一応リュイ・シンとは顔見知りであるわけだし、向こうは何故か好意を寄せてくれているわけだしという理由で、由樹はリュイ・シンを見舞いに病室まで足を運んだものの、直ぐに引き返してきた。 病室の中のラドルアスカを見たら、一歩もその空間には入れなくなってしまったのだ。 あまりに病室の空気が重いのと、――恐らく自分では気がついていないだろうが――涙を流すラドルアスカを見ては、どうしてもその中には入れなかった。 何か、神聖な場を汚すような気がして……。 そうして引き返してきたのだが、行く当てもなく、結局は先程の召喚場へと戻ってきた。 一応は由樹に宛がわれた仕事はイルの補佐(係長)なのだから、召喚場という持ち場にいるのは正しいことなのであろうと思い、この召喚場入り口までとにかく由樹は戻ってきた。
しかし、そこにも既に先客がいた。 何処かに、魂を置き忘れてきたみたいな辛気臭い顔をした、冴えない男が召喚場入り口で、一人呆然と立ちすくんでいた。その男はピクリとも動かずに、何やらとある空間を凝視している。それだけだ。 男、ナイジェル・コスロワはそれ以外に何の動きもせず、ただ呆然としていた。 何をしているのだろうか、と召喚場入り口まで足を運んでその男が立ちすくんでいた理由が分かった気がした。 思わず、由樹はごくり、と唾を飲み込んだ。 召喚場内では、紫色の霧がもうもうと立ちこめ、その霧の中心部では金髪金眼の少女が血の色のワンドを空中に走らせている。失敗した図式の残骸が無惨にも空間を漂い、溢れていた。金の髪を振り乱し、金の瞳を血走らせ、少女はただ一心不乱にワンドを振るう。 もう機密だとか、座標を盗まれるだとかは全く気にしない、配慮も何もなく、少女はただ血の色のワンドを空中に掲げ続ける。失敗した図式は放置して、消す時間も惜しいといった様子だ。 その異様な迫力ある光景を見て、隣に立ち尽くすナイジェル・コスロワ同様に由樹もその場から一歩も動けなくなってしまった。 ある意味魅了された、と言ったほうが正しい。 「…………ッ」 その我武者羅な振る舞いと鬼気迫る少女の気迫に気圧され、地に足が縛り付けられた。少女は時に異質で、現在は時と同化していた。
「……ぁ……すげぇ……」 この世界の魔導師たちがどうして『天史教本』という情報を追い求めるのかが、それがいかに魅力的なことなのかが少しだけ分かった気がした。 それは一つの欲求なのだ。快楽と言い換えてもいい。求め、欲し、手に入れる快楽。 食欲、性欲、金欲、物欲、その欲求のうちの一つ。 それはただ、欲するべきもの。 それが、『天史教本』。 「凄いです。凄いですけど……」 今まで由樹同様に棒立ちだったナイジェルが口を開いた。 「あ、何か言った?」 由樹が聞き返す。 「いえ、はい、いや……」 「どっちなんだよ」 どっちなのか、はっきりして欲しい。 「――はい。凄いけど、やばいですね、このままじゃ」 ナイジェルの要領を得ない、微妙な言い回しに由樹は説明するよう要求する。 「どういうこと?」 「止めないと、イルさまがやばいっていう意味です。『天史教本』の召喚は準備がいるんですよ。そう、ほいほいやっていいものではない。しかも『アルカシス』をこの状態で召喚しようだなんて、………無茶、だ」 「それって、どうやばいの? アイツにとって」 そう、それが肝心だ。イルがこれ以上『天史教本』を召喚しようとしてどうやばいのか。 ナイジェルは言いにくそうに、だが、諭すように言った。 「自分は座標師になる以前は召喚術師見習いだったので、良く分かるんですが、『天史教本』っていうのはそうそう召喚できるものでなくて、頑張って滅茶苦茶力んでも難しくて、そうしていくうちに、だんだんと頭が割れるように痛くなってくるんです。でも、自分は『天史教本』が欲しくて、凄く欲しくて、更に無理して召喚しようとしたんですけどね。 ――それが、ある時……、」 と、そこで一泊置いて、当時を思い出したことすらも恐ろしそうにナイジェルは言った。 顔を歪めて苦しそうに言う。 「……目の前が、血でもぶちまけたように、真っ赤になったんです」――、と。 「……真っ赤?」 「ええ、そこで自分は召喚術師になるのを諦めました。自分には無理なのだと悟りました。多分、イルさまも今、目の前が真っ赤になる寸前だと思いますよ。止めないと…」 「止めないと?」 由樹は先を促す。 その先を聞くのは何だか嫌な予感がして怖かったが、怖いもの見たさみたいな好奇心と義務みたいのが働いて、聞く以外の選択肢を由樹に与えなかった。知りたかったのだ。 「死にます、まず間違いなく」 「――ッ!」 予想通りの答えで、顔を歪める。何だか、そんな気がしたのだ。死ぬ、という気が。 「なら、止めろよ! 今すぐにっ」 だが、ナイジェルは静かに首を横に振った。 「駄目です」 「何でだよ。止めろよッ。だって、アイツこのまま続けたら死ぬんだろッ!? 何考えてるんだよ。お前が止めないなら、俺が止めてくるッ」 そう言って、召喚場へと走り出した由樹をナイジェルが止めた。 「止めなさい。イルさまがその事実を知らないとでも思っているのですか?」 その言葉に由樹はピタリと足を止め、ナイジェルのほうを振り返る。 「どういう、こと、だよ」 「イルさまは、“アレ”でも魔導師の中でもトップクラスのエリートです。こんな自分のような素人でも知っているようなこと、知らないわけがないでしょう」 ナイジェルの言っていることが上手く理解できない。 「じゃ、何だよ? アンタは知ってて、自分がこれ以上やったら死ぬって知っていて、それでもやっているって言うのかよ」 こくり、とナイジェルが頷く。カッと、由樹の全身の血が頭に上がった。 「そんなの、自殺とかわんねーよ!」 「違います」 ――どう違うっていうんだ? そんなの、自殺の何者でもない。 生きることを放棄した無謀な所業だ。 全速力で由樹はイルと止めに走り出した。 目の前で死ぬと分かっていながら、助けないのは酷すぎる。 「あなたに、イルさまを止める覚悟がありますか?」 不覚にもたった今、その覚悟を決めたはずなのに、由樹は足を止めてしまった。 「イルさまは自分が死ぬと理解していながら、続行するお覚悟を持って今、『アルカシス』召還に挑んでおります。そのお覚悟を、あなたは越えられますか? そのお覚悟を踏みにじることはできますか? 少なくとも自分にはできません。もし、今、無理矢理にイルさまを止めたなら、イルさまに一生恨まれることになります。その、覚悟はありますか?」 そんなこと答えは決まっている。
――ねぇよ、そんな覚悟……! あるわけねーだろ、この俺がっ。 俯いて、いかに自分が愚かなことをしようとしていたか、思い知って由樹は元の位置まで戻ってきた。ナイジェルが酷く冷めた目線で、由樹のことを見やった。 「がっかりですね、その程度の覚悟しかないなんて」 ナイジェルの言葉が凄く、突き刺さった。 「……うるせぇよ」 死ぬ覚悟がある奴を越える覚悟など、由樹にあるはずもなかった。 ただの高校生の由樹に、そんな覚悟の一欠けらほどあろうはずもないのだ。 ここに来てから、こんな惨めな思いばかりをしている気がする。 どうしてなんだ? 奴らは普段、癖のあるどうしようもない奴らばかりだというのに、ここぞという時は豹変する。由樹にはない、覚悟を誰かしら何かしらの形で持っている。 今、由樹はどうしてこの異世界が嫌いなのかが、本当の意味で分かった気がした。 由樹の大事な薄っぺらいプライドを、ここの住人たちは傷つける気が全く無くても、彼らはその生き様だけで容易に粉砕するからだ。由樹のいる現代の住人とは似ても似つかない、本当に時代を生きている人ばかりだからだ。腐れた現代の人間とは全く違うからだ。 親に寄生する寄生虫だとか、友達から金を巻き上げる奴とか、人のせいにばっかしてナイフ振り回す奴とか、引き篭もりだとか、そういう腐れた奴がいないから、妙に由樹のプライドを、劣等感を刺激するのだ……。 ここでは皆がただある現実を生きているから。
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