視界がぼやけて何も見えない最中、何故か右の手だけにほんのりと体温を感じた。 全身をヤスリで削られるようなじわじわとした痛みが駆け巡り、上手く呼吸ができない。 意識、といえるものがようやっと自覚として取り戻したとき、視界が開けるようにクリアになったのは、右に暖かな体温を感じたおかげだと思う。 最初に確認したのは、涙を流しながら心配そうにしているラドルアスカの顔だった。 何だか、その顔があまりにも情けなくて、悪いことをしたなぁとリュイ・シンは思う。 「……―レきょ……ぅ」 上手く舌に言葉が乗らなくて、一体自分はどういった状況なのか、とリュイ・シンは急に不安に駆られた。確か、最後の記憶ではブラックドラゴンに炎を吐かれ、絶体絶命の危機にあったはず。 それから先の記憶や今の状況をリュイ・シンが辿る前に、感極まったラドルアスカが歓喜の奇声を上げた。 「殿下! 皆、殿下が目覚められた!」 おぉ、という歓喜の歓声が聞こえ、リュイは自分が病室にいることを知る。リュイ・シンを取り囲むように、ラドルアスカ、ルーファニー、ナイジェル、医師たち、それに部屋の端のほうにこっそりとイルが隠れるように佇んでいた。 そこでカジミとの戦争を思い出して、慌ててリュイ・シンはベッドから起き上がろうとして、全くといっていいほど身体が動かないことに気がついた。身体を起こそうとしたのをニュアンスで感じ取ったのか、咎めるようにラドルアスカが言った。 「命は取り留めたとはいえ、殿下は現在も重体です。けして、無理はしてはいけません」 「ローレ卿……。カジミは……? 戦は、……どう、なりましたか……」 やはり上手く話すことができず、リュイ・シンは途切れ途切れに言葉を紡いだ。 「今はそのようなことは考えず、安静に怪我を治すことだけを考えてください」 にこり、とラドルアスカは取ってつけたような作り笑いした。 その笑顔が今では痛ましい。 ――ローレ卿は優しい。 ラドルアスカはいつもそうだ。リュイ・シンに対しては負担を少しでも減らそうと、リュイに不利になるような発言はあまりしない。その態度からも、勝敗は大体予測がついた。 ――ありがたいけど、今は甘えている場合じゃないわ……。 ――わたしは、この国の唯一の後継者で、王族。 ――この国を、民を守り、導く義務がある。 ふ、とリュイ・シンは部屋の隅に隠れるように、不機嫌にこちらを見据えるイルの姿を捉えた。綺麗な金髪と金眼は今日も健在であったが、イルは何処か疲労したような顔をしていた。いつもは高く結い上げている金髪も、今日に限ってそのまま肩に垂らしてある。それに少しばかり違和感を覚えるも、リュイには戦況のほうが気になったのでさして気に留めなかった。イルならば戦況を教えてくれるかもしれないと考える。 あのイルならば、何の気遣いもなくボロボロと本音でしかも正確に戦況を教えてくれる、と打算し、口を開いた。 「すみません。皆さん。心配をかけて申し訳なく思っております。少し、イル殿と話があるので二人にしてもらえませんか?」 「――なっ!?」 ラドルアスカが目を見張って、イルとリュイの二人を交互に見比べた。 「すみません、ローレ卿……。女同士、二人きりで話したいことがあるのです。殿方には聞かれたくない話題です」 こう言われては、ラドルアスカは何も反論できない。オロオロと視線を彷徨わせている。 右手の温かさに感謝しつつも、きっぱりとリュイ・シンは告げた。 「申し訳ありません。わたしはイル殿だけと話をしたいのです」 しん、と病室内が沈黙に包まれた。 当惑した様子でラドルアスカは病室を後にした。恐らく、ルーファニーあたりは、このイルとの話の内容に検討をつけているかもしれないが。 ――ごめんなさい、ローレ卿……。 心の中だけでリュイ・シンはラドルアスカに謝罪した。
「で、私と二人きりで女同士話したいことって何かな?」 恐らくイルにはリュイのしたかったことなど理解しているだろうに、しかし白々しく、にやにやしながら訊ねてきた。憎たらしい。 「分かっているのでしょう、戦の結果と現在のタルデシカの戦況を教えてください」 「それよりも、ラドルアスカさまの言うとおりに自分の身体の心配をしたほうがいいと思うよ、いや、身体……、というより、“顔”かな?」 「どういう意味です」 哀れむように同情的な視線でイルが恩着せがましく詰め寄ってくる。 「最後の記憶って、覚えてる?」 「覚えています。確か、わたしはブラックドラゴンの炎に包まれ大火傷を負ったはず……」 にやっと、イルが勝ち誇ったように笑う。 「だよね。あのさ、そんな大火傷を負って無事に済むと思う?」 さぁっとリュイ・シンは青ざめた。急に自分の動かない身体と顔がどうなってしまったのか不安になってくる。よく考えてみればおかしいではないか。あの、破壊力のある“全ての物質”を焼き尽くす〈黒い炎〉に身を焼かれて、命があるだけでも不思議だというのに、顔や皮膚が無事であるはずもないのだ。 「そうだよ、お姫様……。じゃぁ、お望みどおり、はっきり、言ってあげるよ」 「……い、いや」 リュイとて女の子だ。幾ら、国や民に尽くす覚悟があろうとも、死ぬ覚悟があろうとも、醜く焼け爛れた顔になるのは御免被る。 怯えたリュイ・シンを尻目にイルは勝ち誇った笑みを見せつけ、容赦なく続きを言った。 「あなたの“今”の病状はね……」 勿体ぶってゆっくりとイルは言葉を滑らせる。 「いい。言わなくていいわ。お願い、止め、て……ッ」 イルはそんなことでは容赦はしない。くすり、と笑って告げた。
「あなたの病状は命に別状なし。そして、肝心のお顔なんだけど、今は確かに皮膚が焼け焦げ爛れているけど、この『アルカシス』を見事召喚してみせた、大召喚術師イル・サレイドさまにかかれば、完全に元の顔に戻すのは可能も可能。むしろ、禁術を使って元より綺麗にしてあげることもできるよ。やろうか? 禁術」 「……………」 ――な、何て、意地が悪いのかしら……。 あまりのことに流石のリュイ・シンも怒りに身を震わせた。その様はけけけけ、と面白可笑しくイルは笑っている。リュイ・シンはこのとき初めて、イルを縄で縛って絞め殺したくなるほどの殺意を抱いた。 「『アルカシス』を召喚してね、こんなのも召喚できるようになったよ」 得意げにイルは銀色の手鏡を取り出して、リュイ・シンに渡す。 「何、これは……?」 「ふふ、これはね毎日この鏡に向かって映った姿を誰かに褒められるとどんどん、美しくなれる最強の魔道具の一つで〈バルカンスの悲劇鏡〉っていうんだよ」 「〈バルカンスの悲劇鏡〉? 聞いたことのない道具ね、初めて聞きます」 得意げにイルは肩を竦めてみせ、大降りの仕種でぺこりとお辞儀をしてみせた。 「ふふふ。それはそうだよ。なんたって、あの『アルカシス』の中の道具だからね。私も召喚してみて初めて見たもん。89章55ページ記載だよ」 伝説の『天史教本』、『アルカシス』を召喚できたのが嬉しいのかイルは饒舌だ。 「それでこの手鏡が何なの?」 「だから、これを使えば、より早く元の顔に戻れるよ」 「どうせ、あなたが進めてくるものだから、凄い代償でもあるのでしょう。お断りしておきます。後が怖そうだわ」 「信用がないね」 当たり前だろう。先程のことがあっては、誰であろうとも疑うのが当然の行為だ。 リュイの予測は当然正しく、イルが〈バルカンスの悲劇鏡〉の補足説明をする。 「まぁ、賢明だね。これには欠点があってね。鏡が割れると、これを使用した者は凄い代償を払うことになるんだよ」 「やっぱりね、そんなことだと思ったわ」 「じゃ、こんなのはどう?」 悪戯をする瞬間の子供のようにイルは違うアイテムをリュイに進めてくる。 「もう、いいわよ」 「そう、言わずに。この化粧水はいいんだよ」 「効果は?」 いいから、いいからとイルは動けないリュイ・シンをいいことに無理矢理ベッドに化粧水の入った瓶を置いた。化粧水の入った、いかにも怪しげな青色の瓶を見やり、どうせ、これも碌なものではないのだろうと思う。 身体が動けるようになったら、必ず捨てることを心に誓い、リュイは最初の質問に戻る。 だいぶ、無駄な時間を食ってしまった。リュイ・シンは本題を口にする。 「それで、カジミの状況は?」 「あぁ、戦は当然タルデシカの敗北。カジミはここぞとばかりに攻め入ってきているけど、何とか国境沿いで踏みとどまっているよ。まぁ、“マルロンの要塞”を拠点にロナはずっと出るつもりはないみたいだから、それほど悪くはなっていないみたい」
“マルロンの要塞”とは、5年前にカジミがタルデシカとの国境沿いに立てた新しい要塞の名だ。タルデシカも黙って、国境沿いに要塞を立てることを見過ごしたわけではないが、結局要塞はゴタゴタしているうちに立ってしまったのだ。 これにはロナの貢献がかなりの割合を占め、土地勘のあるロナがタルデシカを翻弄した結果、ロナのお城として利用されているのだ。主に、用途は召喚術の研究に使われていたらしいが、今は堅固な門を閉ざしその全貌は明らかではない。
渋い顔でリュイ・シンが溜息を吐いた。 「そう……、報告ご苦労様」 肩を竦め、イルは病室を去ろうとして足を止める。 「あ、そうそう。もう一つ、報告があったよ」 「何?」 またもイルは嫌な感じの笑みを浮かべる。 報告はリュイ・シンの想像を絶するものであった。 「ハシバが元の世界に帰った。残念だったね」 「えっ!? ハシバが?」 思わぬ知らせに、今までで一番、リュイは顔を曇らせた。 「……そんなぁ。これから、手なずけようと思っていたのに」 「ハシバも苦労するね」 くすり、とイルが笑う。 がっくりと落ち込むリュイ・シンにイルが励ますように言った。 「心配することはないよ。どうせ、直ぐに帰ってくるだろうからね」 「それって、どういう……」 ……こと? と続けようとしてリュイは言葉を飲み込んだ。 イルの表情が何時にも増して、キラキラと輝いていたからだ。 「やっぱり、偉い人の格言は素晴しいね。感謝するよ、リシューマン・テライドン」 にこにこ笑いながらも、イルがそれ以上を教えてくれようとはしなかった。 さも、格言の情報に価値があると言わんばかりに。
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