羽柴由樹は、奈落の底に文字通り、“堕ちて”いた。 フリーホールに常時乗っているような状態で、ひゅうひゅうと風を切り、由樹は重力に従ってただ、ただ地面に降下していた。転落のショックで数秒間ほど気を失っていたらしく、意識を取り戻していれば、周りは広大な谷に囲まれたグランドキャニオンさながらの風景が広がっていた。 これは幾らなんでも、風に流されすぎだろう。 風に流されて、東京の高層ビルから海を越えて異国の地に行ってしまうとは、世の中分からないものである。とはいえ、このまま何もせずにひらひらと木の葉のように地に堕ちていくわけにはいかない。何とかしなければ、由樹の未来は車に轢かれたヒキガエルのような死があるのみだ。 ……どうしたものか。 思案していると、視界の隅に黒いシミのようなモノを捉えた。 鳥ではなく、飛行機でもなく、幽霊でもない、それは由樹のだいぶ下方にいた。 堕ちる速度が上がるにつれ、その黒いシミのような物体の正体も明らかとなってくる。 それは、黒い体躯をした巨大なドラゴン【黒竜】だった。 そのドラゴンの背には、武装した中世の騎士のような格好をした人が乗っていた。腰には剣もある。ドラゴンに鞍をつけ、手綱を引き、その人間は巧みに空を飛翔している不思議な光景。 「何だぁ?」 黒いドラゴン、とそのドラゴンに普通に乗る人間。 由樹は己の目を疑った。だが事実、悠々とドラゴンは空を疾走しており、ふてぶてしくギロリと由樹を睨んできた。 「ひ、」 食われる、とそう直感的に思った。実際にドラゴンも由樹を食おうとしたのかもしれない。その凶暴な願望を打ち消すように、漆黒のドラゴンに乗っている騎士が手綱を引きドラゴンを制御したため、由樹から注意が反れた。 助かった、――のだろうか? そう思ったのも束の間、漆黒のドラゴンは騎士の命令が気に食わなかったらしく、歯を剥き出して、怒り狂い、首を乱暴に上下左右に振リ回す。騎士は必死になって手綱を操り、突然のドラゴンの暴走を止めようとするも、あっさりとドラゴンに軍配は上がった。 騎士はドラゴンの手綱を手放して、何とも情けない悲鳴が奈落の底に反響する。 ――ご、ご愁傷様。 哀れな騎士の姿は豆粒のようになって、谷の底へと消えていってしまった。 そうして厄介なお荷物を強制的に振り落としたドラゴンは、意気揚々と由樹を食らいに迫ってくる。由樹はただ堕ちているだけであって、どうすることもできそうにない。 神様など信じたことは一度としてない。神はいないと本気で信じているし、そこに一遍の疑いの余地だってない。だって、神様なんて会ったことねーし。これが由樹の持論だ。 だから、このまま運命に従って蜥蜴の餌になってやるなぞ、真っ平御免だ。 これは夢かもしれない。現実ではないかもしれない。本当は、由樹は息絶えているのかもしれない。そのどれでも蜥蜴の餌になるのは嫌だった。夢ならこんな悪夢は嫌だし、現実でなく妄想ならば、せめて妄想の中くらい良い夢をみたい。 また、死後の世界がこんな所だなんて絶対拒否したい! だから、無茶苦茶に暴れてやった。ドラゴンの迫り来る顔面を殴りつけた。 獲物の抵抗に、苛立ったドラゴンが首を高々と振った。その風圧で由樹はドラゴンよりも少しだけ上昇し次の瞬間には、ドラゴンの背に乗っていた。 「うわっ」 ギロリとドラゴンの漆黒の瞳が由樹の姿を捉えた。 瞬間、由樹とドラゴンとの視線が交錯する。 振り落とすか、振り落とされるか。 勝敗はそれで決まる。 死に物狂いで由樹はドラゴンにしがみ付いた。黒いゴツゴツした巨体に蛙のようにへばり付く。ドラゴンはドラゴンで体に纏わり付く蝿を払うかのごとく、鬱陶しそうに体を振動させた。 怒れるドラゴンが吠える。その声とともに、風を切る音が由樹の鼓膜を刺激した。ビリビリとした音の振動が伝わってくる。 「……ぅ」 ドラゴンが急降下を始めた。同時に、凄まじい負荷が由樹の体を襲う。 まるで、ジェットコースターだ。これではジェットコースターに命綱なしで、しがみ付けと言われているようなモノである。冷や汗で濡れた手がドラゴンの黒い突起から剥がれそうになり、慌てて突起を掴みなおした。 急降下も突然に始まったが、停止も突然だった。ドラゴンが停止したその反動で由樹の体が黒竜の流麗な体躯へ押し付けられ、黒いドラゴンの突起が由樹の顔にぶすぶす刺さる。 「いだだだっ! 痛ぇッ」 これが竜の狙いだったのか? 自分の突起で由樹をぶすぶす串刺しにすることが。 確かに、由樹の頬は赤く凹んでいるが命に別状はない。 生憎、ドラゴンの体で視界が塞がっており、なにが起きているのかさっぱり分からないのだ。由樹はドラゴンの背にある手綱を握り締め、半身乗り出して現状を探る。 そして、ドラゴンの向かっている先を見て、青ざめる破目になった。 雄大なる空は終わりを告げ、とうとうこの世の終わり、地面が姿を現したのだ。 眼前にぽっかりと地面という空間が現れ、激突が予想された。予想されるのはクラッシュ。交通事故である。 「――ッ!」 それでも、ドラゴンはスピードを緩めずに、一直線に地面へと急降下していく。 家々が立ち並ぶ一帯から、ほんの少し離れた、森の端にある小屋に向かって突き進む。 「止めろッ! 飛べよ、死ぬぞッ」 木の小屋が視界に迫ってくる。 いや、降下するとともに小屋が小屋ではないと理解した。 徐々にその小屋は大きくなっていって、どんどん距離を狭めていく。 凄まじい轟音とともにドラゴンと由樹は木の小屋に突っ込んだ。 豪快に破壊された木の破片が、木っ端微塵になって周辺を飛び散った。 「――うあッ。………ッ!」 その上下運動には流石に、耐えられなくなった由樹がドラゴンの背から転げ落ちた。 砂が口の中に無数に入りこんできたが、それを気にする余裕はなかった。 鈍痛が由樹の背筋を走って蝕む。 痛みを無理矢理に抑えこんで、涙目で地面から起き上がった。 「ってー。んだよ、ここ」 ジャリと、靴の下で砂利が擦れる音がして、この建物がただの室内でないのが良く分かった。部屋のなかに“砂利”はない。 つんとした異臭が由樹の鼻を突いて、不快感から手で鼻を押さえた。 ハンカチを持っていないのが残念なくらい、匂いは耐え難い。 砂利の地面から獣特有の匂い、馬小屋や牧場の匂いがした。 辺りを落ち着いて冷静に見回してみれば、木の建物は何かを入れておくもの、つまり閉じ込めておくものらしく、頑丈そうな柵で囲まれていた。出入り口らしき門は鉄製で、堅固。その周りには鉄の檻で仕切られている。 「何だよ、これ……」 やばいと思った。動物をこんな巨大な檻に入れるわけがないのだ。幾らなんでも広すぎだった。この檻は学校の体育館なみに大きいのだ。これほどまでに大きいということは、それだけ大きなものを入れる、ということである。それほどまでに大きな、何かを。 獣の呻り声が聞こえてくる。 恐らく、あの漆黒のドラゴンだろう。由樹と一緒にここに落ちてきたのだから。 再び、あの巨体と対峙しなくてはならないと思うと気が滅入った。 ――ただでさえ、訳が分からないんだから勘弁してくれ。 そんな、実にやる気のない感想を抱いていた時、今まで絶対に口を開きそうになかった頑固な門が、唐突に開いた。 「……お?……」 同時に、中世の甲冑に身を包んだ兵士たちが体育館なみの、檻に雪崩れ込んでくる。 先程、ドラゴンの背に乗っていた騎士の格好と同じで、武装し、甲冑に身を包んでいる人々だった。 「……?」 その中世騎士たちは素早い慣れた手付きで黒竜を鎖で繋いでいき、そして何故か、由樹のほうに鎖を持ってきた。 そのまま、体中に鎖は巻きつけられ、身動きできない状態に。 「な、何で、俺が縛られないといけねぇんだよ!」 騎士たちは有無を言わせず由樹を縛り上げた。 由樹と黒竜の漆黒の瞳が、お互いの姿を見詰めた。妙にその姿は滑稽だった。 由樹は騎士たちに無理矢理立たされて、連行された。 黒竜も無理矢理に、檻も奥へと連れられていった。 由樹は、囚物と出会った。
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