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作品名:美優のこと 作者:奥辺利一

最終回   1
 女子高生は全員が少しずつ変わっている。生理的には大人と少しも変わらないのに、子供扱いされていて、そのことに馴らされているとしか思えない。訊けば、みんなそのことに不満を持っているのに、それを解消する仕方を知らない。だからくすぶり続ける不満を抱いて闘っている気分になったり、出口のない迷路に迷い込んだような気になって落ち込んだりする。時々それは交互にやってきて、意味もないのに、さも意味ありそうな顔をしてのさばっている。
 いろいろな意味で宙ぶらりんの時期で、みんな早くそこを抜け出したいと思いながら、ちゃっかり楽しんでいるとしか思えないこともある。楽しいことなんかないのに、楽しくもないことを追いかけることを楽しいと思っているらしい。
 女子高というのも、どこか変わっている。なぜ教育機関として存在していられるのか分からないことがある。そこで勉強させられるのは簡単なことばかりではなく、皆苦しんでいるのに、苦しんで得た知識が役に立つのはテレビのクイズ番組を見ているときぐらいなのだ。そのせいかどうかは分からないが、一方でそこは仲良しグループの集まる場所と言ったほうが当たっているのかも知れない。
 女子高を経営するものにとっての最重要課題は、三年間何事も起こさずに、仲良しグループのまま卒業してくれることなのだ。ところで教育とは何だ。教科書に書いてあることを教えるだけなら分かりやすい。しかし、そこの生徒が問題を起こすと、学校は何をしていたんだといわれるから、知らんぷりは出来なくて、問題が起きないようにいろいろな形で干渉せざるを得ない。学校に未成年者の犯罪予防の役割を果たさせたいなら、それなりの対策をとるべきだ。入学式では、君らは犯罪予備軍だから、今後は厳しく監視し、取り締まるから覚悟するようにと宣言すべきだ。犯罪者は厳しく処罰されることを身体に染み込むまで教えることだ。それがルールだってことを分からせることだ。しかし、学校はそんなことはしない。できないのかも知れない。相変わらず教育の理想を高く掲げて、それを金科玉条のように守っている。そういうのが高級な学校だと思いこんでいるようだ。理想を高く掲げるのは構わないが、それがどうすれば実現可能かということになると、無策としかいいようがない。その無策ぶりは、学校の存在価値を高めるために、理想の教育の実現を信じて疑わないように見せ掛けるだけの教師と生徒をがむしゃらに集めようとしているところにも現われている。

 テレビを見ていると、ちょっと頑張っている生徒を取り上げて、「日本の若者もまだまだ捨てたものではない」というようなことを放送している。ゲストコメンテーターの潤んだ目をした情けない表情と意味不明な感傷的セリフを聞かされるためにテレビを見るというのは腹が立つ。奴らが、陰でどんなことを考え、どんな気持ちで生きているのかを少しは考えた方がいい。本音と建前の中で生きなければならないのは仕方がないが、本音で生きようとするものには建前を押し付け、建前を振りかざそうとすると批判するというのは卑怯すぎる。安っぽい共感だけを前面に押し出して責任の所在を曖昧にするというのもいつもの手口だ。なるほどがんばっている人間は存在する。彼らのがんばりは賞賛に値するのだろうが、そのがんばりは社会的な問題とは直接的なつながりが絶たれているとしか言いようがない。若者が抱えている問題の解決には役立たないだろう。個人の問題を社会の問題にすりかえる気はないが、社会が個人の集合体であることは間違いがないのだ。
 また、番組の作り方にも工夫が必要で、反省する必要がある。私は、こんな場面を見せられて感動するほどお人好しではない。

 教師は、教壇に立つ歌舞伎俳優のようだ。何年も使い古した台本を隅から隅まで暗記していて、相も変わらず同じセリフを吐きつつ、いつもの場面で見得を切ってみせるのだ。最初に試みた見得が受けることが分かると、これを後生大事に守り続けていくというのは、伝統的な技の伝承者のようだ。
 時々、新米の役者がやって来て、観客の失笑を買うことがある。
 物理担当のYは、生真面目な教師で、教室で冗談を言うのを聞いたことがない。教科書に従って淡々と授業を進めたが、それが自信のなさの現れであることは誰の目にも明らかだった。ある時、波の伝播について質問した生徒がいた。すると彼は、その質問に即答することが出来なかったばかりか、授業を中断して回答を見つけだそうとし始めた。とうとう、終業のベルが鳴るまで答えを見つけだすことが出来なかった彼は、次の授業時間までの宿題にさせてくれと言って恥ずかしそうに教室を後にしたのだった。
 このことがあってからは、物理の授業に飽きると、授業に関係ない新たな質問をするのが半ば習慣化した。Yは、質問内容が簡単に説明かつくときはその場で答えたが、難しい場合には、授業が終わってから質問を受けることで、その場を乗り切ろうとした。教師としては当然の計らいで、生徒のもくろみは当てが外れることになった。ちなみにYは、波の伝播に関する質問の答えを次の物理の時間に持参して、授業時間の半分を費やして説明を試みたが、その説明をまともに理解できた生徒がいたかどうかは怪しかった。
 教師が、単に教科書に載っていることを説明するという忠実な授業を行うことが、簡単ではあっても苦しい作業であることを知ったのは、随分後になってからだった。それまでは、Yに対して、生徒嫌いの教師というレッテルを献上していた。Y以外の年配の教師は、特殊な場合を除いて、授業時間中でも穏やかな顔していて、時々は自分のたわいのない冗談に自分で受けて笑顔を見せたりした。特殊な場合というのは、いろいろあるらしかったが、分かりやすいのは、風邪で体調が悪いとか、夫婦喧嘩をしたというような普通の場合であった。そのほかにも非人間的な問題を抱えている場合があって、見ていても気の毒な場合があったが、多くはざまあ見ろという気分にさせた。
 そのような気分にさせるのは、彼らが仮面をかぶっていて簡単に正体を現さないからだった。それは、教師という立場上、生徒との間に一線を引いておく必要があるためであるらしかった。でなければ彼らは生徒を憎んでいるのだ。個人的に生徒が憎いのではなく、生徒にまつわる問題が時には彼の存在意義を危うくすることがあるという理由から生徒を恐れているのだ。
 ついでに言えば、非人間的な問題とは、一見何でもない当たり前に見える問題なのだが、たとえば有名大学への進学率をいかにして高めるか、問題行動を起こす生徒にどんな脅しを掛けてこれを止めさせるかというようなことだ。数え上げればきりがない。こんな非人間的課題に熱心な教師は生徒に疎まれ、無関心な教師ほど生徒に好かれる傾向があった。
 現国を担当する中年の女教師は、普段から物腰の柔らかな優しい印象を振りまくことを得意にしていた。時々授業を中断して、恋愛や友情について話すことがあったが、特別興味をそそられるような話ではなかった。愛については、キリスト教の解説書の受け売りのような話をしたが、倫理社会で習うより味気ない話だった。私は、キリストの愛の話よりは、彼女自身の愛について話を聞かせて貰いたいと思った。すると、「先生の恋愛経験について話を聞かせてください」というような声が挙がった。彼女は顔をこわばらせて、「個人的な話はこの場ではふさわしくないでしょう」と言ってその場を逃れた。その態度と言葉が、生徒の純真とは言い難い関心を呼び起こしたのは言うまでもない。多くの生徒が聞きたがったのは、彼女がなぜ独身でいるのかということだった。これに対して彼女のかたくなな態度は生徒に、これまで恋愛といえそうな経験を持つことがなかったのか、他人には話せないような経験を持っているかのどちらかだろうという感想を抱かせた。恋愛について小説やコミックを読んで得た知識を持つだけの生徒は、中年の女教師の口から、人には言えないような激しい恋の経験談が語られるのを期待したが、既に恋愛の悩みに翻弄されていた生徒は純粋な恋愛の話を期待した。生徒たちは教師の個人的な事柄について教室の中で、時々は教室の外までも、勝手な想像を膨らませて会話の種にしたが、それにはいつの間にかたくさんの尾ひれが付いて、淑女のような人間が娼婦のような恋愛の経験者に仕立て上げられたりした。そうして彼女たちは、罪もない教師を標的にして無意識に日頃の恨みを晴らしていたが、その原因は、教師がいつも仮面をかぶっていて脱ごうとしないのが大きいと思う。仮面をかぶった教師を人間として考えることは難しかった。
 
 彼女は、近所に住むクラスメートだった。中学まで、成績は優秀で、取り立てて変わった印象はなく、どちらかといえば目立たない生徒だった。私とは、小さい頃からの顔見知りで、顔を合わせればいろいろたわいのないことを話したりする仲だった。それが変わり始めたのは中学を卒業する頃になってからだった。高校に入って暫くしてから休日に駅前で見かけると、彼女は黒と白の色遣いの変わったデザインの服を着て一人で歩いていた。その姿はいかにも奇妙で、遠くからこの世界に紛れ込んできた異星人のような印象だった。いつの間にか遠く隔たって行ってしまったと思わせる姿は衝撃的で、声を掛けることが出来なかったほど、まるで別人になってしまったような雰囲気を振りまいていた。
 人間というものは日毎に変化を遂げている。しかし日々の経験が積み重なってその姿を変えていくのを自分で意識するのは至難の業だ。今現在の自分の姿の全体を捉えることが出来ないように、以前の自分の姿を記憶に留めておくことも不可能だと言わなければならない。しかし、他人に関わる記憶というものはいつまでもその当時のままに残っていた。だから、暫くぶりに再会した同級生の変貌ぶりに度肝を抜かれてあたふたするのは良くあることだった。それは懐かしさとはちょっと違う。級友に再会するときに動悸が起こるのは、ときめくというのともまるで違う。ただただ、どんな風に変わってしまったのだろうという恐れが臆病にするだけなのだ。
 私は立ち止まって、彼女が横断歩道を渡って駅舎の中に消えて行くのを見送っていた。彼女の姿が完全に消えてしまうと、笑いがこみ上げてきた。おかしさと嬉しさがこみ上げてきて笑いをこらえることが出来なかった。彼女が奇抜な格好で、何事もなかったかのような澄ました顔で人々の好奇な目の間を楽しそうに歩いていくのを想像するのは楽しかった。しかし、後をついていって声を掛けようという気は起こらなかった。彼女が以前の彼女ではなく、全く別の人格に生まれ変わってしまったのだという感じが強くしたからだ。
 それから暫く後の日曜日に、彼女の母親と同じ電車に乗り合わせることになった。彼女はこんな風に話し掛けてきた。
「淳ちゃん、久しぶり」
 私は慌てて頭を下げて挨拶した。
「ひとり?」続けて、彼女は怪訝そうな顔で訊いた。
「ええ」私は素直に頷いただけだった。
「美優と一緒じゃなかったの?」
 私は彼女に話を合わせるべきかどうか迷った。美優がどこかへ出掛ける口実に私の名前を利用することはあり得ることだった。
「ええ」曖昧に言葉を濁した。
「あなたは普通の格好なのね」と彼女は私の全身を改めて眺めていた。
「そのスカートとカーディガン、とても似合っているわ」まるで身内の人間にでも言うようなお世辞を、目を細めながら言った。それから、
「ああいうのが流行っているの?」と何の脈絡もなく言いだして驚かせた。
 首を傾げていると、笑いながらこう言った。
「ああ、あの子が出掛けていったときの服装のことよ」
 例の白と黒の奇抜なドレスのことに違いなかった。
「仮装パーティーのようだから仕方がないけど、少しは考えて貰わないと・・・」
 私は、「そんな言い訳を信じているんですか」と言いたくなったが、我慢した。親子の間に必要以上の波風を立てる必要はないのだ。第一、美優がどんな気持ちでああした服を選んで着ているのか、見当もつかなかったし、そのことに母親が少しは気に病んでいたとしても、彼女の心配に同調する理由はどこにもなかった。
「あなたは、どんな格好をするの?」
 母親は、架空の仮装パーティーに、かなり関心を抱いている様子だった。おそらく、この時初めてあんな服を着た娘の姿を見せつけられて、動揺したのに違いない。同年代の私が驚くくらいだから、その親が驚かないはずはなかった。
「ええ、ふつうのアイドルの・・・」
「そう、楽しそうで良いわね」
 変身願望は誰にでもあった。いくつもの制約のなかで生きていれば、たまには正体を隠して、普段は出せないだらしなさや凶暴さを出せるということは楽しいに違いない。
 別れ際に、彼女はこんなことを言った。
「今度ゆっくり、パーティーの話を聞かせてね」
 私は、きっぱりと断ることが出来ずに、いつまでもその言葉を心の片隅に引きずっていくというしんどい思いをしなければならなかった。
 娘のことが心配で訊きたいのならば、直接訊くべきだった。それが出来ない事情があるのかも知れなかったが、そのような事情に配慮しているうちに、事態は悪いほうへ向かって進んでいる可能性があった。
 美優の母親が、後でゆっくり話を聞かせて欲しいと言ったのは、会話のなかの単なる符丁のようなもので、実際に聞かせてくれと言い出すことはないのだ。第一、私が知っていることで、母親が知らないのは、私をだしに使って出掛けているというくらいのことだった。
 ところが、杞憂と思われていたものは現実のものとなった。
 美優の母から遊びに来ないかと誘いを受けたのは、それから数日が経ってからだった。出来れば断りたいと思ったが、特に断る理由も見つからなかったから、重苦しい気持ちを引きずりながら出掛けて行った。
 美優の両親の家は、最近建て替えられたばかりであった。
 家族はみんな出掛けていて、母親以外は留守だった。
 母親は玄関から顔を出すと、「わざわざお呼びだてして、ごめんなさいね」と朗らかに言い訳をした。
 新築の家は、まるで展示場に建つ家のように整理整頓がきちんとされていた。新築の家を見学させて貰うような気分で家の中に入った。一階にはリビングとは別に応接間があって、そこのソファーに案内された。
 美優の家が建て替えられる前は、おばあちゃんが生きていて、随分古い純和風の住宅だった。その古さが物珍しくて、よく遊びに来たものだった。
「家に来るのは久しぶりだわね」
 建て替えられてからは初めてだった。
「小学校の頃はよく遊びに来てたのにね」
 何と返事をしていいのか分からなかった。
「みんな大きくなってしまって・・・」後の言葉が続かなかった。昔の頃を懐かしんでいるのか、今を悲観しているのか分からない曖昧さだった。
 二人で、母親が出してくれた紅茶を飲みながらとりとめのない話をした。母親は中学校の教師だったが、こうして顔を合わせていると、教師臭さが感じられないのは昔も今も一緒だった。普通の主婦のようであり母親のように見えた。この人が美優の母親でなかったら、やっぱり教師という部分が鼻について、妙な息苦しさを感じただろう。
 母親は、美優の生活ぶりに悩んでいた。その傾向は中学を卒業する頃から始まり、次第に強めているということだった。
 生活ぶりと言っても、学校を欠席するとか、親に反抗的な態度を取るというのではないらしかった。ゲームやコミック本に熱中して、学業が疎かになっているのを心配していた。
 そのような心配は、何も美優に限ったことではなかった。中学生や高校生で、ゲームやコミックに夢中にならない生徒を捜す方が難しかった。程度の差はあっても、傾向としてはほとんどが楽しんでいるといってよかった。
「ゲームはやります。コミックもよく読んでいます」
 そう言うと、美優の母親は少し明るい顔つきになった。それを見て、この時の自分の役割が分かったような気になった。
 彼女は、ゲームやコミックのどこが面白いのかという言い方はしなかった。面白いのだろうが、度が過ぎるのは困るというような言い方だった。
 最近になって、彼女の心配に拍車を掛けたのが、美優のコスプレ趣味であった。小遣いをためては奇抜な衣装やアクセサリーを買い集めているということを知ったのは最近のことだった。
「コスプレなんか、心配することじゃないですよ。今流行っているだけなんですから。ただゲームやコミックのヒーローの格好をして楽しんでいるだけですから」
 そう言いながら、自分は本当はそう思っていないのではないかという気がして仕方がなかった。私自身にはコスプレの趣味はなかったし、彼らの気持ちがどうなのかを知るようなチャンスに出会うこともなかった。また、楽しんでいる彼らを羨ましいと思うことはあっても、自分が進んで参加しようという気にはならないだろうと思っていた。
「昼間からあんな格好で外出されては・・・」母親がそう言い掛けて口を噤んだ。
 私は、彼女が言いたいことが分かって、ほっとしたような気分だった。普通の親であれば、子供が昼間からコスプレ姿で近所を歩き回られたのではたまらないと思うのが普通であった。
「うちの親だったら怒るでしょうね」
 何気なくそう言って様子を窺ってみたが、特に反応を示すわけでもなかった。
「理屈も何もないんですよ。厭なものはいやだって、ただ一方的に怒鳴るだけです」
「そう」そう言って微かに笑っただけだった。
 最後に、今日のことは誰にも口外しないように頼まれた。その顔はやつれていて苦しそうに見えた。

 それから暫くして、美優とばったり出会った。彼女は例の白黒の衣装だった。最初に気がついたのは美優の方だった。ショッピングモールの前の路上を歩いていると、後ろから声を掛けられて、振り向くと最初に見覚えのある衣装が目に飛び込んできたが、その服を着たのが美優だということに気がつくまでに、わずかだが時間が掛かった。心のどこかに、目の前の女の子を美優だと認めたくない気持ちがあった。
「驚いた?」と彼女はにこにこしながら訊いた。
「ううん」嘘をついた。すぐに見破られる嘘だった。素直に驚いたと言えるほどの親しさは、既に亡くしていた。あの頃のことは記憶のなかに微かに残っているだけで、それも微かな幻のような気がした。
 美優が声を掛けてきたのには訳がありそうだった。単純に昔懐かしい友達を見つけたからというのではなさそうだった。そうして、声を掛けた挙げ句に見え透いた嘘をつかれたことも気にならないようだった。
「お互い随分変わってしまったね」そう言ってから思い出したように笑った。「変わったのは私だけかな。私が変わったのは分かりやすいよね」そう言いながら身にまとった衣装を改めて見るような仕草を見せた。
「変わったね」と言うと、「変わったというよりは変わっているというべきかも」声を立てて笑った後で、「時間ある?」と訊いた。
 曖昧に頷くと、私の手を引いて歩き始めた。
「あっ、ちょっと」そう言って美優の手をふりほどいた。
 並んで歩くというよりは、美優が先に立ってどんどん先に進んだ。居酒屋などの飲食店が軒を並べる狭い路地の奥のすすけた茶色いドアを開けて中に入って行った。室内は入り口のドアよりもすすけた印象だった。壁に小さな窓がついていたが、色つきのフィルムが貼られていて薄暗い光が差し込んで来るばかりだった。塗装した板を打ち付けた壁の所々に小さな照明がついていて、周りの壁を薄ぼんやりと照らしていた。
 カウンターのなかに人がいて、美優と親しげに挨拶を交わした。奥のトイレに近い席に腰を下ろした。
「たばこある?」手持ちぶさたに感じたからか、美優がカウンターの人間に声を掛けた。声を掛けられた人物は、頬から顎にかけて無精ひげのような不揃いの髭を生やしていたが、美優が未成年であることを知っているはずだった。それにもかかわらず、紅い色のパッケージを投げてよこした。
 美優は慣れた手つきで煙草をつまみ出すと口にくわえた。
「火は?」
 今度は百円ライターが飛んできた。
 煙草に火を点けると、軽く吸い込んでから口をすぼめて白い煙を吐き出した。魔法使いの子供のように見えた。
「どう?」
「なにが?」
「なんでもいいけどさ、うまくいってる?」
 その時、自然に美優の母親のことを思いだした。二人が親子であることを結びつけて考えるのは難しかった。疲れてくすんだ母親の顔が浮かんだ。
「うまくいっているような、いっていないような・・・」
 そう言うと美優は嬉しそうに笑った。大人なのか子供なのか分からなかった。煙草を吸うと余計に見分けがつかなかった。
「だからだめなんだよ。分からないなんて言っているうちに、すぐおばんだよ」
 美優の言うとおりだった。
「今、何が楽しいの?」
 美優の質問は答え難いものばかりだった。
「べつに」と言うと、指の間に煙草を挟んだまま腕組みしてこっちを見た。
「これからどうするつもり?」
 先のことは、あまり考えないことにしていた。考えても見えてこないからだ。
 会話は暫く途絶えた。沈黙は重苦しかった。こんなことは、昔の二人の間にはおそらく無かったに違いない。
 突然美優が口を開いた。
「どう?」そう言って両手を広げて見せた。
「なに?」
「この服・・・」
 美優が着ていたのは、例の白黒の服、袖口やスカートの部分が幾重もの襞になっていて、胸や裾に大きなフリルがついた、百年以上前に西洋の貴婦人が着たドレスに似たデザインの服だった。
 私は慎重に答えを探したが、適当な答えは見つからなかった。これから起こるかも知れない事態に関する想像だけが膨らんで、答えをますます苦しくした。
 つまり、美優の心のなかに目を向ける余裕を持つことが出来なかったのだ。
 私は、服を褒めるべきだったのだ。服を着た美優の姿を可愛いと言ってやるべきだったのだ。簡単なことだった。しかし、そのことが彼女の母親をもっと苦しい立場に追い込むことになるような気がした。
「楽しいだって?」
 美優は呆れたような顔をして私を見た。
「必要だからしているのよ」
「なぜ必要なの?」私は、美優を怒らせるためにそう訊いたわけではなかった。会話の流れのまま、そういうことになってしまっただけだった。
「そんなこと分からないよ」
 美優は明らかに苛立っていた。
「人間には息抜きが必要でしょう。それは認めるわね」
 私は圧倒されて頷いた。
「それがなぜ必要かなんて考える人がいる?」
 美優は決してごまかそうとしているわけではなかった。彼女は真剣に自分と向き合っているのに違いなかった。真剣に向き合えばそうするほど、理由を考えることが無意味に見えてくるのかもしれなかった。
「人が何が大切かと考えるのは勝手かも知れないけど、大切なものも変わるんだわ、たぶん・・・」私は、美優にさらなる変化を期待した。それがもちろん、私の心からの願いというわけではなかった。
「あんたに、大切なものがどういう風に、いつ変わるかなんて分かるわけ?」
「それは、・・・」
「分からないことを説明しろと言われても無理でしょ」
「でも、それを知りたがっている人もいるんじゃないかしら」
 知りたがっている連中というのは、彼女を理解しようとしているわけではなかった。自分たちの論理で説明して自分たちが納得しようとしているのに過ぎなかった。だからといって、彼らを無視することは危険だったが、無視する以外に自分たちの思いを貫く手段がないというジレンマを抱えていた。
「だれが、何のために知りたいわけ?」
 私は答えられなかった。彼女が息抜きのためにどんな奇抜な格好をしようと、私の関わらなければならない問題というわけではなかった。
「さっき、息抜きと言ったのは訂正するわ。生きるということにしておいてよ」
 美優は、息抜きと生きるということを、ことさらに区別する必要を感じていないようだった。息抜きと言ってしまえば、軽く受け取られ、いろいろ難癖を付けられることになるのならば、正直に生きると言ってしまえばよかった。
 そう言いながら、美優は嬉しそうに悪戯っぽく笑って見せた。
「どう、淳子も私に影響されてみない?」
 そう言ったときの表情は冗談ではなかった。
 私は首を横に振った。
「いつか、美優のいうことが理解できたら、喜んで・・・」
 理解することは簡単なような気がした。できないのは、それを思想や信条のように身体の一部にすることだった。

 それから、美優は時々連絡をくれるようになった。それは、早朝であったり、深夜であったり、時間を選ばないので困った。その内容は、稚拙でたわいもないものだった。ところがある時、驚くことが起こった。
 その電話は私が布団に潜り込んでからすぐに掛かってきた。何か悪い予感がして、電話に出ることに面倒くささを感じた。
 初めに私の名前を何回か呼んだところで、妙な空気を感じた。確かにいつもの美優とどこか違っていた。何かの薬をやっていて、意識が定まらないような印象であった。時々動物のようなうめき声がして、なにかをこらえている様子だった。
「私の声が聞こえる?」と苦しそうな声で訊いた
「聞こえるよ」
「どんな風に聞こえる?」と、再び訊いた。
「なんだか苦しそう」とこたえると、「何でもないわ」と言ってもっと喋るように催促した。
「何を喋ったらいいの?」
「何でも良いから、・・・そうだ、生きることがどんなに苦しいか話して」と妙なことを言い出した。
「突然いわれても」
「生きることが虚しいことでも良いわ」
 私は、気味が悪くなって電話を切ろうとした。
「待って、切らないで」
 必死の声が私を引き留めようとした。「ごめん、少しだけ付き合って、少しだけ・・・」
 暫くしてこう切り出した。
「誰かを愛したことがある?」
 支離滅裂な会話だった。
「あるかも」
「誰?」
「特定の誰っていう訳じゃないけど・・・」
「うん、分かる」
「わかる?」
「分かるさ、私もそうだもの。誰か知らない男達に恋しているんだよ」
「それって、なんだか悲しくない?」
「悲しいけど、哀しくはない」
「なにそれ?」
「自分の恋心は自分にとってだけ大切なんだってこと」
「そうなんだ」
「そうよ」
「誰も自分の恋心を分かってくれないって言うの?」
「分かるもんなんかいないよ」
「淋しい」
「所詮、みんな一人なんだから、淋しいのは仕方がないよ」
「諦めているんだ」
 暫くの沈黙があった。
「今、ちょっと実験中なんだ」美優がまたまた妙なことを言い出した。
「実験?化学の?」
「そう、実験。化学の実験じゃないけど、それに少し近いかな、・・・哲学かも知れない」
「なに、それ?」
「とにかく、この電話も実験の一部なの」
「・・・・・・?」
 その後に通じ合わない会話を交わした後で電話は切れた。実験の意味は謎のままであった。確かに普通ではなかったが、ありもしない実験話を持ち出すほど異常ではないはずだった。一部に私を巻き込んだ実験は確かに行われたのだ。そのことの知らせ方が普通ではなかったから、実験の目的がどのようなもので、実験の中身がどのようなものなのかという興味深い謎が後々まで残った。
 この出来事を境にして、美優からの電話は途絶えた。私は、少しほっとして、静かな夜を過ごしていた。
 美優からの電話は、彼女が私とのつながりを求めている証だった。そのつながりが一本の絹糸のように細いものであっても、彼女はそのつながりを求めたのだった。にもかかわらず、私は彼女からの電話が掛からなくなったことを歓迎していた。その挙げ句、電話が掛かってこなくなったことの訳を確かめようともせず、それは彼女にとっても良いことなのだと自分に言い聞かせていた。
 自分の心を欺いた怠惰さと、そのために起こった苦しい自責の念は、意外にも、思いがけない美優の告白によって解消されることになった。

 日曜の午後に、私の家を美優が尋ねてきた。母に呼ばれて階下に下りていくと、母と美優が立ち話をしているところだった。美優はTシャツにスカートという普通の高校生の格好をしていた。
 私が部屋に上げようとすると、外に出られないかと言った。二人は玄関を出て近くの公園までぶらぶら歩いて行った。
「久しぶりだね」と美優は殊勝なことを言った。
「そうだね」と私も殊勝に応じた。
 休日の午後にもかかわらず、路上の人影は二人だけだった。
「静かすぎて、ゴーストタウンみたい」当たり前の感想だった。
「気味が悪い?」
「ううん、こういうのも好きだよ。周りが死んだように息をしてるの」
 美優らしい表現だと思った。
「詩的な表現だね」
「単純な実感よ」
 話は途切れた。美優は何かを言いに来たのに違いなかったが、なかなか言い出さなかった。彼女らしくなかった。
「どうしたの?」尋ねて来た目的を問い質してみることにした。
「そのことなのよ。いつか、電話で恋愛の話をしたよね」
 それは、美優が恋をしているかと訊いたのがきっかけの話だった。
「それ以来、電話しなかったね」
 そのことを謝ろうとしているわけではなかった。また、私が電話しなかったことを咎めようというのでもなかった。
 美優が何かを言いたそうにしているのがよく分かった。嬉しいことがあっても、悲しいことがあっても、それを自分一人で抱え込んでおける性格ではなかった。
「実は、電話しなかったのは訳があってね、・・・」
 公園のブランコに並んで座って、うつむき加減に美優は彼氏が出来たのだと告げた。だから、これからは今までのようには付き合えないのだと言った。
「そうなんだ」と言うのが精一杯だった。おめでとうと明るく祝福の言葉をかけてあげられなかったのは、彼女の告白が少しも嬉しそうではないからだった。むしろ、私に別れを宣言するためにやって来たようだった。その意外な感じが、美優の幸運を祝福する気持ちをかなり削いでいた。美優との付き合いは、わざわざ別れの宣告を受けなければならないようなものではなかったからだ。
 美優が付き合い始めた相手が誰なのかということが大きな関心事になった。
 人と付き合うということは、お互いに影響を受けるということであった。好意にしろ悪意にしろ、相手に対して何かしらの感情を抱くことになり、そのことを通じて考え方や行動様式に影響を与えるものなのだ。だから、誰と付き合うかということは、何を食べるのかと同じく大事なのだ。食事は、身体を作るのと同様、心を作るのだから。
 しかも、人との付き合いでは、食べ物のように勝手な好き嫌いをいうことは難しかった。
 美優が付き合い始めた相手の名前を聞いて驚いた。彼は二つ年上の大学生で、中学の時、私達が一年生の時に三年で、一緒の中学に通っていた。
 彼の印象の薄さが気がかりな点だった。印象の薄さで印象に残っているという不思議なタイプだったからだ。外見は、ごく普通で、その身長の高さと横に流れるようなヘアースタイルに特徴があった。人の外見というのは、気にしなければ別に気にならないのだが、いったん気にし始めると、些細な点が大きな欠点のように見えることがあり、それは純粋な外見以外の部分に影響されていることが多かった。彼の印象の薄さとは、その無口でおとなしい性格に起因していた。あの頃から三年以上経った彼が、どう変化を遂げたのかは分からない。ただ私の記憶にあるだけの彼と付き合うことにした美優の心の中を覗いて見たい気がしたが、そんなことが出来るはずがなかった。
 それでも、美優は少しずつ変わっていくのではないかということを予感させた。玄関先に姿を現してからこのときまで、その態度に彼氏が出来たことを単純に喜んではしゃいでいるように感じさせるようなところがなかったからだ。その服装も、特徴のあるコスプレの衣装ではなく普通の服装をしていたことで、そのような気持ちを抱かせるのに寄与していた。
「退屈だよね」
 突然に美優がこんなことを言った。
「何で生まれて来ちゃったんだろう。産んでくれと頼んでもいないのにね」
 私は、返す言葉がなかった。いろいろな言葉が浮かんだが、どれも相応しくないような気がした。親が悲しむと言うのも気が引けた。そうは見えないと言うのは無頓着だった。何かすればと言うのは非情だった。
 それから、美優は私の生活について少し訊いた。なぜ私のことを訊いたのかは分からなかったが、中途半端な訊き方だったところを見ると、何か共通点を見つけようとして出来なかったようにも受け取られた。二人が別々の価値観をもっていることを再確認したのかも知れなかった。
 帰り際にパソコンで作ったという名刺を手渡してくれた。
「この間の電話で話した実験のこと覚えている?」
 それは、深夜に掛かってきた電話で、今実験の最中だというものであった。その内容について尋ねると、後で教えるということであった。
「その結果を、ホームページに掲載しているから、興味があったらアクセスしてみて」
 そう言いながら、名刺に記載したアドレスを指さして見せた。
 私達は、公園で話をしただけで別れた。これで友人の一人を失ったという感じは少しもしなかった。実際、美優も別れという言葉は一切口に出さなかった。

 数日後、美優の実験の内容について知りたくなって、家電量販店のインターネットサービスコーナーに出掛けていった。平日の午後の店内は、買い物客もまばらだった。コーナーはパソコン関連の商品が陳列してあるフロアーの一角にあった。円形のテーブルの縁に沿って数台のパソコンが輪のように並べられていた。私は、パソコンに向かうと視線の先が壁になる一台を選んで腰を下ろした。
 規定のコインを挿入すると、後は時間まで自由にインターネット上のサイトを検索することが出来た。
 それは特異なホームページだった。黒い背景に、タイトルは朱色の文字で「狂気の詩」と付けられていた。その色遣いが狂気というタイトルの文字を意識したものであることは明らかだった。タイトルの下に続いて、さまざまな文章や詩が書き連ねてあったが、それらの表現はどこかしら非現実的なにおいを漂わせていた。観念的な文字の羅列が狂気という言葉に連なるといえばそうかも知れなかった。呪いや恨みがこめられたような表現は、読む者を惹きつけるための工夫にしては度が過ぎていた。
 一番驚かせたのは、死に関する記述であった。死は人生の最終的な目標として捉えられており、甘美な死の願望が延々と綴られていた。深紅のバラが頻繁に登場したが、それらは死を象徴するイメージとして描かれていた。そして、深紅のバラが連想させるものは真っ赤な血潮であった。
 多くの薔薇の写真の中に、手首に開いた傷口から流れ落ちる真っ赤な血を写した写真を発見したとき、私は血も凍るようなショックを受けた。鮮血は傷口から掌へ真っ赤な太いロープのように流れ、中指と薬指の先からワイングラスの中に滴り落ちていた。別の写真には薔薇の花びらで飾られたワイングラスが写っていて、グラスの中で重々しく澱んでいるのは手首から流れ出た血液に違いなかった。
 私は直感した。その写真は、美優が自らを傷つけて撮影したものに違いなかった。
 この実験は美優が電話を掛けてよこした夜に行われたのに間違いない。自らの手首を傷つけて、その痛みに耐えながら、死と生の間にあって、その境界を確かめるために電話をかけてきたのに違いない。いつか遂げられるであろう甘美な死の序章として、この実験はどうしても行われなければならなかったのだ。
 私は、気分が悪くなるのに耐えながら、美優が作り上げたのに違いないホームページを、用意してきたフロッピーディスクにダウンロードした。すべての作業を終えると、インターネットからログオフして、慌てて量販店を後にした。
 家に帰り着くと、このフロッピーの扱いが私を悩ませることになった。その保管場所さえ問題となった。他のフロッピーと一緒に保管することに大きな抵抗感を覚えさせた一枚は、いつまでも机の上に放置されていたが、机の上のペン立てやその他の小物類のなかでも、ひときは浮き上がるように目立っていた。
 フロッピーはいつまで経っても目障りな存在のまま私を脅かしたから、早急な処分が検討されなければならなかった。そこで私が下した結論は、このフロッピーを美優の母に見て貰おうというものだった。そうすることで、私が抱え込んでしまった重荷を軽くすることが出来そうな気がした。
 私は悩んだ。直接手渡しするには、内容が過激すぎたからだ。それでも、家族の誰かに知らせなければという思いは強かった。そこで美優の母親宛に郵送することに決めた。
 数日後、母親から電話が掛かってきた。彼女は不機嫌だった。怒りを押し殺しているのが言葉や声音の端々に現れていた。なんのつもりで、このような気味の悪いものを自分の子供が作ったと言い切れるのか、その証拠はどこにあるのかと問いつめられた。
 証拠はなかった。ホームページに書かれた制作者の名前は美優とは似ても似つかないものだった。美優の母親が、ホームページの作者が美優でないと信じ込んでいたのか、或いはそのような可能性を感じて、その恐ろしさを振り払うために違うと言い張ったのかは分からなかった。いずれにしても、私は、そのリアクションから表面的には救われたような気になって、それまでの重苦しさから少しは解放されたように感じた。当面は、それが美優の作り出したものではないと考えることで平穏は保たれるのだ。

 予備校の夏期講習の帰りだった。夕方、電車を降りてバス停に向かって歩き出していると、久しぶりに美優を見かけた。美優は一人ではなく、背の高い若い男と一緒だった。この間、私の家までわざわざ来て、付き合う相手が出来たと告げて行った、その相手の学生に違いなかった。二人は恋人同士のようにぴったりと寄り添い、お互いに寄りかかるような不自然な格好で蛇行しながら、通行人が行き交う歩道を歩いていた。通行人はことごとく迷惑そうな顔をして、或いは顔を背け彼らを見ない振りをしながら追い越して行った。
 私は、片道一車線の幅の道路を介して、彼らとは反対側の歩道を歩いていた。チャイナドレスのような服を着た美優は、随分大人になったように見えた。それは、大人というものが子供の理解を超えたところに生息しているという意味において大人になったという意味だった。多くの人々の目に互いに腰に手を回した姿をさらして、それを楽しんでいるという姿からそう思ったのに過ぎなかった。そして、そのような姿を見せられるという陰には、何らかの精神的な裏付けがあるのに違いなかった。それは、社会に対する挑戦的な意識の萌芽といったものかも知れなかった。
 そう思って見る大学生は、ほとんど周りに注意を払っていないように見えた。二人の世界の中に閉じこもっていて周囲には目もくれないというのとは違って、衆人の視線を感じることに自虐的な喜びを感じるあまり周囲の世界を無視し、無視することで挑戦的な気分に浸っているようだった。
 そのような男に美優を変える力があるとは思えなかったが、お互いが惹かれ合っていることは事実だった。
 気がつくと、私は立ち止まって彼らを見ていた。特異というべきであってもなぜか存在感の希薄な彼らは、その片割れが美優でなければ、私もほかの大勢と同じように見て見ぬ振りをして通り過ぎ、いつの間にか忘れてしまうはずだった。
 美優が私の存在に気がついたのはその時だった。私に気がつくと、左手を挙げて振りだした。顔がはっきりと笑っているのが見えた。私は表情を作ることも忘れて、機械的に手を振り返した。すると彼女の手の振幅が大きくなるのが分かった。隣の大学生も気がついてこっちを見た。中学の時の目立たない印象と今の姿を結びつけることは難しかった。彼らが周りの世界を無視しようとすればするほど、逆に彼らはその標的になっていた。
 やがて二人は私の真横の位置に来て、美優が何かを言うように口を動かしたが、聞こえなかった。手を振るのを止めて正面に向き直り、通り過ぎていった。私はいつまでも立ち止まったまま彼らを見送っていた。暫くすると大学生の彼が一人で振り向いて私の方を見るのが目に入った。彼は何度も振り返る動作を繰り返して私を見た。
 数日後、街中で呼び止められて振り向くと美優と彼の二人だった。二人は腕を組んで笑いながら立っていた。
「覚えてる?私の同級生」と彼に向かって訊いた。組んだ腕を解く気配もなかった。
 彼は首を横に振った。そのことが引っかかった。私は、彼のことを知っていた。そのギャップが許せない気分だった。
「お茶でも飲まない?」
 そう誘われたときに断りたい気分だったのは、彼が私のことを知らないと言ったからばかりではなかった。
 それでも私は彼らの後について行った。それは滑稽な光景だった。さすがに二人は、腰に回した手を解いてはいたが、つないだ手はそのままだった。その後を女が一人ついて歩くというのは滑稽な光景だった。
 着いた先は、以前来たことのある穴蔵のような喫茶店だった。
 店の奥のテーブルに私と美優は向かい合い美優の隣に彼が座った。二人を並べて見る位置関係だった。並んでいるところを見てもどこかアンバランスな印象だった。後で気がついたことだが、彼が美優の最大の崇拝者だということが、二人の関係を成立させている大きな要素のようだった。
「ホームページ見たよ」と言うと、美優は急に目を輝かせた。
「どうだった」
「うん、正直、驚いた」
 美優の顔から微笑みが消えて行った。
「そう」と言ったきり黙り込んでしまった。
 すると彼が、「そりゃそうだよ。まともな神経の持ち主には理解できないのさ」と口を出した。そう言いながら横目で美優を見た。美優の顔に変化は現れなかった。
「作品としては、レベルが高いと思うよ。誰も気づかないような核心を突いているし」
 そうだ、あれは単なる作品なのだと気づいた。
「文章も良くできているし、詩もなかなか面白いと思ったわ」美優を励ましてやりたかった。
「問題は、あんまり理解されないという点だね」美優が溜め息混じりに言った。
「いいさ。分かる奴には分かるんだから。それで十分だよ」彼は自分が最大の理解者であることを強調して見せたかったのだ。
 美優は微かに頷いたように見えたが、決して納得した様子ではなかった。
「私が言いたいのは、・・・」と言いかけて、私は口を噤んだ。言うべきかどうか迷った。
「言いたいのは?」美優がその言葉に食いついてきた。鋭い目で睨んでいた。私も、いつの間にか睨み返していた。
「実験の意味のことよ」
 美優は、何だそんなことかというように口を歪めて笑った。
「あれは、悪戯よ。悪く思わないで」
 私は美優を睨みつけた。嘘をついているのが分かった。仮に悪戯だったとしたら、とんだ悪ふざけだった。
「よしてよ」組んだ腕を解いて振った手の手首に深く刻まれた傷跡が、単なる悪戯ではないことを物語っていた。
「あなたにも分かって欲しいとは言わないから」そう言いながら彼を見上げると、彼は嬉しそうに笑って何度も頷いていた。その時の美優の視線には、人を自分の思いのままに操らないでは置かないといった凄みが感じられた。
 この時私は、ホームページの存在を美優の母親に知らせたことを、とんでもない間違いをしでかしたように感じた。それは著作権の侵害というような生やさしいものではなかった。私は卑劣な密告者のような自分を恥じていた。幸いなことに母親は私が送りつけたフロッピーに記録されたデータが美優の手になるものだということを示す手掛かりがないことから、それを信じようとしなかったが、美優の秘密を暴露してしまったという罪悪感はいつまでも残った。

 このまま何事も起こらなければ、美優のことも彼のこともやがて忘れてしまうはずであった。二人の存在が私に危害を及ぼす懼れもない以上、いつまでも二人のことを心配している暇も必要もなかった。
 しかし、そのような私とは違って、美優のことを心配して止まない人々が存在した。それは、彼女の家族であった。
 美優のホームページに顔を背けた母親は、美優が近所の大学生と付き合っていることを人伝に聞いて人知れず心配していた。美優はまだ高校二年生であったから、恋するには早すぎる年齢とは言えないにしても、腰に手を回しぴったりと寄り添って歩き回られれば、親ならずとも心を悩ませる可能性はあった。
 美優の母親から電話があった。
「この間は失礼しました」と挨拶すると、いいえ良いのよと軽く流してくれた。彼女が、私に美優のものというホームページを見せられたことに、いつまでも怒りを抱いていないことを知って、ほっと胸を撫で下ろした。
「それより」と彼女は声を潜めて、「美優のことなんだけど、付き合っている人がいるらしいと聞かされたんだけど、そのことについて何か知らない?」
 私は、美優は望まないだろうが、正直に話すべきだと思った。
 美優の母親と駅前の喫茶店で待ち合わせることにした。
 私が話したことは、美優の付き合っている相手が誰で、二人が寄り添って歩く姿を何度か目撃したということだけだったが、私は大きな責任の一つを果たして肩の荷を降ろしたようなほっとした気分になっていた。
 母親は大きな溜め息を漏らした。
「あなたはどうなの?」と訊いてきた。
「・・・・・・」
「付き合っている人はいるの?」
 私は首を横に振った。
「そう」彼女はほっとしたような顔を見せた。「それでは、親御さんは安心ね」
 親の安心のために恋愛もできないというのはおかしな理屈だった。
 私は、美優が決して間違ったことをしているのではないと言いたかったが、うまく言葉にならなかった。
「二人の関係について、感じていることがあったら教えて」
 彼女は二人を見る他人の目を気にしているらしかった。
「確かに目立つ存在ですけど、そのことを二人が意識していられる間は大丈夫だと思います」
「厭だと思うことはない?」
「ええ、別に、二人のスタイルに口出しする必要はないと思います」
「ふーん、若い人はそうなんだ」
 彼女は、残りのコーヒーを飲み干すとハンドバッグの中に手を入れて何かを取りだした。
 彼女が差し出したのは、私が送ったフロッピーだった。
 私が黙って受け取ろうとすると、彼女は私の手を制した。
「これは、お返しするけど、これを美優が作ったという根拠はなに?」
「それは・・・」
 私は、この件は忘れて欲しいと迫った。
「それは、いつかは忘れるでしょうね。でも、こんなものを自分の娘が作ったとなると話は別よね」
 私には返す言葉がなかった。
「あなたもそう思うでしょう。だから私にこんなものを見せる気になったんでしょう」
「仮に、これを美優が作ったのだとしたら、どんなつもりで作ったかが気になりますよね」
 彼女は、そんなことは言われる必要が無いという顔を見せた。それから、子育ての難しさを語った。美優がいつの間にか自分たちの手を放れてとんでもない世界を覗き始めているようなことを言った。
「それも、結局は親の責任にされてしまうのよね」
 母親は社会のあり方に疑問を感じていた。家庭が正しくても、その外側の社会にはさまざまな邪悪なもので溢れているから、子供がこのようなものに染まらないようにするのは不可能だと。
「これから、美優にはどのように・・・」
 恐る恐る聞いてみた。
「あの子も、もう子供じゃないんだから、ちゃんと言って聞かせれば分かってくれるでしょう。わからせないと」
 そう言いながらも、彼女の顔色は冴えなかった。

          *

 夕暮れ時だった。少し開いた車の窓から虫の音が聞こえていた。車の中の男女はいずれも未成年であった。少年が十八、少女が十六。成人に達するには、後一年以上待たなければならず、まだ選挙権も与えられていなかった。
 少年はじっと目を閉じていた。その顔の表情に現れているのは心の高ぶりが生み出した緊張感であった。
「どうしたの?」少女が訊いた。
 少年は応えない。応えようとしても考えがまとまらなかった。この期に及んで、そのような問いは無意味であった。すべては既に決定されたのだ。後はこの決定に従って実行に移すことだけが遺っており、その結末の生起はすべて少年の手に握られていた。緊張感はその有力な証であった。
 少年は懐に硬質な金属の刃物を忍ばせていた。最初懐にしたときひやりと冷たい感触で身を縮み上がらせた得物は、すぐに彼の体温を吸収して温かい身体と同化した。
 その物体を少年は服の上から押さえていた。そうして、これまで何度となく繰り返されたように、彼が取るべき行動を頭の中で反芻した。
 少女に、少年のぴりぴりした緊張感が伝わっていた。その緊張感に捕らわれている姿を目を凝らして見守った。
 彼が言い出したことではあったが、少女は即座に同意した。切実な願いを遮らなければならぬ理由は存在しなかった。むしろ、その決意には人を蘇らせる力を孕んでいるとさえ思った。人生を完全な姿に修復するために必要な行動であると。
 彼らがもっとも大切と考えることは、単純なことであった。
 生命が必要とする希望を揺るがすものは排除されなければならないというものであった。
 彼の中に迷いはなかった。これまでどれほど迷い抜き考え抜いたか知れなかった。ある行動を起こさなければならないという結論に達するまで、その結果が巻き起こすであろう事態を想像したのも十回や二十回ではなかった。
 そのような想像は、常に少年に重苦しい敗北感を味あわせた。その敗北とは行動の果ての結果としての敗北ではなく、そのような行動を起こさせまいとする抑制機構としての働きに敗北することであった。この敗北感を打ち破らなければ未来はなかった。そのために必要な行動を起こすべく少年は車を降りて地面に降り立ち、自宅の方へ向かって歩き始めた。
 少女は、少年の背中を見送ってから、一冊のノートを取り出し、そこに書き付けられた詩に静かに目を通し始めた。
 そこに書き連ねられていたのは、純粋な真情を吐露した言葉であった。その純粋さに身体と心が鎮まってくるのを感じた。しかし、言葉だけでは十分ではなかった。言葉は常に心と一体となって立ち上がり飛翔しなければならなかったが、絶えず心からは立ち後れて、臆病な番犬のように尻尾を垂れてついてくるようなところがあった。心は言葉に出来ないところで、社会と対峙しなければならなかった。言葉によって社会と折り合いを付けることが不可能であることを、身をもって体験していたことであった。言葉で破れた後は、行動で示すほかはなかった。
 少女に励まされて、少年は行動の端緒に立ち、その実践に赴いていったのだった。
 二人の行動は大義に支えられていた。自分の命が自分たちのものであることは誰も否定することはできないのだ。命の価値は誰も手を触れ汚すことのできない神聖なものであった。たとえ家族であっても手出しすることは許されないのだ。しかし、現実はこの原則を蔑ろにしようとしていた。命に関する無理解は家族であっても許すことが出来ないのだ。
 それからどれほどの時間が経過しただろう。少女の心が落ち着きを取り戻して、一人車内に取り残され孤独感に苛まれようとする頃、少女の耳に遠くから聞こえてくる乱れた足音があった。
 車内に飛び込んできた少年の息は荒かった。
「失敗した」
 少年の最初に発した言葉だった。青ざめたその顔に改めて彼の弱さを嗅ぎ取って、少女は心が冷え冷えとなるのを感じた。
 少年は着替えを済ませていた。そのような冷静な行動を取らせたのは二人による綿密なシュミュレーションの結果であった。しかし、気が動転して「失敗した」という場合に、そのような冷静さは不要なもののような気がした。
 少女は少年の手を取って、仔細に眺めた。その手には彼が下した行為の証が残っていなければならなかった。
「どうして?」
「分からない」
「刺したんでしょ?」
「うん、三人とも刺してきた」
 少年は、家族三人に致命傷を与え、絶命させることが出来なかったと言う。
 少女は、少年の手を取って彼を励まさなければならないのを感じた。気が動転したままでは、行為の意味が失われてしまうような気がした。結果はともあれ、毅然とした態度でその結果を生じさせた行為を検証しなければ、行為の意味が半減してしまうからだった。
 いつまでも気が動転してはいられなかった。直ちに次の行動を起こさなければならない。
 少年の手にぬめりのような感触があった。その手を解放し、次の行動を起こすべく車を始動させるよう促しながら、顔に近づけてみた掌に微かな血液の色を認めて、全身に身震いが起こった。それは、かつて自分が我が身を傷つけて滴らせた血とはまるで比べものにならない、凄惨な感触のものであった。
 その時恐怖が初めて少女を襲った。青ざめた顔で全身に震えを起こさせている少年は単なる殺人鬼に成り果てていた。そして今は、自分が成し遂げた行為の真実を見失って、犯した罪の大きさに狼狽えていた。
 企ては脆くも崩壊寸前であった。これを立て直す手段はただ一つであった。後戻りは許されなかった。
「これまでね」
 少女の言葉に少年はしばしの間自分を取り戻した。冷静さを取り戻した目は現実を見つめる余裕を取り戻していた。彼の脳裏に胸をえぐられて苦悶する母の姿が浮かんできた。彼は眼前に自分の死の瞬間を捉えていた。自分の母に与えた死のような不名誉な死を受け入れる瞬間が近づいていた。
 少年は激しく首を振った。
「逃げよう」
「だめよ」鋭く甲高い声が車内に響き渡った。
「どうして?逃げ切れないと思うからか?」
 少女は厳然として首を横に振った。
「逃げ隠れして生きる人生は、生きるには値しないのよ」
 少女の言葉に、少年は耳を疑った。
「それはでは約束が違う」
「約束?どんな約束もした覚えがないわ」
「二人で一緒に生きようという約束だ」
 少女の顔に笑みがこぼれた。
「それなら、守るわ。いつまでも二人で生きるのよ」

          *

テレビのワイドショーばかりか、すべてのキー局の全国ニュースまでが事件を大きく取り上げて報道していた。ワイドショーでは、なぜか美優のことがクローズアップされていて、大学生の報道は少なかった。傷害致死事件を起こしたのは大学生なので、美優ではなかった。二人が共同謀議の結果の犯行だとする見解も報道されたが、その実際はまだ明らかにされてはいなかった。大学生が美優にそそのかされて犯行を思い付いたとは考えられない。彼の家族の死が、美優の人生について必要不可欠なものだったとは考えられないからだ。しかし、彼が刃物をもって家族を殺害するために現場になった自宅に向かうのを見送っていたのは事実だった。それは、大学生の犯行を支援するためであったとされても仕方がないが、彼女にとって、必要不可欠な存在となっていた者の行動を支援するというのは、すごく当たり前のことだという気がする。殺人自体は犯罪行為として許されるものではないが、そこに至る経過には目を向けなければならない。単なる狂気のゆえの事件だとするならば、彼の犯行を支えたものは狂気で十分であって、ほかの何ものも必要とはしなかっただろう。美優の支援などは必要としなかったのだ。仮に彼の狂気が美優の支援を必要としたと言うのであれば、美優は被害者であった。逆に美優の存在が彼を狂気の世界に導いたと考えるのであれば、・・・。
 二人が互いの家族を謀殺しようと考えたという点については不自然な面が多い。二人の結びつきを阻害するものを抹消しようという目的であるならば、背景に二人の明確な将来ビジョンがなければならない。家族を殺害した後に二人だけの輝く未来を想像することが出来ると考えたのであれば、それは明らかに不完全な人格をもった者と言えるだろう。美優に関しては、絶対にそのようなことはないと断言したい。
 ただ、死についての誘惑が彼女を悩ませていたということはあったかも知れない。それは、未知のものに対する興味と憧れに過ぎないものだ。閉塞した状況から抜け出すための道具に過ぎなかったのだ。
 いずれにしても、美優に関する報道は異常に加熱していた。その内容は、表面的には私が彼女について知っていることを上回っていた。その中には、同級生へのインタビューが含まれていたが、それも奇抜な衣装や奇矯な言動に関するものに終始していた。
 それらの報道は、美優の人生を掠め取って切り売りしているのにほかならなかった。私は、たまたま見ていたワイドショーの画面に釘付けになった。玄関に取り付けられたインターホン越しに逮捕された容疑者の家族のインタビューの光景が流れていた。その時間はほんの一瞬だったけれど、容疑者の母親の声というスーパーの向こうから流れてきた声は、紛れもない美優の母の落ち着いた声だった。妙にしっかりしていて、気丈な感じを受ける声だった。
 耳を済ませると、彼女は、今はどうお考えですかという質問に「今は、お話しすることはありません」と答えていた。
 その時の画面を私は何度も繰り返し、頭の中で反芻した。それは、劇の台本の中のセリフのように私の中で響いた。そして、美優のホームページの世界のほうが、本当は絵空事のはずなのに、それらが現実感を争って頭の中でせめぎ合うのを感じた。
                      (了)


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