次の日も結局、由樹の疑念は晴れることはなく、学校に登校した。 寝ても覚めても、いつもあの“夢”のことを考えている。 その妄想は留まることを知らず、嫌がらせのようにちくちくと由樹の心を蝕んでいった。
【――空中戦について――】 一旦、攻撃態勢に入ったら、全力で飛べ。 敵が戦闘不能か飛行不能になるまで攻撃したら、後は頭を空っぽにして、最初からもう一度同じことを繰り返せ。一度、避けられたらけして深追いはするな。きっぱり、諦めて別の標的に備えたほうがいい。 常に高い位置から攻撃を仕掛けろ。 理想の飛行高度は660メートル。 そこまで上昇すれば、飛行機の性能を最大限生かすことができる。 空中戦で大切なのは、激しい攻撃と意表をつく作戦だ。 性格でアクロバティックな技巧など実践では役に立たない。 現実でうまくいくのは、荒っぽい作戦なんだ。
――エーリッヒ・ハルトン * * *
由樹は図書室にいた。 ぎっしりと本が密集した空間、その中をほんの一握りの勉学に勤しむ変わり者たちが机へと向かい、友達が少ない生徒たち、ハブられ者などが一人、静かに読書を友にする陰惨とした場所。これが、この高校の図書館の実態だ。 由樹もこのような陰気な場所になど滅多に来ないのだが、今日は用事があって来ていた。 ここで先程から、授業の合間を使ってはこのような軍事に関する本ばかりを読み漁っているのだ。こんな知識、現在の日本では生涯使う場面はないと分かっている。 それでも、もし、あっちの世界を思うと知識を集めずにはいられない。 昼休みだというのに、由樹はがり勉の学生や一人ものの群れに混じって、せっせと本を収集していた。 次の本に目を通す。
孫子兵法より 『兵を用うる方法』 兵力が十倍であれば 包囲せよ 五倍であれば 攻撃せよ 二倍であれば 敵を二分せよ 互角であれば 状況により交戦してもよい 劣勢であれば 巧みに退却せよ 圧倒的劣勢であれば 巧みに敵を回避せよ なぜなら 小軍は 大軍の虜となるのが必至だからである
「…………」 ――あー、よく分かんね。 ぱたりと良く分からない意味不明な本を閉じて、元の棚に戻した。 ほとほと自分の頭の足りなさに嫌気が差してくる。もし、自分が天才だったなら、こんな本はたちどころに読み散らして、理解して即座に実践に活躍してやるのにと思う。 いいや、違う、と思い直す。 ――ゲームだけなら、俺は天才にだって負けないんだ。そうゲームなら…。 ゲームと名のつく勝負。責任の放棄した遊戯ならば勝つ、自信があった。いくらでも博打を打ち、いくらでも大胆な作戦をして、相手を翻弄する自信が。 しかし、その才能が役に立ったのは、ラドルアスカとのテーブルゲームだけ。 使えなさ過ぎである。 軽く溜息を吐き出すと、昼休みの知識収集を諦め、由樹は教室に向かった。 また、放課後にやればいいんだ。 焦る必要なんかない。 そう思っていたのだが、その後由樹は物凄く後悔することになる。 * 午後の授業、国語と生物をちゃんと受講した由樹は再び、図書室へと出向いていた。 授業に出たものの、生徒たちは未だ由樹の噂から抜け切れておらず注目されっぱなしで、授業どころではなかった。だが、その噂の渦に巻き込まれるのも嫌で努めて由樹は平静を装った。とにかく、無視して授業に集中した。むしろ、これほど理解した授業もないというくらいに集中してしまった。 生物などは、人間の三半規管、内耳、また視神経など今問われれば全て完璧に応えられるほど記憶してしまったほどだ。国語もかなりの成果を発揮した。忘れないうちに明日、期末試験をやってほしいくらいだ。 ちょっと上機嫌で由樹が図書室の前まで来ると、嫌な人物が中にいるのを発見し、入るのを躊躇する。空手部主将、成績優秀、優等生のパーフェクトマン透が、何故か普段は絶対にいないであろう薄暗い陰気なる図書室の座席を陣取っていた。 ――何で、アイツが……ここに。って、俺がここにいるから、アイツが来たのか。 そういうことだろう。 恐らく、由樹が図書室を出入りしているという学生噂ネットワークからの情報を頼りに透は由樹を待ち伏せしていたのだろう。柄にもなく、ちゃっかり雑誌を広げ透は図書室にて読みふけっている。正直、透がいる図書室に入りたくなどないが、由樹も用があってここに来ているのだ。 ――ええい、無視してりゃ、何時か諦めるだろ! 覚悟を決めて、図書室に入った。 すると、目敏く透が由樹に声をかけてくる。 「やぁ、羽柴? 最近、読書に忙しいんだって?」 やはり、透は由樹が最近図書館にいる情報を知って、ここに来ていたらしい。 とにかく、由樹は透を無視して、いつもの軍事、戦争コーナーに足を向けた。 ああいう手合いは相手をするから、付けあげるのだ。放っておけば、いずれは諦めるだろうと思う。ラドルアスカほどしつこいということもあるまい…。 ふ、と肩の力を抜き、軍事・戦争コーナーの本棚の前まで来て、絶句した。 ――無い……。何で? そこには一冊の本もなかったのだ。 昼休みまでは確かにぎっしりと詰まっていた本が、今や一冊も存在せず、本棚はがらんと隙間を開けている。そのコーナーだけがないので、隣の世界史コーナーが支えを失い、二、三冊の本がぱたりと倒れていた。 一体、軍事、戦争コーナーに何が起こったというのか……? 呆然と本棚を凝視していると背後から、ははは、という乾いた笑い声が聞こえてくる。 透だった。 ゆっくりと振り返って、なんとなく犯人が分かった気もしたが、一応訊いてみる。 「きょ、今日。道徳の時間でもあったっけ。それとも戦争について読書感想文を宿題にだされたクラスでもあるのかな?」 ははは、と透が、可笑しくて仕方ないとばかりに笑って、言った。 「そんなわけないだろ? 俺がやったに決まってるだろ。羽柴」 だよな。そう思ったよ。 ――そう思ったさ! 「けど、そんな訳ない。だって、学校の図書室では、一人十冊以上は借りられないはず」 そう、大抵の図書室というのはケチなもので、一人何冊と借りられる数が決まっているのだ。少なくとも、軍事・戦争コーナーは五十冊以上の蔵書があった。 「俺、空手部の主将。後輩に言って、全部借りさせた。はははは」 ――しょ、職権乱用だ……。 がっくりと由樹は肩を落とした。そして、猛烈に後悔する。 何で、さっき、昼休みに十冊借りておかなかったんだ、俺。 「おいおい、本を読めないくらいでそんな落ち込むなよ」 ――誰が、落ち込ませていると思っているんだ、テメェ! 由樹の中で、メラメラと憎悪の炎が燃えあがる。憎い。何故、この透とかいう偽善者は、由樹の邪魔をことごとくするのか、由樹が何か透にしたかといえば、何もしていない。 ――お前は何様のつもりだ。俺の邪魔をする権利でも持っているつもりか……。 憎しみで人が殺せるなら、このとききっと由樹は透を殺せていただろう。 「おい、そんな恐い顔するなよ。ちょっと、話をしたら本は元通りに返すし、もし、良ければ、俺の親父は図書館に勤めているから、山ほど軍事とか戦争の物騒な本を借りてきてもらうしから。まぁ、座れって」 う。それは、なかなか美味しい話だと由樹は思った。 渋々ながらも、由樹は大人しく透に言われるがままに椅子に腰を下ろした。 とにかくこいつの与太話をちょっと聞いてやれば、大量の知識本が手に入るのだ。 「で、何だよ。話って? あ、待てよ。その前に一つ確認したいんだけど、話を聞いてだ、その後本はやっぱりありません、なんてことになったら、俺、俺の親父を使ってとにかくお前を社会から抹殺するからな。無いっていうなら、今のうちだぞ。で、本はあるのか」 そして何だか、人一倍疑り深くなっている気もする……。 これはイルの影響かもしれない。 ちょっと肩をすくめてから、透は軽口を叩く。 「そんなに疑わなくてもあるよ。心配すんな。何なら、明日の朝一番に届けてやるよ」 「本当だろうな?」 「本当だって」 じ、と透を凝視すると、透は軽く肩を竦めてみせたので、嘘ではないらしいと判断する。 不機嫌にゆったりとしたソファのような座席に身を委ねた。流石陰惨な図書館。 掃除もいい加減であったらしく、埃がもうもうと立ちこめて、由樹は手で埃を振り払う。 「げほっ。ぉえ。……で、話って?」 苦しんでいる由樹を面白いものをみるように透がくくく、という忍び笑いを漏らしたので、由樹がそれを睨みつけた。いちいちムカつく奴だ。当然のようにそんな由樹の睨みを無視して透は話を勝手に進めた。 「別に話って、改まってするもんでもないんだけど。どちらかというと、羽柴に聞いてもらった上で聞きたいことがあるんだ」 「……何だよ」 遠回しな言い方をしないで、もっとズバッと本題に入ってほしいと思う。 そんな由樹の様子を察して、透がまぁ焦るなよ、と宥めた。 「分かった。直ぐに話す。聞きたいことってのは、羽柴、自殺する人を見てどう思った?つまり、自殺する人間を助ける価値はあるのかってこと」 「……え?」 思わず、聞き返してしまった。 透がしてくるであろう質問とは、どうせ自殺者を廃止しよう同好会に入らない?、とか自殺者を助けた気分はどう?、とかそんなものだと思ったからだ。意外な質問に由樹は目を細める。 ――こいつは、とんだ偽善者だ……。 もう、目の前の人間を何処かネジの緩んだお人よしな優等生とは、けして思わない。 「価値? お前がそんなことを訊くのかよ。そこに疑いがあっちゃ、お前はあんまり嬉しくないんじゃないの? 全ての人間に尊い命があるんだから、自殺する人間も助けないと」 「それ、本気?」と、透。 ――やっぱり、こいつはただのお人よしじゃない。 優等生の意外な言葉に由樹は目を見張る。そもそも、姉を殺されたその弟が、世の中の人間をいっさい疑わないと考えるほうがおかしかったのだろう。 「お前はどう思うのよ」と、由樹が訊いた。 「俺? 俺はそんな価値はないと思う。けど、自分が死ぬかもしれない状況でその価値のない人間を助けた、その羽柴は偉いと思う。俺はそう言っているんだよ。誤解があったかもしれないけど」 「ああ。誤解してた。謝るよ」 にこっと、由樹も透も、笑いあう。 本当に笑ってしまう。完全なパーフェクトマンの仮面の裏にはこんな後ろ暗い正体があったなんて、皆こいつの何処を見ていい人だなんて言っていたのか不思議だ。 「この間、話したけど俺は五年前に姉を目の前で殺された。この事件のこと知ってる? この近所では結構、有名なんだけど」 「……知ってる。この学校では結構有名だし」 「そりゃ、良かった。話がしやすくて助かるよ。その目の前で殺された姉は心底生きたかったはずなんだ。きっと、生涯自殺なんか考えないほど、幸せになって良かったんだ。そうだろ? 全部、殺したやつがその幸せを奪った」 そりゃ、そうだ。 相槌を打つと透は満足したようで、先を続ける。 「その殺したやつは、身元も全て分かったのに警察が愚鈍なせいで未だ捕まっていないんだけど。だから、俺はこの世の全てがハッピーだなんていうつもりはないし、その現実を分かった上で、俺は警官という正義になりたいんだ。時には、こういうどうしようもない、仕方のないことがあると分かったうえでね」 「ああ、お前がただのハッピー人間じゃないのは分かったよ」 それはどうも、と透が返した。 「そう…、話を戻すけど、姉は生きたかったんだ。生きるべき人間だ。でも、お前が助けたのは生きるべき人間か?」 「違うだろうな」 正直助ける気なんか、さらさら無かった。死にたいやつは死ねばいいのだ。 生きたくても、透の姉やタルデシカの軍人たちのように死んでいく人がいるというのに、不公平ではないか。そんなの、ふざけてる。 「ああ、俺もそう思う」と透。 「――で、お前は何をいいたいわけ? 昨日も言っただろ。俺は自殺者なんか助ける気はなかったって。今日も、同じことを言わせてどうする?」 全くだ。 このことは昨日もこの間も、態度なり言葉なりで示している。 その上、透は何をしたいというのだろうか。 「じゃ、俺の質問に答えてくれ。“あの場所”で何をしていた?」 「――はぁ?」 全然、透の言いたいことが理解できないのは、由樹の頭が阿呆だからであろうか。 怪訝な表情で透を見詰めなおすと、透が先程の質問を言いなおす。 「だから、あの場所でお前は何をしていた? そう訊いているんだ。だって、おかしいだろう。俺もお前も自殺者を助けるのには反対だ。確かに、お前の行いは偉いし、凄いと思うよ。勘違いするなよ。俺は凄いと思っている。尊敬もした。だから、俺はお前がそういう理想を追い詰めるハッピー人間だと、俺も誤解した。……だからこそ、俺はお前に訊きたい。自殺者を助ける気もなく、お前は“あの場所”で何をするつもりだった?」 「何を言いたいんだよ、お前……」 訳が分からない。一体、何を透が言いたいのか理解できそうにない。 「羽柴、お前、自殺するつもりだったのか?」 「……………」 言葉も出なかった。 どうやら透は由樹が自殺する為にあのビルの屋上に上って、その時偶然に先客がいたと疑っているらしい。 「――ふ、ふざけんなよ!? 何で、俺が自殺なんかしなきゃいけねぇんだよ!」 自殺など考えたこともないというのに、この優等生は何を言い出すんだ。 思わず、真っ赤になって大声で反論する。皆の注目が由樹に集まり、慌てて手で口を覆った。やばい、ここは図書室だった……。忘れていた。 「俺が自殺なんかするわけねぇだろ!」 慌てて小声で反論すると、 「そうか、なら、もう一つ質問だ。いいか?」 「嫌だね。お前の下らない、質問なんかに付き合ってられるか!」 ガタリ、と勢いよく重たいソファを鳴らし、席から立ち上がった由樹は出口へと足を向けたが、次の瞬間、ぴたりと足を止めることになった。
「あの場所は、……あの屋上は、俺の姉を殺した、“志野 幸四郎”が警察に追い詰められ、突如煙のように“消えた場所”だ。その場所で、お前は一体、何をしていた? 何で、“志野 幸四郎”と同じように消えたんだ?」
「――な、なんだって……?」 ゾワリ、と悪寒がした。 体中の血という血が煮えたぎり、血管内を這いずり回る。 「“シノ”……幸四郎? ソイツが消えた場所? あの場所が、か?」 激変した由樹の態度に戸惑いながらも、透はその問いに答えた。 「ああ、そうだけど?」 遠くでその答えを確認すると由樹は、全身全霊で全ての情報を整理し始めた。 ――シノとは、カジミの長、つまり王様の名前のはずだ。そして、カジミの騎士が口にした言葉の中に幸四郎という言葉があった。 ここから弾き出される結論は、ただ一つ。 「カジミの長シノと透を殺した志野幸四郎は同一人物……」 また、あの夜、由樹をグイシンから叩き落した騎士も、シノと志野幸四郎等と同じ人物と考えられるだろう。 志野幸四郎以外の人間が、西暦や高校といった詳しい現代の様子を知っているとは思えないからだ。また、カジミだけが言葉が違うのも説明がつく。シノが日本語を広めたから、カジミだけがあの世界で言葉が違うのだろう。 ――くそ、なんてこったッ! 五年前からカジミが急速に力をつけ始めたのは、志野がこちらの世界からあちらの世界に五年前に行ったから……。 一つ、一つの点が確実に線となって、繋がっていく。 ―――あ、 そこで、突如、唐突に思い立った。 ゆっくりと、透のほうを振り返る。 「……透」 初めて透の名前を呼んだかもしれない。 いきなり独り言を言い始めた由樹に透が当惑気味に、なに?、と聞き返す。 「お前の“苗字”って、何だっけ?」 一瞬透はキョトンとした顔をして、答えた。
「え? 乎璽彌(カジミ)だけど、それが何?」
ゾン、と部屋の空気が薄く、気味の悪いものへと変換された。 いや、それだけ由樹の雰囲気が変質した。 「……なぁ、お前の姉が殺された事件の新聞とか、雑誌とかってある?」 「え? 丁度、この雑誌がそうだけど――――って、わっ!」 由樹は透が差し出したその雑誌を引っつかんで、出口に向かって駆け出した。 「おいッ、羽柴! その雑誌、図書室の持ち出し禁止のやつだぞ! おいっ」 今はそれどころではないのだ。 異世界と現代は、確実の交差しているのだから。
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