば、非常識な奴と受け取られかねなかった。
仕方なく時候の挨拶をしようと考えたが、よく考えてみれば、ここしばらく時候の挨拶を交わすことなどなかったことに気が付いた。最後に思いついたのは自己紹介をすることだったが、自分がさほど興味を抱いているわけでもない相手が自分に興味を示すだろうと考えることにも無理があった。
 結局、俺の妄想はここであっけなく終わりを告げてしまうことになった。

         五

 目指す宅配ピザ屋は商店街のはずれ、マンションや事務所が立ち並ぶ一角に建つビルの一階にあった。店舗の前の駐車スペースには、すぐにそれと分かる色に塗り分けられたバイクが数台停まっていた。ビルとビルの間の隙間のような通路を辿って行くと、スタッフオンリーと表示された汚れが目立つ白いドアが目に付いた。二、三度ノックしてみたが内側から返事が返ってくることはなかった。思い切ってドアを開いて覗き込むと、そこは厨房だった。ステンレス製の冷蔵庫や作業台やオーブンが所狭しと並んでおり、その間の狭い通路に立ち働く人間の姿が見えた。
 思い切って声を掛けると、三十代半ばの小太りの男が振り返って胡散臭そうな顔をしてこっちを見た。アルバイトを探しにやって来たと告げると、彼は納得したような表情になって表に回るようにと言った。
 表の入り口に回ると、さっきの男が出てきて受付カウンターの傍らに置かれた丸いテーブルを指差して、そこに座るように勧めてくれた。彼は宅配ピザチェーン店の店長だった。
「君がしたいというのは、どんな仕事?」いきなり彼はこう訊いた。
 俺が、仕事ならなんでもするつもりだと答えると、彼はまたこう言った。
「この店での仕事は大別して二つある。ひとつは店内の厨房での仕事。簡単に言えば、ピザを焼く仕事だ。ところが、これは直ぐにはできない。どうしても経験が必要になる。だから誰にでも任せられる仕事というわけではない」
 店長の話を聞きながら、俺は簡単な仕事しかできないし、そのほうが都合がいいと考えた。
「別な仕事はピザの配達だ。電話で受けた注文の品をそのお宅まで届けるという仕事なんだ」
 俺が探していたのは、まさにこの種の仕事であった。今の俺にできることはこれぐらいが関の山なのだ。
 すると、「君のセールスポイントは何?」
 店長はとんでもないことを言い始めた。宅配ピザの配達を志す人間のセールスポイントが問題になるとは思わなかった。
「そうだよ」彼は事も無げにそう言った。
 俺は何故と言う顔をして彼を見たらしい。
「仕事が欲しいと言って来る人間は大勢いる。でも全員を雇うわけにはいかない。どうせ雇うなら楽しく仕事ができる人間のほうがいいじゃないか」そうだろうと笑いながら同意を求めていた。
 俺は条件があるのならそれを示してもらいたい。そのほうが手っ取り早いと申し出た。
「ひとつは、お釣りの計算ができること。次に、バイクに乗れること。それから住宅地図を見て正確に目的の家に辿り着くことができること。そしてもっとも大事なのが、愛想がいいこと。それくらいかな」
 どれも苦もなくクリアできそうなことばかりであった。
「どう・・・?」
 どうとは、どういうことなんだろう。
「こちらが求める条件に君自身は合致していると思うの?」
 俺は頷いて見せた。すると彼は、「どうして?」と再び訊いた。
 彼にはその気がなくとも、それは死刑宣告にも似た残酷な言葉だった。その上、ダメ押しするように「友達はいるの?」と訊いた。
 友達がいるかどうかなどはプライバシーに関することであった。
「いや、ごめん。悪いことを訊いちゃったかな?」
 店長の謝罪の言葉をそのまま受け入れる気にならなかったから、何故そんなことを聞くのか訊いてみた。
「別に深い意味はないよ。友達がいれば、自分がどんな仕事に向いているか、意見を聞くこともできるだろう」
 友達とはそういうものではないだろうと俺は思った。すると彼はこんなことを言った。
「友達に期待をしないというのは良く分かるよ。何らかの利益のために付き合うわけではないんだから。でも、彼が君以上に君のことをよく知っている場合もあるってことさ。それは特別悪いことではない。時には煩わしいときもあるけど、ありがたいと感じるときもある。友達とは本来そういうものなんだ。だから、彼のアドバイスを受けることを好むか好まないかは自由さ。しかし、友達は喜んで君の思いに応えてくれるだろう」
どうも旗色が悪いと感じ始めた俺は、俺のような人間は使ってもらえないのかと訊いてみた。ここだけは訊いておかなければならないと思った。
「そんなことはない」と彼は答えた。「でも、君は仕事を得るために、また仕事を十分にこなすために、その準備が不足しているとは思わないか?」と、第三者に向かって批評するような調子でそう言った。
「それから、君は声が小さいよね。お客相手の仕事で声が小さいのは致命的なんだ。僕らがお客さんと良好なコミュニケーションを取るためには、笑顔と明るくはきはきした声が欠かせないんだ。この二つが欠けていてはどうしようもないんだ。分かるだろう」
 俺は少しも反論することができなかった。改めて自分につけられた値札のことを思った。進んで俺のような商品を買ってくれる人間は現れないだろうということだけが頭の中に去来していた。
「君は変わることができるはずだから、そう落ち込むことはない」
 彼は最後にそう言った。それから友達を作ったほうがいいとも言った。ときどきなら店に遊びに来てもかまわないと言った。そうすれば仕事に馴染むこともできるし、暇つぶしにもなるだろうと言った。
 俺は暇つぶしのためにピザ配達の見習いのようなことを始める気にはなれなかった。

          六

 宅配ピザ屋を追い出されてぶらぶら歩いていると、目の前に樹木が鬱蒼と茂った公園が迫ってきた。当てもない俺は、ふらふら歩きながら昼下がりの公園の中に吸い込まれるように入って行った。公園の中には池があって、その周りを取り囲むように整備された植栽の間に縦横に通路が伸びていた。俺は意味もなく池の周りの道を歩いた。店長の言葉はすっかり忘れてしまったが、そのとき陥った気分の名残の感触だけは何時までも生々しくまとわりついた。まるで、世の中のすべての人間が俺にダメ出しするために待ち構えているような気分だった。
 
 公園のベンチに腰掛けて池の水面に映る空を眺めていると、どこから現れてきたのか、一人の女性が声を掛けてきた。
テレビやグラビア以外で女性を意識したのは暫くぶりのことであった。
最近、生きている女性の存在を感じるのは、テレビの中の空間に限定されていた。彼女たちは、どんな状況でも臆せず見ることも無視することもできるということから、もっとも身近な存在だった。そしてまた、従順だった。決して批判的な目を向けて困らせることがなかった。しかしそれは、彼女たちが実際にはこの俺を観ていないことの裏返しに過ぎないのだ。このことに薄々気付いてはいたが、そのことで彼女たちが放つ魅力を完全に損なうようなことはなく、彼女たちはそれでも十分にセクシーで魅力的であった。唯一の欠点は、両者の間に会話が成り立たないというものであったが、このことさえ彼女たちと俺の交流を阻害する決定的な要因とはならなかった。むしろ会話が無いことのほうが重要であるとさえ考えられた。
通常、会話が成り立つためにはいくつかの条件があった。その中の代表的なもののひとつが、目の前の人物が会話の相手として相応しいかどうかというものだが、それは旅行先を選ぶ場合に似ている。第一番に行ってみたいと思わせるのは、そこがまだ行ったことがない未知の土地であることである。次に行きたいと思うのは、一度訪れて深い感銘を受けた場所であり、その次は一度訪れたまま長い間訪れていない場所であった。会話の場合も、旅先となる場所、すなわち会話の相手となるべき人物に対する関心が欠かせないのだし、相手との関わりが欠かせないのだ。こうして見ると、テレビに登場するアイドルや歌手や女優はこれらの条件を完璧に満たしていると考えられるのだった。
ただし、常に複数のタレントに興味を抱くというのは本来あってはならないことなのかもしれない。それは特定の相手と付き合うことを想像してみれば分かるのだが、同時に複数の相手と交際することが良いことだと推奨されることはない。できれば一人の相手のみと付き合うべきだという空気が支配的だ。それは相手の気持ちを考えた場合に、複数の相手と付き合うことはその真剣さも思いも分散されてしまうからだと考えられるが、そのような指摘は当たらない。次に相手に対する誠意が問題とされるが、君以外の人間とは付き合わないというのが誠意を表す唯一のものであるとするなら、交際する二人の間に誠意という尺度を持ち込むこと自体がナンセンスなことだと言わなければならない。誠意という凶器を突きつけて相手に何を要求しようというのだろう。自分の奴隷となることを強制するというのか。そんな要求が許されるほど君の感情が尊重されなければならないと考える人間はほんの一握りに過ぎないだろう。
テレビに登場するアイドルは、こちらが望む時間に現れてくれるわけではないというのがひとつの欠点であった。彼女が何時どのチャンネルに登場するか分かっていれば、もちろんその時間にチャンネルを合わせることになるのだが、その番組だけを選んでテレビを見ているわけではない。むしろ、テレビを見続けていると、次から次へと違った番組が流れ出すのだから、その中に現れる他のアイドルにも眼が行くのを止めることは出来ない。
テレビに現れれば必ず目を奪われることになる彼女たちは例外なく笑顔を絶やさない。それはまるで痩せぎすの体型と笑顔が緊密に結びついているかのようだ。にもかかわらず、彼女たちは個性に溢れている。しかし、それはテレビのこちら側から眺めている数百万人の同年代の人間の一人ひとりにとって個性的であるというに過ぎない。彼らは的確に彼女たちを識別し、分類し、整理していた。
かくして、テレビに現れる数多くのアイドルの個性的な美しさを違和感なく受け入れることが可能になって、そのような能力がむしろ当然なのだと思い込み、自分の中に存在し得ないと思っていた博愛精神を発見したような気分になるのだが、そのような博愛精神が正常なものかどうかは自分でも判断できない程度に怪しいものだった。
結果的に、個性的な魅力を発散していると思い込んでいた彼女たちは自分が作り上げた偶像に過ぎないということになるのだが、そのことに気づくことは稀だった。なにしろ、彼女たちが、孤独な男たちが陥りやすい危ういメカニズムの中に組み込まれていたにしても、それなりの慰めを与えてくれる存在であることは間違いがないからだ。
現実問題として俺は、敬愛するアイドルたちにテレビの外で出会うことを期待してはいなかった。出会うことがあったとしても、彼女が俺に興味を示す可能性はほとんどゼロに等しかった。それにも拘らず、俺は、彼女たちの好意的な視線を、時には憧れを伴う視線を向けられることを信じていた。それが実現しないのは巡り合わせの問題だけだと。運が良ければ彼女たちは俺と知り合い、俺と交際することを熱望するはずであった。
彼女が声を掛けてきたとき最初に気付いたのは、その外見が敬愛するアイドルと相当かけ離れているという点だった。彼女は柔和な微笑を浮かべていたが、その微笑は彼女の体型に似合ったものではなかった。それでは、彼女は太っていたかと言えば、そうではない。彼女の体型は標準的であった。

彼女は水色のキャミソールに白いゆったりしたスカートを穿いていた。その色の組み合わせが弥勒菩薩のような顔立ちを際立たせていた。実際、無駄なものを削ぎ落としたために生活臭を感じさせないような顔立ちは、まさに菩薩像を彷彿とさせた。
そのとき俺は、彼女の姿を菩薩像に見立てるほど落ち着いていたわけではない。むしろ、気が動顚していたと言うべきだろう。女性の周囲には必ず、たおやかな所作にふさわしい香りが漂っていなければならないと決め込んでいて、女性の声は見たこともない楽器のように澄んだ音色でなければならないと決め込んでいるような人間が、突然女性に話しかけられて、どぎまぎしないわけがないのだ。だから、これは後から思ったことになるのだが、彼女のスリムな体型はまさに理に適っており、それだけで十分な評価を与えられるべきであったし、その体型を維持するためにはそれなりの努力が欠かせないのであり、しかもその努力の跡を少しも感じさせない佇まいというものは賞賛に値するのだ。また、もしその体型が天賦のものであり、人工的な努力の結果手に入れられたものではないということになれば、まさにそれは奇跡と形容しても差し支えないのだ。
彼女がなぜ話しかけてきたのか説明しようとしなかったのは、俺が訊かなかったせいなのかもしれない。なぜ訊かなかったかと言えば、そんなことを訊くほど間抜けではなかったからだ。そう思いながら、俺は絶えず注意を払って、彼女が話しかけてきた理由を探ろうとしていた。もちろん、彼女にはそうと悟られずに。
彼女は最初、「何をしているの」と訊いた。別に何もしていないと答えると、再び嬉しそうな笑顔を見せた。次に、「どうしてすることが無いの」と訊いた。俺はもちろん答えることができなかった。彼女は、さもそれが当然であるかのように、俺の身辺調査を開始した。このような場合、事実をありのままに話すのは、どうかしている。真実のみを語ると誓わされるのは法廷だけで沢山だからだ。後になって嘘がばれても、失うものは相手の信頼だけで、その他に特に不利益を蒙ることもない。まして、相手の信頼などというものほど当てにならないものはないのだ。だから俺は、相手の目に自分がどう見えるのか訊いてみた。取り敢えずは、それが最大の関心事だったが、そんなことは悟られないように、細心の注意を払って。
彼女は再び笑った。まるで、笑うことが彼女の仕事で、そのことによって存在意義を際立たせようとしているかのようだった。
俺の期待にも拘らず、彼女の答えはシンプルだった。学生かフリーターに見えるというものであった。言われてみれば、なるほどそれ以外の答えは出て来ないのだろうが、自分がみすぼらしいフリーター以外の何ものにも見えはしないということを気付かされたのはショックだった。
だから、俺の予想では、会話はそこで終了し、彼女はまたトレードマークのような微笑を浮かべて、何事も無かったかのように消えて行くはずであった。俺はその後姿を見送りながら、彼女のこれまでの人生に関するストーリーを勝手に思い描き、叶わなかった夢の続きを延々と妄想する破目に陥るはずであった。
しかし彼女は「ここは気持ちがいいわね」と言って、ベンチに並んで腰を下ろしたまま動く気配を見せなかった。
釣られて、俺は空を見上げた。眩しいような空色の中に白い入道雲が浮かんでいた。
「夕立が来るかもしれないわ」そう言って、彼女は雲の向こうに目をやった。すると、のど仏の無いすらりとした首の長さが引き立つとともに、あごの先端から垂直に下ろされた線の先で、キャミソールの胸が三角形の小山のように盛り上がっているのが強調されることになり、慌てて俺は目を背けた。
俺は誘惑に負けまいと必死だった。胸のふくらみは決して豊かだとは言えなかったが、目を釘付けにする不思議な魔力を持っていた。その魔力とは、美しい絵画や音楽に触れたときの感動とはまた別のものだ。芸術や美術作品の持つ神々しさや、自然の包み込むような温もりよりも強烈に、体の中に現われる、確かに自分は生きているのだという感覚を実感させるものであった。
しかし、同時にそれは二人の間に聳える障壁でもあった。彼女の存在から切り取られたパーツ、脚であったり、腕であったり、胸であったり、唇であったり、目は、それぞれに個性的な魅力に溢れていたが、いずれも動物的な本能に直結するもので、それを抜きにして語ることはできないのだ。魅惑的なパーツによって明確に区別された存在感は、彼女の存在全体ではなく、その一部、ごく限られた狭小な部分に触発された欲望の疼きによって歓心をそそられた結果出現したものに過ぎないからだが、その疼きを無視することなど出来はしないのだ。しかし、その疼きの意味を、さまざまなパーツの中心に存在する彼女が認めることは有り得ないような気がするばかりであった。
俺は、ほとんど本能的に、彼女が俺を軽蔑することを恐れていた。彼女の肉体の一部によって性的な欲望が刺激されたという事実を彼女が軽蔑するかどうかは分からないが、彼女は俺の中に引き起こされた混乱状態を認識しているはずであった。その認識によって、俺の評価は甚だしく下落するはずであった。それが取るに足らない間違ったものであったにも拘らず、俺は彼女が存在感を失ってしまわないように、その恐れを感じなくなることの虞に取り憑かれていた。
そのとき俺は気付くべきだったのだ。人類の歴史は生殖の歴史でもあることに気付くべきだったのだ。性欲なくして人類の繁栄はなかったのだ。しかしそれを恥じるという心の働きや歪んだ習慣はどうして根付いてしまったのだろう。おそらく、人類が繁栄を謳歌するためには性欲をも厳しく抑制しなければならなかったのだ。そうしなければ、他の生物との激烈な生存競争を勝ち抜くことはできなかったのだ。飢餓に備えて体内に脂肪を溜め込む仕組みができたように、無軌道な性欲の発散によって、人口が爆発的に増えて飢餓状態に陥ることがないよう、欲望にも歯止めをかける必要があったのだ。そのような自己規制を道徳や信仰という形で伝えて来たのだ。
こんな理屈は誰も信じないだろうが、性に関する不自由さは感じているはずだ。歴史に逆らうことは許されないが、俺は絶えず性欲が正当に評価されて尊重される世界を夢見ていたと言ってもいい。統治者の都合で性がタブーとされた時代の人々は何を信じて性行為を行ったのだろう。子孫を残すためだけの行為を考えるのは難しいが、観念としての性行為を実践するのは容易になりつつあるのかもしれない。
このことに関して、彼女はどう思っているのだろうかということが気になりだすと、ほとんど片時も頭を離れなくなってしまったのには参った。仮に彼女が俺と同じ考えの持ち主だったとしたら、ある意味、俺は大いに救われることになったかもしれないが、そんなことは、考えてみるのもおぞましいことだった。見るからに、彼女は性欲や欲望とは無縁の世界に生きているように見えた。そのことが、俺をますます矮小化し、自信を失わせ、生きる気力を削いでいくような気がした。
「少し歩かない」彼女に促されて、二人はベンチから立ち上がり、池の端の道を公園の出口に向かって歩いた。彼女の背丈は俺の肩までしかなかった。意外な小ささが俺を少し安心させた。背丈の低いことは確認したが、肝心なのは年齢であった。年齢というのは、いつでもどこまでも憑いて回るのだった。一定の年齢に達すれば、その年齢にふさわしい人格や見識を身に着けなければならないとされ、その基準とのギャップを意識するたびに気分が落ち込むのを避けて生きることは難しかった。
 並んで歩いて行くと、多くの人々と擦れ違った。女子高生や大学生やサラリーマンや主婦や老人など、雑多な種類の人間と擦れ違った。俺は行き交う人々の顔を直視することができなかった。他人は、自分が気にするほど自分のことを気にしたりしないというのは永遠の真実だと思うが、自分が他人の目を気にせずにはいられないというのも永遠の真実なのかもしれない。
彼女は歩きながら公園の名前の由来について語った。詳しいんですねと、驚いてみせると、「そこの案内板に書いてあるのよ」と言って笑った。
「今が一番気持ちの良い季節かもね」と言う言葉には説得力があって、仮にそうでなかったとしても、少しもかまわないと思わせた。
 乳母車を押した若いお母さんと擦れ違ったとき、彼女は乳母車の中で眠り呆ける乳幼児を見て、「まあかわいい」と歓声を上げた。母親がニコニコ笑って立ち止まると、「いくつですか?」と声を掛けた。「もう直ぐ一歳です」と答えたママと二言、三言言葉を交わしたが、俺は二人の傍に立って、場違いな登場人物のように顔を引きつらせていた。
 ママが立ち去ってしまうと、俺は何かを言わなければならないのではないかと思いあぐねて、あろうことか「子供が好きなんですか?」と、妙なことを口走っていた。すると彼女は、「ううん」やんわりと否定した。その答えを俺が意外に思ったのに気付いたのか、抑揚のない声で「子供を育てるのは大変そうね」と言った。
どう返事を返していいものか分からないでいると、「彼女、偉いわ」と小さな声で言った。そのとき俺は、何気なく彼女と乳母車のママの年齢を比べていた。二人の間に年齢の開きを見出すことはできなかったが、彼女も俺と同じ感想を抱いたのではないかと思った。

         七

 公園から駅に続く道路に向かう階段を上っていた。階段の両側には公園を出入りする人々を狙った食べ物屋が店を開いていた。
「入らない」そう言って彼女が誘ったのは甘味処だった。俺はそわそわと辺りを見回した。女性と二人で食べ物屋に入るのは滅多にない経験であった。
 彼女はそんな俺を見てくすりと笑った。抑制の効いた笑い方が俺の緊張をさらに高めた。
 木製のテーブルに向かい合って座ると、二人の間に共通する話題が何も無いことに気付いて、二人は顔を見合わせて照れ笑いを浮かべた。
すると彼女は自分のことを話し始めた。俺は夢物語を聞かされるような気分でその話を聞いた。
初対面の相手に向かって身の上話をするというのは、考えられないことだった。人は生まれてから何人の人間に自分の身の上話をするのだろう。見当もつかないが、俺はおそらくまともな身の上話はしないだろう。そうするときが来ることを想像することも難しい。

彼女は北関東の小さな町で生まれた。両親は中学校の教師と地方公務員をしているそうだ。一人娘だった彼女は、親の言い付け通りに生きることに疑問を持ち始め、高校を卒業すると同時にタレントを目指して家を飛び出したのだそうだ。上京すると、イベントコンパニオンのオーディション、タレントスカウトキャラバンなどに次々に応募したが、いつまで経ってもタレントの道が開けることはなかったということだった。
こんな話を信じるかどうかは聞き手の勝手のはずだった。ある意味で、他人の身の上話ほどつまらない話はないのだ。
この話の中で俺が惹かれたのは、彼女がタレントを目指していたという点だった。そのことを聞いたとき、俺の意識の中で目の前の彼女はさなぎが蝶に変身するように突然の変貌を遂げたのだ。彼女の中から立ち上る微かな同類の臭いを嗅ぎ付けたのと同時に、彼女が俺にはない特別な才能の持ち主かもしれないという気がしたからなのだが、それだけで彼女は俺にとって尊敬すべき人間になったのだ。
女の子がタレントを夢見るというのはよくある話だ。女の子が華やかな芸能界に憧れるのは彼女たちの自由で、誰も止めることはできない。夢見ることを止めてしまえば、生きることの意味は半減してしまうかもしれないのだ。しかし、夢に向かって努力することは容易ではないし、努力したとしても容易く実現することがないのは誰でも知っている。しかし、夢が実現しなかったということが夢を見たこと以上に重大な意味があることを自覚するものは少ない。夢が破れてから生きる時間は夢を見た瞬間より遥に長いのだし、彼らは自分が望むものになれなかったという事実にいつまでも苛まれ続けるのだ。
「馬鹿みたいでしょう」と彼女は言った。タレントに成ることを夢見たことを言っているのか、その夢が破れたことを言っているのか、あるいはまったく別のことを指しているのかは分からなかった。「いいえ」と返事するのも面倒臭かった。もし、彼女が何らかのリアクションを求めているのだとしたら、とんだお門違いであった。馬鹿だと言い切るには確固たる理由が必要なのだが、俺はそんな理由を持ち合わせてはいなかった。
彼女は、「馬鹿みたいでしょう」という表現で、彼女の生き方に対する批判的な態度を見せることを要求したのかもしれなかった。そして、そこに表される軽蔑の程度によって何かを判断しようとしていたのかもしれなかった。或いはまた、そうやって自分を貶めることで快感を得ようとしているだけなのかもしれなかった。
それは一種の罠かもしれなかった。俺の本心を探ろうとするための罠かもしれなかった。彼女が求めているのは単純な同意などでは有り得ないのだろうと俺は思ったが、それではどうすればいいのか、答えは見つからなかったばかりでなく、自分がどうしたいのかさえ分からなかった。

もし俺が潮時だと感じて腰を上げなければ、二人はいつまでもテーブルに向かい合って取り留めのない話を続けていたのかもしれなかった。
身の上話が済むと、彼女はほっと安堵した表情を見せた。俺はこれ以上彼女の中に入り込まずに済むことを、どちらかと言えば歓迎していた。しかし、その後の彼女の会話には身の上話のときよりはるかに強く彼女の個性が表れようとしていた。
彼女が時々言い出す抽象的な言葉は、彼女の空想的な一面を覗かせるような気がして印象深かったが、そのような印象を打ち消してしまうほど、彼女自身の独特な世界観に関する自己主張が強すぎる嫌いがあった。その表れのひとつとして、宗教や哲学に興味があるかどうかを知りたがった。
俺は分からないと答えた。実際、それらを学問や教養として齧る程度であれば興味を持たないことはなかったが、それらを実生活と結び付けて考えることはできなかった。
「それは不用意なことだわ」と彼女は明るい声で言った。その調子に非難がましいところは少しもなく、むしろ褒められているような気さえした。
 次に彼女は、「それでは、何かを決めようとするとき、何を基準にして判断するの?」と訊いた。
 俺は急いで、これまで自分が物事の決断を迫られたときのことを思い出そうとしたが、ただのひとつも見つけ出すことはできなかった。ついさっきまで、アルバイトの面接を受けていたのは、どうしても生活費を稼がなければならないという必要に迫られたからで、そうすることが正しいとか正しくないとか考えた上でのことではなかった。
「それが普通かもしれないわね。でも、それでは問題を正しく解決することができないとは思わない?」
解決しなければならない問題は山積していたが、それらはどれも解決不可能なものばかりであった。
「そう思うのは、取り組み方が間違っているせいに過ぎないの」
彼女は事も無げにそう言ったが、当てずっぽうでそう言っているのに違いなかった。今日初めて出会った人間が、いつの間にか俺の心の中を見透かして、その働きを理解してしまっていると考えることはできなかった。それにも拘らず、彼女がそう言うのであれば、あるいはそうかもしれないという根拠のない思いに動かされそうになった。
彼女は、俺の動揺を見透かしたかのように、続けざまにこんなことを言った。
「守らなければならないと思うものがあるでしょう?」
今の俺に守らなければならないものがあるとすれば、それは親の希望に沿うことであったが、既に叶わぬ望みであった。
 ところが、彼女が言う、守らなければならないものとは、自分の暮らしというような現実的なものではなく、命や自由や名誉といった抽象的なものであった。
「しかし、それらはほとんど価値のないものであることがほとんどなのよ。それなのに皆がみんなそういうものに振り回されて正しい判断力を失っているの。守ることの本当の意味を知らずに、守ることが目的だと勘違いして汲々としているのよ」
 命は自分で守らなければ誰も守ってくれはしないのに、誰かが守ってくれると信じているようなところがあった。仮に誰もが見捨てても、親だけは何とかしてくれるのではないかと心のどこかで願っていた。その命が大事だと言うのは当然のことであった。しかしだからと言って、自分の命と同じように他人の命が大切なのだと考えることができるとは限らなかった。
 彼女はなぜ生きるのかと問い掛けていた。生きることに取り分け意味があるとは考えられなかった。生きようとする肉体の意志に従って生きているのに過ぎないようなところがあった。どうせ生きるならば、少しは意味のある生き方をしたいと考えるのは当然のことなのだが、そのようなことを望むことさえ難しいような気がしてならなかった。
「いい、今まで、どうしてもそうしなければならないと、強迫的に思ったりしたモノがあるはずよ。でも、それが本当に必要なことなの? 考えたことがある?」
 大学に入学するためには受験戦争を勝ち抜かなければならなかったが、それは取りも直さず自分が勝利を収めるために他人を蹴落とすということであった。公平な条件の下で正々堂々の戦いを演じたとしても、結果は同じことであった。自分の成功が誰かに苦渋を飲ませていることは間違いがなかった。
「今、君が必要なものは何?」と彼女は訊いた。
 取り敢えずは生活費を何とかしなければならなかったが、それよりも次元の高い望みと言われれば、今は安心した暮らしであった。
「どうすれば安心が手に入ると思う?」
 心の中に生じる不安を一つひとつ解消しなければならなかった。
「どうすれば、不安を解消できるの?」
 何ひとつ思い付かなかったのは、解消しても次々に不安が現れるという事態を想像したからであった。
「それは簡単なことよ。不安を感じなければならない自分を解放することでしょ」
 俺は呆気にとられた。彼女の提言は痛みを感じないように神経を抹殺してしまおうと言うのに等しいような気がした。
「それができるのよ。嘘じゃないわ」
 そのような自信はどこから出てくるのだろうか。俺はしげしげと彼女の顔を見た。彼女の余裕たっぷりな笑顔の中の目が自分の間抜けな顔を映しているのだろうと考えるのは辛いことだった。
「それでは、今あなたがしていることは何?」
 俺は本気になって考えることに恐怖を覚えて、思考を停止することを選んだ。
「したいことを見つける努力をしなくちゃ」と彼女は言った。その言葉が俺を打ちのめした。したいことが簡単に見つかるのであれば宗教も哲学も生まれなかったのかもしれないのだ。生きることに付きまとう不安や苦しみを解消するための手掛りにしようというのが哲学であり、宗教なのだ。もっとも、誰に訊いても、それらを信奉することで解消されると考えるのは楽観的過ぎると答えるだろう。
「もう少し気楽に考えたほうがいいわね」と言って彼女は笑った。

別れ際に、「いつまた、この公園に来るの?」と訊かれたとき、俺は「分からない」と答えながら頭を抱えた。俺とまた会いたいということなのだろうかと焦りに似た気持で思ったが、そんなことをストレートに訊くわけにはいかなかった。
二人は笑顔で挨拶を交わして別れた。彼女は何の躊躇いもなく笑顔を振りまいて、どこか気持の良い場所に帰って行くのだろうと思わせた。振り返りもせずに遠ざかって行く後姿を見送りながら、俺は奇妙な孤独感に苛まれていた。追いかけて行ってどこまでも並んで歩くという想像が目まぐるしく駆け回っていたが、そのようなことは有り得ないことなのだと認めざるを得ないのは自明のことだった。
駅に続く商店街には午後の買い物に向かう人々の姿がまばらに見えた。擦れ違う、さまざまな年齢の主婦や学生や老人の顔はみな眠そうに見えた。半ば満ち足りたような顔をした通行人に出会うたびに俺の胸は暗く塞がって行った。
俺は果物屋の前に立ち止まって、買うつもりもないのに店先に並べられた蜜柑を眺めていた。オレンジ色の色彩が、蜜柑が育った日当たりの良いふるさとの丘の光景を思い出させた。人々の背丈をようやく越える程度の高さの枝は初冬の日差しを受けてきらきら輝いていた。魚鱗を思わせるように密生した葉の間に鮮やかな顔料を滴らせたように、オレンジ色のテニスボールほどの大きさの球体が所狭しと顔を覗かせていた。その枝の茂みを利用してかくれんぼに興じる子供たちの歓声は、人生を祝福する歌声のように透明な空の彼方まで届いて行くように思われた。
空想の中の景色を追いかけるように俺の右手は無意識に動いて、笊の上に山形に積み上げられた蜜柑に伸びた。脳裏に、昔に触れた蜜柑の表面の冷たい感触を蘇らせたとき、指先の蜜柑の山は脆く崩れて、数個の蜜柑は笊から転げ落ちて足元の路上を転がって行った。俺は驚く前に、舌打ちして自身の不運を呪った。俺が果物屋の前に立ち止まったのは単なる偶然であった。それにも拘らず、それが不幸な出来事の幕開けであった。そこで蜜柑に目を奪われて懐かしい記憶を蘇らせたのは、決して不愉快な出来事ではなかったのだが、それもまたまがまがしい出来事の伏線と表裏一体のものであった。しかも結果として残されるものは、紛れもなく不幸な出来事のほうなのだ。
無造作に店先に積み上げられた蜜柑の山に目を奪われたことに意味があるとすれば、彼らが奥底に仕舞い込まれてしまっていた記憶を意識の上に呼び覚ます働きを有するということであった。しかしそれさえ、数々の不運な出来事を潜り抜けなければならないのかもしれなかった。
俺は惨めな気持になって、足元に転がっている蜜柑を拾い集めにかかった。蜜柑は既に記憶の中の象徴的な存在から滑り落ちて、単なる厄介者に変貌を遂げていた。
そのとき通りかかった婦人が彼女の前に転がった蜜柑を拾い上げて、「大丈夫ですか」と声を掛けてくれた。俺はとっさに婦人の顔を覗きこんだ。その顔が気の毒そうな気遣いを見せていることに気付いた俺は、体を貫く衝撃に見舞われていた。
彼女は掌に載せた蜜柑を俺の目の前に差し出していた。俺は手を差し出して、彼女が蜜柑を渡してくれるのを待っていた。婦人の掌にあった蜜柑が回転して俺の手の上に転がり落ちるとき、俺は蜜柑の冷たさではなく、優しい婦人の手の温もりを感じた。そのとき再び衝撃が走って、俺の体は震えるような感動に包まれていた。
俺は蜜柑を受け取ることも忘れて、開いたままの掌を夫人に向けて差し出したまま「すみません」と、まるで罪を告白するような言葉を発していた。
婦人の視線が俺の顔に向けられるのを感じた俺は、無意識のうちに顔を背けていた。その理由を説明することは、今でもできない。俺は明らかに恥じていたのだが、それが自分の中に起こった心の動きに対してなのか、婦人の身に余る親切に対してなのか、或いはそのどちらでもないのか、未だに分からないのだ。
俺の意に反して、婦人は不思議そうな顔をしてその場を立ち去って行った。
この体験は、最終的には小さな幸福感を味あわせてくれたのだが、そのときの俺はその束の間の幸福感さえ持て余している始末だった。見知らぬ人間の暖かさが身に沁みるというのはやはり奇妙な経験だと言わなければならなかった。
他人の行動が幸せな気分にさせてくれる場合があるということは、彼ら無関係な人々の存在を通じて幸福感を実感することができるということであった。そう思うと、彼らと自分が、束の間の夢であったとしても、どこかで繋がる可能性があるのだということを意識しないわけにはいかなかったが、どこまで行っても無関係な彼らと何らかの関係を築くのを想像することはできなかった。


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