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作品名:日々の便り 作者:奥辺利一

最終回   1
日々の便り

日比野恵子は会社勤めに忙しい日々を送っています。通勤に二時間ほどかかるので朝七時前には家を出ます。こんな規則正しい生活を始めてから十年近くになります。
一人暮らしの恵子は勤め帰りにスーパーに立ち寄って買い物をします。
ずっと昔からスーパーの雑貨売り場は魔法や驚きがぎっしり詰まった場所でした。だから最後には決まったようにお気に入りの文具コーナーを覗きます。
そして時々は子供の頃を思い出します。お洒落な柄の入った封筒や便せんが花形だったころを思い出します。
そこで魔法にかかったように出てくるのはため息という魔物です。誰にも気づかれないようにため息をつくのですが、下手をすると自分でも気づかない時があります。当然のこととして、気づかないことが多いのにも気づいていないのです。

子供の頃、恵子の楽しみはきれいな紙を集めることでした。
そして、可愛い便せんや封筒を使ってたくさん手紙を書くのです。
空想の世界で手紙を書き続ける恵子の机の抽斗には次々と新しい封筒や便せんがどんどん増えて行きました。
とっておきの封筒と便箋を使って手紙を書くのを夢見ていましたが、その相手はなかなか見つかりませんでした。
小さなノートは手紙の下書きでいっぱいになりました。

いつの間にか時代は移り、今、恵子の目につくのはただ白いだけの封筒と便箋ばかりになりました。
恵子が思いがけなく、懐かしい少女から一通の手紙を受け取ったのは、桜の花が咲き始めるころのことでした。

新学期が始まる前のある日、恵子は浮かない顔をして机に向かっていました。新しい出発の季節を前に自分も新しい一歩を踏み出さなければならないと思い詰めていました。
ところが、目立った計画があるわけではありません。とりあえず机の抽斗の中を整理しようと思い立ちました。
抽斗の中からは色褪せかかった千代紙や包装紙や便せんや封筒ばかりが出てきます。
古い封筒や便箋を捨てようか迷いながら抽斗の中をかき回していると、奥から小さな紙包みが見つかりました。包装紙を開いてみると、中から出てきたのは幼い文字で表書きがされた一通の手紙でした。
花柄をあしらった小さな四角い封筒を目にした時、懐かしさに涙がこぼれそうになりました。

 手紙にはこんなことが書いてありました。
「五十メートル泳ぐことができるようになりましたか?
キュウリが食べられるようになりましたか?
大好きだった子犬を飼うことができていますか?
学校が好きになりましたか?
新しい友達ができましたか?
あなたの部屋はきれいですか?
たくさんのお花が飾ってありますか?
あなたはたくさんの笑顔に囲まれていますか?」
 読み終わった恵子の頬を温かい涙が伝わりました。幼い願いに頬を染め、励まされているだけの自分がとても情けなく思われました。

 恵子は鉛筆を手に取ると、手紙の末尾に、
「あなたは今、幸せですか? いつも希望にあふれていますか? そしていつまでも私のことを忘れないで、ときどきは思い出してください」と書き足しました。
その字面とその上の幼い字体を眺めて、十年後にまたこの手紙を受け取りたいと思いました。


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