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作品名:空を翔る猿 作者:氷室 龍獲

第49回   静かなる出陣のとき


 さわり、と生ぬるい風がラドルアスカの頬を撫で、鳶色の髪を挑発するかのように巻き上げていった。
 不快感に眉を顰める。
 ……もう、全ては終わりだ……。
 そう見えぬ何かに言われたような、嘲笑われたような気がしたのだ。
 事実、似たような境遇にはいる。
 終点を目の前にして、しかしそれでも降りないで無賃乗車を続ける、傲慢なる旅人。
 それが今のタルデシカの状況のように思えてならない。
 既にカジミの勝利は確定し、絶対のものとなっているのに、尚もそれに反抗する姿は無駄であり見苦しいことではないのだろうかと思ってしまうのだ。もし、今ここで無条件に降伏したなら、国民も最初は苦しいだろうが後々は楽なのではないか。
 そんな考えすら浮かぶ。
 ラドルアスカは、そんな危険な考えをしていることに、戦慄し慄いた。
 それほど追い詰められていたらしいと悟る。
 甲冑を正し、剣の柄を握った。手の関節が白くなるまで、強く、激しく、握った。
 心を静める。
 恐怖に負けてはならない。情けない姿を部下に見せてはならない。常に冷静でなくてはならない。勝利をただ、見据えなくてはならない。負けを認めてはならない。
 司令官として、最後までいようと覚悟を固める。
 すらり、と鋭利な剣を抜き、手前に垂れ下がっていた木の枝をぶった切った。
 すると、心は綺麗に収束する。
 ――例え、負け戦でも俺だけは勝利を諦めてはならない。
 静かに思い、そしてラドルアスカは剣を鞘に収めて、振り返った。視界に映るのは、色とりどりのドラゴン。疲弊し戦に怯える兵士達。彼らは皆不安そうな顔で、ラドルアスカの一挙一動を観察していた。その視線が、ラドルアスカには辛い。この絡みつくような視線が有る限り、ラドルアスカは司令官でいなくてはならない。逃れられない視線。
 溜息一つも許されない、絶対の、孤高の存在でなくてはならないから。
「……ん……ッ!」
 一つ、咳払い。
 そして、ラドルアスカは大音声を上げた。朗々とした声が“竜の谷”に響き渡る。
「諸君! 最終決戦のときである。これで本当の意味で後がなくなった。後は滅びのみ!」
 告げると、動揺する兵士たちのざわめきが沸き起こる。
「落ち着け、勇敢なる兵士たちよ。我らの姫君が言った言葉を忘れたか! 殿下が何を告げたかよく思い出してみるがいい。悪がカジミだ、正義は我らタルデシカにあると、聡明なる殿下は名言された。ならば、滅びるのはどちらか明白であるッ」
 ピタリ、と兵士たちが押し黙る。
 その隙を突いて、ラドルアスカが更に声を張った。
「誰が、我がタルデシカが滅ぶと言った! 私はそのようなこと一言も言っていないッ。勝手に解釈をするか、愚か者どもがッ。神は最後まで必ずや、見ていてくださる! 悪魔たちを滅ぼしてくださる。我らは、ただ戦えばいいのだ。何を迷う必要がある!」
 ラドルアスカは続ける。
「どうせ、タルデシカが滅びれば、皆カジミによって悪の限りを尽くされるのだ。侵略者とは昔からそういうものだ。戦争など勝った国、勝った者が正義にされる。勝てば全て良し、負ければ悪と、そう歴史に記される。ならば、勝たなくてどうするッ!」
 更に、ラドルアスカは続ける。
 同時にジワリ、と恐怖という感情が競りあがってきて言葉が上手く出てこなくなる。
「………。――確かに神は見ていてくださるだろう。しかし、負ければ我らが悪になる。現実とはそういうものだ。死に物狂いで戦え。お前ら自身が悪に成り下がりたくなくば、死ぬまで戦え。死んでも戦え。我らに、もう、…………後はないのだ」
 率直な気持ちを、ラドルアスカは告げてしまった。
 もう言ってしまってから、しまったと思った。
 最初は前回のリュイ・シンの演説と同様に、カジミを悪にタルデシカを正義に、そういう内容で兵士達の士気を高めようと思っていた。だが、そんなものは単なる方便だ。幾らでも嘘は吐けることだ。
 今、ラドルアスカの眼下にいる兵士やドラゴンたちは、この国のために死ぬまで戦う覚悟をして、タルデシカが恐らく負けるであろうことも分かっていて、それでも尚集ってくれた勇者達だ。逃げずに、家族と故郷を守ろうと戦いを挑みにきた誠実な人達だ。
 その人達に、どうしても嘘を吐く気にはなれなかった。いや、吐けなかった。
 だから、途中で内容を変えた。
 だから、最初と言っている内容が矛盾してしまったが、それでいいと思ってしまった。
 最後なのだ。これで、本当に最後だから、本当のことを言いたかったのだ。
「――我らは追い詰められている。負けるかもしれない。いや、負けるだろう。でも、俺は最後まで戦おうと思う。たった一人になったとしても、戦う。それが最高司令官という役目を与えられた者の、俺の責任だと思う。ここまで追い詰められてしまったのは俺の責任でもある。だから、お前等にそんな責任はないから。どうせ、負けるのなら無駄に死ぬことは……」
 ――どうせ、負ける? 
 ゾクリと悪寒が走った。
 恐怖に、抑えきれなくなってきた。
 ドクン、と心臓が跳ねる。
 鼓動が雷鳴のように激しく波打って、目の前が真っ暗になった。
 ――まずいッ……、“あがった”……ッ!
 動揺が全ての感情を黒く押しつぶしていく。
 波紋のように、動揺が広がり、脳が混乱していく。
「――だから……、」
 完全に感情も理性も何もかもが恐怖に呑み込まれ、次の言葉が出てこない。
 国を失うことが、それも自分のせいでそうなってしまうことが、こんなにも恐いとは。
「――――ッだから……」
 声が振るえる。声が掠れる。
 完全に司令官としての仮面が剥がれてしまった。
 ただの十八歳の少年に戻ってしまった。
「―――ぅ………」
 言葉は続かない。
 悔しい。ここまできて、最後の最後で、こんなにも無力であることが、無性に悔しい。
 頬を熱い液体が流れていく。情けないなんてものじゃない。
 最終決戦の前に、恐怖で臆して泣きだす司令官が何処の世界に存在するのか。
 それでも、一度溢れてきたものは止まらなかった。
 ――誰でもいい! 誰か、代わってくれ――!
 そう思った。

「ローレ卿……、何を情けないことを言っているのです」

 そのとき、鈴の音のような声がラドルアスカの耳に届いた。
 その声に驚いて、ラドルアスカは振り返る。今、この場にいるべきではない人の声が聞こえる。この場にはけしていてはならない人だ。……リュイ・シン。
「殿下っ、こんな所で何をしているのです。絶対安静のはすじゃ――、」
「黙りなさい!」
 ぴしゃりと一蹴された。ビクリとラドルアスカの体が跳ねる。
 リュイ・シンが大きな声を出すこと自体珍しいというのに、それも怒気を含んだ声に驚愕した。リュイ・シンは痛々しい体を引き摺って、こちらのほうへと歩み寄ってくる。
 明らかにリュイは怒っていた。
「ローレ卿」
「は、はい」
 思わず、ラドルアスカは狼狽した。
 いつになくリュイ・シンの顔は険しかったからだ。そして、その唇がきゅ、と結ばれたかと思うと、容赦なくリュイ・シンは拳でラドルアスカの頬を殴った。平手ではないから、ボクッ、という鈍い音がした。かなり本気だった。凄く痛かったから、多分リュイ・シンの手も無事では済まされない。
 だが、今のラドルアスカにそんなことを気にする余裕すらなかった。ただ放心した。
 ――今、なにが、おこった?
「ローレ卿、何を情けないことを言っているのですか。もう、あなたには任せておけません! 今日限りであなたの地位を解雇いたします。そんなに負ける負けると情けないことをいうのならば、何処へなりとお逃げなさい!」
 冷水を浴びせられたようなショックがラドルアスカを襲う。
「そんな、嫌です。……いえ、事実誰が指揮を執るというのですか? もちろん、私よりも優秀なものがいるのならば、全然構わないのですが……」
 突如、リュイ・シンの顔が悪鬼の如き形相へと変わった。
「まだ、そんなことを言っているのですかぁ! 莫迦も休み休み言いなさい。代わりのものなどいません。そんなこと、あなただってよく分かっているでしょう!」
「じゃぁ、誰が――」
 行くのですか? とラドルアスカが言う前に、リュイ・シンはキッパリと明言した。
「私がやります」と。
 鋭い視線でラドルアスカを睨みつけてくる。
「私以外、もう誰もいませんので。私がやります。どうせ負ける戦とあなたがいうのなら、私のような者がやっても一緒でしょう」
「何を。殿下こそ、莫迦も休み休み言ってください! あなたはまだ、絶対安静が必要な体なのです。今、戦場などに行くのなど自殺行為。おやめくださいッ」
 リュイ・シンは憎悪の篭った瞳で、ラドルアスカを睨みつけた。
「ならば、私にどうしろと言うのです。あなたは最初から負ける気は満々だし、誰も指揮する人はいないし、一体どうしろと言うのですか。どうせ負ければ、私は殺されるでしょう。ならば、こんな所で絶対安静にしていてもそれに意味はありません、どうせ死ぬのです。もう、たくさんだわ。――私が何をしたというのです!」
「………」
「私だってもう嫌なのです。死にたい。いっそ死んだほうがマシ。でも、そんなの許されないのよ。だって、私は王族です!」
 息を荒くして、リュイ・シンは激昂した。
 まだ、体が回復しきってないのもあるのだろう。胸を押さえて、苦しそうに肩で息をしている。だが、リュイ・シンの瞳は濡れてはいなかった。一筋の涙もなく、そこにある感情は憤り、憎しみといったものだけ。
 こんなにも彼女に負担をかけていたのだと、実感した。
 華奢なこの肩に、こんなにも重いものを背負わせてしまっていたのだと思う。
 結局、ラドルアスカは、逃げていたのだ。
 無力という言い訳をして、司令官の重圧から逃れようとしていた。ラドルアスカは逃げようと思えば幾らでも逃げられるし、代えもきく。このままドラゴンの背に乗って単身何もかも捨てて逃げてしまえばいい。だが、リュイ・シンの場合はその血筋からは代えもきかないし、どうやっても逃げることはできない。
 王族の名と血筋は何処までもリュイ・シンを追ってくる。リュイ・シン自身は代えがきくとは思っているのだろう。だが、その代わりがくるのは、リュイ・シンが死んだときだけだ。
 唯一、逃げられるとき。それはリュイ・シンが死んだときだけなのだ。
 リュイには死か、勝利でしか解放される術はないというのに。
「……申し訳、ありませんでした」
「………」
 シン、と場が静まり返る。ちらり、と視線を下に向ければ、谷の下の兵士たちが一様に司令官と王女の喧嘩の行く末を、固唾を呑んで見守っていた。戦直前の言い争いだ。 兵士たちが心配になるのも無理はない。士気も下がる。まずいな、と思うと同時にやっと冷静な思考を取り戻しているのに気がつく。
 すると、リュイ・シンが口を開いた。
「別にいいです。それより、指揮はやってくれるのでしょうね」
「はい、全力で、勝つよう努力します」
「何だか、それでは不安です」
 プイ、と拗ねたようにリュイ・シンがそっぽを向いた。人前で弱音を吐いたことで、バツが悪いのか、何だか子供みたいだと思う。
「勝ちますッ。これでいいでしょうか?」
「よろしい。それと私をローレ卿のドラゴンに一緒に乗せてください。流石に、一人でドラゴンに騎乗するのは少々不安です」
「はい、どうぞ」
 ラドルアスカは、リュイ・シンの手を取ってレッドドラゴンの背に誘った。
 それを見て、谷の下の兵士たちは静かに騎乗し、空へと羽ばたいていく。
 最後の出陣は、静かに、何の合図もなく行なわれたのだった。



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