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作品名:canvas 作者:桂花

第1回   第一章
 わたしは『正しい絵の描き方』なんて知らない。カンヴァスに色を乗せていって、満足な形に仕上がれば、それでいいのだ。
 一応わたしはシンシンキエイの若手画家ということになっている。個展を開くこともあるし、とりあえず絵で食べていけるわたしは幸せな部類に入るのかもしれない。でも、評論家に言わせると「基本がなくて荒削り」なのだそうだ。だってわたしは『正しい絵の描き方』なんて知らないのだから。

 好きな色をパレットに作る。絵の具をたっぷりつけた絵筆でカンヴァスに構える。えい、という掛け声をかけて、カンヴァスに絵の具を叩きつける。べしゃっと散った絵の具の模様から連想をつむぐのが、わたしの儀式。今日のは、なんだか、雨に打たれて濡れ続ける子犬の死骸のようだ。ペインティングナイフでカンヴァスをいったん塗りつぶし、それを削り落として子犬の死骸をあらわにする。一匹じゃ寂しいでしょう? もう一匹描いてあげるね。これでもう、寂しくない。

 絵の具の乾いていないカンヴァスをクリップに下げて、イーゼルを抱えて池袋の街に出る。池袋西口公園。誰も誰かを気にすることなく歩き去っていく。気持ちいい。
 イーゼルにカンヴァスを構え、わたしはめちゃくちゃに塗りたくる。この色はダメだ、捨てよう。いい色ができたらすぐにカンヴァスに乗せる。悪くない。
 池袋の景色を描いているわけではないのだ。ただ、気持ちいいだけ。気持ちいい色が作れる場所。息のできる場所。

「死にたいみたいだ」
 男の声がした。わたしは夢中で絵の具を塗りたくり、ナイフで削っていく。
「君の絵は、死にたがってるみたいだね」
 絵、と言われて、初めて声のあて先が自分だと言うことに気がついた。
「わたしの、絵? 死にたがっている?」
 振り向いて尋ねた。20代にも30代にも見える面立ち。服装は、いたってラフ。
「君の個展に行ったことがあるよ。小町真希さんだよね?」
「はい、そうですけど……あ、ありがとうございます、その、個展を見てくださって」
「うん、綺麗だったな。日本人は、ああいう色使いをしないと思うんだけど」
「日本人の『一般的な』色使いなんてわからないです」
 わたしがそういうと、男はさも可笑しそうに、ひとしきり笑った。
「あ、失礼。個性的な絵を描く人は、言うことも個性的だなぁって思っただけ」
 わたしは、一番聞きたいことを思い出した。
「そういえば、死にたがっているって……どういうことですか?」
 男の顔から笑顔が消えた。正式に言うと、面持ちを正した、そんな感じだ。
「個展で、君の絵を見た。全部の絵を見た。全部の絵を見て思った。君は強く『死』に惹かれている。そして、これらの絵は美しい」
 死か。考えたことがないでもない。
 ふと、思った。
「あの、宗教とかだったら……」
 それを聞いて、男はまたぷっと吹き出した。手を振りながら、
「違う、違う、僕は怪しい宗教の勧誘ではないよ。でも怪しいよね。はい、これ」
 わたしに名刺を差し出した。『草薙瑛一郎』という名前と、電話番号に、メールアドレスしか記載されていない、シンプルな名刺。左肩にある丸いマークが会社を示しているのかもしれない。
「草薙、さん」
「はい?」
 彼はもう、わたしの後ろにある手すりにもたれてくつろぎながら、にこにことわたしを見ている。
「わたしね、人を殺したことがあるんですよ。だから、早く死んでおわびをしたいのかもしれない」
「どうして殺したの?」
 この男は、人を殺したと言っても、ぜんぜん動じない。頭のおかしい娘とでも思っているのだろうか。
「死んでやるって。刃物を自分の首に押し当てて騒ぐんです。勝手に死ねば、と言ったら、本当に自殺しちゃったんです」
「それは、殺したことにならないんじゃない?」
「わたしが止めていれば、死ななかったかもしれない」
「自分を責める子なんだね」
 彼は、わたしの頭に手を乗せると、ぽん、ぽん、と軽く二回叩いた。

 あ、何か零れ落ちる。ビリジアンの絵の具が転がった。拾う。やばい、下を向いたら――
 とうとうあふれてしまった涙。とりあえず、口元だけでも抑える。

 蹲るわたしの傍らに、いつの間にか彼がいた。背中をなでてくれている。
「すみま……あ……ありがと……」
「無理にしゃべらなくていいからね。泣きたいときは泣いたほうがいい」

 衝動的だった。わたしは彼の胸にすがりつき、声をあげて思う存分泣いた。
 泣きながら、もう一人の冷静なわたしが考えていた。
(なぜ、今日初めて会ったばかりのこの男に、わたしは心を許しているのだろう)
(心を許している?)
(……)
 泣きのピークも通り過ぎたわたしは、草薙の胸からそっと離れた。
「ねえ」と、彼が呼びかける。
「『死にたい』と訴えることは、『生きたい』と訴えるのと同じなんだよ」
「? どういうこと?」
「本当に死にたいなら、誰にも何も言わず死ぬだろう。死にたいと誰かに訴えるのは、死にたいほど苦しい何かから助けてほしいというSOSなんだ」
「……うん」
「今日、君は僕に本当のことを話してくれたね。僕は役に立った?」
 わたしは、こくりとうなづいた。
「でも、わたしのした事はやっぱり罪ですね」
 パレットの絵の具がほぼ乾いてしまっている。おかまいなしに、タバコに火をつけた。
「死にたいっていうのは、生きたいってことだったら、わたしは彼を助けられなかった。それどころか、わたしは海でおぼれている人から浮き輪を取り上げたようなものでしょ」
「違うと思うな」
 わたしが煙を深々と吸うのを確認して、彼も胸ポケットからタバコを取り出し、口にくわえた。
「火をちょうだい」
 わたしはライターを取り出そうとしたが、それより早く、草薙はわたしのたばこの火元に自分のくわえタバコを近づけた。
「……高校生みたい」
「君は高校生に戻りたい?」
「全然。学校に行くのは苦痛だった」
「いじめにあっていたの?」
「ううん、でも、グループでいるのが当たり前な場所で、独りでいるのは苦痛だった」
「仲間はずれ?」
「そうじゃないの。くだらないなぁって。なんで群れる必要があるのかと」
「そうだね」
「大声で騒いで。おそろいの髪型でルーズソックスで。同じテレビを見ていなくてはならなくて」
「うん」
「……でも、寂しかった」
「わかるよ」

 わたしは、彼の顔を見た。

「僕も同じだったから」


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