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作品名:空を翔る猿 作者:氷室 龍獲

第46回   〈意志の疎通の書〉は健在ナリ

 羽柴由樹は今、全力で、あの高層ビルに向かっていた。
 そのあまりの必死さとスピードに、渡り歩く通行人たちが振り返る。学生だろうか。ちょっと頭の弱そうな男子が由樹のことを指差して、何やら『ダセー』とか叫んでいた。
 幼稚園児であろう小さな女の子が由樹に頑張れぇ、と可愛い声で応援してくれる。
 それらを横目に、由樹はただ前だけを見てビルを目指した。
 そして、それどころではなかった。

  * * *

 ――くっそ――ッ!
 どうした、羽柴由樹。
 金髪金眼の誰かさんと一緒にいて、どうにもならなかったから美人に免疫がついた?
 莫迦言ってんじゃねぇこのャロー。

 もうけして、イルにラドルアスカを好きになったことを責められない。由樹自身もまた見た目で選んでしまったようだし、何よりこうなってしまってはラドルアスカをイルが好きなことを責めているようで、嫉妬となってしまう。
 そんなの、絶対に耐えられない。
 それにしても、あろうことか奴を好ましいと思える感情が、自分の中にあるとは信じられなかった。自分で自分の心が疑わしい。むしろ、イルなど嫌いな部類とさえ思っていたのに。
 しかし、鼻血を出しつつも懸命に『天史教本』を召喚する様子を見てからは、イルに尊敬に似た感情を抱いてしまった。
 あんなにも小さな女の子が、何故死ぬ危険を冒してまで他人を救おうと奔走するのか。
 何故、一人で孤独に耐え、一人で何もかもを処理し、誰にも悩みを打ち明けないのか。
 それだけで、もう由樹はイルにある種の保護欲を掻き立てられたのは事実だった。
 それだけならば、近所のお譲ちゃんの可哀想な家庭環境に同情する、普通のお兄さんでいられたはずだ。一体、何処で道を踏み外してしまったのか分からない。自分でもよく分からないのだ。何なんだ一体ッ!
 一通り、イルとの出会いから別れまで思い出してみたのだが、それでも良く分からない。
 もやっとした霧が心を全面的に支配されているようで、気分は晴れない。
 むしろ、別れてからではなのか、と思う。
 異世界に対して焦がれるようになったのは、多分異世界を去って現代へと戻ってからだろう。それから徐々に、イルの顔、ラドルアスカの顔がチラチラと脳裏を過ぎり、考えないよう抑制してもまだ奴らが脳裏に無断で現れてくる。その波が最高潮に達したのは皮肉にも茜ちゃんの顔を見たときだった。
 茜ちゃんの金髪を見た瞬間、押さえが効かなくなった。
 そわそわ、した。
 もう、思い出したらいてもたってもいられなくなって、茜ちゃんとイルを比べた。
 何で、目の前にいる女は何もしないで、こんな風に幸せに笑っているのだろうか。
 何故、目の前にいる女はこんなにも楽そうで、ただ美人というだけで優遇されているのに、アイツは苦労しているのだろうか。
 どうして、アイツは頑張っているのに、この女は楽してアイツよりも得をしているのだろうか。この女はこんなにも浅はかなのに、アイツは俺よりも大人なんだろうか……?
 比べられることは一通り比べて、茜ちゃんが全く、美人には見えなくなってしまった。
 やはり訂正すべきかと思う。
 別に由樹は見た目で選んではいないのだから、ちゃんと中身を見てどうしようもなく奴のことが心配になって、何だか嫌な認めたくない感情が芽生えてしまったのだ。むかつくことに。ああ、本当にむかつく。恋って素晴しいなんて言ったのは何処のどいつだ。
 俺が縄で縛って絞め殺してやる。
 全然、素晴しく感じないのは、由樹のせいか。イルのせいなのか。これが普通なのか。
 どうせ、世界を一つばかり救うのなら、見知らぬ他人の為とか偽善のような理由よりも、ただ一人を救う為とかいうほうが、由樹としてはずっとやりがいがあるとは思った。
 そんな地に這う虫なみに由樹と関係ない人間なぞどうでもいいが、“奴”は違うのだ。
 イルは、由樹が異世界で不安であったとき、少なくとも面倒をみてくれた恩がある。
 また、自分が好きになった女が誰かに虐められるなど、由樹のプライドが許さない。
 だから、ちょっと行って助けてみようと思う。
 ちょっと好きな人に会うがてら、世界の危機を救ってやろうと思う。
 自分のプライドにかけて、好きと思える人々のために自分の力を貸してやろうと思う。
 プライドを語るなら、少なくとも誇れることをしようと思う。

「―――ッ、」
 由樹は、あの高層ビルの真下まで走りきり、そのまま勢いよく地に這いつくばった。
 歩道を歩く通行人たちが、奇怪な由樹の行動に目を丸くする。しかし、先を急ぐ人々は立ち止まったりはせずに、せかせかと歩き去っていった。アスファルトを丹念に這いつくばって、由樹は紫色のコインを探した。
 〈意志の疎通の書〉がないと向こうでは会話ができないし、またもう一度確認したかったのもある。ちゃんと異世界が存在しているのかを、しっかりと再確認しなければいけないのだ。それほどに、確認するのは“これからの行動”に影響を来たすのだから。
 だから、必死になって、由樹は紫色のコインを探した。
 ――あるはずなんだ……ここに……。
 由樹は高層ビルから堕ちてきたのだから、その途中に引っかかっているはずなのだ。
 アスファルトだけでなく、歩道脇の花壇の中まで分け入って、虫が飛び交うのも気にせずに探した。手や制服が泥に塗れて、汚れていく。花壇の隅に犬の糞があって、顔を顰める。木の棒を使って、ちゃんと糞の下まで覗いた。
 ――ない。クソ、何処にいったんだよ……!
 しだいに焦りが生じてきて、自らに落ち着くよう呼吸を繰り返した。
 高層ビルの4階とかに引っかかっていたら、由樹にはもう手の出しようがない。
 そうでないことを祈って、捜索を再開した。異世界では〈意志の疎通の書〉を現代に帰る直前まで持っていたのだ。
 ならば、それは必ず何処かにあるはずなのだ。ビルの5階だろうが屋上だろうが、もう姿さえ確認できればそれでいい。だから、頼むからあってくれ。存在してくれ。
 そうすれば、行動できる。
 確かな自信を持って行動できるから。
 由樹は、ゴミとして捨てられてしまったのではないかと思い、ビル周辺のゴミ箱を手当たりしだいに探すことにした。青いポリバケツを開けて異臭を堪え、目を凝らす。中のほうにあるかもと考えて、ブレザーを脱いだ。ワイシャツだけになって、袖を捲くる。ブレザーは歩道に放って、鞄もそのまま放置してやる。右腕をポリバケツに突っ込んでやった。
 ぬちゃり、という汁気が腕に伝わってきて最悪だったが、一通りポリバケツを制覇してやった。それから、ビル周辺のポリバケツは全て同じ方法で探したがそれらしきものは見つからなかった。
 ――くそ。
 無駄に汚れただけで終わってしまったらしい。
 仕方なく、恥ずかしいが歩行者に聞き込みをすることにした。
「ここに紫色のコイン、ありませんでしたか?」
 と、女の人にも男の人にも何度も訊いた。だが答えは決まっていた。
「さぁ? ちょっと分からないね」
「急いでいるので」
「ああ? うるせえな!」
 そんな返事ばかりが返ってくる。
 何処にもコインはない。コインは見つからない。
 やがて、ゆるい太陽の光が由樹の頬を照らし出す。
 夕日がそろそろ、沈む時間になってしまっていた。
 暗くなると、捜索は困難になるだろう。街灯があるとはいえ、見えづらくなって、きっと探せない。焦りだけが心の中を埋め尽くす。
ふと、由樹はアスファルトに塗り固められた、灰色の汚れた空を仰ぎ見た。
 そこにはやはり、一つだけぼんやりとした太陽が沈もうとしていた。
「太陽が、一つ……」
 それだけが、ここが異世界ではないことを確実に教えてくれる道しるべだ。
 その道しるべをずっと眺めていると、由樹は目を大きく見開き、息を呑んだ。
「…………あ、」
 由樹の視界には、ぼんやりと輝く太陽一つと、その太陽の光を遮る一本の木。
 木は何年もそこを動かずに、ただ酸素と二酸化炭素の還元だけに精を出してきた。
 しかし、ここ何日かでその木は一人の人間を救うことになった。
 木は動かずに人は空から振ってきただけだが、それでも木は一人の人間を葉というクッションで覆い、衝撃を和らげた。高層ビルから落ちてくる由樹の体重を支えるのはさぞ、大変であっただろう。しかし、木はもう一つ、役割を果たしてくれたらしい。
「…………あった」
 木の葉先に引っかかる、コインは太陽の光に照らされて、キラリと光っていた。
「そうか、お前が守ってくれていたんだな…」
 あった。〈意志の疎通の書〉は木に守られ、そこをひと時も動かなかったのだ。
 異世界はあるんだ。
 そう、確信した。

「これで俺は何の迷いもなく、動ける」



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