由樹が早く家に帰りたいとそう思っていた頃、ルーファニーとイルは書斎にて『天史教本』に検索をかけていた。『天史教本』とは空のある座標から、送られてくるこの世の全ての歴史と座標が書き記されている本のことで、これを召喚すると魔導師の頭の中へ直接召喚される。 つまり、魔導師の頭の中に記憶や知識として、情報がダウンロードされるのだ。 脳がパソコンで、『天史教本』がソフトウェアと考えると分かりやすいだろうか。 よって、『天史教本』は自分でファイルを探さないと、その知識は得られない。 何処になにが書いてあるかを忘れてしまった場合や、何かを探したいときには一ページ一ページを丹念に探さなくてはならない手間が必要となる。それは膨大な量だ。まして、イルやルーファニーのように多くの『天史教本』を所持していると、その量は凄まじいものとなってしまう。 「あーッ! もう嫌だーッ」 この声の主はもちろん、金髪金眼の少女イル・サレイドだ。 「……はぁ」 この溜息はイルの祖父であり、英雄ルーファニー・サレイドである。 「もっと楽な方法ないの。1ページ、1ページやってたら、何時間掛かると思ってるの」 「無い。あったら、とっくにやっとる」 「にゅぅ」 じたじたと紙面の上で暴れ回るイルを見かねて、ルーファニーは休息を与えることにした。このくらいの年齢の子どもならばもっと遊んでいても可笑しくないが、それに比べてイルは働きすぎだ。普通の子どものように“育ってはいない”お陰で少々大人びている部分もあるが、流石にガス抜きも必要だろうとルーファニーは思った。 「少し休憩にしよう。わしもやらないといけないことを思い出して、な」 「一人でさぼる気じゃないだろうね」 “これ”さえなければ、本当にいい孫だとルーファニーは実感する。実際、イルは英雄のルーファニーに劣らぬ腕を持っており、タルデシカでの出世の口添えをしてやってもいいとルーファニーは思い直していたのだが、この口の悪さによってそれは憚られていた。 「休憩は無し。わしはローレ卿の所に行き、仕事の話をしてくる。お前も仕事に集中しろ」 す、と椅子から腰を上げ、イルを捨て置いてルーファニーは部屋を出て行こうとした。 「えぇッ! ちょっと今の無し。嘘だよ、そんなこと一欠けらも思ってなかったよッ」 脱力気味に、ルーファニーは溜息を吐いた。 「……では、少しだけ休憩して良し」 背後で明るい歓声が聞こえ、ルーファニーは更に脱力した。 ――全く、クソ餓鬼め。 和んだ空気から一変してルーファニーはラドルアスカ・D・ローレの屋敷へと急いだ。 少々気にかかることがあったのだ。少しでも早く着くよう『天史教本』の第44冊子、1章、91ページの上段に掲載されている〈最速のリューチカ〉を召喚した。 〈最速のリューチカ〉。 これは素早く移動して地を駆ける、リューチカという種のドラゴンだ。 そして金色の光が増し、キィンという鈍い金属音とともにリューチカは姿を現した。 肌は大体が黄色でその背には羽は存在しない。しかし、羽がない代わりにその特化した足はどの動物にも負けない地上最速のドラゴンだ。リューチカに乗り、ルーファニーはローレ卿の屋敷に向かう。 乗った瞬間、全速力でリューチカは走り出した。 「こ、これ、そっちじゃないわいっ」 目的地を聞かないで反対方面へと走り出したリューチカを焦って軌道修正する。そう。このリューチカ、せっかちなのが欠点なのだ。気を取り直して、ルーファニーは目的地を告げた。 「座標46.63.0へ」 今度こそ、ぶるん、と体を震わして、勢い良くリューチカは走り出した。 リューチカの走りに障害物は関係ない。このドラゴンは不思議なことに一直線の進路を縦横無尽に駆け回る。よって、その後には無惨に破壊された家々が残される、なんてことも少なくない。しかし、幸いにもラドルアスカの屋敷までの道のりに障害物が少なく、人や家などを破壊するようなことはなかったようである。あっという間に屋敷に着き、リューチカを元の場所へと帰喚させた。 コンコンと軽く屋敷のドアを叩いた。直ぐに、玄関へと召使が現れた。 「どちら様でしょうか」 「魔導師長のルーファニーだ。ラドルアスカ殿にお目通り願いたい。緊急の用事だ」 「少々お待ちくださいませ」 ローレ家の召使はルーファニーを即刻家へと迎え入れた。この家にくる度にこの召使たちの対応の早さには感心させられるものだ。良く教育がされているなと思った。まあ、それも当然かとも同時に思った。 ローレ家は名門貴族だ。そこらの召使を雇うはずもない程、タルデシカでも上の上級貴族である。まだ年若いが、ラドルアスカも名門貴族に漏れなく、この家の現頭首であり、軍では最高司令官の役割を果たす切れ者だ。今回もその司令官の小耳に挟みたい情報があったからこそルーファニーはここまで、わざわざ足を運んだのだった。 その重要性を召使はきちんと理解しているのだろう。何を問うでもなく、ラドルアスカに短時間で取り次いでくれたのだ。手際よく、客間へと召使はルーファニーを案内する。 「頭首は直ぐにいらっしゃいます。お待ちの際、何かお飲み物でもいかがでしょうか」 「いや、いい。それよりも人払いを頼む」 「畏まりました」 軽く一礼してから召使は去った。そして、タッチの差でラドルアスカが姿を現した。本当に、この屋敷は客を待たせないなとルーファニーは感心した。一体、何時、ラドルアスカを呼びに行ったのか不思議に思うくらいである。 「何の用だ。何か、カジミに動きでもあったのか、ルーファニー師」 ラドルアスカは実に有能だ。無駄なことは一切聴いてこず、早急に本題へと切り込んできた。ここまでタルデシカが戦えたのも、彼が軍を細かに管理してきたお陰だろう。 「大きな動きではありませんが、一つ気になることがありましてな」 流麗なラドルアスカの眉間に皴が寄る。 「何だ」 「キング級召喚に関してなのですが、これは敵に予め情報が漏れていたと考えられまする。これは実に、妙なことだとは思いませんかな? ラドルアスカ殿」 「――“妙”、とは?」 「このキング級召喚作戦はわしのちょっとした思いつきが実現したものに過ぎないのですよ。つまり、敵に情報が漏れるはずがない作戦なのです。なぜならば、この作戦はイルとわしと王とあなた、そしてリュイ・シンさまにナイジェルしか知らないはずだからであります。ということは、この中か、もしくはその近辺に裏切りものがいると。そういうことになるとは思いませんか?」 気になることとは、カジミの内通者がタルデシカ内部にいるのではないかということだった。有能なラドルアスカのことだ。既にそのことに気づき始めているだろう。ルーファニーは前の戦いの最中にこのこと、――イルのことを、思いついたのだ。カジミからタルデシカまでの道のりを考えると、三日以上は掛かる。 だが、作戦を遂行したのは、一日と数時間の間。どう考えても間に合う距離ではない。 つまり、敵は最初からこのタルデシカにいたということだ。 「タルデシカに裏切り者がいると。ルーファニー師はそう、言いたいのだな」 「身内を疑いたくはないのだが、今一番信用がないのはわしの“孫”だ。ロナがあのようなことになった手前、そう思われても全く仕方がないと、思うておる」 ふむ、とラドルアスカは少し逡巡して、ルーファニーを気遣うように断りを入れた。 「あなたから言ってきたということは、監視はつけてもいいんですね?」 ルーファニーはこの国の英雄だ。その英雄の孫に監視をつけるなど許されることではないのだ。国民も黙ってはいないだろう。それだけのことを、ルーファニーは召還術にて既に国に貢献している。普通ならばルーファニーは激怒する立場だが―――。 「付けてくれ。もう、疑いようがない位に」 ラドルアスカはもう一度だけ確認した。 「本当に宜しいのですね?」 ルーファニーは哀しそうな遠い目をして、寂しそうに言った。 「付けてくれ。もう、身内に裏切りものが出るのはご免なのだ」 ルーファニーは深く重い溜息を吐き出した。
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