猛然とした勢いでルーファニー・サレイドは城内を歩いていた。 城の中では走ることを禁じられている故、いくら急いでいても走れない。 だから、ルーファニーは競歩か、と思うような素早さで、硬質な廊下をずんずんと突き進んでいた。 何故、偉大なる英雄がこのように慌てた様子で急いでいるかといえば、倒れたリュイ・シン絡みに他ならない。この国、唯一の後継者が死に瀕しているのだ。王と王妃に知らせない訳にはいかない。 ルーファニーはリュイ・シンの親である第三王妃クラウディアと国王陛下の元へとリュイ・シンの状況を知らせに向かっていた。今では国政で駆けずり回るリュイと疎遠になってしまったとはいえ、親は親。子は子だ。 娘の一大事。いや、死に目には二人とも会いたいだろうという計らいだった。 ルーファニーはイルが『アルカシス』召喚を成功するかは五分五分と予想しており、またルーファニー自身がそれを試す気にはならなかった。既にルーファニーは召喚術師として成熟し、成長の余地はほとんどない老いた身。それに比べ、未だ発展途上のイルならば、確かに召喚する可能性はあるが、老いた自分は別だと思っていたので、試す気にもならなかった。 それよりもルーファニーには大事な、やらなくてはならない仕事が残っていた。 「なんと、お詫びしたらよいか……」 申し訳なくて仕方がなかった。 国の唯一の後継者たるリュイ・シンを自分という英雄が傍にいながら、みすみす殺してしまうかもしれないのだ。悔やまない訳がない。 気が重いまま、ルーファニーは王妃、クラウディアの自室へと入っていった。 「クラウディアさま、入りますぞ」 ぶぅ〜、という牛の鳴き声のような声がクラウディア流の返答のつもりなのか、とにかくそんな奇妙な声が聞こえてきた。ルーファニーは溜息を漏らす。そもそも年若いリュイ・シンではなく、この“牛”が戦場に立っていれば、今回のような事態は防げたのだ。 王妃と国の後継者とでは、その位も重要度が違いすぎる。リュイ・シンのほうが、国の重要度も身分も断然上だ。それでもルーファニーよりは身分は上なので仕方なく丁寧に応対する。 「クラウディアさま、ちょっとご報告があるのですが」 「何かしら……。戦のことならば、あたくしは分かりませんことよ」 いつもこれだ。またか、と半ば呆れながらルーファニーは言葉を紡ぐ。 「いいえ、戦とは確かに関わりがありますが、殿下のことでご報告が」 「あら、そう。あたくし、今、少しだけ見苦しい格好をしておりますので、ちょっと待ってください。直ぐに、湯浴みするので」 そう言って、クラウディアは巨大な身体をベッドから引きずり、わっさわっさと移動を始めた。正直、今、そのようなゆとりは全くといっていいほど、……“ない”……。 リュイ・シンは何時死ぬか分からない状況なのだ。 「いえ、そのままで結構です。急いでおります故」 当然、ルーファニーはそう進言したのだが、クラウディアは全く意に介さない。 きっぱりとした口調で宣言した。 「いいえ。湯浴みいたします。女児たるもの、何時何時でも美しくですわ。殿方の前で寝巻きでいるわけにはいきませんわ」 「あ、ではお着替えになるだけで、事態は急を要するのです」 「いやですわ。ルーファニーさま。着替えるだけって、お化粧もしなくちゃいけませんから、湯浴みもしても、そう時間は変わりませんわ」 たった今、この瞬間にもリュイ・シンは死ぬかもしれないというのに、王妃のこの態度には流石のルーファニーも我慢の限界だ。 「ご報告します! クラウディアさま、あなたの娘、殿下が重症を終われました。今、すぐにでも死ぬ危険があります。至急、医務室へご同行願いますッ!」 そう早口に捲くし立てた。 すると、クラウディアは、ぽかんと口を開けて、キョトンとした表情を作った。 「あら、あの子、死にそうなの…。だから、あたくしは言ったのに。戦は殿方の仕事、とね。あたくしの言うことを聞かないから、こんなことになるのよ。そうなの。あの子死ぬの……。もう、報告はいいわ」 「では、医務室に」 そう言って踵を返したルーファニーにクラウディアは何を言っているの、とばかりに眉間に皴を寄せて、言ってきた。 「だから、報告も、あなたも、あたくしには必要ないわ」 「何を言っています?」 ルーファニーが振り向いた。 「あたくしの忠告を無視したから、こういうことになったのよ。自業自得でしょう。いい恥さらしですわ。王族の恥だわ。だから、あの子は王族から破門いたします。これであたくしに子供はいなくなりました。なら、そのいなくなった子供の死に目を看取ることもできないのは道理でしょう」 今度はルーファニーがキョトンと間抜けな顔をする番だった。 イル以外に縄で縛って、絞め殺したくなる人物がこの世にいたとは正直驚きだ。 ――この国の唯一の後継者を破門にするだと……? 王族の姫が戦場に赴き、傷つくのが自業自得? 称えこそすれ、そこに非難する要素など皆無に等しい。 「お言葉ですが、クラウディアさま。殿下はタルデシカ唯一の後継者ですぞ? 他に代わりはいない。第一王妃も第二王妃も子をなせなかったのですからな」 そう、クラウディアは正室ではない。ただの第三王妃なのだが、彼女だけは唯一子をなすのに成功したため、その地位と待遇が跳ね上がったのだ。もし、リュイ・シンが死ねばその待遇も自ずと変わるだろう。クラウディア自身も今の高い身分ではいられなくなるはずだった。クラウディアは焦ってもいいはずだが、そんな態度は欠片も見受けられない。 「だから、どうしたというのです。子などまた産めばよろしい。あたくしは、もう疲れました。お引取りを」 そう言い、クラウディアの言う殿方の前で彼女はもちゃもちゃとお菓子を食べ始める。 もう、ルーファニーのことを見向きもしない。 「では、殿下の最後を見るつもりはないと、そう仰られますか」 嫌そうにクラウディアはルーファニーをちらりと盗み見て、もちゃもちゃと食べながら、頷いた。ここから動く意思はないようだ。 「……わかりました」 それだけ言うと、失礼しますとも何も言わずにルーファニーは王妃の部屋を出た。 ――失礼? 知るかい! 牛めがっ! いや、牛でも人間に食べられるという仕事がある分、牛のほうがまだ価値があるというのだぞ。 よくあんな女から、あの気立ても気心もよい、リュイ・シンが生まれたと思う。 簡単に破門したところを見ると、養子じゃないか、とすら思えた。そうじゃなければ、きっとリュイ・シンは橋の下から拾ってきた捨て子だったとか。 ぶつくさ言いつつもすっぱりと王妃のことは諦めて、ルーファニーは国王のところに向かった。 リュイ・シンは何時死ぬか分からないのだ。 たった今、こうしている時ですらも、死の陰りは確実にリュイ・シンの命を奪っていく。 いつまでも、あんな莫迦女の為に時間を割くのは勿体ないというものだ。 その点、国王ならばリュイ・シンのことをとても気にかけ、愛しているだろう。 また、彼に病気がなければリュイ・シンと代わってやりたいと常々思っていることはルーファニーも知っていた。病気さえなければ、彼は優しくも有能で立派な王なのだ。 また、ルーファニーと王は昔からの付き合いである。彼のことならば、よく知っていた。 「陛下、入りますぞ」 ルーファニーは国王の部屋へと入った。 そして、最初に飛び込んできたのは、その優しくも有能なはずの国王が苦しむ様だった。 豪奢な寝台から苦しみのあまり転げ落ちたようで、床でのた打ち回っていた。国王は、ルーファニーの存在に気づいたようで、ちょっと眉をよせてから、のた打ち回るのを止めた。臣下に見っとも無い姿は見せられないという彼なりの意地なのだろう。 「――陛下ッ」 慌てて、駆け寄るとどうやら国王は意識があまり定かではない様子で、咳き込み苦しんでいた。それでも、ルーファニーの前では王であろうとしたのは、見事としか言いようがない。その姿を痛ましく思いながらも、リュイ・シンがこんな時に、と舌打ちしたい衝動を堪えてルーファニーは医師を呼んだ。 「医師を呼べ! 陛下が発作を起こされた!」 既に王は吐血済みなのが、口元に赤い血が付着しているので確認できた。リュイ・シンにばかり目が向いていた為、誰も国王の病態には気がつかなかったのだろう。親子して、医師の世話にかかるとは、とうとうタルデシカの未来も見えなくなってきた。 戦場から帰還するため強行軍をしてきたり、王妃と話したり、国王のことがあったりと、ルーファニーの老化した肉体は疲労のピークに達しているようだ。 「……う、」 思わず、呻き声が漏れた。無性に疲れを感じる。年を取ったものだな、と実感した。 そうして疲労から顔を俯くと、国王の首筋に妙な痣のようなものがあるのを見つけた。 国王の体をキープしつつ、半眼でその痣をぼんやりと見詰めた。 ――何の、痣だ……? ただの痣とも取れるが、このような場所に痣がつくか、とも思う。 ぼんやりと緩慢な動作で、 「ちょっと、陛下、失礼しますよ」 ルーファニーは国王の衣服をたくし上げ、背筋を覗いて、はっと目が覚めた。 「こ、これは……ッ!」 国王の背筋に刻印されていたのは、ルーファニーの腕にあるのと同じ痣。 人が咳き込んで苦しんでいる顔が、痣となってくっきりと浮かび上がっていた。 ルーファニーの場合、人間が大笑いしている顔の痣が腕に浮かび上がっているが、これはロナの悪戯の真似をしてイルがお茶を媒介にしてつけたものだ。 すなわち、この痣はロナがやる悪戯の証だ。 「ロナが国王に何かの薬を盛った?」 いや、そのようなチャンスはロナにはなかっただろうとルーファニーは考え直す。 ――なら、イルが盛った? ――そういえば、異国人の報告のときも不自然に国王は倒れた……。 ――だが、そのときイルはわしと一緒にいた。 ――ならば、イルにも不可能だ。見逃すことなどない。 ――ならば、〈姿似分身液〉を使った? ――いや、 「……どうなっている」 何が何だか、ルーファニーには分からなかった。 謎が謎を呼ぶ。 それでも一つ確かなことは、このタルデシカの誰かが、王にロナに関与した薬を持っているということ。ロナの息が掛かった誰かが、大胆にもその存在の宣戦布告を国王の体をもって行なったということだ。 誰かが確実に王に危害を加えている……。
その事実だけがルーファニーの心を暗闇へと誘った。
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