そのままシダはイルとルーファニーによって連行された。天才魔導師である、この二人に見張られては、どんな優秀な間諜であろうとも逃げ出すのは困難であろう。シダも観念した様子で大人しくしていた。そんなところへ一人の兵士が慌てた様子で二人の元に走って行った。イルが兵士のほうへと視線を向けると、「大変です!」と兵士が言うので、 「何時も思ってたんだけどさ。そうやって兵士が『大変です!』とか言ってやってくるのはいいんだけど、『大変です!』とか言う前に用件を素早く言ったほうが、時間の節約になると思わない? 私はずっと思っていたんだよ。君もそう思うでしょ? 大体さ、『大変です!』って――、……」 「イル」 ルーファニーが軽く嗜める。イルも別に本気で兵士に忠告したかったわけではなかったらしく、割りと大人しく引き下がった。大分イルのせいで無駄な時間をとったが、ルーファニーが兵士に用件を促した。 「どうした。何があった?」 「はい、以前この国に滞在しておられた異国人ハシバさまが、“竜の谷”のグイシンの小屋に現れたという報告がありました」 それを聞いて、イルとルーファニーは顔を見合わせた。
少々、時刻は遡る。
「ひいぃいぃいぃ!」 こんな悲しそうな、そして泣きそうな声を出しているのは、他でもない羽柴由樹だった。 何だってこんな悲しくも哀れな声を出しているかと言えば、今由樹がいる場所に理由はあった。キング級図式は、ただ場所と場所が繋がっているようなものなので、当然由樹が出てきた場所は“竜の谷”の上空。それもグイシンの小屋の真上であった。 そのまま由樹はグイシンの小屋をぶち破り、落ちてきたのは良かったのだが、落下地点には偶然グイシンもおらず干草があってラッキー、なんて展開には当然ならなかった。 ならば、何故由樹が今無傷でこんな声を上げているかというと。 【相棒よぉ。お前、ラッキーなんだか、アンラッキーなんだか分かんねぇ落ち方したなぁ】 「そんなこといってねぇで、速くこっから助けてくれぇええええっ」 と、言われてもグイシンは実に嫌そうな顔をして容赦なく言った。 【相棒、お前自分の排泄物を自分の手で穿りおこせって言われて、喜んでやるか?】 そうなのだった。 現在、由樹はグイシンの排泄物、つまり肥溜めのような場所に“運よく”落下したため、命ある状況ということなのである。由樹の目の前は全て茶色いもので覆われている。正に地獄だった。 「うわあああ。うわ、うわ。かー、っぺ。っぺ。何か喋ったら、口に入ってきた! かー、っぺ。っぺ。うおえ。かー、っぺ。かー、っぺ!」 よく駅でオッサンが痰を絡まして、唾を吐いているような感じの声を由樹が連発させたので、グイシンはちょっと気の毒になったのか、グイシンは自分のトイレに渋々手を突っ込んでくれた。 実に嫌そうな顔をしてその物体をかき回す。それに由樹が不満を漏らす。 「おい、かき回すなよ! 俺の顔が埋まるだろっ!」 【そんなこと言ってもよ、相棒。俺は手が上手く使えねぇし。だからって口はなぁ。嫌だろ普通。相棒よ、お前はよ、自分の排泄物に口をつけられるか?】 「うあああ。何でもいいから助けてくれえぇぇぇえ」 【まぁ、待ってろって。暫くしたらルーファニーのジジイとかが迎えにくるだろう】 「暫くって何時? 何時間後? 何分後、何秒後? 地球が何回回ったときだよ!」 泣きそうになってそう訊くと、グイシンは冷徹にも、そんなん俺がしるわきゃねぇだろが、と言った。あれだけ行きたかった異世界にいざ着てみれば、ドラゴンの茶色いものの中に突っ込まれるなんて、もう何だか泣きそうだった。いや、泣きたい。 何が悲しくてこんな目に遭わねばならないのか。 このトイレだか肥溜めだか分からない巨大なグイシンの便器は、本当に巨大すぎて由樹一人の力では外に抜け出せそうもなかった。 何度も淵に手を掛けようとしてはいるのだが、ぬるっ、として全然手がかからない。 ――う、やばい。このままじゃ……。 由樹は世界初、ドラゴンの便器で溺死した男になってしまう。嫌な死に方だ。死因も世界初かもしれない……。 そんな最悪な考えが頭を過ぎり、由樹は軽いパニックに襲われた。 「ひぃぃぃっ。グイシン、は、早く。早くこっから出してッ」 そう言って、じたじたと汚水の中で暴れるも、冷徹にグイシンは。 【ちっとはじっとしてろよ。大丈夫だって。召喚主はお前がこっちに召喚されているのに気がついてるはずだから。図式を見れば一目瞭然なんだよ。たく】 「ばっか。俺の召喚主はイルなんだぞっ。アイツなんだって。普通じゃねーんだよ!」 するとグイシンが同情的な視線でこっちを見て、いよいよ相棒が力尽きて沈みそうになったらそん時は助けてやるよ、と譲歩はしてくれた。ちょっと希望が見えてきた気がして、何とか由樹はそのままドラゴンの便器で立ち泳ぎ、という異様な状況の中頑張る決意をした。そうして暫く頑張っていると、やっと誰かが来てくれたらしい。 由樹の耳に、ことりと物音が聞こえた。 「はぁ、何だかついてねー」 そんな声とともに入ってきたのは、一人の兵士。 由樹はすぐさま叫んだ。 「た、助けてぇええ!」 「だ、誰だ!? 怪しい奴!」 怪しい奴、と言われて反論できない状況なのが悲しい。 由樹はそれでも頑張った。幸いにも〈意志の疎通の書〉があるのが唯一の救いで、一応言葉は通じるのだ。何とかこの状況を打開しようと、口を開く。 「お、俺は、は……羽柴由樹。この前までルーファニー……の家にいた、……い、異国人で、す。あ、怪しい……ものじゃないんで……助けて……くださ――かー、っぺ!」 く、口に入った。不覚。 だが、その言葉だけで兵士は意味が通じたようでこちらに駆け寄ってきてくれた。 正直、由樹は助かったと思った。これでこの地獄のような場所から出してもらえると。 「あ、異国人でしたか。分かりました。直ぐにイルさまとルーファニーさまに報告してきますので、暫しお待ちを!」 「―――え、」 今、何て言った? まさか、この状況で暫しお待ちをとか何とか聞こえたような……。 由樹が止める暇もなくそのまま兵士はかなり慌てた様子で、走り去っていってしまった。 「………ウッソ。いっちゃうの、そこで……」 【相棒、ついてんだか、ついてねぇんだか分からねぇタイミングだな】 全くだ、と由樹は思った。 兵士が走り去って、それから由樹は孤独に一人便器の中で只管に泳ぎ何とか沈まずに済んだ。そして、とうとうイルがやってきたときには、由樹はぐったりと疲れ果てていたのだった。何か、もう何もやる気がおきないというか、疲労の境地というか。何というか。 「ハシバ〜? いる?」 「いるぅ! 助けてえええぇ!」 そろそろ体力も限界に達しそうだったので、イルを急いで呼んだのだが、そのイルはゆったりとした足取りで(立ちはだかる便器で姿は見えないので足音で判断)向かってくるのがもどかしい。だからと言って、ここで文句をいってヤツの機嫌を損ねようものなら、由樹はきっと助けてもらえないことも何となく察していたので、ここは慎重にならざるをえない。 それにしても、助けようと思ってきた女に即効で助けられる男ってどうよ、と由樹はちょっとショックを受ける。何だか、俺は一体何の為にこんな汚水に浸かってるんだろうと虚しい気分になってきた。 「ハシバ、そろそろ来る頃だとは思ってたけど、私の予想よりもずっと早いご帰還だね。まだ図式の具合でこっちに引っ張られる時期じゃなかったと思ったんだけどな」 それを聞いて、更に由樹は暗い気分になってきた。 ――あれ、もしかして俺、あんなビルから飛び降りなくても、ここに自然にこれたのか? イルの言いようではそんな話の流れだ。 うわ、何やってんの俺。という気分になってきて凄く虚しい。 「う、いいからはやく助けてください」 本当に何だかもう、泣きたい気分だ。 これでは再開の喜びも何もあったものではない。台無しである。 だが、次の瞬間、やはりというか流石というか、イルはやってくれていた。 「ハシバ、その前に言うことがあるでしょ?」 「―――は?」 何のことだ、と思う。 イルに言うこと。 特に思い当たる節は何もなかったので、首を捻ると、イルが自分で説明し出した。 「だって、ハシバの命が今あるのは私のお蔭なんだし。お礼とかまだ聞いてないよ? 私が“このドラゴンのトイレ”を“この”位置に置いておかなかったら、きっと今頃ハシバはひき肉だよ?」 「………。って、おい。俺が落ちるはずの“この”っ、位置にッ、“こーんなドラゴンの肥溜め”を置いたのはお前なのか? 違うよな。嘘だと言ってくれ。頼むッ」 「そうだよ? そのまま落ちたら、ハシバ死んじゃうでしょ」 いや、そうだけど。そうなんだけど。もっともなんだけどッ。 「もっと、他に色々置くもんならあるだろ! 何で、肥溜めなんだよ! ふざけんなよッ」 「あ、そう。そういうこと言っちゃうんだ。ふぅん。いいよ。じゃ、助けないし」 バイバイ、ハシバと言ってイルは去ろうとするので、それを由樹は慌てて止める。 「ひ、すんません。言い過ぎました。いいから助けて。一刻も早く」 大人しく謝り、やっとイルが召喚術で地獄の肥溜めから救出してくれた。だが救出したらしたでイルは「うわ。ハシバくっさ。臭い。あっちにいってよね」と身体的特徴を論うことを言ってくれて、そして外にいたルーファニーも「ハシバ殿、おかえりな――、うおえ、臭い。臭いですぞ。臭い」と孫祖父揃って同じことを言ってくれた。 ジジイと孫は二人して臭い臭いと連呼し、同じスピードで同じ図式を描き、由樹に大量の水をぶっかけ、押し流すと今度は濡鼠になった由樹に向かって巨大な風を投げかけてきた。その巨大な風に撫でられ由樹の服や髪が乾燥した。 何でわざわざ、飛び降り自殺の真似までしてこんな扱いを受けなきゃならないのだろうと思う。
「いやぁ、またタイミングの悪い時に帰ってきたね。ハシバ。もう皆出陣しちゃったよ?」 「――え、うっそ。じゃぁ、俺、役立たずじゃん」 「そうだね。でも、ハシバは元々役立たずなんだからあまり気にしなくてもいいと思うよ」 「………」 由樹としては司令官になるのを決意してここに来たのだから、戦場に行けなくては話にならない。もう何だか、凄く間が悪い。イルもそう実際に思っているのか、実に莫迦にするような視線を向けてくる。 このままでは本当に役立たずなので、由樹は必死に今までの事情と経緯をイルとルーファニーに説明しだした。 まず、シノと志野幸四郎が同一人物であり、由樹と同じ現代の人間であること。またカジミとは、志野幸四郎が殺した女性の苗字であること。それらを説明しようとして、透から貰った雑誌などを見せ(イルは日本語が読めないのであまり役に立たなかったが)とにかく必死に説明した。 説明が最後のほうになるにつれて、ルーファニーは驚愕の表情に、イルは何処か歪んだ笑みへと変わっていった。 「ふぅん。なるほど、なるほど。ロナは“それ”を隠していた訳だ。“カジミの根源的秘密”ってのは、そのこと。何だ、何のことかと思っていたけど、そんなこと」 既にイルは何かを知っていたようで、そんなことまで言って納得している様子だった。 「どういうこと?」 「フン。五年前にタルデシカの国境沿いに“マルロンの要塞”っていう建物ができたの。ま、当時はその原型で、名前もないぼろっちい建物だったんだけどね。で、そこでロナはキング級の召喚と研究に“本格的”に着手し始めたんだよ。つまり、ロナはそこでキング級図式の召喚を挑み、そして失敗してシノを誤って召喚してしまった。けど、そのシノは意外にも有能で凄い知能を持ち、まだ名前も無かった、“とある国”に繁栄と秩序を齎し、その国はカジミと名前がつけられたってところでしょ。つまり、カジミの“根源的秘密”それはね―――」 イルがけけけと笑って、勿体ぶったように言った。 「“マルロンの要塞”にあるキング級図式だよ」 長い説明にも関わらず、由樹にはイルの言いたいことがよく分からなかった。イルから得られた情報としては、シノが召喚されたのはロナという人によってで、その場所は“マルロンの要塞”だったというだけだ。 「つまり?」 由樹が聞くとイルは、 「つまりね、もし私なりルーファニーなりの召喚術師が勝手にシノを元の世界に帰喚させちゃったらどうなると思う?」 「……あ」 そこで、気がついた。やっと理解できた。 ――いきなり王様がいなくなったら、大変なことになる……。 戦争というのは、否全ての戦いにおいて、王様を取り去ることが勝利条件なのだ。 まぁ、王様を殺しても何処かから王族を引っ張り出してくれば、済むこともあるのだが、それでも王の暗殺など王様は命を狙われる職業でもある。 そして王様を取り去るというのは、王様を殺すというのと同じことであり、それ以外に王様をこの世から取り去ることは不可能に近い。それを暗殺も何もせずに、カジミの王を取り去る方法があったとしたら、それは。 「すんごい問題でしょ。私かルーファニー、ううん、全ての召喚術師がシノにとって敵になるんだから。敵となる人の数は膨大に膨らむよね」 「ああ。でも、そんな方法があるのかよ? シノを勝手に俺の世界に送る方法なんて」 あったりまえでしょ、とイル。 「私を誰だと思っているのかな。天才大召喚術師イル・サレイドさまだよ? 結論から言うと可能だよ。キング級図式の秘密は既に判明しているからね。ちょっと私かルーファニーが図式を一回なぞってやれば、今までつりあっていた力の均衡は崩れ、シノという王はこの世界から跡形もなく消えてなくなるよ。由樹の世界に一直線だね」 「なら、さっさとシノを俺の世界に戻そう。アイツは俺の世界でも殺人犯なんだッ!」 由樹は透と約束した。 必ず志野幸四郎を連れ帰ると。 透のためにも、タルデシカのためにもシノを現代に連れ帰り、警察に突き出すのが由樹の一番の役目である。 しかし、イルが、ただ問題はねと付け加え、少々状況が悪いことを知る。 「その肝心な図式の正確な場所が分からないんだよね。現在“マルロンの要塞”は戦場になってるから、内部に忍び込むなんて芸当はできそうにないし、ゆっくり探している暇もなさそうだからね。きっと、探しているうちに兵士に取り囲まれて殺されるのがオチだよ」 どうやら“マルロンの要塞”に入っていってシノの図式をどうこうする訳にはいかないらしい。確かに戦場になっているなら、警備もそれなりに堅固なのだろう。どうしたものか、と考えていると、ふと由樹の目に異様な光景が飛び込んできて、思考が遮断された。 「おい。何でシダさんが縄でぐるぐる巻きにされてるんだよ。お前、何やってんだよ! 悪戯にしては度が過ぎてるぞ。ジジイも何、平然としてんだよッ」 由樹の目に飛び込んできたのは、縄でぐるぐる巻きにされた黒服のメイド。 シダだった。 どういう状況なのか、シダは縄で縛られて泣き伏しており、何故かその状態に誰も何も突っ込まないという、不気味な光景であった。イルがシダを縄でぐるぐる巻きにし、意地悪や悪戯をしても“何も”不自然ではないが、ルーファニーまで平然とそれを見逃しているのは流石におかしいと思った。 「今更だけどね。シダはロナのスパイだったんだよ。ハシバ」 今度はイルからシダの色々な悪事を聞く。 シダが王に毒を持っていたことや、タルデシカの内部状況をカジミに漏らしていたり、カジミとタルデシカとの言葉の違いを補うべく〈意志の疎通の書〉を指に装備していたり、様々な妨害をしていたのを聞くと同時に、由樹は愕然とした。そして、見に覚えのあるシダの怪しい場面を思い出した。 「だから、あのときアンタ、泣いたのか?」 確か、以前由樹がこのタルデシカに着たとき、シダ紫色の指輪を褒めると『昔の恋人がくれたものなんですー』と突如泣き出された覚えがある。もしかしたらシダは、その指輪の印象を誤魔化すために、人芝居打ったのかもしれないと思ったのだ。 「何、ハシバ。シダと何かあったの? シダ。お前、ハシバにさえ気取られて間抜けを越して、単なる阿呆だよ。自分で自分の正体は言っちゃうし、単なる一般人に正体見破られそうになるし」 うああああ、とシダの鳴き声が一際大きくなった。 流石に可哀想になったのか、ルーファニーが「イル、止めなさい」と嗜める。 何だか色々と新事実が発覚したようだが、一番重要なことも分かった。 イルも由樹と同じことを考えたのか、にやっとした笑いをこちらに向けてきた。 「まぁ、シノをハシバの世界に送るのは割りと簡単にできそうだね」 シダを見下ろして、言う。 「だなッ。――“こいつ”に図式の場所を聞けばいいだからな」 問題は全て解決した。 「ちょうどよく、“拷問器具”もあることだしね」 けけけ、とイルが笑う。 更に、シダの泣き声が大きくなった。
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