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作品名:空を翔る猿 作者:氷室 龍獲

第47回   勇猛なる飛翔!


 その日、由樹は学校には向かわなかった。
 ちゃんと、ショボイ制服も着たし、鞄に教科書も詰め、朝ごはんも食べて、母親の見送りにもいつも通り対応した。柔和だが派手な印象を与える由樹の母親は、その外見とは逆に意外にも毎朝由樹と幸三を見送り、家事も見事にこなす。「いってらっしゃい」と母親が言うと、由樹は適当に「……おう」とか何とか言っておく。今日も、多分いつも通りに言えたはずだ。
 だが、動揺と恐怖が滲み出てしまっていたかもしれなかった。
 それほどに、今から由樹が行なおうとしているのは、とんでもなく愚かで、親不孝なる行為だったから。

  * * *

 その日、由樹は学校には足を向けなかった。
 その足でそのまま、あの高層ビルの屋上へと登った。高層ビルとはいえ、別にビジネスビルではないので、朝の9時という時間帯に高校生がエレベーターに乗って入っていっても、誰にも咎められなかったのには幸いというものだった。迷わず、由樹はエレベーターのボタン、『屋上R』を押した。
 ぐん、と引っ張られるような感覚がして、エレベーターが確実に上昇しているのが分かった。上のエレベーターのパネルを見やれば、1から2へ、2から3階へ、4階から5階へと箱は確実に上がっていく。そしてそれを繰り返して、とうとう異世界への扉は開いた。
 ポン、という小気味いい音がしてエレベーターの扉が開き、異世界への窓口も開く。
 由樹は力強く、足を踏み出した。
 この間は自殺者のおばさんが立っていた場所へ、フェンスを乗り越え降り立った。下を見てはいけない。もし、見ればきっと、由樹はここから飛べなくなるだろう。
 そう、由樹はこのビルから飛び降りて、異世界へと行くつもりであった。
 イルの話によると、由樹の出てきたキング級図式は、常に座標が固定されており、行き来は自由に行なえるはずだった。ということは、由樹が異世界への移動をするには、恐らく固定された座標に由樹の体を重ねれば、移動ができるのではないか、という仮説が生じる。
 恐らく、本当に多分の予想だけど、由樹がリアルに戻ってこられたのは、グイシンから落ちたその場所が偶然にも、由樹が出てきた場所だったからだと考えたわけだ。そして、今回も異世界に行くには、この異世界に行った場所と同じ所に体を持っていけば、図式が勝手に移動させてくれるはず……。
 異世界;カジミの騎士に叩き落された場所=グイシンと初めて出会った場所
 リアル;異世界へと通じている高層ビル=多分、今由樹が飛び降りようとしている場所
 こういう簡単な方程式になっているはず……。
 だって、図式は均衡状態で、等しいのだから。そのはず。
 ――その、はず……。
 そのはずなのだが、この屋上から飛び降りるには少し勇気がいりそうだった。
 ――もし、間違っていたら、どうしよう……。俺、間違いなく死ぬんじゃね?
 由樹はゆっくりと、少しだけ身を乗り出して、階下を見やると、あまりの高さに慌てて身を引いた。風がひゅぅひゅぅとうねりを上げて、由樹に迫る。
 ――怖えええっ!
 飛び降りるのには、凄く時間が掛かりそうだった。
 
 *
 時が経つこと一時間。
 時刻は午前10時を回っていたが、それでも由樹はいまだビルの屋上にいた。頭ではちゃんと分かっていた。ここから飛び降りても死なないってのは、理解していた。そうして理屈をしっかり固定するために、昨日必死こいて〈意志の疎通の書〉を探したのだから。
 ここから一歩、踏み出せば金色の光が身を覆い、金属音が鳴り出して異世界へと旅立てるのは、理論上では可能なはずだ。キング級図式は常にこちらの世界と異世界で繋がれたトンネルのような状態になっている訳なのだから(イル曰く)、トンネルの入り口(高層ビルの屋上)に入れば自ずと出口(異世界)に出られるはずなのだ。
だが、理論はあくまで予想と仮定に過ぎず、絶対という確証はない。また、あのイルの言っていることというのも、むしろ逆にいろんな意味で恐怖を誘う。
 もし、イルの言っていることが違ってたら、と少しでも考えたらもう駄目だった。
 ここから一歩も進めない。
 何度も勇気を振り絞っては、足を出してはいるのだが、後もう一歩踏み出す勇気がない。
 嫌だ!
 恐ろしい!
 死にたくない!

 これだけだった。
 この三つしか、他に考えられない。
 理屈じゃないのだ。恐怖が襲ってくるのだ。誰だって、バンジージャンプをいきなり何の覚悟もなく、できる人はいないと思う。いや、そりゃ百人中一人くらいはいるかもしれないが、そんな奴は変人か莫迦か天才かのどれかと思う。
 そうしてオロオロと戸惑うこと更に五分後。
 バァン!、という音がしてビルの鉄製の扉が開け放たれた。
「羽柴ぁ! てめ、何やってやがるんだっ!」
 振り返ると、そこには顔を真っ赤にして激怒する、“カジミ” 透の姿があった。
「透? な、何でここに……」

  * * *

 時間は少々巻き戻る。
 今日、“カジミ”透は普段ならば絶対にしないような過ちを犯してしまった。
 一言で言うと、寝坊だ。
 ねぼう。
 何故、この日に限って目覚まし時計の電池が無くなり鳴らなかったのか、母親も起こしにきてくれなかったのか、いつも煩いくらいに騒がしい隣の女の子が静かにしていたのか、透には全然予測不可能だったが、とにかくこの日に限って通るが目を覚ますチャンスは午前9時までなかった。
 目が覚めて、止まっていない時計の針を見た瞬間、凍った。
「ひぃぃッ」という、らしくない悲鳴を上げた。
 思わず目を擦り、何度も確認したが午前9時だった。
 優等生で通っている透は、遅刻など滅多にしない。むしろ入学して初めてであった。だから、余計に焦ってしまったのだ。もし、ここでサボりなれている奴ならば、今日はもういいか、遅刻と欠席では欠席のほうが教師の印象に残らずに済むしな、と結構打算を利かせることができる。
 だが遅刻など滅多にしない透は、今から全力で仕度をして、全力で学校に向かうことしか頭になかった。猛然と歯を磨き、猛然と制服に着替え、猛然と飯を食い、即効で教科書を詰め込んだ。ここでサボりなれている奴ならば、顔も歯も多分学校で磨き洗い、飯など食わない。透にはそんなことは思いつかず、いつもの仕度を省略せずにただ高速で行い、家を飛び出した。
 そんなことで家を出る頃には、午前9時25分を回っていた。
 必死になって、透は走った。走って走って、ぜーぜーと息を切らせた時、とある知り合いの人影を目撃することになる。その人影は、黒髪で背丈は平均。だが、雰囲気だけは何処か洗練された鋭利なものを感じさせ、見るからに自分のこと以外は眼中になし、といった感じの、ここ最近透が話しかけていた“人物”の影であった。
 ――羽柴?
 由樹も透同様に、遅刻だろうかと思い、声をかけようと思ったのだが、由樹が学校とは反対の方向に向かい始めたのでそれは止めた。
 ――何処、行く気だ?
 どうやら、由樹は遅刻という訳ではなさそうだった。
 怪訝に思いつつも、透は由樹にただならぬものを感じ、後をつけることにした。
 羽柴由樹の様子は挙動不審で、何処か落ち着きがない。キョロキョロと周りを気にしながら、歩道を進んでいく。その後を透はつかず離れず、由樹に気づかれないよう上手く尾行していた。
 透は空手部主将だ。
 対する由樹は帰宅部。
 体力では遥かに透が勝り、離されるような場面はなかった。
 そうして後を付けていくうちに、由樹の行く先が何処か徹にもだいたい読めてきた。
 ――この方角は、“あの場所”……。あの、高層ビルの方角。

 志野幸四郎が消えた場所であり、羽柴由樹が3日間姿を消した場所であり、それと忘れてならないのが、自殺者が死のうとした場所なのだ。透は何故由樹がこの場所に着たのかを考えた。
 ふと由樹の顔色を窺うと、挙動不審で何やら心なしかいつもうより暗い気がした。
 ――だいたい、アイツ。何で自殺者の自殺現場なんかに居合わせたんだ。もしかして、羽柴も自殺する為に屋上に登ったんじゃないのか?
 サァーと透は青ざめる。
 そうに違いないと思った。
 絶対、そうだと思った。
 だから、由樹は透が自殺者を助けるのを褒めたとき、『そんな凄いことしたつもりなんかない』と由樹は否定したのではないのか。いや、でもそれなら昨日、何故姉の殺害記事を引っつかんで走り出す必要があったのか。
 透は暫し、由樹の様子を見ることにした。
 ――飛び降りそうになったら、止めればいいんだ。
 うん、そうしよう。
 とりあいず、そうなったときのことを考えて、脳内でシミュレートしておく。
 透は由樹の次に、エレベーターに乗って屋上に向かった。ポン、という音がして屋上へと着いた。急いで、屋上のドアを開け放ち、由樹の姿を探す。
「――ッ!」
 すると目に飛び込んできたのは、由樹が屋上のフェンスを乗り越えている場面だった。
 やっぱり羽柴は、自殺する気なのか……?
 止めに行こうか。透が走り出そうとしたとき、由樹がビクリと震えて崖ッぷちから後ずさるのを目撃する。どうやら由樹は飛び降りることに恐怖を感じて、後ずさったらしい。
 しかし、再び由樹は恐る恐るといった様子で、崖っぷちまで歩き、階下を覗きこむ。
「――ッ!」
 飛び降りるのかッ?
 透が再び、走り出そうとすると、由樹がクルリと反転してフェンスをよじ登る。
 どうやら飛び降りるのにそうとう躊躇しているらしい。
 でも、由樹はもう一度といった様子で、また恐々と崖っぷちまで歩いていく。
「…………」
 一歩、踏み出して、また戻って。
 戻っては、一歩踏み出して。
 そんな状態が一時間以上続いた。
 すると、だんだん、透も飽きてきた。というより待ちつかれて、「飛び降りるなら、さっさとしろよ……」と思い始めてきたのである。
 由樹を見やれば、まだ何か飛び降りるんだか降りないんだか、どっち着かずの行動を繰り返している。しかし、何とかして飛び降りようとはしているらしい。
 とはいえ、透は今日学校に遅刻していたので、これ以上無駄な時間を割くのも無駄だ。
 だんだん、面倒臭くなってきた所もある。
 そろそろ止めにはいるのもいいかもしれない。
 すぅ、と大きく息を吸って、扉をバァン!、と開け放った。
「羽柴ぁ! てめ、何やってやがるんだっ!」
 驚いた顔をして由樹が振り向いた。
「透? な、何でここに……」
 当惑した様子で、由樹は透のことを見詰めた。だが、今そんな事はどうだっていい。
「そんなのは、どうでもいい。それより、お前、やっぱ自殺しようとしてたんじゃないか!」
 透はダァっと突っ走って、フェンスをよじ登って由樹の隣に降り立った。元々運動神経はいいほうだったし、こっちは空手部主将なのだ。帰宅部で細っこい由樹を捕獲するなど透にとっては簡単なことだった。まず、拳で由樹を黙らせ、次に肘鉄で意識を奪い、由樹が気を失っている間にフェンスを越えるか、携帯で警察を呼べばいいのだ。
 まず、拳で黙らせようと透が振りかぶった瞬間、
「待て! 俺は自殺しようと思って飛び降りる訳じゃねぇんだよッ」
 透はピタリと拳を止めて、由樹の言葉の意味を考えた。
 この高層ビルの屋上から飛び降りるということはそのまま下に落ちたら、間違いなく死んでしまうことを意味する。
 自殺の何者でもない……。
 そう判断して再び拳を振りかざし、由樹が次にくるであろう衝撃に目を瞑った、その時。
「止めてよッ! 透くんっ。由樹くんは自殺をしようとしてるんじゃないんだ!」
 という声が乱入し、バァン!、と扉が開け放たれた。
 声の主は、由樹や透と同じ高校の冴えない制服を身に纏う、小柄な少年。
 虐められっ子の、寺田 隆二だった。
「――隆? どうして、ここに」
 由樹が呟いた。
 寺田隆二は今、学校にいるはずの人間である。隆二は生真面目な性格で、サボり癖もない。当然の、由樹の質問に隆二は胸を張って、こう答えた。
「約一時間と少し前、僕は由樹くんと透くんが学校に来ないことに気がつき、いても経ってもいられずに通学路を逆流しはじめたんだ。簡単にいうと、由樹くんの家まで由樹くんを迎えにいこうとしたんだけど、その途中になんと暗い顔をした透くんを見つけた。そして、よく見ると透くんの前には由樹くんが同じく暗い顔をして学校ではない方角へと歩き出した。僕は心配になって、透くんの後を尾行してここまできたんだよ!」
 何となく、透は由樹と顔を見合わせた。
「じゃ、何か? 隆はずっと俺を尾行していた透の後を、更にまたお前がその後ろから尾行していたのか?」
「そうだよ?」
 一人の男(由樹)を後ろから二人の男(透と隆二)が尾行する……、そんな図を想像してしまったのだろう。
 由樹は何とも言えない、顔をして隆二から目を逸らした。
 だが、少しばかりの葛藤の後、由樹が隆二に問いをぶつけ始める。
「……まぁ、いい。隆は俺のこと好きだよな?」
 隆二が目を輝かせて、頷いた。
「もちろんだよ!」
「俺のこと信じてるよな?」
「信じてる!」
「俺の言うことなら、何でも聞くよな?」
「聞く、聞く!」
「……なら、フェンスのこっち側にこれるよな?」
「これる、これる!」
 子供のように目を輝かせて、寺田隆二は小柄な体を活かして、ひょいひょいとフェンスの外側へとやってきた。そして、更に由樹の質問は続く。
「俺の為なら、“何でも”するよな?」
「する、する!」

「なら、コイツを俺から遠ざけてくれ」
 
「――!」
 透はその質問に目を見開いた。しまった、と思った。
 由樹の無慈悲とも言える命令に、寺田隆二は何故か忠実に従った。キラリと相貌に光を宿し、透に向かって走り出す。対する透は割りと冷静に迎え撃った。透は空手部主将だ。
 こんな小柄な少年を一人いなすなどわけない。
 向かってきた隆二を軽く地へと叩きつける。
「ぅぎゃっ」
 悲鳴を上げて、隆二が狭い足場を転がり、そこではっと透は気がついた。
 もし、隆二がここから落ちたら、死ぬ。
 こんな狭いフェンスの外側という、危ない足場で戦うのは命の危険がありすぎる。
 そんな透の危惧を余所に、隆二は非常な由樹の命令を遂行すべく、立ち上がった。
 普段、暴力に慣れ親しんでいるのか、隆二の回復は意外にも早い。隆二が再び、透に向かっていく。そして、不安定な足場に躊躇した透は隆二に背後を取られる。隆二は透を羽交い絞めにした。由樹のほうを見て、隆二は歓喜の報告をした。
「やったよ、由樹くん!」
 それに、由樹はにっこり、と笑って答える。
「おう! よくやった。隆」
 だが、思いがけないその言葉と笑みに、隆二は凍りついた。
「どうしちゃったの、由樹くん……。普段、僕を褒めるようなコト死んでも言わないのに」
 凄く気味が悪いよ、と隆二は言った。
 同時に透は嫌な予感がして、「羽柴?」と呟いた。すると、由樹は何処か覚悟を決めたように険しい瞳を称えて、口を開いた。
「透、俺は自殺するためにこの場所に来たんじゃない。俺は、志野 幸四郎を捕まえるためにこっから、志野幸四郎のところに行ってくる。だから、警察を呼んでおいてくれ!」
 その瞬間―――、
 
 大空に向かって由樹は身を躍らせた。

 ひゅん……、と風を切る音がして由樹の体は宙をただ落ちていった。その速度は凄まじいものだった。あっという間に、透の視界から由樹の姿は消えうせた。それこそあっという間の出来事で、ほんの数秒の事件だった。
 暫く、呆然とその光景の余韻を透は見詰め、ポツリと呟いた。
「……警察、呼ばなきゃ」
 
 何かもう、絶対、死んだと思った。
 



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