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作品名:幻影を見ていた頃 作者:奥辺利一

最終回   1
 嵐のような時が過ぎてしまった後には、不意に表通りを疾走して行く車の騒音を耳元で生々しく感じる静寂が戻ってきた。暗がりを疾走する獣の荒い息づかいを思わせる低い唸り声のような音は、ギョッとして耳をそば立てるうちに、荒涼とした底しれぬ闇の中に吸い込まれ、たちまちのうちに跡形もなく消えてゆく。啓介は、床を掃くモップの手を休めて、見たこともない獣が咆哮する荒野と自分を隔てているガラスの扉へ目を向けた。飴細工のようなガラスの扉は、自らを背後の闇を覆い隠す鏡のように装い、ぞっとするほど存在感のない店の内部を映していた。啓介は、鏡に映った四角く閉ざされた薄暗い空間の中に、ボール紙細工を寄せ集めたような作り物の世界の中に立ち尽くすマリオネットのような男の姿を認めて身震いした。男は、柄の長いモップを手に、黙々と床を掃いていた。蜃気楼のような無人の部屋の床をあてどなく磨き続ける男の姿はまるで自分に酷似しているように思われた。
 何気なく浮かんだ妄想の不気味さに急に吾に返った彼は足音を忍ばせて移動し、鏡に映ったカウンターを覗いてみると、声も立てずに泣き伏す女の後ろ姿が現れた。女は、カウンターにしなだれ懸かるようにして左手を額にあてがい、右手に握りしめたハンカチを□元に強く押しつけていた。カウンターに置かれた水槽の蛍光灯が女の乱れた髪と不自然に傾けられた横顔を照らし出していた。水槽の中では、折り紙細工のような特異な形をした熱帯魚が変に取り澄ました顔をして、何事もなかったように泳いでいた。
 床に散乱した食器類を手早く片付け終えると、啓介はカウンターの内側に戻った。ガスレンジの傍らの丸椅子に腰掛けると、外からはカウンターに置かれたさらし首のように彼の顔だけが見えた。由佳という名の女は、バランスを失った感情に翻弄されているためか、或いは血族の者に対する復讐を決意した悲劇のヒロインとしての役どころを全うしようとの決意を示す必要からか、容易に泣くことを止めようとはしなかった。コーヒーでも入れましょうかと訊いても、壊れたぜんまい仕掛けの人形のようにギクッと体を震わせただけで答えない。啓介は、初めて与えられた特権を享受する者のように、無遠慮に由佳の上半身を眺めた。かつて味わった事のない特権を手に入れたかもしれないという自覚は、彼を混乱させるどころか、誰にも気づかれる心配のないものを手にすることは決して不可能ではないという暗示を確かに受け止めたような気を起こさせて、陽気な気分にさせた。
 啓介は立ち上がり、レコードケースからムーンライトセレナーデが収められたレコードを探し出してプレイヤーに架けた。ミュー卜がかかったトランペットが奏でるノスタルジックなメロディーが、暗くくすんだ天井のコーナーから霧のように流れ始めた。月明かりを髣髴とさせる音楽は、ガラスの扉の隙間から漏れ出て、人影の途絶えた深夜の街へさ迷い出た。啓介は、耳に慣れ親しんだメロディーを口笛で吹いてみた。沸騰したやかんの注ぎ口から立ち上る蒸気が喘息持ちの呼吸のような音を立て始めると、口笛を吹きながらコーヒー豆をひいた。
 突然、由佳が激しく咳き込んで苦しげなうめき声を発した。由佳に背を向けていた啓介は、コーヒーをいれる手を休めて聴き耳を立てた。若い女の体の内奥から絞り出されたうめき声は、妊婦が分娩に臨んで発する苦悶の叫びにどこか似ていた。その生々しい肉声は、ひっそりと流れていた音楽をかき消し、湿って重量を増した空気をかき乱した。啓介は背後に得体の知れないものの存在を、彼の背中にのし懸かり、首を絞め窒息させるような気配を感じた。由佳がありふれた娘から想像を絶する魔物に、煙のように姿を消しては又変幻自在に姿を変える化け物に変貌し自分を呪い殺そうとしているのだという非現実的な空想が彼を捕捉えた。 
 やがて魔物は肩を震わせクックックッという鳥の鳴き声のような声を立てた。啓介は由佳が笑っているのだと思った。彼女自身も今彼が抱いた愉快な空想の片棒を担いだおかしさにこらえきれず笑いだしたものに違いないと思った。しかし、啓介の思いとは裏腹に由佳は泣いていた。由佳の想像力はその翼を折り畳んだままであり、彼女の肉体はミイラのように乾燥した哀しみの身の上から解放されてはいなかった。 
 由佳は、感情のほとばしりに身悶えした。振り払い、押し止めようと努めても、果たせるかな、苦渋に満ちた哀しみは信じ難い増殖力を持ったアメーバのように際限もなく湧いてきて神経をも犯すのではないかと思われるほどであった。哀しみと憎悪は、その引き金となった出来事とは袂をわかち、それ自体が独立した生命のように由佳の魂に宿り肉体にとりついていた。
由佳は体内に薬物でも打ち込まれたような気がしていた。自分の意志とは無関係に、暴走する機関車のような感情だけが一人苦しみのたうちまわるのを感じた。哀しみは薄められ怒りへと変貌を遂げていったが、それは彼女を裏切った男へ向けられたものではなく、彼女が寄り懸かっているカウンターの下、カウンターの下の床のそのまた下から湧き上がってくるものであった。彼女が呼吸している空気そのものが怒りの根源なのであった。由佳は拳を振り挙げてカウンターに打ちつけた。被女を取り巻く抜き差しならない混乱した状況に対する抵抗の狼煙のつもりであったが、それは理性の復権に裏打ちされたものではなく、徒に羞恥心を目覚めさせ感情の均衡をさらにかき乱す程度の効果を及ぼしたのにすぎなかった。芽生えかけた羞恥心も奈落の底から噴き上がる蒸気のような感情によっていともた易く抹殺された。
 啓介は、目の前の女がコントロールを失った感情という名の宿敵と闘う様を、女に特有なヒステリーの症状と理解するほかなかった。彼女は過去に経験したことの大多数を拒絶していた。その中には当然に多くの男たちとの交渉も含まれていただろうし、彼女自身の存在に関わる部分さえ否定されるかのようであった。
薬局に行けばヒステリーの症状を抑える薬を手に入れることはできるだろうと啓介は思った。たぶんそれは麻薬のようなものかも知れない。ささくれ立った感情をひとときの甘美な幻覚で包み込み慰撫する効果を持つものであれば小量の危険など犯してもかまわないと。
 ようやく由佳が顔を上げて啓介を見た。涙で流れた化粧の痕が黒く縁どった目は啓介が予想していた以上にギラギラ光っており、まるで別の人格を持って生まれ変わったような印象であった。啓介は思わず目を背けたが、由佳が見知らぬ女に変貌してしまったという恐怖のせいばかりではなかった。彼は自分が見知らぬ女を見るようにいかなる感情も持たずに彼女の顔を見ていたことに気がついたのだ。
「どうしたのよ」挑戦的な口調であった。酔いが舌をもつれさせていた。
「ねえ、どうしたっていうのよ」どこまでも問い詰め容赦しないという口調であった。
「どうって、何が?」啓介は努めて平静さを装おうとした。スムーズに言葉がでたことでほっと胸を撫で下ろした。
「どうしてそっちを向いたのよ」
「コーヒーがはいったからさ。いまやるよ」
由佳はどうして嘘をつくといわんばかりにふんと鼻を鳴らして嘲笑った。
「軽蔑してんでしょう。ばかな女だと思っているんでしょう。さっき顔に書いてあったよ」苦しそうに息をしながら言った。
「驚きはしたけどさ」軽く否定しながら啓介は、自分が由佳のある部分に失望しかかっているのは間違いないと思った。
 由佳は啓介がコーヒーを彼女の前まで運ぶ間も彼を擬視することをやめなかった。目の前に伸びた啓介の手首を強く掴んで彼がカウンター内の指定席に引き返そうとするのを許さなかった。その頬はアルコールのせいで紅潮し、ルージュを塗り付けた唇は燃えるように紅かった。さらさらと流れる髪の間から香水のように人工的な香りではない濃密な臭いが立ち昇っているのを啓介の鼻腔はとらえた。促されて、啓介は由佳と向かい合って腰を下ろした。由佳の表情にさっきまで現れていた見る者を射るような鋭さが幾分和らいでいるのが認められた。由佳は問わず語りに喋り始めた。
「いますごく落ち込んでるのは、あいつのせいだというわけではないのよね。それにみんなの前であんな女と取っ組み合いをして恥の上塗りをしたからでもないの。裏切られたのはあいつにではなくて、自分の人生に裏切られたからよ。そうでしょ。女に彼氏を寝取られるなんてよくある話なんだから」
 由佳はすがりつくような目で啓介の目を覗き込み、瞳の中に映る自分の姿を捜すようにじつと見つめた。
「人の心なんて、あてにならないものを最初からあてになんかしていないわ。ただ一つしかない私の人生は私の命と同じものなのよ。そんな人生が私を見捨ててゆくのがひどく耐えられないのよ」
 由佳の言葉に彼女に特有な、誰にも手を触れさせ邪魔はさせないという意思が込められているのを感じて、啓介は目を伏せた。その言葉には隠しようもない押しつけがましさがあって、それを受けとめようとしても手に余るものであつた。
「コーヒーを飲んだら、おちつくと思うよ」
由佳が求めるものは、彼女の独白に対する共感以外のなにものでもないようであった。そう感じた啓介は迷いながらコーヒーをすすめた。
「私がおちついていないって?冗談じゃないわ。人がもっともおちつくのはこんな気分の時なんだわ。私はいままでになかったほど冷静でいるのよ。私には分かっているのよ。いまが初めてというわけじゃないけど、いまは特にそうなの。人生がどんなに苦しくてくだらないかってこと。そして私にとっては生きるに値しないものだってことが」
 由佳は決して自分を責めているのではなかった。責められるべきは自分のほかに星の数ほど存在した。
「やっぱりきみは落ち込んでいると思うな、ぼくは」
 由佳には啓介の言葉を聞く余裕もなかった。彼が自分の経験に基づく強い思いを理解しないというのはあり得ないことだった。啓介もまた、ついさっき由佳の剣幕にほうほうの体で逃げ出した過去の男と同じように、彼女の比類なく単純で堅固な哲学的な見解を理解できないのかも知れないという疑念が由佳の心に沸き起こった。
「ねえ、知りたいと思わない?あいつがどんなふうにこの私を愛したか」
由佳はいつのまにか傍らのハンドバッグから化粧道具を取り出してカウンターの上に並べていた。
由佳の問いかけのその意図にまるで気付かないかのように、啓介は流し台にもたれてコーヒーをすすっていた。由佳が化粧を直すのを視界の隅に捉えながら、化粧をする女を見るのはこれで何度目だろうと考えた。彼の記憶につながるのは母と姉の姿ぐらいのものであったが、子供の頃、鏡台に向かう母の姿に嫉妬と言い様のない哀しみを覚えたことを記憶している。鏡台に向かう母の心に、子供が直感的に畏れるほど計り知れない特殊な感情が渦巻いていることに気づいていたのだ。その感情が、子供の存在から遠く離れて、一個の女に戻るべく仕組まれたものであることに気がついたのは最近になってからであった。
 今日まで、啓介は化粧する女の姿を冷静な目で見ることができなかった。その姿に娼婦を連想して、罪悪感に胸は高鳴った。今も、由佳の手の動きにその女主人の魅惑的な感情のうねりとそこから発せられる磁気のような吸引力を感じないではいられない。おそらく由佳はそのことに気づいてはいまい。仮に気づいているとするならば、それは娼婦そのものの媚態の誇示にほかならない。
 由佳は、化粧を終えた後も喧嘩別れした男との性行為について、精密な描写を加えながら語った。ときどき行為のさまを頭の中に再現するために記憶の糸を手繰り寄せるとき、由佳は深い思索に沈潜する哲学者のように遠くを見る目をした。啓介は、由佳が正確に伝えようと細かい描写に気を配ろうとすればするほど、心に溜まった汚物を吐き出さずにはいられない患者を見るような心地がした。語り手がいかに細心の注意を払い行為の官能的な価値を語ろうとも、由佳という人間の存在を通して語られる性的行為は啓介の中に鮮やかな像を結ぶことがなかった。由佳が自分の恥部をさらけ出すように行為から得た快感について語るとき、啓介は虚無的な無感動と大いなる喪失感を味わされただけだった。
「どう、気に入った?」独白を終わった由佳は完全に生気を取り戻したかのようであった。
 啓介は曖昧に頷いて冷たくなった由佳のコーヒーを暖めなおした。
「どうもぼくには分からないな。」
 由佳の目が鈍く光って啓介の言葉の後を追いかけた。
「分からないって、何が?」
 啓介は振り返って意味もなく笑った。
「それが何かも分からない」反射的に答えたと同時に、何かを付け加えるべきだと直感したが、手遅れであった。
 由佳は見下すようににやりと笑った。
「どうしてあんな男のことで半狂乱になるのか分からない・・・?」
 啓介はこっくり頷いた。
「種の保存のための自己防衛の本能ってやつかな」 
 案外そうなのかも知れない。そういう理屈は誰でも納得させてしまうし、誰も傷つけない。由佳は、自己防衛の本能のために誰もが寝静まった深夜に男とのトラブルに巻き込まれてたまるものですかというように唇を尖らせたかにみえた。 
「きみは子供のくせに変に気が回って大人みたいなとこがあるのね」 
 レコードかけてと由佳がせがんだ。
「リクエストは?」
「スローなバラード風がいいな」
 音楽が流れ始めると、由佳は背筋をしやんと伸ばして頭を振った。直毛の長い髪が蛇のようにくねくねと揺れた。突き出された胸のボリュームが豊かな乳房の存在に関する想像をかきたてた。
その後に起こった出来事の細部について啓介はほとんど何も憶えてはいなかった。ただ曖昧模糊とした感覚、嗅覚や視覚や触覚が捕捉した感覚が、得体の知れない個別の事象として脳細胞に刻み付けられて残っていたが、それらは啓介の記憶とは無縁な、例えば長年の習慣として意識下に身を潜めてしまっている性癖のように、意識的な世界とは別次元のものであった。しかしそれらは実は、彼自身の存在理由に最も近いものであり、得てして最も忌み嫌われ無視されがちな運命を担うものでもあった。
由佳は、ゆらゆら揺らめきながら立ち上がり、カウンターに突いて支えとした腕を解放すると、両の腕を大きく水平に突き出して、啓介をダンスに誘った。
由佳の目はその頬の色の何倍もの赤味を帯びて充血しており、彼女自身も酔いから覚めてはいなかった。啓介に向けられた視線は、実際は彼ではなくほかの何かに向けられているというよりは、決して何物も見まいとするように、仁王立ちの下肢の上で揺れる上体よりも激しく揺らいで焦点が定まらなかった。彼女は、単にダンスのパートナーを欲しているというのではなさそうであった。立つことさえ危なっかしく見える女がダンスをしたがっているというのは妙であった。
啓介が磁力に引き付けられる金属のように抵抗することなく立ち上がり、海底の昆布が潮の流れに身を任せて揺れるさまを連想させる由佳のところへ近づいていったという事実について、正しく解説できる者は皆無であった。ただ啓介の中で暗い情熱の炎が燃え上がることは認めなければならなかった。この明らかな欲求に根ざした暗黒の情熱を説明することはほとんど無意味であるといって良かった。これに引き換え、このときの夢遊病者のような行動は彼の存在に確実な重みを加えずには置かないはずであった。
啓介の両の掌が由佳の頬を捉えた。化粧が崩れかけた暗い表情の中で、疲労と後悔で黒く縁取られた眼だけがおぼろげな明かりを受けて鈍く光っていた。魚の目を連想させる瞳は見る見るうちに涙に濡れた。
啓介は背中に、彼に取り付く物体の力を強く感じた。巻きついた両の腕にはすがりつくためのありったけの力が込められているようであった。振りほどこうとすればするほど、力の加減は新たな活力を奮い起こすかのような勢いで増すのだった。その不思議な圧力を受けた啓介は、これから起こる出来事への恐れに捕えられて、すがりつく力に負けまいと体全体に密着した肉体をがむしゃらに抱きしめた。
鼓動の高まりを全身で感じながら、圧力を高められた血液の流れが速度を増して、身体が熱を帯び沸騰点に向かって体温が上昇して行くに連れて、啓介の心も熱く成熟しなければならないはずであった。
由佳の要求が控え目であったことは、幸いであった。一切は無言のうちに進められた。由佳が断続的にあげるくぐもったうめき声は不毛の行為をますます空しいものに変える効果を及ぼすかと思われた。それでも、かろうじて覚醒した意識の対極にある肉体の一部は、確実に沸騰点に向かって高まりを増しつつあった。
遠くからこれまで耳にしたことのない獣の叫び声が風のようなすばやさで近づいて来て、啓介の頭の中で響きの良いホールにこだまするように激しく濃密に交差し合った。

冬晴れの清々しい朝であった。朝日が下宿の部屋のカーテンの隙間から射し込んできたときも、啓介はいまだ深い眠りの中にあった。明け方近くまで、興奮と文字どおりの後悔の名残が熾きのように消え残って、啓介が眠りに就くのを妨害していた。
行為とも思われない行為が済むと、女に化身した怪しい生き物はその存在感を謎解きのキーワードのような痕跡ばかりに留めて、別れの言葉もそこそこに煙のようにその姿を消し去ったのだった。下宿の部屋にたどり着いたとき、疲労はその極限に達したかとさえ思われた。思考力が見事に衰えて、気分はどこまでも沈んで行くように重たかった。シャワーを浴びて着替えを済ませ歯を磨いてからもなかなか寝付かれなかった。
 自分が自分でないような気がした。体の底から突き上げてくるような頭痛がした。心の中に居座るわだかまりを吐き出そうとしても、虚しい吐き気が起こるばかりであった。何かが確実に変わったことを実感しながら、それが何なのかを説明することは難しかった。昔、小学生の頃、転校をして、なかなか馴染めなかった学校にいつのまにか慣れてしまったことに気がついて驚いたとき、自分は決して結婚はできないだろうと思いこんでいたし、そのことに十分な理由を見出していたにもかかわらず、結婚に何の恐れも戸惑いももはや見出せないことに気づいたとき、自分がいつのまにか変化していることを認めないわけにはいかなかったが、そのときよりも強く自分が変わってしまったことを実感しないではいられなかった。
しかし、そのような変化を感じることとなったきっかけを記憶の中にとどめることはおろか、記憶の中にその痕跡を捜し求めることも困難であるように思われた。それは、何よりも個人の生き様を飾るものとして記憶に留められるのにふさわしい出来事とは思われなかった。つまり、あの夜の出来事は、起こってはならないにもかかわらず不慮の事故のように起こってしまったのであり、不慮の出来事であるからには、その発生を押しとどめることも不可能であったと思わなければならない。つまり、それは起こらなかったのだ。起こったとしても、起こらなかったと同じことなのだ。
そのように考えなければ解決は得られず、これから先へも進むことができないように思われた。すべては、忘れることだ。倫理的にも、記憶に留めて置く必要はないのだ。
東の空が白み始めた頃ようやく啓介は眠りに落ちた。初めての凄惨な体験がもたらした緊張が神経を覚醒させ、高ぶった神経は肉体の活動に拍車をかけ続けたが、今はとりあえず休息が必要であることを肉体と理性が手を結んで確認し合った格好であった。
 しかし、目覚めてからすぐに意識の上に去来したのは、昨夜の出来事にまつわる記憶の再生であった。それは、いつまでも啓介を悩ませ苛むような地位から引き摺り下ろして、早く忘れてしまわなければならない汚点ではあったが、同時になんとも知れない画期的な出来事だったかもしれないという気がしきりにした。それは当然に、十分に考えを巡らしたあとの感想ではなかった。ただ、これから長い間忘れることのできないものになるかもしれないという直感によるものであった。
しかし、生まれ変わるかも知れないという期待と新しくおろしたての服に手を通すときのような晴れがましい気分をたちまちに打ち消したのは、由佳という女に関する記憶の曖昧さであった。
 由佳は男連れで、啓介が働く店に不意に現れたのだった。閉店間際で、彼らが来る前から居合わせた数人の客が、思い思いに心の憂さをたわいのない会話と嬌声で紛らわした後に、酒の酔いにも隠し切れない疲労感を全身に漂わせ足をもつれさせながら帰ったばかりの頃であった。
 由佳の連れがどんな風体の男であったのか啓介は覚えていない。店に来る客を必要以上に観察しないというのが彼の流儀であった。由佳がビールを注文したときも、二つのグラスの置き場所を間違えないように注意を払うことに専念した。啓介が身に着けていた客に対する尊敬と払わなければならない敬意はしかし、個々の実体に対して捧げられるものでは決してない。アルバイトのバーテンダーには珍しいプロとしての自覚が、退屈な仕事に耐え続ける場合の自尊心の維持という目標のために必要とされるためであった。
 二人の会話は平坦で抑揚を欠いたものだったが、時々由佳が発する鋭い単語の断片が、二人の間の険悪な雰囲気を次第に浮き上がらせる効果を発揮しつつあった。一方、目を伏せたまま相手を見ようともしないで声を潜めて話す男のほうは、女よりは幾分冷静であるようにも見えた。
 突如として、男の胸ポケットで携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた。途端に、彼女の人生を賭けたといえばいえるかもしれない由佳の会話は中途半端に途切れてしまった。啓介が、明らかな緊張が二人の間に走るのをはっきりと確認した瞬間であった。
 由佳は、掌に隠すように携帯を耳に当てて電話する男の手から携帯を奪い取ると、激しい語調の言葉をそこへ投げつけた。男の反応は迅速であった。男のすばやい平手打ちが由佳の頬を見舞った。衝撃の激しさに彼女の上体は後方へ大きく傾き、反動で側頭部をカウンターに激しく打ち付けてしまった。そのままカウンターに腕を畳んで置きその上に額を預けて顔を伏せた女の上に、気遣いの言葉とは裏腹な非難の言葉が浴びせられた。男は怒りを表すことで一切にけりをつけたいと願ったようだった。そう願ったばかりか、愚かにもそれが可能であると信じたようだった。その証拠に、体の中に竜巻きのように湧き起こってくる怒りは、そのきっかけがどうであれ、男を悩ませつづけた難問に決着をつけてくれるかもしれないという不純な動機を隠すために、いかにも短絡的で純粋であるように装われなければならなかった。そしてそれは常に暴力を伴うものであった。
 啓介はただ立ち上がって、黙って男を見つめた。男の怒りが、それもって何かを解決しようという意図に汚されていること、あるいは逃避の手段として選択された以上理不尽なものであるといわざるを得ないことは明らかであった。純粋な怒りと呼ばれる感情が存在するかどうかは啓介にも疑わしが、純粋な怒りという言葉それ自体は存在した。しかし、強悪な暴力に仮託した怒りを目の前にして、これらに怒りの感情に対する共感を与えることはできない相談であった。
 新たに登場した女は、毛皮のコートに身を包み、一流モデルのような装いで周囲のものを圧倒するような姿を暗い店内に現した。このようなスタイルの女を盛り場の路上で見かけることもあるが、それはそれで雑然とした風景に調和した存在というべきであった。風俗という耳に慣れてしまった言葉の正しそうな意味において、彼女の装いは理に叶ったものというべきであった。しかし、このとき現れた女は人を驚かす奇妙な特徴を持っていた。それは恐らく彼女自身が啓介の店に、啓介の存在に、そして何よりもカウンターに並んで座って、さっきまで仲睦まじくとはいえないまでもかつての恋人同士のように会話する自分の男とその男に未練を持ったままの女の存在に異常なまでの嫉妬心と不快感を抱いたために他ならなかった。当然のこととして、女は啓介が働く店を、啓介を、そして由佳という名の女を拒否し続け否定した。注意深く観察すれば女が啓介と同じ位の年齢である事はすぐにわかった。そのうえ、言葉遣いは無遠慮で、啓介よりも幼いのかもしれないと思わせた。十分に検討されたと思わせる装いと言葉使いのアンバランスが、滑稽さというよりはむしろ貧しさと哀れさを感じさせた。
 そもそも何故二人が取っ組み合いのけんかを始めたのか、今では思い出すことができない。恐らく最初に手を上げたのは由佳であったろう。かつての恋人を口汚く罵る若い女の出現は、ある程度予想されたとはいうものの、そのことで恋人が彼女から離れて行くことが決定的となったことを思い知らされたとき、今まで忘れかけていた自尊心が激しく甦った。そのような感情が起こったとは、由佳にも意外な出来事であった。何より、男は由佳の元に引き止められるべきであったし、由佳が望む以上引き止めることは可能であると思われた。しかしそれが不可能に近いと悟った瞬間に、彼女は本来の自分を取り戻しかけていた。世界が自分を拒否しようものなら、容赦はしない。彼女の自尊心が発露する行き先を、まるで避けることのできない自然現象のように、周囲の者たちに知らしめる必要があった。
 その結果は、惨憺たるものであった。戦いには勝者も敗者も無かった。新しいカップルは二人の衣装が汚され傷つけられるのを恐れて慌てて逃げ出していた。由佳は取り残されたのに過ぎなかった。彼らと共存しなければならない理由はどこにも無かった。人は簡単に他人と決別することができる。人の心の常態がこのことにより近いというならば、これに逆らわずにいることがより良い行き方なのに違いないと思うばかりであった。そのように考えてもなお、由佳はいつまでも自己憐憫の感情にすがり付いていた。

 目覚めてもなお暫くの間、啓介の意識は現実と夢の間を浮遊していた。着替えを済ませて、空っぽの胃袋に冷蔵庫から取り出したばかりの冷たい牛乳を流し込みながらも、意識の中に浮かび上がってくるのは幻覚のような由佳との行為についてであった。彼女の立ち居振舞い、何気ない仕草、声の響きが大切な記憶として仕舞いこまれてあったもののように不思議な懐かしさを伴って甦ってくるのであった。しかし、甦る記憶が不快な感情を伴うものでないとするならばそれだけに、啓介は以前にも増して意識的で在らねばならなかった。つまり、由佳との事故が起こる以前は別の娘の姿が、由佳という女とは比べるべくも無い程大きく彼の心を占めていたからだった。
 午後になってから啓介は行政法のゼミに出席するため学校へ出た。教室には歩美がいるはずであった。彼女は啓介が履修するゼミの学生の中の二人の女子学生のうちの一人であった。歩美が自己紹介のために立ち上がったとき、行政法のゼミを履修するのにこんなにふさわしくない学生は他に無いと強く思ったのを記憶している。啓介にそう思わせたほど、歩美は少女っぽかった。まったく化粧気の無い顔は透き通るように白く、髪型はほとんどおかっぱ頭といっても良かった。行政法のゼミを履修する学生といえば、公務員試験か司法試験を目指して勉強しようという数少ない学生に限られていたから、啓介の心に浮かんだ疑問は当然であった。
 ゼミの第一日目から啓介は歩美に強い関心を抱いた。彼女が何故行政法のゼミを履修するのかを、いつか必ず問い質してみたいと思った。
 その機会はやがて巡ってきた。図書館の周囲を巡る通路を肩を並べて歩きながら、それが彼にとってどうでも良いことなのだけれど、この際だから話しのついでに聞いてみるのだといわんばかりにさりげなさを装って質問することに成功したのだった。
 驚いたことに、歩美は啓介のさりげなさを装った質問に顔を輝かせた。その表情があまりにも鮮やかだったもので、啓介は自分の質問が、二十歳を過ぎたばかりでまだ子供っぽさが抜けきらない娘を喜ばすような類いの質問をしようとして、たとえば、「君の肌が白いのは、数世代前の白系ロシア人の血でも引いているからなのかい?」のような質問を発して失笑を買ったときのように顔を赤らめた。
 その答えは実に単純なものであった。家族の勧めによって履修することに決めたそうであった。家族の勧めがあったというのはいかにもありそうな話であった。歩美の外見からすればふさわしい回答ではあったけれども、一般的な大学生のゼミ選択の理由としては特異なものに違いなかった。
「君は、親の言うことならなんでも聞いてしまう優等生なんだ」というべきであった。
そして、ついでに、「君に行政法は似合わない」、「行政法のゼミを選択するような女子学生は好きじゃない」、「髪にウエーブを付けて化粧もしたほうが良い」というべきであった。

 歩美は、啓介との付き合いを楽しんでいる様子だった。特に啓介のアルバイトの話に興味を抱き、何かといえば聞きたがった。啓介は歩美に聞かせることができる範囲に限定して話をしたので、結果的に少しも興味深い話とはならなかったが、それでも歩美は啓介が働く様子を想像して十分に楽しんでいるらしかった。
 啓介にとって、歩美が何の変哲もないアルバイトの話を類まれな冒険談でも聞くように目を輝かせて聞き入っているのを見るのは新鮮な驚きであった。このことが歩美の家庭環境に関する想像に新たな憶測を加えることとなったが、啓介が歩美に話して聞かせた冒険談は彼がアルバイト生活で経験した出来事の一部に過ぎず、重要な部分はほとんど割愛されていた。啓介が経験した出来事を包み隠さず歩美に聞かせることは、してはならないこと、許されないことだと判断しなければならなかった。
 このような些細なことが啓介を苦しめることとなった。自分は歩美を偽っているという確信が訳もなく湧き起こって来た。啓介は、自分の恐れを隠すために歩美を偽ろうとし、そのことで自分自身を偽ろうとしているという事実に突き当たって激しく動揺した。打ち消そうとしてもなお、二人の間に両者を隔てる堅固な城壁が存在することを思い知らされなければならなかった。焦燥がたちまち、歩美に対する興味を奪っていきそうになるのを押しとどめるのは困難であった。はじめて歩美に対して抱いた関心と興味そのものが、必ずしも健全ではない何か穢れたもののように思われてならなかった。
 すべてはじまりは、彼の恐れにあるようであった。恐れが彼の希望を翳らせ、思考力を鈍くし、口を重くさせた。自己の弱さ、あさましさを歩美に告げることは、彼が最初に心がけなければならないことであった。恥じる必要のないことに恥ずかしさを覚え、そのことを取り繕う必要もないのに、ただひたすらに逃げようとせずにはいられない。そのような彼の弱点は、生まれつきのものに違いなかった。しかし、その原因はといえば、突然彼の目の前に現れて彼の心の中に入り込んだ少女の所為には違いなかった。
 もしも、相手が歩美でなかったらと啓介は考えた。歩美ではない他の誰かであったら啓介はもっと自由に彼の経験について語ることができるのかもしれなかった。
 啓介は歩美に近づこうとして声をかけたことを後悔した。挙句に、「君に行政法は似合わない」と言うべきかどうかで思い悩んだ。「行政法のゼミを選択するような女子学生は好きじゃない」と。「髪にウエーブを付けて化粧もしたほうが良い」と。
 そのようなことは、取るに足らないこと、彼女の存在に何ら関係を持たないもの、つまりは啓介のわがままにほかならなかった。このような難癖をつけて、歩美を遠ざけようと試みる必要があった。発端は、歩美に不快感を抱かせて、彼を嫌悪するよう仕向けることが目的であった。
 時間が経つにつれて、啓介は自分が捏造した諫言が実はすべて正当な根拠をもつものであったと錯覚するにいたった。できれば歩美が文学部の学生であったらと考えたことも一度や二度ではなかったが、彼女に行政法が似合うとか似合わないとか、ほんとうの事は分からないはずであったのに、歩美が法律を勉強するという選択が重大な間違いであったという確信を抱くようになり、このことが啓介の傷を癒し、あたかも自分を励ますもののように思われた。
 啓介の関心は、取るに足らないものに過ぎなかった。少なくとも、歩美の知的好奇心に比べてみれば、それが意味も持たないことは明らかであったが、それでもこのおかっぱ頭の中を占めている考えが、その外見とは裏腹に啓介など足元にも及ばないほど明快に整理されてあるのは驚異であった。
 啓介が歩美に対する関心を純粋なまま持ち続けることを援けたのは、歩美その人であった。歩美は、自己と外部世界の交渉にあたって類いまれな素直さを発揮した。まさしくそれは天賦の才として与えられたものと言って良かった。その素直さは、人工的というには程遠い、想像を超えた不思議な力による動機付けの結果に他ならないとさえ感じさせることがあった。
 彼女は、啓介の言葉であればすべて疑おうとしない。それが正しいとか間違っているとかは彼女の関心の中には無かった。必要なことは、彼がそう言ったということであり、彼が自分にこのように伝えたがったということであった。
 初め、啓介はこのような傾向を素直さのゆえであると考えて強く惹かれた。
しかし、啓介は歩美に恋をしたというのではなかった。彼が歩美に対して抱く感情は、敬愛という自己抑制の効いた理屈っぽい理性に隠された所有欲に似たものであった。歩美の中に自分の存在を刻み付けておきたいという子供っぽいわがまま以外の何ものでもなかった。そのためにだけ啓介は、歩美と成績を競うように勉強した。

歩美は、密かに思い悩んだ。それは、啓介がすこしも変わらないという点についてであった。歩美に対する啓介の接し方は、二人が初めて会話らしい会話を交わしたときから少しも変わっていないと感じられた。啓介は依然として、彼の言葉に歩美が予想外の反応を示したときには顔を赤らめるところがあった。二人は決して打ち解けていないというわけではなかったが、歩美が知りたいと思うことを啓介は語りたがらないように見えた。同時に、彼が歩美に対して抱く思いを正直に話したがらないように見えた。歩美は、率直に問い掛けるべきであった。啓介が自分をどのように見ているのかを、自分にどうしてほしいのかを。歩美には、啓介が望むように自分を訓練する自信があった。しかし、自己変革の努力にも限界がないわけではなかった。髪にウエーブをかけることについて家族を説得することぐらいはわけのないことであった。化粧をしないことに強い信念を持っているわけではなかった。しかし、法学部に在籍することが間違いであると啓介が言えば、そのとおりに違いなかったが、ここで専攻を変えるというのは簡単なことではなかった。啓介は自分が文学部の学生で仏文学あたりを専攻する学生であったらと思っている節があって、そのことに気がついてから、入学したばかりの頃に抱いた夢や希望が次第に色褪せていくように感じるのは悲しいことであった。

 背景のレンガの壁も時代遅れのポスターも板張りの床も天井もすべてコーヒーの香りに浸された空間ではゆったりと気の置けない時間が流れていた。
学校から少しはなれた喫茶店は二人が出会う前から啓介が出入りしていた店であった。ゼミの帰りに他愛ないおしゃべりを楽しむために二人はたびたびそこを訪れていた。
歩美はコートを脱いで、淡いピンクのセーター、以前一度だけ啓介が似合うといって褒めたセーター姿になって、小さな二人掛けの木製のテーブルの上に手の指を組んで、姿勢よく椅子に腰掛けて座っていた。
二人が座ったテーブルは壁際にあって、啓介が座った位置からは歩美の肩越しに窓ガラスを隔てて人通りもまばらな裏通りの商店街の景色を眺めることができた。二人の会話にすこしの空白が生じたとき啓介は窓ガラスの外を眺めた。歩美は視線をテーブルの上に落として組み合わせた手の指をゆっくりと解き、また静かに組み直したりした。
時々、歩美は啓介の顔を見つめることがあったが、啓介は歩美が自分の顔を見ているのではないことに既に気がついていた。歩美は一生懸命に啓介の真意を見ようとしていた。啓介が話したいと思うことは彼自身の自己表現であると信じていた。人は自分を表現するために数々のコミニュケーションの手段を使って他者に働きかけを行うものである。しかし、その他者はいつも同じとは限らない。啓介が歩美以外の人間と交渉を持つことは当然にして在りうることであって、そのときに見せる彼の表現は歩美に見せる姿とはまた別のものに違いない。しかし、そのような自己表現を試みる人物もまた啓介であることに変わりはなかった。
 そのことに気がついてから、歩美の啓介を見る目が変わった。彼の歩美に対する態度には、いつも見せる折り目正しさは変わらなかったが、どこか彼自身をも突き放したような一方的な姿勢があって、歩美をはらはらさせることがあった。啓介が自分に見せる姿は決して彼のすべてではないのだ。否、わずか一握りにすぎないのかもしれなかった。

 一週間ほど前のことであった。繁華街を歩いている啓介の背後から声をかける者があった。振り返ると若い女であった。もしかして、と啓介は思ったが、人違いである確率も高かった。
「わたし、憶えてる?」といきなり女はきり出した。いいえ、覚えていないと啓介が怪訝そうな顔を見せると、「嘘」女はいきなりそう言い放った。由佳であった。彼女は見覚えのある毛皮のコートを着ていたからもう少し注意深く観察すればこの女が由佳であることを認識しそびれることはないはずであった。啓介は、今しがた別れたばかりの歩美の言葉に捉われていて、自分を取り巻く外界の出来事には無頓着であったことを思い知らされたが、 啓介の態度は、意図的に由佳本人を無視したかのように受け取られ、そのことが由佳を怒らせたようであった。由佳は啓介をにらみつけた。その怒気をはらんだ視線に圧倒されながら、それでもなお啓介は歩美の言葉の意味を正しく理解しようと心の中で反芻していた。
「最近店にいないのはどいうわけ?」
「どうって、どういうことさ?」
「わたしに黙って、店を休んだりしてはだめなの」そういって、由佳は平手を振り上げてそこに取り付いた何かを振り払うように啓介の肩をたたいた。
 啓介は、反射的にその手が体に触れる寸前に避けようという体の動きを封じて、由佳の思いどおりに肩をたたかせてやった。その理由は、由佳の自分に対する気持ちに応えようとしたからではなかった。また、自分が巻き込まれてしまった世界からの通信に積極的に応答しようという気を起こしたためでもなかった。突然出現した出来事が、自分が呼吸する世界の上で発生したものであることを実感するために啓介は一度だけ交渉を持った女の手によって打たれた。その手に打たれることによって、誰にも気づかれずに自虐的な気分が醸し出されるだろうことをあらかじめ想定した上でのことではあったが、どちらかといえば攻撃性を帯びた気分はある種の高揚感を伴って発生した。
「ぼくは誰の所有物でもないから、自由に自分がしたいことをする権利がある」啓介は、言い終わってなぜか心が明るく浮き立つのを覚えた。
 由佳は目を丸くして驚いた様子を示した。
「誰があんたなんかを所有したいといった?あたしは今まで誰かを所有したことはないし、誰かに所有されたこともない」
 啓介は、顔を歪めて笑顔を作って見せた。
 由佳は、真顔になって首を振り回して言った。
「あんたは恩知らずのでくの坊のとうへんぼくよ」
「そうさ、僕は恩知らずででくの坊のとうへんぼく以下の人間さ」
 由佳はしばらくの間絶句した。口を半開きにしたまま仇に浴びせ掛ける言葉を捜すことを放棄したままもののけに憑かれたように、啓介の顔を呆然と眺めた。
 由佳の間延びしたような顔を見ながら啓介は、歩美の言葉を呪文のように繰り返し唱えていた。
 由佳が啓介のバイト先のスナックをたびたび訪れていたことは店の同僚から聞かされていて知っていた。そのたびに由佳の存在がどんどん小さくなっていくのを感じた。それはそれで好ましいことであった。嵐の出来事が起こった晩から当分の間は、ふとんの中で目を覚ましたとき、鏡に向かって歯を磨いているときなどに身近に由佳の気配を感じてはっとすることがあった。由佳との絆を意識することは自分自身との関わりを意識することほど不可能に近いことであった。それにもかかわらず、自己の意思とは無関係に由佳という女にまつわる記憶が無意識のうちに意識の中に蘇ってきて驚かせるのだった。
 突然目の前に現れた女が自分がはじめて関係を持った女であると認識してからすぐに思ったのは、この女と一緒に店に現れて修羅場を演じて見せた男との関係がどうなったかということであった。二人はきれいさっぱり分かれてしまったようには思われなかった。由佳の性的な魅力が簡単に男を去らせてしまいそうには思えなかった。
「身の上話は、聞かないよ」
 由佳は啓介を睨んだ。彼が拒絶したのは彼女がもっとも大切に思っているものであったからであった。
 啓介は事件のことについては一切触れようという気はなかった。二人の間を憶測することは愉快なことではなかったが、その実際を聞くことはもっと不愉快なことであった。
 二人は並んであてもなくぶらぶらと歩いていった。由佳は問わず語りに近況などを話したが、啓介は黙ってそれを聞いていた。お互いが互いについて知りえたかすかな情報だけが二人をつないでいた。大学の正門近く、商店街が途絶えるあたりまで来て、どちらからともなく立ち止まると、「それじゃ」と言って由佳が手を差し出した。
「どういう意味の握手?」啓介の口から正直な問いが発せられた。心と唇がつながっているような気がして心地よかった。
「友情の証」そう言って由佳は胸をはった。大き目の鼻腔をそびやかして見せた。
 啓介は曖昧に頷いて差し出された手を握った。
 由佳は長髪をなびかせて大股で去っていった。その姿を見送りながら、その後姿に声をかけて呼び止めるべきではなかったのかと、啓介は思い悩んでいた。由佳の姿がだんだん小さくなっていくのを見送りながら、心の中に湧いてくる苦い思いは特別なもののような気がした。

 啓介は歩美の形のよい指を盗み見ながらこの指を見飽きるまで見ることができたらと思った。そう考える瞬間の心の中には何の疑念も持ってはいないかのようであった。甘ったるいセンチメンタルな気分に浸る心地よさが心を癒してくれるようであった。
 啓介の甘い夢とは裏腹に、歩美の心は波間に翻弄される木の葉のように揺れ動いていた。歩美は啓介が見知らぬ女と握手をして別れる光景を目撃していた。そのとき彼らがどのような表情をしていたのかを見届けるには、歩美と二人の距離は隔たりすぎていた。しかし、啓介が去っていく女の後姿を見送りながら、しばらくの間その場に佇んでいたことも見ていた。その瞬間歩美は、自分の中に今まで見たこともない激しく熱いものがこみ上げるのを感じた。そのときの啓介の心情を知りたいと歩美は渇望した。そのことを強く意識したとき、歩美は以前とは違う感情の働きを発見して驚いたのだった。
「わたし、見たんです」そう言ったきり歩美は黙り込んでしまった。
「えっ!・・・なに?」啓介は驚いて俯き加減の歩美の顔を覗き込んだ。
 見る見るうちに歩美の頬が羞恥心から紅く染まっていった。歩美は自分をどうしていいのか分からなかった。自分の心を激しくゆさぶる恥じらいの原因がどこにあるのか、誰に対して恥ずかしいという感情を抱くことになったのか理解することができないほど混乱していた。
 歩美は、自分は嫉妬しているのではないと考えたかった。ただ、啓介が長髪の女性と別れる際に、その後姿を見送りながら考えたことを知りたいという切実な思いを伝えたかっただけなのだ。
 啓介は、歩美が聞きたいというのならば、そのとき自分がどのような感慨を抱いたのか、その詳細は忘れてしまったけれど、肝心な部分については答えることができるだろうと思った。答えることができない障害が存在するとは考えられなかった。しかし、歩美がそれを望んだからといって素直に話してしまう気にはどうしてもならなかった。それが歩美を傷つけずに済む最良のやり方なのだという気がした。
自分がその気にならない以上、由佳と別れたあの場面が存在しない幻覚のようなものだとシラをきるほかないのではと思った。なぜなら、自分と歩美と由佳という名の二人の女の子の関係において、彼女たちを選択的に比較考量して考えることなどできないという確信を持つことができたからだった。しかも、由佳の存在によって歩美の価値が減じることはないのだし、むしろ輝きを増すことさえあるのだ。
「何かの勘違いじゃないか。ちょっと記憶がないんだけど」応えながら啓介は、自分が動揺していることを自覚して罪悪感が顔を覗かせることに失望するのを感じた。
歩美は自分の心が砂のように乾いていることにはじめて気がついたような気がしていた。 歩美にとっては、仮に啓介が自分の問いに対する答えを歪めたところでさしたる問題ではなかった。啓介の良心が歩美の問いに真摯な対応を心がけようとする姿を確認できれば、それで十分なのであった。啓介が何を大切なものと考え、何をそうではないというのか、自分に対して正確に伝えようとする態度が重要なのであった。
一方で、啓介のことを大切に思うたびに自分の中に生まれる疑いを伴った衝動を抑えられなかったことを考え合わせると、やっぱり自分は相手の気持ちを気にして、意味もなく試そうとしているのではないかという思いに捕らわれて心がつぶれそうだった。
 ひょっとして、という考えが啓介の心に浮かんだ。歩美は、自分と由佳の関係の一部始終について既に知っているのではないか?そう考えれば、歩美がつぶやいた言葉の意味も自ずと明らかになってくるのだった。
「君は、僕の何を知りたいというの?」
それは、啓介にそう聞かれる以前から、歩美が自分自身に問いかけ続けていたことであった。また、啓介に何をしてもらいたいと訊かれても答えを見つけ出すことができなかった。
彼女の口をついて出たのは次のような言葉であった。
「ひとは誰も、秘密を抱えて生きていかなければならないのですね」
 あまりにも陳腐な言葉に、このときの歩美の表情を啓介はいつまでも覚えていた。この言葉のうちに秘められた意味をありきたりな手垢まみれの格言として理解することは簡単だったが、彼女がそれを望んでいないことは明らかだと思わなければならなかった。歩美は何処にでもある実体験を通して得た大切なものを表現するのに、ありきたりな格言のような言葉を吐露しなければならないというそのことによって、深く傷つけられたのではないかと、強く思わなければならなかった。
 
 喫茶店を出て最寄の駅まで送ろうという啓介の申し出を歩美は断った。いつのまにか雨が降り出していた。地下鉄の駅まで歩くとすればかなり濡れてしまうことになる。
「どこかで雨宿りしようか?」
「だいじょうぶです。このまま帰ります」そう言って小走りに駈けて行った後姿を、啓介は黙って見送っていた。歩美が、人は誰も知らない秘密を持っているのだと言ったのを思い出して、歩美は彼女自身に向ってそう言ったのだと思い込もうとしていた。歩美が、他人が知らない秘密を持っているとは信じられないことであった。啓介にとって歩美は、彼が見たところのもの以上のものではなく、それ以下のものでもなかった。彼が思い続ければそのような歩美がそこに存在したのであった。しかし、そのような実在に触れることの難しさは、自らの中に偶像を作り上げようとする過ちと表裏一体のものであった。

 由佳も歩美も彼のもとから完全に去って行ってしまったような印象であった。彼がもう少し冷静に対応していれば違った展開を期待することも可能であったかもしれないと思ったが、そのような態度は自分が望むものとはどこか違うもののような気がした。確かなのは、このままでは由佳も歩美も失うのだという寂しさだけであった。
                                   (了)


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